少し日が長くなってきたとはいえ、いまは三月。いつもどおりの時間に学校からでて、佳織が自分の家へ帰りついたときには、あたりはもうすっかり、暗くなっていた。
佳織の家は奥沢の静かな住宅街のなかにある。
音楽関係の有名企業の役員を務めている父親が建てたその家は、アートと生活機能を融合させた設計で名を知られている建築家がつくったもので、大きさじたいは近所の普通の家とそんなに変わりはないけれど、外観や内装にガラスとスチールを多用した、モダンな雰囲気の家だ。
門扉に手をかけながら、佳織は生垣ごしに、ガレージのほうを見た。
街灯に照らされて淡く光るアクリルの屋根の下の駐車スペースに、車はなかった。
会社役員の父親は、平日は運転手つきの役員送迎車に乗って仕事へ行く。 だから、自家用車を使って外出しているのは、たぶん母親だ。
ちいさくため息をついてから、佳織はテラコッタのタイルで舗装された通路を通りぬけ、玄関の鍵を開けて、家の中へ入っていった。
自分で暗がりに明かりを灯しながら、まず、キッチンへむかう。
ガラス張りの吹き抜けになっている玄関の照明は高い位置にあり、闇を映すガラスに乱反射する光は、煌びやかでまぶしい。 佳織は無意識のうちに、目を細めてうつむいていた。
足元ばかりを見ながらキッチンへたどりついたら、思っていたとおりカウンターの上には、きちんとラップをかけた作り置きの夕食の皿が並べられていた。
そのわきには、メモ用紙がある。
艶やかな蘭の花のイラストが入った一筆箋だ。
風で飛んだりしないように、紙の上に置かれているのは、クリスタルのペーパーウエイト。
かすかにメモ用紙から、香水の匂いが立ち昇っている。
お洒落な生活スタイルを維持することに人生の意味を見いだしている佳織の母親は、こんな小さな用件を伝えるメモにまで、気配りを忘れないのだ。
カウンターに手をかけ、メモの内容に視線を落とす。
《今夜はおそくなります。
お父さまも接待で、夕食は外食みたい。
佳織が好きなエビのグラタンを作ったので、オーブンで軽く焼いてからめしあがれ》
「はあ〜〜〜っ!」
佳織の口から、今度は、とても大きな、ため息がでた。
母親の行き先を考える。
お芝居かしら?
お友達が出演する踊りの発表会とか?
それとも、懐かしい女子大時代の仲良しグループで集まる、楽しいディナーかな?
まったく、「今夜は」おそくなりますって、メモの書き方をまちがってるわよ。
ちゃんと、「今夜も」って、書けばいいのに。
自分の母親は永遠の少女だと、佳織は思う。
佳織が幼いころは、まだ母親としての義務にこだわっていて、夜の外出だけは控えていたけれども。
でも娘が幼稚園や学校へ行っているあいだは、スポーツクラブだの、お稽古事だの、毎日のように、外へ遊びにでていたようだ。
母親は、いつも女友達とつるんでいる。
最近、そんな母親を、佳織はさめた目で見ている。
結婚している女が女友達とつるみたがるのは、友情を求めるからではなく、現実からの逃避ではないのか。
子供の存在以外に、忙しい仕事や打ち込む趣味を持っている人が、友達と遊び歩くなんて話は聞いたことがない。
母親の口癖は「つまんない」だ。
佳織が大人の話を理解できる年になると、よく、仕事に夢中の父親や、ピアニストになるのが目標で、帰宅するとすぐに防音設備を整えた練習室にこもってしまう娘への不満も口にするようになった。
家の中で、わたしは、ひとりぼっちなのよと。
最初は、娘にむかってこぼされるようになった母親の愚痴に対して、佳織も、いちいち反応していた。
「ひとりぼっちなのよ」といわれれば、「まあ、それはかわいそうに」と思うのが、普通の優しさを持っている人間なら、あたりまえの反応だからだ。
けれども、母が娘の同情を買って得たいと願っていたのは、女友達がわりの、遊び相手だった。
たしかに娘と女友達のような関係になれば、遊び相手には不自由しないだろう。
コンサート、展覧会、ショッピング。
