一学期の期末試験が目前にせまった、ある日の昼休みのことだった。

詩文は、学校の練習室にいた。

彼は、弱冠16歳にして、将来を嘱望される天才肌のヴァイオリニストである。

しかも、世界的に有名な指揮者で作曲家の渡辺隆明の一人息子という華やかな背景の持ち主であり、自身も日仏両方の血筋から受け継いだ、人目をひく優雅な雰囲気をもっている。

フランス人の母からは彫りの深い知的な顔や恵まれたプロポーションを。 日本人の父からは白人がエキゾチックだと感じる東洋的な魅力と、世界を背景に生きる男の厳しさといった、普通の家庭で育ったのではとうてい学び得ない深い哲学を。

詩文は優れた両親や二つの祖国を持つ環境に生まれ落ちたせいで、そうした同じ年頃の少年にはないものを、すでに身につけてしまっているのだ。 おかげで世間からは、平凡とは無縁の道を歩むように生まれたときから運命づけられている、恵まれた人間だと思われている。

しかも。

『哀しいほど美しい音楽を奏でる貴公子』

そんな表現が最近では、マスコミが詩文のことを書きたてるときに使う、定番のフレーズとなりつつある。

詩文が奏でるヴァイオリンの音には、いつも不思議な哀感が漂うのである。

偉大すぎる父親をもったせいで、詩文は幼いころから、否応なく『負の感情』というやっかいなしろものを、他人からむきだしで押しつけられることが多かった。

その経験は幼い心を深く傷つけ、彼が立ち直るまでには、長い時間と身近な人々から注がれる愛情に満ちた励ましが必要だった。

哀しく美しい音は、知らず知らずのうちに詩文の性質に染みついてしまった、寂寥感から生まれているのだ。

世間はそれを、偉大な父親から受け継いだ才能だと単純に信じて、ほめたたえているけれども。

 

 

しかし、いま現在、詩文の楽器からでている音には、哀しさも、美しさも、無関係であった。

なにしろ彼が弾いているのは、ヴァイオリンではなく、ピアノなのだから。

練習室に集まった彼の悪友たちが、口々にわめく。

「ちゃうー! そこで指を返したら、フレーズを登りつめるまえに、指が足りなくなっちゃうだろっ!」

「楽譜に書いてある運指番号を、とりあえず守りなよぉ!」

「ちょっと、みんなで、わーわー、わめかないでよ!
いい? 詩文くん、ここのところ、もう一度、片手ずつ練習しましょ?」

「うん。 わかった」

詩文にやさしく話しかけたのは、常盤音楽大学付属高等学校第二学年ピアノ専攻生のなかで、詩文の従兄の渡辺夏海につぐ将来有望なピアニストであろうと、周囲から注目されている吉澤佳織である。
彼女にうながされて、詩文はもう一度、練習中のフレーズを弾く。

「そうそう、いいわよ。 ゆっくりね。
急いで指がもつれる演奏になるくらいなら、ゆっくりと正確なほうがいいもの。
そのまま、さきも弾いてみて」

佳織は、詩文が弾いているピアノの鍵盤の高音部に手をおいて、メロディーの一オクターブ上に音をかぶせ、つたない響きを誘導しはじめた。

ゆったりとした、典雅な響きのバッハ。

ほんらい演奏される音域より一オクターブ高いから、ちょっぴりキンキンとは聴こえるけれども。

佳織の音は、やっぱり女の子の音だよなと、詩文は思う。

最近の彼女の音からは、以前はことあるごとに鼻についていた、強い性格のせいで飛び出す強引さが抜け落ちつつある。

それはやっぱり、夏海のせいなのかなと思う。

夏海が身にまとう明るい空気は、まるでつむじ風のようで、いつだって周囲を巻き込んでは、勝手に幸せ気分をもりあげていくから。

佳織に誘導してもらったおかげで、右手と左手それぞれに割り当てられたメロディーラインは、それなりに聴ける響きになった。

佳織がいった。

「いいんじゃない?
じゃあ、両手で、いってみましょうよ」

「うん。 やってみる」

鍵盤の上に詩文の手がのせられると、練習室のなかに緊張感がただよった。

練習につきあってくれている、ヒデ、リード、タケヤンが、ごくりと唾を飲む音が聞こえてきそうだ。

ハ長調。

最初は休符。

まず右手が、テーマを。

つぎに左手が右手を追って、同じフレーズで、シンプルな美しいフーガを歌う。

――はずなのだが。

「「「だ〜〜〜〜〜っ!」」」

悪友三人組が同時にわめき、佳織は練習室の天井をあおぐ。

「どうして両手で弾くと、音楽が崩壊するんだよぉ!」

一同を代表して、ヒデが疑問を呈する。

詩文は、いつも冷静な表情しか見せない綺麗な顔を赤らめて、乱暴に鍵盤をたたいて、音を止めた。

「ぼくは、ヴァイオリン弾きだぞ!
ピアノが下手だからって、責められてもこまる!
だいたい、バッハの二声のインベンションなんて、音楽の構造自体は、そう複雑じゃないだろっ。 手がいうことをきかないだけで、頭の中には、もうすべてが入ってるんだ!
ぼくが、もう一人ここにいるなら、二人でヴァイオリンを弾いて、この曲を完璧に演奏してみせるよっ!」

詩文は幼少時代に、フランスの有名音楽院の正規教育からドロップアウトしてしまったという過去をもっているので、英才教育を受けた音楽家なら、だれでも弾けるピアノが、かなり苦手なのだ。

