心のもやもやが晴れない俺は、元気がないと心配されてしまい、爺ちゃんと詩文につきそわれて、タクシーで帰宅した。
明日もがんばれと、夕飯にはお袋がトンカツを揚げてくれたけれど、胸がつまって、ほとんど食べられなかった。
トンカツは、我が家の必勝料理だ。
受験とか、気合がはいった演奏会の前日には、お袋が必ず作ってくれる。
食い盛りの俺や詩文の大好物であり、そして、お袋の愛の結晶でもあり。
夕食のあいだじゅう、お袋は饒舌だった。
商店街の噂話から、テレビの話、野良猫の話、親戚に生まれた赤ん坊の話……。
ごめん、お袋。
一生懸命、雰囲気を盛りあげようとして、しゃべりまくってくれてるのに。
俺、ちゃんとお袋の話が、耳にはいってこないよ。
なんとか、味噌汁といっしょに茶碗一膳分の飯だけ食って、箸をおいた。
「ごちそうさま」
「うん」
お袋は、いいたいことを山ほどのみこんだ顔でいった。
「お風呂、わいてるよ」
そのあとに、万の言葉が、おしよせて来るような気がした。
聞こえないはずの、言葉が……。
(食べないと体に悪いよ)
(なんで食べないの)
(どうしたの、なにかあったの)
(具合がわるいのかい)
(つらかったら、コンクールなんか、いますぐ、やめちゃっていいんだよ)
(お母さんは、なにがあったって、あんたの味方だから)
(一生懸命、やってるじゃないの)
(おまえは、あたしの、自慢だから)
(がんばれなんて、口先だけなんだよ)
(お母さんは、本当は、そんなこと思ってないんだから)
(そのまんまの、あんたで、いいんだから)
くそ、お袋。
そんな目で、俺を見るな。
ガキのころ、お袋の懐に抱きしめてもらったときの感触を思い出して、泣いちまいそうになるじゃないか。
答える声がふるえないように、喉に力をいれるだけで、俺はせいいっぱいだ。
「ちょっと練習してからにするよ」
「そう」
お袋に笑いかけようとして、失敗してしまった。
できそこないの笑顔をひっこめて、俺は地下のスタジオへ降りていった。
音楽って、なんだ?
今日落選した岡野さんだって、きっと小学校に入る前からピアノを弾いてきて、ピアノが好きだから打ちこんで、ここまで来たんだ。
それなのに岡野さんは、認められることなく、忘れられていく。
きっと、それでも音楽は、一生、岡野さんの道連れなんだろう。
趣味として音楽を楽しんでいる人は、世間には無数にいる。
でも、俺だったら、深い挫折感を抱えて、その無名の人たちの仲間入りが、できるだろうか。
……できない。
俺はやっぱり、俺の音楽を、だれかに聴いてもらいたい。
俺の感動を、だれかに伝えたい。
音楽は俺にとって、コミュニケーションの手段なんだ。
俺は自分の気持ちを言葉にかえて主張できるほど、頭が良くない。
でも、音楽でなら、俺の心のありようを、おおぜいの人に伝えることができる。
伝えたいことがあるから、いつも感動して生きていたいから、俺はコンクールの準備期間のあいだ、感動を伝えるための技術を磨き、感動の糸口を探って、苦しみぬいたんだ。
堀さんは、なにを考えて、同じ時をすごしたんだろう。
命を削ったみたいな打ちこみかた。
俺のまわりみたいに、17歳の夏は一度しかないんだよと言ってくれる人が、堀さんには、いなかったのか。
それとも、一度しかないから、打ちこむことに懸けたのか。
ピアノの前にすわっているのに、けっきょく、音なんか、ひとつも出さなかった。
俺はぼんやりと、鍵盤をみおろして時をすごした。
ふと、背後に人の気配を感じた。
ふりむいたら、そこには詩文がヴァイオリンケースを手にして、立っていた。
のろのろと、俺はいった。
「練習か? 俺はもういいから、ここ、使えよ」
詩文は、なにも答えなかった。
ただ、椅子から立ちあがろうとした俺を、うしろから抱きしめただけだ。
おまえ、また力が強くなったんじゃないか?
