山の天気は変わりやすい。

毎年夏になると信州にある叔父の山荘へ長期滞在するもので、夏海はそれを肌で知っている。

文字通り、肌で感じるのだ。

陽射しが夏独特の空を登っていくように湧きあがる雲におおいかくされ、風は湿り気を帯び、急に下がる気温のせいで自分の体の汗もひいていく。

夏海がピアノを弾く手をとめて、おやと顔をあげたときには、窓の外は薄暗くなっており、にわか雨がいままさに、降ろうとしているところだった。

山荘のリビングに置かれたピアノは窓際にあったから、大気の乱れのせいで、ざわざわとゆらぐ山の木々の姿が、とてもよく見えた。

「うえー。 これは、けっこう激しい雨に、なるかもしれないなあ」

そうつぶやきながら、夏海は家のなかの人の気配に耳をすました。

ひと部屋ひと部屋がとても広くて、贅沢な間取りの叔父の山荘のなかには、自分以外の人の気配がない。

音楽に夢中になっていたせいで、ぼんやりとしてしまった頭で、今朝、家族と交わした会話を思いかえす。

山荘の主である叔父夫婦は、もうまもなく夏休みが終わるので、須賀さんの農場へいっている。 お礼かたがた、シーズンオフのあいだの山荘管理について、打ち合わせをするためだ。

従弟の詩文は、ヴァイオリンの弦が予備の分まで切れてしまったもので、松本の大きな楽器屋へいった。

詩文の素晴らしい音がでるオールド・ヴァイオリンには、高価なガット弦が張られている。 美しい音への詩文の執着は並々ならないもので、切れやすかろうが、あつかいが難しかろうが、この弦でなくちゃダメなんだといって、早朝のバスで、さっさと外出してしまったのだ。

妹の春海は、近所の別荘に遊びに来ている小学生の兄弟と、沢で水遊びだ。

その家の家族とは、毎年夏になるとおたがいの別荘を行き来して、親しくさせてもらっている。

小学生の妹たちが沢へいくときには、必ずどちらかの家の大人が付き添うのが、暗黙の了解だ。 今日は、むこうの家の兄弟の従姉だという高校生の女の子が、兄弟といっしょに春海を迎えに来た。

おかげで夏海は、ピアノの練習に集中できたわけだ。

窓の外の風にゆれる景色は、どんどん暗くなっていく。 まだ午後の早い時間なのに、夕暮れ時のようだ。

そう思った瞬間、窓ガラスに大粒の水滴が当たった。

最初の一粒が当たったあとまもなく、ぱしぱしと無数の水滴が窓にたたきつけられ、たちまちガラスは流れ落ちる水の膜におおわれた。

風が強いせいで、雨が横殴りに吹きつけてくるのだ。

「こりゃ、やばいか?」

夏海が外の様子をよく見ようとしてピアノから離れるのと同時に、風雨を運んできた重い雲が光り、雷鳴がとどろいた。

あたりの空気が震動して、窓のガラスも激しく震えた。

 

 

春海が近所の友達と、山荘から歩いて15分ほどの沢に着いたときには、まだ天気は、それほど崩れていなかった。

湧き水が流れている山の沢の水は冷たかったけれど、陽射しのしたでの水遊びは爽快で楽しい。 仲良しの兄弟といっしょに石を集めて池を作り、そのなかに魚を追いこんでみたり、沢蟹を捕まえたりして、春海は水遊びを堪能した。

遊び友達の兄弟の名は、兄のほうが春海と同じ小学校五年生の太郎、弟のほうが三年生の次郎といった。

この、わかりやすい名前のせいで、春海は兄弟に、みょうな親近感を覚えている。

自分と兄の名前も、春海、夏海と、非常にわかりやすい関係にあるからだ。

子供に安直な名前を与えた両親には、少しばかり恨みを抱いている春海である。

なにしろ春海の兄は、まだ高校二年生なのに、ちょっとした有名人だ。

きっとこれから、もっと有名になると思う。

兄の夏海は、稀有な才能と、それを遺憾なく発揮できるだけの情熱をもった、天才肌のピアニストなのだ。

きっと世間は、兄を認める。

小学生の春海にも、そうはっきりと意識できるくらい、兄のピアノは素晴らしいものだった。

おかげで春海は、いつも他人から、こういわれる。

へえ、お兄ちゃんが『夏海くん』だから、あなたは『春海ちゃん』なのねと。

そんな言われ方をすると、春海は、ムッとしてしまう。

兄のオマケみたいだと、いわれているような気分になってしまうから。

いまだって、そうだ。

太郎と次郎の従姉だという高校生の優菜ちゃんは、退屈そうな顔をして沢の岸辺の岩に腰かけたまま、春海に兄のことばかりたずねてくる。

「ねえ、春海ちゃん。 夏海くんって、いつもあんなに無愛想なの?」

優菜ちゃんは、さっき太郎たちといっしょに水遊びへいこうと誘いに来たとき、兄が付添いの大人はいるのかなと様子を見にでてきて、優菜がいると知るやいなや「あ、どうもすみません。 お世話になります」と一言だけ礼をいって、さっさとピアノの練習にもどってしまった一件のことを、いっているのだ。

