それからの数日は、またまた、あっというまにすぎていった。
俺の家のまわりでは新春特別大売出しのキャンペーンが始まっていて、桜ヶ丘商店会の副会長をつとめる爺ちゃんは、連日、福引景品交換所にいて、とても忙しそうにしている。
昔の商店街は、松の内がすぎるまでは、静かなもんだったらしいけれど。
時代が変わったからな。
三箇日がすぎても店を開けなかったら、零細小売店が集まる駅前商店街は、すぐにお客さんから見捨てられちまう。
問題の、その日は、1月6日だった。
俺は、婆ちゃんに叱られて、地下の音楽スタジオの掃除をしていた。
年末大掃除がすんでから、一週間をまたずに、また掃除。
なんでそんなことになったのかというと、音楽スタジオを交代でつかう詩文がパリへ里帰りしているのをいいことに、自分の勉強の資料を山ほどスタジオへもちこんで、足のふみ場もないほど、ちらかしまくっていたからだ。
だってさあ、どれもピアノをひくための資料なんだぜ?
ピアノのそばにおいてあるほうが、合理的じゃないか。
そう思って、スタジオに資料をもちこんでいるうちに収拾がつかなくなって、しまいには、資料を読んでいるうちに徹夜とかしちゃったり、飯を食うのを忘れたりするから、婆ちゃんに雷を落とされたんだ。
けじめをつけろって。
音楽に夢中の俺を、お袋がほうっておいてくれるようになっても、我が家には、まだまだ、常識人がいたってわけでさ。
まあ、俺も、そろそろ生活を元にもどさなきゃなとは、思っていたんだ。
学校が始まったら、また時計といっしょに生活しなくちゃいけないんだからさ。
しかし、いつのまに、楽譜や本が、こんなに増えたんだ?
とりあえず、爺ちゃんの本棚から持ってきた本を元の場所にもどそうと思ったんだけれど、もう地下と三階のあいだを何往復したのか、わかんなくなっちまったよ。
本って、重いな。
猛烈勉強を始めてから、しばらく朝の走りこみをさぼっていたから、息が切れる。
また、走りこみも、再開しなくちゃいけない。
これから俺は、定期的に演奏会へ、でるんだから。
全力で大曲を弾ききるためには、体力つくりも大切だ。
えっちら、おっちら、うらむぞ、階段。
あらよっと!
ぶつぶついいながら、地下から、店のわきの踊り場へ。
そこは、渡辺ビルの玄関口だ。
このビルの4階と5階は賃貸マンションになっているから、ここには各部屋の郵便受けなんかがあって、ちょっと広めのスペースがとってある。
俺は、そこを大回りして、2階へ登るはずだった。
でも、足がすくんだ。
だって、表通りの方向から、あいつがやってくる。
新春特別大売出しでにぎわう商店街のなかを優雅にすりぬけて、歩いてくるんだ。
渡辺手芸洋品店から3軒むこうの洋菓子店のまえで、やつは俺に気づいた。
「渡辺くん」
ああ、あいつ、笑ってる。
俺を呼ぶ声に、トゲはない。
ひさしぶりに見る、気持ちのいい笑顔だ。
俺は、この笑顔が、見たかったんだ……!
嬉しくて、せつなかった。
神様に祭られちゃった明治天皇さま、ありがとうなんて、思っちゃった。
俺、初詣のとき、吉澤と仲直りできますようにって、お願いしたからさ。
でも、じゃあ具体的に、どういう行動にでるべきなのかってところは、俺にはさっぱり、わからなかった。
こまっているあいだに、やつは目の前に、やってきてしまう。
ううっ、くそ!
なんてまぶしい、笑顔なんだ!
笑ったやつ唇が、艶やかに動く。
「あけましておめでとう! 手紙、読んだわよ!」
手紙!
あの、手紙をだな――。
うろたえた俺の手元は、すっかり留守になっていた。
両手いっぱいにかかえた本が、俺の足のうえに、すべり落ちていく。
「うわっ、いてっ、いてっ、いてっ!」
「きゃあ、おバカ!」
大きな声でわめきながら、吉澤は、あたりに乱れ落ちていく本をよける。
「もう、なにやってるのよっ!」
いいぞ。
俺は、こういう風に、叱り飛ばされたかったんだ。
めちゃくちゃ、嬉しかったからさ。
「よしざわぁ!」
俺は空になった手で、目のまえの吉澤を、抱きしめてしまった。
そうせずには、いられなかった。
つかまえとかなきゃ、逃げられてしまいそうな気がしたから。
固く、とにかく固く、吉澤を自分の懐のなかに、閉じ込めた。
細い体だ。
しなやかな体だ。
俺の腕にふれてくる彼女の指先の感触はやわらかで、鍵盤にふれるタッチを最良のものにするためだけに爪の形を整えた、ピアニストの指先そのもの。
長い髪から、いい匂いが立ちのぼってくる。
やっと、つかまえた!
