吉澤と渋谷で別れたあとも、俺は、なにか大きな忘れ物をしてきたような、たよりない気分だった。

家に帰りついてからも、そのすっきりしない気分はつづいた。

キッチンでインスタントコーヒーをいれるお湯を沸かしながら、ぼーっと、つったっちゃったりしてさ。

笛吹きケトルがピーピーいう音でわれにかえったら、ちょうど、詩文と足立先生が、つれだってリビングへ入ってくるところが目にはいった。

ガスレンジの火を消したら、ヤカンのピーピー音は、いきなり静かになった。

連中が、こっちを気にしている。

なんちゅーか、キッチンとリビングのあいだのカウンターの上に目かくしとしてつけてあるレースの暖簾ごしに、視線を感じるんだ。

いやな沈黙が、あたりに漂っている。

俺は無言で、コーヒーをいれる作業を続行した。

俺のほうから沈黙をやぶったら、やましいことを認めるような気がしたんだ。

へんだよな。

俺、なんにも悪いことなんか、してないのに。

ゆっくりとコーヒーをいれて、マグカップを手にしてキッチンからでていったら、足立先生が俺を呼びとめた。

「夏海くん、どこへいっていたの?」

足立先生の詮索するような口調が、俺の神経にカチンとあたった。

むかつく。

べつに、俺は約束の時間に、遅刻したわけじゃない。

だから俺は、おもいっきり、ふてくされていった。

「俺がどこへいこうと、俺の勝手だろ」

「だって、試験は明後日じゃないの。 もうすこし、真剣に取り組まないと」

「まじめにやってるじゃん。 ちゃんと約束の時間にも、帰ってきたし」

「おうちに、だれもいなかったから、夏海くんは練習しているのかと思って、地下のスタジオへいったのよ。 そうしたら、スタジオにいたのは詩文くんだったし。

詩文くんにヴァイオリンを聴かせてもらいながら待っていたけれど、夏海くん、帰ってこないんだもの」

「そりゃー、詩文に悪いことをしたなあ。 練習のじゃまに、なっただろ」

詩文は顔をしかめた。

「よせよ、夏海。
足立先生は、ぼくの練習を聴いていただけなんだから」

「ふん! お人よし!
おまえのマジな練習なんて、素人には、おもしろくもなんともねえよ!
ヴァイオリンで高音の同じパッセージを、えんえんと、くり返されてみろ。
聴いてるやつは、だれだって、気が変になるって!
おおかた、耳に心地のいい小品なんかを、練習としょうして、聴かせてやってたんだろう」

「なにをイラついてるんだよ、夏海は」

「おまえは女性に親切でえらいなあって、ほめてるんじゃないか」

「ああそう!  そりゃあ、どうもありがとう!」

詩文は怒って、リビングからでていった。

ひと呼吸あと、やつの部屋のドアが、ものすごい音をたてた。

音が、俺の頬を、ぴりっとたたく。

くそっ。

ああ、そうだよ。

俺は、詩文の女に親切なところにまで、腹を立てちまってる。

俺には、ああいうの、まねできないからな。

できたら、もうすこし吉澤に、優しくしてやれるのに。

足立先生は、詩文がでていったリビングの奥側の扉をみて、不安そうな表情になった。

「やっぱり、じゃましちゃったのかしら……」

俺は、最高に、意地悪な気分だった。

「あたりまえじゃん。
先生、演奏家の気持ちって、わかってる?
わかってないでしょ?
べつに、わかれとは、いわないけどさ。
練習に集中しているとき、じゃまがはいるのは、かなり嫌なもんなんだぜ?
だからさ、熱心なのはけっこうなんだけれど、約束以外の時間にくるのは、やめてもらえないかな?」

