小林さんが
そういうのって、企画する側にも、悪だくみをするみたいな楽しさがあるんだろう。
「チケットを、もう一枚お願いします」と千葉さんに電話したら、
演奏会当日、俺と詩文は吉澤をつれて、渋谷にある中規模劇場へいった。
正確には、つれていってもらった、だ。
帰りが遅くなるのを心配した吉澤の親父さんが手配してくれた、ヨシザワ・ミュージックの運転手つき役員送迎車に、乗せてもらっていたからな。
ほんと、吉澤は正真正銘の、お嬢様だ。
劇場にはいった俺たちは、もの珍しさに、きょろきょろしちゃったよ。
こういう演奏会場は、初めてだった。
演劇やアコースティック音楽にも対応できる設計で、スタジオ型の空間にバルコニーをめぐらせたような、かわった雰囲気の劇場なんだ。
内装も黒中心で、ちょーモダン。
小林さんって、オーケストラの前でチャイコフスキーを弾いたり、リサイタルでバルトークの打楽器みたいな前衛的な響きで聴衆を圧倒したりするだけじゃないんだな。
でさ、俺は このコンサートに、三人で来るはめになったことを、ちょっぴり、ありがたいと思っていた。
俺と詩文のあいだは、あれからまだ、気まずいままだった。
それでもって、無理いって もう一枚と頼んだチケットは、最初に手配してもらっていた席から、かなり離れていたんだな。
女の吉澤を一人で座らせるわけにはいかないから、レディファースト精神をフランスでたたきこまれてきた詩文が、当然って顔をして、自分の席を吉澤にゆずったんだ。
吉澤も、遠慮ひとつみせずに、「どうもありがとう、詩文くん」って、にっこり笑って、俺のとなりに座りやがったし。
あーあ、苦手な女のとなりの席に納まって、ほっとしている俺って、バッカじゃねえのって感じだ。
みじめだー。
でも、コンサートは、最高に楽しかった。
小林さんは、お客さん相手のおしゃべりもうまかった。
たくみに、曲にまつわるエピソードとか、楽器のこぼれ話なんかをして、客席を笑わせる。
それに、出演者も
ヴァイオリンは、若手売れっ子の柳井俊介と高梨幸人。
ヴィオラは、S響の主席でセミナーなんか主宰している、教師としても有名な三田明。
チェロが、よく小林さんとジョイントコンサートをする山内喜和子。
ゲストが、ハーピストの諏訪さやか。
前半は、ピアノ五重奏やハープの独奏なんかで おだやかに終わり、休憩のあと、千葉さんがステージに登場した。
お客さんは、大喜びだった。
だって、ステージの後方には、最初から4台のティンパニが、セッティングされていたんだもん。
あれ、まだ使わないのかなーって気分が、劇場中に満ちていたんだ。
最初、ひとりで出てきた小林さんが、チャイコフスキーの『四季』って曲集のなかから、優しい雰囲気の小品を弾いた。
客席がほっこりとした気分に包まれたところで、ステージの後方で、なにかが始まる。
「ちょっと、千葉さん」
マイクをにぎった小林さんが、千葉さんに話しかける。
いま、忙しいというそぶりで、千葉さんは小林さんを無視。
ティンパニに耳を近づけて、必死に音程を調節しているんだ。
よく オーケストラの演奏会で、みかけるだろ?