俺のお姫さま。
しかしだ。
自分の馬鹿さかげんには、いいかげん、あきれるよ。
ちょいと、思い出してみろよ。
ここは、俺の、自宅のまえだっちゅーの!
しかも、商店街の、どまんなか!
腕のなかの吉澤の細い身体の感触に感動していたら、通りのむこうから駆けてきた爺ちゃんに、ボカンと脳天を、はたかれちまった。
「公衆の面前で、なにをやっとるんだ、おまえはっ!」
「いたい〜〜〜、爺ちゃん!」
おかげで我に返ったぜ。
俺は通行人やら、俺んちの向かい側の歩道に設置してある福引景品交換所の周辺にいた小父さんや小母さんたちから、注目を浴びていた。
「うへぇ!」
顔に血がのぼる。
たまらん。
あわてた俺は、吉澤の手をつかんで、自宅への階段を駆け登った。
松の内の商店街の街頭スピーカーからは、琴の音が流れていた。
その優雅な響きに、騒ぎを見物していた人たちが発する笑い声がかぶっていたのは、いうまでもない。
スタジオの掃除は、そのあと吉澤が手伝ってくれたもので、思いのほか早く終わることができた。
つーか、俺は吉澤に叱られまくった。
なんで、こんなになるまで掃除をサボったんだとか、人の迷惑を考えろとか、荷物を運ぶ効率をあげるために、もう少し頭を使ったらどうなんだとか。
最初のうちは、吉澤の説教を聞くのもひさしぶりで嬉しかったんだけれど、最後のころには、ここまで怒られなくちゃならないほど俺は情けない人間なのかなあと思って、うんざりしてしまったよ。
まったく、吉澤の毒舌には、特製のターボエンジンでも、ついてるんじゃないか?
回転数、マックスって感じだったもん。
まあな、頭を使えっていう忠告だけは、身にしみたけどな。
だって、店にいた俺のお袋に一声かけた吉澤は、紙袋を4つ調達してきて、ふたりで両手に紙袋を持つことで、俺の家へ資料や本を運び上げる効率を、いっきに4倍にあげたもんね。
俺は、てきぱきと働く吉澤を見て、自分の生活力のなさを見せつけられたような気がして、まじにへこんだぜ。
最後の荷物の中身を爺ちゃんの本棚やCDラックに納めおわったあと、俺と吉澤はコーヒーブレイクしながら、例の詩文が出演しているジャン‐ポール室内楽団のコンサートの録画映像を見た。
オーディオルームのいいスピーカーで再生したら、その音楽は、至福の響きでさ。
テレビのまえのソファーに吉澤とならんで座っていたら、俺は、すっかりくつろいだ気分になっちまった。
「あ、そうだ。 渡辺くん、チョコレート食べる?」
吉澤は、荷物をごそごそやって、マカダミアナッツチョコの箱を取りだした。
ハワイ土産の定番だよな、これって。
俺は、ご機嫌だ。
「いいなあ。 チョコを食いながら、コーヒー飲んで、モーツアルトを聴くなんてさ」
おまけに、俺のとなりには、女として意識している、美人の吉澤が座ってるんだぞ。
チョコレートを口にはこびながら、その吉澤がいう。
「チョコで喜んでもらえるんだから、渡辺くんは、安あがりでいいわ」
「うっせーな。 どうせ俺は、ばりばりの庶民だよ!」
「だって、女友達のなかには、免税店で、どこそこのなにを買ってきてって、お土産を指定してくる子も、いるんだもん」
「そりゃ、大変だな」
「うん、大変。
だいたい、わたし、ハワイでも、毎日、ピアノばっかり弾いてたもの。
お買い物になんか、いかないわよ」
「そういえば、おまえ、ハワイへいったくせに、ちっとも日焼けしてないのな」
「そうなのよ。
ピアノを弾いていると、はまり物に、すっかりはまっちゃうことって、あるでしょ?
いまのわたしは、まさに、その状態なの。
ハワイで、フォーレのノクターンばっかり、弾いてたんだ〜。
年明けのレッスンに、もっていくつもり」
「常夏の国で、夜想曲かよ?」
「にあわないでしょ〜?
親から陰気な気分になるからやめてくれって文句をいわれたけれど、はまり物にはまっちゃってるピアニストの娘を、無理やりハワイへつれていった、親も悪いと思うのよね。
しまいには、うちの親、もうピアノの音は聴きたくないって、わたしをおいて、毎日、ゴルフやヨット遊びに、でかけるようになっちゃったわよ」
「おい」
「そこへ、あの手紙が届いたから。
わたし、いますぐ日本へ帰るって騒いで、空港でキャンセル待ちして、ひとりで帰ってきちゃった」
吉澤は、じっと俺を見つめてきた。
「返事の手紙を書くなんて、じれったいし、電話も、いやだった。
わたしも渡辺くんの顔を見て、直接、話したくなったから」
ほんのちょっと手をのばせば触れられる位置に、吉澤がいる。
俺は、自分の胸の鼓動を、強く意識した。
もう一度、こいつを抱きしめたい。
おさえがたい衝動が、こみあげてくる。
でも、ここじゃやばいと、本気で思った。
人目を気にしなくてもいい室内で、こいつに触れたりしたら、なにもしないで済ませられる自信がなかった。
もう、これ以上、なにくわぬ顔で吉澤の瞳を見ていられないと思った瞬間、むこうから、視線がそらされた。
「で、手紙のことよ。
渡辺くん、それなりの準備は、したのよね?」
助かったと思いつつ、俺はうなずいた。
「もちろん、やった。
実践のほうは、あんまり自信、ないけどな」
「技術的なところは、基本さえ押さえていれば、そんなに気にしなくていいんじゃない?