「それは、わかったわ。 今度から、気をつける。

でもね、今日は期末試験の直前でしょ? 心配になっちゃったのよ。
実際、夏海くんは、でかけていたわけだし。

ねえ、遊びにいっていたの?
昨日だって、お祖父さまのお祝いに夜おそくまでつきあっていて、ほとんど勉強していないのに」

「俺には、勉強なんかより、爺ちゃんのお祝いのほうが大切なんだ。
人間関係すててまでして、いい成績をとろうなんて思わない」

「夏海くん」

「先生が、いろいろと考えてくれるのは、ありがたいと思ってるけどさ。
俺のプライベートにまで、首をつっこまないでくれないかな。
俺、勉強より大切だと思ってることが、やまほどありすぎて、こまってるんだ」

「でも、成果をあげようと思ったら、多少の犠牲は、やむをえないときもあるのよ」

「価値観の問題だな。
それは先生の価値観であって、俺の価値観じゃない」

「だけど」

「つまらない言い争いは、やめようぜ。
それこそ、時間のむだだろ。
俺は自分の信条を曲げてまでして、勉強はしない。
そのせいで成果があがらなくても、先生が悪いわけじゃない。
それは納得のうえだ。
責任は、ぜんぶ俺がとるんだから」

「わたしは、やるからには夏海くんの役に立ちたいと、思っているのよ。
それなりに協力してくれないんだったら」

「やめる?」

俺は、冷たく笑ってしまった。

吉澤と気まずいまま、時間に追われて別れてしまったことまで、足立先生のせいのような、気がしてきてしまっていたから。

「やめたけりゃ、いつでも、やめてくれていいぜ?
もともと俺は女の先生なんか、いやだったんだ。
自分の思うとおりにならないと、すぐに協力が足らないとか、やめたいとか、泣き言をならべるからな。
俺の言いかたがきついって、涙ぐんだりするしよ。
金をもらってやるからには、もっとプロ意識をもてよ。
アルバイトだからって、甘く考えてるんじゃないの?」

「泣いてなんかいないわよ!」

泣いてるじゃんか、ちくしょう!

唇を、わなわな震わせちゃってさ。

あー、そうだよ!

ぜんぶ俺が、悪いんだ!

背中をむけた俺に、足立先生がいう。

「どこいくの」

「俺の部屋だよ。
5時半だろ。 5時半から勉強。 決めたことは、きっちりやる。
先生は、つきあわなくていいぜ。
親切の押し売りは、まっぴらだからな!」

足立先生が泣いて帰っちまうなら、それでもいいやと思った。

家庭教師に気をつかって、いいなりになるなんて、馬鹿馬鹿しい。

藤原の婆ちゃんのご機嫌をとる気も、とっくにうせていた。

悪いがお袋には、また婆ちゃんの嫌味の聞き役に、なってもらおう。

どうせ俺は、音楽馬鹿の、不出来な孫なんだから。

腹を立てているときには、ピアノをひいても、ろくな演奏にはならない。

でも、勉強ははかどるんだってことを、俺は発見してしまった。

テンションがあがっていると、記憶力って、冴え渡るんだ。

30分ほどで、試験範囲の重要な年表は丸暗記できた。

お経風、棒読み暗記法だ。

試験が終わったら、きっと綺麗さっぱり、忘れてしまうだろう。

この調子で、英語の主要構文もやっつけようと思ったところに、足立先生がやってきた。

黙って、いつもの折りたたみ椅子を広げて座ると、俺の英文の朗読を時々なおしながら聞いて、試験にでそうな発音の単語を教科書からチェックして書きぬき、わざわざ準備してきたらしい古文の模擬問題をくれた。

俺の学校では、理数系は基本的に、教科書に忠実な内容しか試験にはでない。

生物の教科書をひろげ、遺伝だの、えんどう豆だのといった話を音読して、先生が質問し、俺の理解度を確かめて、覚えるべき用語にマーカーでラインを引いて、その日の勉強は終わった。

足立先生にむかって、やめてもらってもけっこうと啖呵をきってしまったからには、意地でも赤点はとれない。

俺は、俺の信条を守ったうえで、やると決めたことは、やりとげてみせる。

夕飯のあとも、きっちりと勉強して、先生がつくってきた模擬問題もしあげた。

時計を見たら、すでに時間は深夜0時をすぎていた。

俺がピアノに一度もさわらないまま一日を終えたのは、何年かぶりのことだった。