たびたび、そんな母親の道楽につきあわされるようになると、佳織は自分のために使う時間に、不自由するようになった。
だから自分はピアノにのめりこんでいったのかもしれないと、佳織は思う。
ピアノの練習があるといえば、母親から「遊びにいくのにつきあってくれないなんて、冷たいじゃないの。 ママは、寂しいのに」と、責められずにすんだ。
ピアノを弾いてさえいれば、母親に冷たくしているという罪悪感から、逃れることができたのだ。
そもそも、佳織とピアノの関係には、いつも母親の存在がかかわっていた。
まず、娘にピアノを習わせようとしたのは母親だ。
吉澤楽器の創業者一族の娘が、ピアノを弾けないようでは、恥をかくからと。
よくよく考えてみれば、佳織がピアノを弾けないと、恥をかくのは母親なのだ。 娘に必要な教育を与えなかったと親族から笑われるのは、娘本人ではなく、母親なのだから。
母親が行動を起こすきっかけは、たいていいつも、自分が他人にどう思われるかという思考に支配されている。
ピアノを習いはじめてからしばらくたって、佳織に音楽的な才能があるとわかると、母親はとても喜んだ。 「佳織ちゃんは、吉澤一族の期待の星ね」と、親族の集まりのたびにいわれるのは、とても気分がいいものだったのだろう。
自分が上手にピアノを弾くと、母親が喜ぶ。
幼い子供がピアノを好きになる理由に、これ以上説得力のある理由など、ちょっと他にはない。
佳織は一生懸命ピアノの練習にはげみ、成果はちゃくちゃくと積み重ねられていった。
コンクールでは、いつも入賞。
発表会でも、必ずプログラムの最後を飾る模範演奏を求められる。
そんな経験をくりかえしながら、高校生になるまでは、いつかそのうち自分はプロのピアニストになるのだろうと、佳織は思っていた。
それが、あたりまえだと。
そのころには、ピアノの練習にのめりこむ理由が、母親の理不尽な要求から逃れるために、変化してしまっていたけれども。
それでも、もう自分とピアノは、切り離せない関係になっていた。
いまさらピアノを弾かない自分が、どんな生き方をするかなんて、考えられなくなっていたのだ。
佳織は、じっと、キッチンのカウンターの上に置かれた母親の手料理を見つめた。
母親は、いつも娘のために手作りの料理を準備してから、遊びに出かけていく。
母は母なりに、娘を愛してくれてはいる。
ただ、佳織のほうが、母親の生き方に、共感できなくなっているだけなのだ。
退屈を嫌悪し、いつも楽しい暇つぶしを探して生きている。 そんな母親の人生は母親自身が選んだものであって、それに自分を巻き込まないでほしいと、いまの佳織は思っている。
冷めて固まってしまったグラタンの皿から、システムキッチンの家電棚に収められたオーブンへと、視線を移す。
オーブンを暖めて、グラタンを焼き上げるまでにかかる時間は、ざっと20分というところか。
海老のグラタンは好きだけど。
あんまり、お腹は、空いてないな。
さきに、ピアノの練習をしようかな。
そんなことを考えながら、もう一度、大きなため息をつき、佳織は自分の部屋がある二階へのぼっていった。
佳織の部屋は二階の南側で、家の中でいちばんいい場所にある。
一人娘の自分は両親から、とても甘やかされて育ってきたのだということは、佳織にもよくわかっている。
最近では、そのことを、厳しく意見してくれる人もいるし。
自分の部屋のドアを開けると、その厳しい人が、宙の一点をにらんでいる姿が目に飛び込んでくる。
薄暗いところでそれを見ると、いつも佳織は、どきりとする。
一時間ほど前に「じゃあね、また明日」とわかれた、その人の気配を、感じるような気がしてしまうから。
ドアのわきの壁を手探りしてスイッチを探しだし、部屋に明かりを灯すと、その人の気配は消えてしまう。
かわりに、明るくなった部屋の正面の壁には、男の子が二人で映っている特大のポスターがあらわれる。
去年、学校の文化祭で、クラスの出し物の音楽喫茶を盛りあげるために使った『こころ、はるかに…』という人気ドラマの、サウンドトラック盤宣伝用ポスターだ。