春海は、うっとうしいなあと思いながら、返事をした。

「そうだよ。 とくにピアノの練習を中断させられちゃったときには、機嫌が悪いんだ」

本当は機嫌が悪いわけではなく、没頭していた音楽の世界から、すぐには現実へもどってこられずに、ぼーっとしているだけなのだが、そんなことを親切に解説してやる気にはなれなかった。

兄にそっけなくされたとき、優菜ちゃんは露骨に、がっかりした顔をしていたからだ。

いたずら盛りの小学生の従弟たちの付添いで水遊びをしに来ているというのに、優菜ちゃんは可愛いワンピースを着ていた。

春海や太郎たちをだしに使って、兄の夏海とお近づきになりたかったのは、みえみえだ。

兄は、かっこいいのだ。

ピアノを弾いているときだけは。

フォーマルウエアを着ると、いつもに増してきりっと見える横顔は、文句なしに美形へ分類できるレベルだと思うし。

オーケストラとコンチェルトを弾いているときには、音に集中している深遠な表情とか、指揮者にアイコンタクトを飛ばす瞬間の鋭い表情、オーケストラのメンバーといいアンサンブルを展開できたときに浮かべる嬉しそうな表情なんていった、胸がきゅんとするような素敵な顔を、山ほど見せる。

若い女性のファンが、きゃあきゃあ騒ぐ気持ちも、わからないでもないと思う春海である。

もっとも、春海がよく知っている普段の兄は、音楽に生気を吸い取られているせいなのか、だらしがなくて、頼りないのだけれども。

「夏海くん、かっこいいよねー」

春海の予想通り、優菜ちゃんは立てた膝の上にアゴを乗せて、夢見るみたいにいう。

「ねえ、さっき夏海くんが弾いてた曲、なんて曲かな? すごくスケールが大きな、華やかな曲だったね」

春海は手につかんでいた沢蟹を、優菜ちゃんの鼻先へつきだした。

「ベートーヴェンの協奏曲だよ。 『皇帝』っていうの。 さっき、お兄ちゃんが弾いていたのは、第三楽章のフィナーレのところだよ」

優菜ちゃんは、鋏をちょきちょき動かす蟹を、いやそうにみた。

その顔をみて、春海は意地悪な喜びを覚えた。

小学生といっしょに水遊びなんて、本当は今すぐ、やめてしまいたいくせに。

だいたい、ベートーヴェンの有名な協奏曲の一節も知らないのに、兄のガールフレンドに納まりたいと思うなんて、片腹痛いじゃないか。

兄は、特別なのだ。

だから、特別な女の子でなくちゃ、兄の彼女としては認められない。

優菜ちゃんは、さりげなく蟹から離れようと、座る場所を移動する。

「ねえ、先週まで春海ちゃんの家にいた、高校生くらいの女の子たちって……」

ほらきたと、春海は思った。

「佳織おねえちゃんのことかな? それとも、ミィちゃんのこと?」

「ええと」

「ミィちゃんは、詩文くんの幼馴染だよ。 親同士が仲良しなんだ。
佳織おねえちゃんは、お兄ちゃんの彼女。 学校の同級生なんだけど、佳織おねえちゃんも、すごく、ピアノが上手でさ。
ときどき、お兄ちゃんと連弾したりするよ」

その連弾の練習が、ときには、ど突きあいの喧嘩に発展してしまうことがあるのも、優菜ちゃんには内緒だ。

だって、喧嘩ができる関係って、とっても特別な関係だと思う。

喧嘩をしても、兄と佳織おねえちゃんは、すぐに仲直りをしてしまうし。

どちらが先に謝るのかは、よく知らないけれど。

「えーっ!」と優菜ちゃんは、大きな声をあげた。

そのあと、ぶつぶつと。

「連弾って、そりゃ、私には無理か。 でも……」

この平凡な女の子は、まだ兄にアプローチするつもりなのか。

だんだん、むかっ腹が立ってくる、春海である。

意地悪な口調で、さらにいう。

「佳織おねえちゃんはねえ、有名な吉澤楽器の社長さんの孫だよ。 お父さんも、重役。
いいよねー。 うちのお兄ちゃん、逆玉決定だよ。
天下の吉澤楽器がスポンサーについてくれたら、お兄ちゃんのピアニストとしての将来も、バラ色まちがいなしだもんね」