息がつまるよ。
強い腕の力から、励ましが流れこんでくるような。
「ねえ、夏海。
夏海の今日の演奏、ぼくは最高だったと思うよ。
リストの『ラ・カンパネラ』を聴いたときの、ぼくの踊りあがるような気持ちを、言葉でなんか伝えきれないんだ。
だから、聴いてよ」
詩文が楽器を準備して弾きはじめたのは、リストを感激させた、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番『ラ・カンパネラ』の第三楽章だった。
有名な、『鐘のロンド』。
リストはパガニーニのヴァイオリンを聴いて、一連の『パガニーニ大練習曲』という、パガニーニの曲に主題を借りた、形式にとらわれない幻想曲風のエチュードを書いたりしたんだ。
この夏、桜響の定期演奏会で、これ、やったんだよな。
去年は俺のソロで協奏曲だったから、今年は詩文がソロだって、団員たちが盛りあがっちゃってさ。
俺も、この鐘だけでいいからって、ひっぱりだされて共演した。
鐘って、いがいと難しいんだ。
振りだしてから実際の音が出るまでに、微妙な間があってさ。
ツボにはまった音を出すのには、かなり音楽的なセンスがいる。
独奏ヴァイオリンのつぎに目立っちゃうパートだから、いいかげんにはできないし。
俺、かなり鐘のふりかたを、研究したぞ。
ほら、こんなふうに。
ピアノの高音のFisで、鐘の音を再現してやる。
のびやかに歌うヴァイオリンの旋律に、華やぎがそえられる。
詩文のパガニーニは、困難を困難とは思わせない華麗なテクニックと、明るい音色が光り輝く、喜びに満ちた音楽だ。
こいつ、オーケストラの前では、素人にはわからない程度に、微妙にピッチを高めにとって、音をきわだたせるなんて芸当をつかうんだ。
こういうまねは、なかなか日本人にはできない。
生真面目な日本人の意識のなかでは、正確とは寸分の狂いもないという意味で、ヴァイオリンという、せっかく曖昧な音も出せる楽器の息吹を殺してしまうからだ。
喜ばしきかな!
小さき鐘を、打ち鳴らせ!
詩文のヴァイオリンは自在に舞い踊り、歌い、笑った。
両手を駆使して弾け飛んでいく、ピチカートの、素晴らしいこと!
困難な高いポジションでの難しいパッセージがくり返される。
まるで詩文の後ろにオーケストラが見えるような錯覚が渦巻き、俺の重かった心は、くりかえし湧きあがっては背筋をかけ登っていく快感で、明るく解き放たれていった。
力強い終わりの音を歯切れよく切って、詩文は笑った。
「ぼくは、夏海の音が大好きだ。
いま、ぼくの主題といっしょに、夏海のカンパネラも聴こえていただろ?
明日も、楽しみにしているから」
勝ち負けじゃなくて、自分の音楽を聴かせることに専念しろって、いいたいんだろ?
ありがとう、詩文。
そうだよな。
俺が落ちこんだって、どうなるもんでもないんだ。
俺は俺の音楽で、いいたいことを伝えようとするしかないんだから。
壁にかかっているインターホンが鳴った。
立っていた詩文が身軽に近づいて、受話器をとってくれた。
「はーい。
あ、加奈子伯母さん。
……外線?
……オウ! アロウ、パパ。
……ジェヴェビヤンエヴ〜……ウィ……ウィウィ。
ヴィヤンスュール……。
夏海、パパだよ。 電話、かわってって」
隆明叔父さんが、いまごろ?
「もしもし」
かすかに、受話器のむこうから、楽器の音が聴こえる。
オーケストラの練習の休憩時間中に耳にする、指ならしや、難しいパッセージや、調弦の音が入り混じった、ざわめきの音だ。
《アロウ、夏海くん。 パリ速報だよ。
野末くん、無事に一次予選を通過したそうだ。
きみも三次に進んだって?
おめでとう》
「ほんと? よかった!
野末さん、なにかこまってない?
俺にできること、なにかないかな?」
《おいおい、人のことより、自分のことじゃないのかい?》
「だって、俺、野末さんには、ものすごく良くしてもらったんだ」
《そうなの?
………………?
おい、夏海くん、どうした?》
俺は――、涙で声がつまって……、しゃべれなくなったんだ。
あらゆることが、いっせいに、俺のところへ吹き寄せてきたみたいで。
きっと隆明叔父さんは、俺が二次予選と三次予選のあいだの夜を、心おだやかにすごすことはできないだろうと知っていて、リハーサルの合間に電話をくれたんだ。
俺がいちばん喜ぶ、野末さんの健闘の報せを、伝言じゃなくて、直接伝えてくれるために。
お袋も、詩文も、俺の家族も、みんなが――。
「おじ……さん……」
ダメだ。
喉に熱い塊が、こみあげてくる。
なにも、いえない……。
長い沈黙が、はさまった。
そのあと叔父さんは、ゆったりと、しゃべりはじめた。
《夏海くん。 きみ、シュバイツァーを知っているかい?》
「……うん」
アフリカで医療活動をして、ノーベル賞をもらった、えらいお医者さんだろう?