あたりが暗いときには、佳織の目には、一人の男の子しか見えない。
それは、ピアノをはさんで立っている二人の男の子のうち、一方の男の子のほうが、暗がりでもよく目立つ、白いシャツを着ているせいなのか。
それとも……。
白いシャツの男の子は、宙の一点を、にらんでいる。
なぜ、こんなに怖い顔で写った写真がポスターになったのかと本人にたずねてみたら、カメラが苦手で、とうとう撮影が終わるまで、まともな笑顔を作れなかったからだという。
しかもそのあと、「今後、このポスターのことを話題にしたら、おまえとは絶交だからな!」と宣言されてしまい、佳織は大笑いしたのだけれど。
いまでは、このポスターの彼の厳しい表情から、佳織は別のものを感じている。
大好きな音楽にむかって、いつも真剣にかかわろうとする彼の態度は、そばで見ていると、痛々しいくらいだから。
そんな彼と出会ったせいで、佳織も自分と音楽の関係を、みつめなおすことになった。
彼の音楽を聴いていると、苦しくて、息がつまった。
いままで築いてきた、自分の音楽のすべてを、否定されたような気がしたから。
きみは、本当に音楽を愛しているのかと、問いかけられているように思えたから。
そして、苦しみながら、なにかをつかもうとして、いつも悩んでいる彼を理解したくなった。
いまも、せつなく、胸が痛む。
彼と出会ったから、自分は変われた。
音楽とピアノを、心から愛せるようになった。
ポスターをみつめながら、そっと、つぶやいてみる。
「渡辺くん……」
それが、彼の名前。
友達より親しい存在だけれど、まだ、それ以上には、なれない人。
だから、彼のことは、まだ苗字でしか呼べない。
それに、彼は音楽に夢中で、他のことには気がまわらない。
いま、佳織が彼に思いを打ち明けたりしても、彼はこまるだけだろう。
でも、それでいいと、佳織は思っている。
この気持ちは、まだ胸の中に、暖めておけばいい。
ひたすらまっすぐな彼だから、佳織は彼に、惹かれているのだ。
着替えをしようと制服の上着をぬいだら、ポケットの中で、セロファン紙がこすれる音がした。
ポケットの中から、小さな包みを取り出してみる。
セロファン紙の袋の口には、女の子が喜びそうな ちっちゃな造花と、赤いリボンが、あしらってあった。 袋の中身は、ミルキーな色のキャンディだ。 バレンタインデイのお返しとして、今日、彼からもらった。
ていねいにリボンと造花を外して袋を開け、ピンクのキャンディをひとつ、口に入れてみた。
ヨーグルトとイチゴの味が、口の中に広がる。
甘くて、すっぱい。
これは、恋の味?
なんてね。
佳織は、くすくすと、一人で笑った。
この味は、恋の味というよりは、むしろ、暖かな幸せの味かもしれない。
彼はいったい、どんな顔をして、このかわいいキャンディの包みを買ったのだろう? 学校からの帰り道、渋谷あたりの駅ビルの店でもうろついて、これを見つけてくれたのだろうか。
そんなことを想像するだけで、佳織はうれしくなってしまう。
口の中でキャンディを転がしながら、制服を脱いで部屋着に着替えた。
はやく階下へおりて、練習室のピアノに触りたい。
いまの気持ちのままで奏でる音は、きっと優しい音だろう。
音に気持ちを託すすべを、教えてくれたのも、そういえば彼だった。
いまも、身のまわりには、いろいろと嫌なことがあったりするけれど。
でもきっと、なにがあっても、わたしは一生、音楽を愛していく。
その思いは、キャンディの甘い記憶とともに、佳織の心の奥深くへ、刻まれていった。
だれもいない静かな家の階段を、佳織はおりていく。
「渡辺くん、キャンディ、おいしいよ。 どうもありがとう」と、つぶやきながら。
階段をおりたら、リビングのとなりにある練習室へ入り、ピアノの前にすわる。
そのあと佳織のピアノから流れ出た音は、やっぱり、とても優しい響きの音だった。
― End ―