「え――――っ!?」

ふんだ、ざまあみろ。

しかし、春海が荒い鼻息をふいたのに気づかなかったのか、優菜ちゃんは媚びたみたいな態度で、いってきた。

「でもでも、春海ちゃん。 春海ちゃんは、どう思う?
佳織さんって人、けっこうプライドが高そうで、冷たい感じがしない?
お姫様タイプっていうのかなぁ。
いっしょにいて、安らげる人のほうが――」

春海は、優菜ちゃんに、いいたいことを最後まではいわせなかった。

かーっと、頭に血がのぼったからだ。

頭にきたら、手が勝手に動いた。

優菜ちゃんの可愛いワンピースの広く開いた胸元をつかみ、もう一方の手に持っていた沢蟹を、投げ入れてしまう。

優菜ちゃんは、暴漢に襲われでもしたみたいな、派手な悲鳴をあげた。

そして、「やだああああああっ!」と叫びながら、帰り道につながる坂道を、すごい勢いでかけあがっていく。

「うわー、春海ちゃん、すっげー」と、太郎と次郎が、笑いながらいった。

この仲良し三人組のリーダーは、いわずと知れた、春海である。 いつも面白い遊びや悪戯を思いついては、太郎と次郎を感心させている。

でも、今日の悪戯は、気分が悪いものだった。

胸がまだ、むかむかしている。

なんで、こんなに腹が立つのだろう。

佳織おねえちゃんのことを、悪くいわれたから?

それくらいで、こんな泣きたい気分に、なったりするだろうか。

だって――、と春海は思う。

安らげる女?

笑わせるな!

とりえは笑顔が可愛いだけだなんて、そんな甘っちょろいボケ女、お兄ちゃんの彼女として、認められるもんか!

お兄ちゃんの彼女には、とびきりの美人で、頭がよくて、音楽のこともよくわかってて、音楽に夢中になったら周りのことに目が行かなくなるお兄ちゃんを、助けてくれるような人でなくちゃ認められない。

少なくとも、あたしが、かなわないと思えるような人でなくちゃ、だめなんだから!