詩文と同じようにピアノが苦手な、クラリネット吹きのリードが苦笑した。

「でもよー、それができないから、こまってるんだろ?
このままじゃ、おまえさー、副科のピアノ、赤点で追試だぞ。
普段の練習、さぼってたんだろ?」

「ぼくと同程度のピアノしか弾けないリードに、それをいわれたくないね」

「だって、詩文はさ、いままで副科のピアノの試験は、なんとかぎりぎりでとはいえ、それなりに乗り切ってたじゃないか。
それなのに、どうして今回は、こんなにせっぱつまってるんだよ?」

「そりゃね。
試験が近くなってくると、いつも夏海の監督で、強制的に練習させられてたからさ」

「そっかー。 夏海かあ。
あいつ、いまはコンクールのことで、頭がいっぱいだからなあ」

「夏海の教え方ってのは、口が悪いし、手も出るしで、ぼくは半分迷惑だとさえ、思っていたんだけどさ。
それでもやっぱり、自宅に先生がいるってのは、ありがたいことだったみたいで」

ヒデが、ぼやくようにいった。

「しょーがねえなあ。
今回は夏海にかわって、俺たちがおまえの面倒を、みるしかねえな。
俺さあ、放課後は夏海とも、お勉強会やってるんだぜ?
まったく、おまえら従兄弟コンビときたら、いちいち世話が焼けるんだから」

詩文は、悪友にむかって手を合わせた。

「ヒデ、感謝してる!」

「んじゃあ、明日の昼休みも、みんなで特訓な!」

どっと全員で笑ったところに、昼休み終了5分前の予鈴が鳴った。

つぎの授業は教室移動となるので、詩文のピアノの特訓も、これで終了ということになった。

 

 

防音扉を開いて廊下にでると、廊下には涼しい風があるように感じられ、詩文と仲間たちは、自然に深く息を吸いこんだ。

私立高校の常盤音高の校舎は全館冷暖房完備だ。 もちろん練習室にも、空調は入っている。

けれども、閉鎖空間の練習室と、広々とした廊下とでは、空気の鮮度がちがう。

それに、三階の廊下には、たおやかな音楽が流れていた。 昼休みの練習室争奪戦に敗れただれかが、第二音楽室のピアノを弾いているのだ。

音楽仲間たちは、そのまま足をとめて、音楽に聴き入った。

バッハの『平均律クラヴィーア曲集 第二巻 第14番』、嬰へ短調のプレリュードとフーガ。

いま、あたりに鳴り響いているのは、物悲しく、美しい、三声のアリオーソ。

ふと旋律線がとぎれ、息をのむ間のあと、第二ドゥックスを導く印象的な低音が、ほんのひとくだりの歌をつぶやく。

「すげ……」と、ヒデが小さくうなった。

だれも、そのうなりには答えなかった。

ただ静かに、その場にたたずむ。

ピアノを弾いているのは夏海だ。

こんな音、こんな響きで音楽を奏でられるのは、夏海しかいない。

緊迫した音だ。

音楽に対して強力な集中力を発揮できる者にしか、この余分な雑味をまったくふくまない、純粋な音はだせない。

その音が連なり、ぞくぞくするようなメロディーを形作り、さらにメロディーが、いくつも複雑にからみあう。

それこそが、バッハのポリフォニーだけれど。

10本しかない指で、どうしてこんなに複雑で、巧みな歌のからみを、奏でられるのだろう?

音のひとつひとつに宿る緊迫感は、歌に融合すると、愉楽の感覚となって、聴き手のもとへおしよせる。

詩文は、無意識のうちに、楽譜をもつ手に力をこめていた。

彼は知っているのだ。

この才気あふれるピアノを弾く詩文の従兄は、いまのこの音に、満足していない。

これは自分が求めているバッハの音じゃないと思っているから、こうやって学校でまで、練習に没頭している。

焼けつくような感触が、詩文の首筋に走った。

体に感触として感じられるほど強烈なこの感情は、まちがいなく嫉妬だった。

いちばんの親友で、仲の良い従兄弟同士として、おたがいを相棒と呼びあう、夏海への嫉妬。

幼いころからオーケストラのなかで培ってきた、複雑な音楽をやすやすと読み解く能力を夏海に見せつけられると、いつも詩文は、いまと同じ感覚に襲われる。

自分たちは、音楽を奏でているかぎり、最高のパートナーでありながら、ライバルなのだ。

――たぶん、永遠に。

「よう、どうする? あと2分で本鈴が鳴るぜ。 夏海に声をかけてやるか?」

ヒデが腕時計を見ながら、たずねてきた。

詩文は、そっけなく答えた。

「ほっとけよ。
なんだか、夢中みたいだし。
授業にでる気があるなら、そのうち、きりあげてくるだろ」

「でも……」と、詩文のとなりで口ごもった佳織の表情に、心配そうな影がよぎる。

まったく、夏海はしょうがないやつだと、詩文は思う。

ただひたすら音楽に夢中で、しょっちゅう彼女に、こんな顔をさせているなんて、気づいてもいないに違いないのだ。

佳織の一瞬の表情の変化を見てしまった、彼女がいない寂しい高校生活を送っている悪友三人組にも、詩文の意地悪な気分は伝染したようである。

まず最初に、リードが、しれっとした態度で「そうそう、ほっとこうぜ」といい、階段にむかって歩きだした。

そして、タケヤンとヒデが、「いこう、吉澤さん」「ほれほれ」と、二人同時に佳織の背中を押す。

廊下に響く夏海のピアノは高らかに、プレリュードにつづく、フーガを歌っている。

俗世のことには、何も関心がないとでもいうように。

音楽さえあれば、幸せなやつ。

周囲の反応なんて、どこを吹く風って態度で。

それが、夏海だ。

にぎやかにしゃべる悪友たちのあとについて階段へむかいながら、詩文はこっそり、「ほんとに、しょうがないやつだよ……」と、ため息をつくのだった。

 

― End ―