叔父さんは、静かにつづける。
《彼は医者であり、オルガニストであり、神学者でもあった。
彼の言葉を、きみに贈ろう。
『喜び、哀しみ、涙、嘆き、笑い。
音楽は、こうしたすべての感情を、音に変えて表現できるものだ。
安らぎのない世界から、平和に満ちた世界へと、われわれをいざなってくれる』
シュバイツァーの言葉の本当の意味には、世界には、貧しさや、紛争や、天災や、一人の力ではどうにもならない不幸があふれていて、いっけん平和に見えるような先進国でさえ、人の心は崩壊の危機をいつも抱えているという、深い哀しみが満ちているんだけれどね。
でもね、せめて、いっときでも音楽で心が安らぐ人がいるならば、そこにこそ、音楽家の存在の意味があると、ぼくは思っているんだ。
ぼくもね、きみくらいの年齢のときに、先生から教えてもらったんだけれど。
いまだに、あのときの言葉は忘れない。
タカアキ、なんで世の中の人々は、われわれのように音楽しかできない馬鹿な人間のことを音楽家と呼んで、その存在を認めてくれるのか、考えてみたことがあるかいって。
夏海くん、世界は広いよ。
みんな、生きることは辛いことだと、思っている。
きみの正直な気持ちを、音にのせて語ればいい。
きっと、だれかがその音に、慰められるんだ。
そう信じて、やってごらん。
きみになら、きっと、できるよ》
隆明叔父さんの背後で、オーケストラがチューニングを始めた。
叔父さんは、温かく、力強く、「がんばれ」といって、電話を切った。
そのあと俺は、スタジオを詩文にあけわたして、自分の部屋へ帰った。
まだ気持ちはざわついていたけれど、家族の励ましのおかげで、なんとか眠れそうな程度には落ち着いていた。
風呂は明日の朝でいいやと、疲れた身体をベッドに投げだし、いつものようにリモコンを操作して、CDラジカセの電源を入れる。
機械のなかで野末さんがくれたCDがまわりはじめ、暖かな家庭の雰囲気をにじませた、アルペジオーネが歌う。
音楽は、俺に語りかけてきた。
優しく、静かに……。
つらいことがいっぱいあるけれど、人間は肩をよせあって、ささやかに、それぞれの明日へむかって、生きているんだって。
音楽を聴いて静かな気持ちで寝ついたおかげなのか、翌日、俺は、さわやかな秋晴れの日曜日の朝を迎えることができた。
三次予選での、俺の演奏順は9番だ。
二人演奏しては休憩時間をはさむようになったプログラムによると、午後の2時半ごろが俺の出番らしい。
朝飯を食ってから練習をはじめて、10時半に切りあげた。
もうこうなると、本番演奏の4時間前に練習をやめるということは、一種の強迫観念になりつつある。
約束をやぶってしまうと、なにもかもがダメになってしまうような気がしてくるから不思議だ。
演奏家は、いろいろと、本番にベストの状態でのぞめるように、ユニークなジンクスを持っている人が多いけれど、そういうジンクスって、こんなふうにして生まれるものなのかもしれないな。
演奏するころ眠くなるといけないから、早めに家を出て、ホールの近くで昼飯を食うことにした。
緊張してそれどころじゃないと思うのに、詩文が「夏海なら、まあいいやで、昼寝くらいするかも」っていうんだもん。
ま、それくらいの気持ちでいけって、ことだろうけどさ。
胃がもたれたらことだから、もり蕎麦を二枚食った。
ピアノを弾くのには、体力がいる。
とりあえず、すぐにエネルギーになる炭水化物だなと、俺なりに考えたりしてさ。
そのあと腹ごなしに、官庁街を散歩した。
詩文は、写真やテレビでしか見たことがない国会議事堂を生で見て、感激していた。
そのうち俺を、ルーブルやリュクサンブールへ案内してやるといわれたけれど、そんなの、いつになることやらだ。
時間を見計らってホールに入ったあとは、エントリー手続きをして、午後の部の最初の人の演奏を聴いた。
三次予選の内容は、さらに多彩になる。
基本的な素養は二次予選で試されたから、今度はピアニストとして、どのようなレパートリーを持っているのかが、問題になってくるんだ。 同時に、それを、どこまで深めているかも。
課題は、三つの部分に分かれている。
ひとつ目が、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューベルト、シューマンの指定作品から任意の一曲。 ドイツ的な音を試される。
ふたつ目が、ショパン、リスト、またはフランス近代派の指定作品から一曲。 ピアニストがさけて通ることはできない、というよりは、いちばんチケットが売れる華やかなロマン派か、エスプリのフランス音楽、どちらか好みを選べってことかな。
みっつ目が、新ウイーン楽派(シェーンベルグ、ベルク、ウエーベルン等の、十二音技法開拓者達)、またはロシアの指定作曲家の曲から任意の一曲。