「うー」と、春海は低くうなった。

そうしないと、熱い涙が目のふちから、こぼれ落ちてしまいそうだった。

そのとき、ふいに春海の足に、大きな水滴があたった。

自分の涙かと思ってドキリとしたけれど、その雫は山の斜面を急に襲う、にわか雨の最初の一粒だった。

「うわ、雨?」

薄暗くなった空を仰いだときには、もうすでにあたりには、はたはたと大粒の雨が落ちている状態。

しかも、はたはたは、すぐに、ザーザーと流れ落ちてくる、滝状の豪雨に変わった。

風もでてくる。

春海は、身を固くした。

「タロちゃん、ジロちゃん!」

大声で、少し離れた場所にいる、仲良しの兄弟を呼ぶ。

「早く川からあがって! 急な集中豪雨のときって、すごい勢いで沢の水は増水するから危ないぞって、お兄ちゃんがいってた!」

「う、うんっ!」

太郎と次郎が、かけてくる。

「早く! 早くってばっ!」

兄弟の足取りを、せかさずにはいられない。

二人がもたもたしている間に、沢の水が流れる勢いは、どんどん速くなっていくのだ。

おまけに、激しい雨は容赦なく、三人の小学生の体の上に落ちてくる。

まず太郎が、つぎに次郎が、水からあがる。

春海が、ほっとした瞬間、次郎が雨でぬれた河原の石に足を取られて転んだ。

うわーんと、泣き声があがり、次郎は立ち上がろうとしない。

「ちょっと! こんなところで、泣くんじゃないわよ! もたもたしてたら、川の増水にまきこまれるじゃないの!」

春海と太郎で、次郎を抱えあげるようにして、川のそばから離れる。

そのあいだ次郎は、わんわん、声をあげて泣く。

どんと、空気が震動した。

同時に、目がくらむ、光の洪水。

ついに雷が、鳴りはじめた。

重たい次郎を担いでいると、息があがる。

思いやりなんか発揮できないから、春海はわめく。

「ほら、泣きながらでもいいから、足を動かしなさいよ!」

しゃくりあげながら、次郎が答える。

「痛いんだぁ!」

とりあえず、水が来ない場所まで移動して、次郎の足の様子を見た。

片方の足首が、みごとに腫れあがっており、確かに次郎は歩ける状態ではなかった。

沢を見下ろしたら、さっき次郎が転んだ場所は、もうすっかり水没していて、水がごうごうと逆巻いて流れていた。

背筋がぞっとした。

よくぞ、兄から受けていた注意を、とっさに思いだしたものだと思う。

「タロちゃん」

激しい雨に打たれながら、春海は、おない年の太郎にいった。

「あんた、一人で上の別荘地までもどって、大人を呼んできてよ」

いわゆるプチブルの家庭で大切に育てられた太郎は、少し気が弱い。

おびえた様子をかくしもせずに、首を振る。

「いやだよ、春海ちゃん」

「なによ、あんた、男でしょうが!」

「だって、雷が……!」

太郎の言葉といっしょに、目の前が真っ白に光り、また空気が大きく震える。

音と光は、ほぼ同時だ。

雷は、自分たちの真上で暴れている。

まだ泣いている次郎が、春海にしがみついていう。

「春海ちゃん、雷、落ちる? ぼくたちんところへ、落ちる?」

「馬鹿いってんじゃないわよ!」

次郎を怒鳴りつけながら、春海は強く、奥歯をかみしめた。

そうしないと、自分も震えてしまいそうだった。

雷鳴は、山を裂きそうなとどろきとなって、自分たちに襲いかかってくる。

大丈夫なはずだ。

水からあがるとき、靴をはくひまもなかったから、体に金属は帯びていない。

近くには、一本だけ高い立ち木もないし。

大丈夫。

大丈夫。

雷は、ここには落ちない。

体を低くしていれば、大丈夫。

でも、やっぱり怖い!

また、あたりが真っ白になる。

視界が悪くなるほど激しい雨がふっているのに、雷の強い力は、一瞬で闇を押しのける。

音が、おびえた心に、のしかかってくる。

泣きたい。

でも、泣けない。

太郎と次郎が先に泣いているから、春海は泣けない。

だれか、助けて!

そう思った瞬間、耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。

「おーい、春海! だいじょうぶかぁ!」

「お兄ちゃん!」

遊歩道をかけおりてきた兄は、立ちあがった春海を、ぎゅっと自分のわき腹へ押しつけるようにして抱いた。

春海の頬にあたった兄のシャツも、雨でびしょぬれだった。

この雨では傘は役に立たない。

そう判断した兄は、覚悟を決めて、雨の中を走ってきてくれたのだろう。

夏の信州の山暮らしをこよなく愛する兄の頭のなかには、アウトドア生活を楽しむための知識が、豊富につまっている。

今年の夏はコンクールの準備で忙しいから家の中にこもりがちだけれど、本当のところは、青白い芸術家タイプの人間ではないのだ。

「お兄ちゃん」

嬉しくなって、抱きしめてもらった体にすりよったら、兄が笑った。

「よしよし、えらいぞ、春海。
おまえ、ちゃんと雨が降ったら川から離れろって、俺のいったこと、覚えてたんだな。
それにさ」

おでこを小突かれた。

「雷、苦手なくせに。 おまえ、泣いてないじゃん。
いつもは、びーびー、家の中でも泣くくせに」

「うん」

本当は、涙が出ているのだけれど。

土砂降りの雨のせいで、泣いてるって、ばれてないだけだ。

でも、これは怖いから、出る涙じゃない。

ほっとしたから、出た涙。

兄がいっしょなら、苦手の雷も平気だった。

春海の兄は、春海がピンチのときには、こうやって必ず、かけつけてくれる人だから。

「よーし、次郎。 兄ちゃんの背中に乗れ」

兄は次郎を背負い、春海の手を握った。

春海の足元を見ていう。

「おまえら、裸足かよ?」

「うん。 川の水、すごい勢いで増えたから、岸に置いてあった靴は、流されちゃったんだよ」

「おー、危機一髪かよ〜。 次郎の捻挫くらいですんで、ラッキーだったなあ」

春海の手が、ぎゅっと握られた。

きっといま、兄は春海が無事でよかったと、思ってくれているにちがいない。

「足元、よく見ながら、ゆっくり歩けよ。 へんなもん踏んだら、怪我するからな」

兄は山荘へむかう道を、裸足の春海や太郎の様子を見ながら、ゆっくり、ゆっくりと歩く。

「そういえば、太郎と次郎の従姉のお姉ちゃんってのは、どうしたんだよ?」

太郎が元気にいった。

「春海ちゃんが悪戯したから、泣いて帰っちゃった!」

「えーっ、しょうがねえなあ!
春海、おまえ、このあいだのバーベキューパーティーのときも、若い女の子のお客さんに、蛙かなんか投げつけて、泣かしてただろう」

「知らないもん!」

つんと、そっぽをむく、春海である。

雨は徐々に、おさまってきた。

夏の通り雨は、始まりも終わりも、唐突なのだ。

はるかむこうの山の稜線には、いく筋も雲間からもれる陽射しがさしこみ、その下には輝く虹がでていた。

兄の手をひっぱり、「お兄ちゃん、虹だ」と、春海は笑顔でいった。

そして、大好きな兄といっしょに、この虹を見られてよかったなと、思ったのだった。

 

― End ―