いちばんの問題になるのは、解釈と指導力なんだし」
「だと、いいんだけどな。
で、相談したいのは――」
吉澤は、人差し指をつきだして、俺の言葉をさえぎった。
「そのへんは、まかせといて。
ごまかしだの、根回しだのは、わたしの得意分野だから。
うまくやってみせるわ」
「どういう得意分野だよぉ」
そこまで話したところで、俺たちの親密な会話は、終了になった。
お袋がオーディオルームに入ってきて、吉澤に夕飯を食べていけと、いったからだ。
ひとりで日本へ帰ってきちまった吉澤は、きっと食事のことで、こまっていたんだろう。
こいつ、ものごとを合理的に進めるのは得意なくせに、家事はまったく、できないやつだから。
大喜びで「ごちそうになりますぅ」といった吉澤は、俺の家族とにぎやかに夕飯を食べて、かなり遅くなってから帰っていった。
駅まで吉澤を送っていった俺は思った。
去年の年の暮れ、俺と吉澤のあいだに漂っていた気まずさ。
あれは、なんだったんだろうって。
駅の改札を通りぬけてから俺のほうにふりかえって、ばいばいと手をふる吉澤の笑顔は、気持ちのいい笑顔だし。
おまけに、こんなことを、いいやがる。
「ねえ、わたしも、みんなみたいに、渡辺くんのこと、夏海くんって呼んでいい?」
「なんでいまさら?
べつに、かまわないけどさ。
なんなら、呼び捨てでもいいぞ」
「だって、いつだったか夏海くん、日本じゃ特別な関係でないかぎり、異性を名前で呼んじゃいけないんだって、詩文くんにいってたじゃない。
ラブかなあって、誤解を受けるぞって」
「いや、あれは――」
俺は、言葉につまった。
それは、吉澤も俺のことを、男として特別だと思っているって、意味なのか?
それとも、誤解をするなという、宣言なのか?
吉澤のいつもと変わらない声からは、答えを読み取れない。
「それじゃまた、冬休み明けにね」
「おう。 美術館は、つぎの特別展ねらいで、一月の最終日曜日だったよな」
「うん。 予定、あけとくから」
こんどこそ、吉澤が、ホームのほうへ歩きだす。
その後姿は、スレンダーな白いコートに包まれていてさ。
白は、長い黒髪に、とてもよく映えて見える。
そして背中には、ひとすじ、えんじ色のアクセント。
やっぱり、吉澤はお洒落なやつだ。
白いコートに赤いマフラーなんて、芸能人が選びそうな、色あわせじゃんか。
また、いてもたってもいられない衝動が、こみあげてくる。
たしかめたい。
おまえが俺を名前で呼びたい理由は、ラブなのかって。
改札を囲むステンレスのついたてを握る手に、力がこもる。
俺は、叫んだ。
「佳織!」
はっとしたみたいに吉澤の背筋がのびて、ふりむいた顔が、俺を見る。
そんなに驚いた顔をするのは、俺が衝動にまかせて、おまえを名前で呼んだからなのか?
でも、吉澤の顔を見たら、俺の衝動は、どこかへ吹き飛んでいってしまった。
かわりに、アホなことをわめく。
「もう10時なんだから、近すぎるなんて遠慮しないで、駅から、ちゃんとタクシーに乗るんだぞ! 夜道はあぶないからな!」
ああ、ダメだ。
なにいってるんだよ、へたれ野郎の俺。
でもさ、もし吉澤にラブじゃないっていわれたら、とうぶん俺は立ち直れない。
そう思ったら尻込みしてしまって、どうしても吉澤の真意を、確かめられなかったんだ。
「わかってる。 じゃあね」
その言葉を最後に、吉澤は階段へむかう通路の角を曲がった。
吉澤の姿が見えなくなると同時に、俺は握っていたステンレスの柵を、ばしばし、たたいた。
バカ、バカ、バカ、バカ、俺の馬鹿!
どうして、ほんのちょっとの勇気が、だせないんだよ!
自分の性格が、いやになる瞬間って、こういうときだよな。
詩文の百分の一でいいから、女の子にかけてやる気の利いたセリフを思いつく能力が俺にあれば、こんなに悩まなくても、すむのだろうに。