ロシアの作曲家に選ばれたのは、スクリャービン、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ショスタコービッチ。 ようするに、前衛的な響きをもった作品も弾けることを、証明する。
三曲のなかに、必ずソナタを入れるという条件もある。
三曲で、ほぼ30分相当のプログラムを組み立てるという制約も。
どうしても それが難しいときには、ソナタを一ないし、二楽章、削除してもいい。
全体の構成を考えて、どの楽章を削除するかも評価の対象になる。
谷崎先生は、本選のコンチェルトが今年はベートーヴェンだから、ほとんどのコンテスタントが、ソナタにはショパンかシューベルトか、シューマン、奇をてらってきても、せいぜいプロコフィエフあたりを選ぶだろうと分析した。
それで俺に、スクリャービンをあてたのだけれど、結果はどう出ることやら。
俺が聴いた午後一番の演奏者は、ショパンの華やかな小品を弾き、ベルクの静かな曲をつづけ、最後にシューマンのソナタを熱演した。 じつにオーソドックスな選曲だ。
でも、印象は、ただ熱演とだけ、いっておこう。
ショパンは、意気ごみすぎたのか、やたらと早くてメカニカルな部分ばかりが目立った。
ベルクは、なにがいいたいのかよくわからない、感覚にたよった演奏。
シューマンは、しばしば指がもつれるような乱れをみせ、熱意は空回りするばかりだった。
自分の主張を伝えるためには、せめて、聴き手をひやりとさせないレベルまでは曲を弾きこんでおかないと、お話にならないんじゃないかと思うよ。
この人には、そもそも、主張したいことがあるのかな。
ステージの上にのる緊張で、本領が発揮できていないだけ?
緊張に耐えて実力を発揮するのも、演奏者の力のひとつってことなんだろうなあ。
演奏家って、ほんとうに、大変な仕事だよ。
ため息がでちまう。
「どうする? 堀さんの演奏も聴く?」
詩文が俺に、たずねてきた。
「うん、聴く」
堀さんと俺の演奏の間には、20分の休憩が入る。
聴衆のためというよりは、審査員のためだろう。
集中して、音楽を評価する耳で聴き続けるためには、どうしたって休憩が必要だ。
俺は女性のように衣装を着替えたりはしないから、準備は20分あれば、じゅうぶんだし。
なにより、聴かなければ失礼なような気がした。
堀さんが命をすり減らすようにして築いた音楽に、そっけなくすることは、許されないような気がしたんだ。
堀さんの名前がアナウンスされたとき、会場には、期待感が満ちていたと思う。
3年前の『日響音楽コンクール』で輝かしいラフマニノフを聴かせて、当時華やかな話題をとった堀さんのことを、会場の席の3分の1くらいを埋めている客は、おそらく覚えているに違いない。
客のほとんどは、今日の出演者の身内や教師、勉強のために聴きに来ている学生や、友達といったたぐいの人たちだ。
クラシック音楽分野の新人の動向には、やたらとくわしい連中ばかりだってことだな。
3年の沈黙の間に、音楽高校で堀省吾が築いたものは何かと、みんなが思っている。
堀さんは、ピアノ以外なにも見えていないといった様子で、ステージへ登場した。
黒い詰襟みたいな上着を着て、表情も陰気だ。
目の下に、影が浮かんでいる。
そっけないお辞儀をすませて、ピアノのそばへ。
前の演奏者が女性だったので、少しだけ椅子をうしろに引いた。
そして、おもむろに、演奏が始まった。
しょっぱなが、いきなりラフマニノフの前奏曲。
なんて圧倒的な和音。
華やかでクールな響き。
たっぷりとした緩急。
自在な指。
堀省吾のラフマニノフは健在だと思わせるのに、これ以上効果的な選曲、演奏順はないという、自信に満ちあふれている。
中間部のたおやかなアルペッジオも、流れるように聴かせる。
天上のあこがれのような旋律が、あたりにこぼれ散る。
そして再現部。
これが力というものだ。
無調の手法を部分的に取り入れながら、けして響きは難解にならないロマン派の後継者と呼ばれるラフマニノフの、ロシア的な力強さを、堀さんはこれでもかと見せつける。
そんな聴き手を圧倒するオープニングのあとに、ほんの少しの間がとられ。
つぎに演奏されたのは、ショパンのソナタ第二番。
印象的な旋律と緻密な技法が、物悲しくも美しい音の世界を築きあげていく。
『葬送』のニックネームの由来になった葬送行進曲の第3楽章と、終楽章は、演奏されなかった。
いかにも、それがふさわしい。
堀省吾の輝かしいリサイタルには、陰気な行進曲など、不要なんだ。
最後がメンデルスゾーンの愛らしい小品。
まるでアンコールのような構成だった。
素晴らしい!