チューニングピンを微調節しながら、こっそり音程をなおしているティンパニ奏者。
「もう、後半のプログラムが、始まってるんだけど」
「あ、いいです。 どうぞ、先に進めてください」
「あなた、今日のコンサートの、ゲストでしょう」
「でも、これ、やっちゃわないと」
千葉さんが たたくティンパニの音が、だんだん大きくなる。
会場、大爆笑。
そこですかさず、小林さんが客席に、ふりかえってさ。
「みなさん、本日お二人目のゲストを、ご紹介いたします。
東都交響楽団主席パーカッショニスト、千葉義則さんです」
拍手爆発。
千葉さんと小林さんの掛け合いが、漫才みたいで、めちゃくちゃおもしろかったもん。
「たまには毛色の変わったゲストに来ていただきたいなと思っていましたら、偶然、つかまえちゃったんです。
千葉さんは、アメリカの楽団でご活躍されていたのですが、先日、東都交響楽団の渡辺隆明先生にご指名をうけて、帰国されたばかりなんですよ」
おおと、客席がどよめく。
渡辺隆明の名前が、でてきたんだからな。
「わたしね」
小林さんが頭をかく。
「おもしろそうな演奏家さんにお会いすると、すぐに 『 いっしょにやらない?』と声をかけるものだから、最近、スカウトマン小林って、呼ばれているんです」
また会場が、爆笑する。
おもしれー。
「さあ、準備、できました。 これで演奏できますよ!」
千葉さんが、ティンパニから顔をあげる。
「まだ、やってたんですか?」
小林さんのあきれた顔のせいで、もう、俺たち、笑う、笑う。
「まあ、そういわず。
ティンパニっていうのは、音程がむずかしい楽器なんですよ。
このとおり、大きな太鼓でしょ?
ちょっとの温度の差で、音の高さが、どんどん狂っていっちゃうんです。
日本じゃ、夏と冬の温度差が大きいでしょう?
そのあいだ、ティンパニの皮膜の大きさって、2センチくらい、伸び縮みするんです。
音程にしたら、2センチのちがいって、1オクターブくらいになるんですよ」
トリビア的知識の
「まあ、それは、本革をはったティンパニの話ですけれど。
いまじゃ、その扱いにくさから、本革をはったティンパニを使ってるオーケストラは、世界中でも数えるほどしかありません。
東都響でも、プラスチック皮膜のティンパニを使っていますね。
しかし、プラスチック皮膜のティンパニは、音がドライで悪目立ちしやすいから、演奏家としては、めちゃめちゃ気を使いますよ。
オーケストラは、50人から100人の演奏家で成り立つ団体でしょ?
しかも、その全員が音楽のプロだから、へたな演奏をすると、あちこちから文句がくるんですよねー」
「わかるわー。
じつは、コンサートの一番の批評家って、いっしょに演奏している仲間なのよねー」
小林さんと千葉さんは、同時に、ため息をついた。
絶妙のコンビネーション!
俺は笑いながら思った。
ひょっとしたら、千葉さんと小林さんって、プライベートでも、そうとう親しいんじゃないかなって。
小林さん、千葉さんのこと、練習場まで迎えに来たりしてたしなあ。
そのあと、
この部分ってさ、ティンパニの超絶技巧を披露するみたいな作りなんだよね。
ティンパニがバス声部、ハープがハーモニー、ビオラがメロディーを受け持って、素朴な異国の民謡を歌い上げるんだけど、その歌の間にティンパニ奏者は4台のティンパニをつかって、10個の異なる音を鳴らさなきゃいけない。
現代のティンパニには、音程をかえるペダルがついていて、その足技を駆使して、なしとげる偉業なんだけどね。
歌にあわせて音程を変えていかなくちゃいけないから、失敗すると悪目立ちするし、美しい歌自体も台無しになる。
演奏するティンパニ奏者は、崖っぷちに立たされている気分になるんだってさ。
あらかじめ、そんな解説を入れてもらっていたから、客席は興奮した。
千葉さんは、ものすごく難しいことを、なんでもありませんって涼しい顔で、やってのけるんだもん。
これが、プロの仕事ってものだ。
ほかの名曲こぼれ話も、おもしろかったぞ。
舞台の
それで、最後の曲が、圧巻だった。
ティンパニのために書かれた現代曲が、全曲演奏されたんだ。
千葉さんのティンパニもすごかったけれど、もっとすっげーのが、伴奏の小林さんのピアノだよ!