コンクールの演奏で、リサイタルを聴いたような充実感を、聴き手に与えてしまうなんて!
堀さんが音の余韻を見切って演奏姿勢を崩すと同時に、割れるような拍手が爆発した。
ショーアップまで計算しつくされた華麗なひと時に、聴衆は夢中だった。
もうこれは、だれに聴かせても恥ずかしくない、プロフェッショナルのステージだ。
俺は、ひとこと堀さんに感想を伝えようと思って、足早に控え室へいった。
堀さんが悩んで苦しんでつかんだものが、あまりに素晴らしくて、俺はひたすら感激していたんだ。
苦しむことも、意味があることなんだ。
そのために、人は一生懸命努力して、少しでもいいものをと、望むんだよね!
そうだよね、堀さん!
俺はきっと、堀先輩の口から、苦しむことは無意味ではないと、いって欲しかったんだ。
控え室には、だれもいなかった。
小泉教授や、堀さんのご家族は、客席で演奏を聴いたのだろう。
俺は、いてもたってもいられなくて、室内をうろうろと歩きまわった。
気持ちが高ぶっていて、すわってなんかいられなかったんだ。
ドアのノブがまわった。
ドアが開くのを待ちきれず、俺は先に声をかけてしまった。
「堀さん!」
開いたドアのむこうには、堀さんの驚いた顔があった。
両の目からは、いく筋もの涙が伝い落ちていた。
自分の演奏に感激したという様子ではなかった。
俺は直感的に、見てはいけないものを見てしまったのだと悟った。
堀さんは暗く、つぶやいた。
「きみは、いつもそうだ。 無邪気で、残酷だ……!」
「ごめんなさい! 俺、外に出てますから!」
部屋から出ていこうとする俺の腕を、堀さんがつかまえる。
「どうだった、ぼくの演奏。
最高の演出だっただろう。
脚本、演出、振り付け、すべて小泉美香子謹製だ!
ぼくだって、自分の音楽を模索したさ!
でも、それじゃあ勝てないといわれて、ぼくは小泉に、魂を売ったんだ!
完璧だっただろう!
たとえ中身がない抜け殻だって、完全な彫刻なら、形を保って、人を感動させられるんだ!
もうラフマニノフは弾かないって、いったのに!
小泉のコピーのショパン!
『葬送行進曲』だけ、弾いてやればよかった!」
堀さんの指が、俺の腕に食いこんできた。
俺は、悲鳴をあげそうになるのを、必死にこらえた。
堀さんの、こんな姿を、他人の前で、さらしものにしたくなかった。
堀さんは、きっと、俺が相手だから、涙の理由を吐き出せるんだ。
俺たちピアニストは、音楽を人に聴かせたいと願う者は、こんなに苦しんで、もがいて……!
堀さんの手の力が、いきなり弱まった。
俺は、堀さんの第二声を待ったけれど、聞こえたのは、うめき声だけだった。
「堀さん?」
堀さんの背中が、どんどん丸まっていく。
「堀さん、だいじょうぶ !?」
涙につまったなんて感じじゃない。
「堀さん!」
噴き出したのは、まちがいなく血だった。
おもしろいくらい、あとから、あとから、堀さんが両手で押さえる口から、噴き出してくる。
ごぽり、ごぽりと、血が喉もとを上がってくる音が、はっきりと聞こえた。
俺は、ぼうぜんと、自分の上着や床にこぼれる、赤褐色の液体を見下ろした。
ヒデの親父さんの臨終場面が、フラシュバックした。
錆びた鉄の匂い!
むせかえる匂い!
俺は、ドアの外にむかって叫んだ。
「だれかっ! だれか助けて!
先輩が死んじゃう!
死んじゃうよ!
だれか来て!」