俺は、ピアノの表現力というものに、あらためて
ピアノは、いったん出してしまった音をフォルテできない楽器なのに、小林さんのピアニズムは、そんな欠点なんかものともせずに、オーケストラの鳴りを表現するんだ。
なんて存在感なんだろう。
ペダリングがすばらしいので、音の陰影が奥深い。
力のない女性がよく弾く、鍵盤と音の出る本体が遠く離れたような、ダイナミズムの物足りなさなんて、微塵もない。
そこらの男なんか、
俺も、こんなピアノを弾きたい。
繊細な単旋律から、フルオーケストラの表現まで、幅広い、スケールの大きな演奏ができる、そんなピアニストになりたい。
何度、背筋に悪寒が走っただろう。
それくらい、千葉さんと小林さんの演奏は、ショッキングなものだったんだ。
終演後、ロビーで詩文と落ちあったあと、俺たちは楽屋へいった。
正式な招待をもらったからには、楽屋見舞いは、かかせない礼儀だ。
出演者たちは大部屋に集まっていて、舞台衣装のままで、メチャ楽しそうに、しゃべっていた。
気の合う仲間で集まってコンサートができるなんて、音楽家
でも、これをやってお客を呼べるのは、小林さんたちだからであって、たとえば俺とリードがヒデの曲を演奏するとしたら、学校の文化祭のステージが、せいぜいなわけだ。
世間に認められるには、どうしたらいいんだろうな。
そもそも、俺に、ここにいる人たちの仲間入りを果たすだけの力が、あるんだろうか。
売れない音楽家の末路なんて、悲惨なもんだ。
音楽大学の周辺には、とても生活自立は不可能な状態で、いまだ勉強中の30歳なんて、ごろごろしている。
俺がそうならないと、どうして いえる?
あ〜あ、また自分の将来かよ。
悩みだしたら、ドツボだぜ。
千葉さんが俺たちに気づいた。
「夏海くん、チケットもう一枚って、彼女を連れてきたかったのか!」
千葉さんが
俺は大声で否定する。
「クラスメイトだよっ! 小林さんの大ファンだって、無理やりついてきたんだ!」
「きゃあ、かわいい。 赤くなってるぅ」
そういったハーピストの諏訪さんは、17歳のときにフランスの国際コンクールで優勝して、脚光をあびている新進演奏家だ。
たしか、いまはW大に籍があって、頭もめちゃくちゃいいんじゃなかったけ?
スタッフと話をしていた小林さんが帰ってきた。
主宰者って、なにかと大変なんだな。
「夏海くん、詩文くん、いらっしゃーい」
「こんばんは。 とっても楽しいコンサートでした。
ご招待ありがとうございました」
ちぇっ、また詩文に先を越されて、あいさつされちまった。
俺だって、ちゃんとあいさつくらいしようと、思ってたのに。
小林さんは、あでやかに笑う。
「楽しかった?
それが第一目的のコンサートだから、嬉しいわ。
そちらの、かわいらしいお嬢さんは、どなた?
夏海くんの彼女?」
もう、彼女、彼女って、うるさいな。
どうして みんな吉澤のことを、詩文の彼女じゃなくて、俺の彼女だと思うんだろうか。
「こいつは同級生の、吉澤佳織。
ピアノを専攻しているもんで、小林さんに紹介しろって、強引についてきたんだ」
「いやだわ。 渡辺くんたら、そんな紹介のしかたがあって?
吉澤佳織です。 小林先生の大ファンなんです。
お会いできるのが嬉しくて、昨日の夜は良く眠れませんでした」
――紹介のしかたがあって? だと?
なんだよ、吉澤。
その、天使の笑顔はよー。
俺の前では、いつだって気が強い、悪役顔なのに。
「すてきな お嬢さんね。 夏海くん、学校が楽しいでしょ?」
「べつに」
「夏海は女の子がいっしょだと、いつも
大人たちが、どっと笑った。
詩文め、あとで、覚えてろよ!
ヴァイオリニストの柳井さんが、訳知り顔でいった。
「今日はきみたち、学校から直行かい?
その制服、常盤音大付属だろ?
夏海くんは、常盤音大谷崎門下三羽カラスのうちの一人って、いわれてるんだよね」
俺はふくれた。
「あんなの、まわりがおもしろがって、いってるだけだ」
「おお、クールだねえ」
柳井さんも、大学在学中に国際コンクールを転戦してまわって、いろいろと入賞してきている人だぞ。
むかしは色男だったけど、太ったなあ。
忙しくて外食ばっかりって、パターンかも。
他人の経歴を気にしていたら、ため息がでちゃった。
「俺、自分の将来とかいわれると、頭が痛くなってきちゃうんだ。
音楽が好きなだけじゃ、だめなんだよねえ、やっぱり」
「おや、なかなかに深刻じゃないか」
俺は千葉さんにいった。
「ねえ、参考までに、聞かせてもらえないかな?
千葉さんたちは、俺たちの年代のころ、将来のこととか、どういう風に考えてた?」
千葉さんは、首をひねった。
「どうって、そうだなあ。 これは難しい質問だから、年の順でしゃべらない?」
「ええっ、じゃあ、ぼくからじゃないですか」
身につけた教養を匂わせる、おだやかなしゃべり方をするヴィオリストの三田さんが、苦笑した。
「そうですねえ。
ぼくは親が、やはり音楽家で、物心ついたら、すでにヴァイオリンを弾いていたのですが。
きみたちくらいの年代のころは、音大へ行くかどうかで、悩んでいましたね。
親の姿をみていて、音楽家というのは、物質的にも、精神的にも、大変そうだなあと思っていましたから。
けっきょく、他にやりたいこともみつからず、音大へ入りましたけれどね。
本格的にプロになろうと思ったのは、大学でヴィオラと出会ってからですねえ」
「やっぱり、大変ですか?」
「大変ですねえ。 つぎ、小林さんですよ」
「あら、さりげなく、歳がばれるわねえ」
やっぱり小林さんって、若くみえるけれど、千葉さんより年上か。
高校生のお嬢さんが、いるんだもんね。
「わたしは、このあいだ、話したじゃない。
親のいいなりに、自分はピアニストになるんだって思っていたけれど、その実なにも、覚悟なんか決まっていなかったのよね。
このままじゃ自分はダメになるって、一念発起したのは、18歳のときよ。
親元からとにかく離れなきゃって、強引にロシアへ留学したの。
当時のロシアって、経済危機のまっただなかよ?
真冬に電気や暖房が止まって、死ぬ思いをしたわ。
いまの、わたしの『ど根性』は、シベリアの風に、はぐくまれたものなのよ」
みんなが爆笑した。
経済危機のまっただなかにあるロシアの冬の生活なんて、命にかかわるものだったんだろうに、ちっともそんな感じがしない。
小林さんって、底ぬけに明るいんだな。
「さあ、つぎは、山内さんよ」
「ええっ、嘘でしょ? 千葉さんよ〜」
「ぼくは、××年生まれだもん」
「いやーん、歳がばれるじゃないの。
具体的に、数字でいわないで欲しかったわ」
きゃあきゃあ騒いでから、山内さんは首をかしげた。
「そうねえ、高校生くらいのとき?
ヨーヨー・マの演奏に、夢中だった。
来日すると、必ずコンサートにいって、必死で辞書をひきながらファンレターを書いて、部屋にポスターはって、まねしてピアソラなんか弾いてみたりして。
彼のサインが入ったドボコン(ドヴォルザークのチェロ協奏曲)の楽譜が、いまだにわたしの、宝物だったりするのよねえ。
マーさま、すいぶんお年を召されたけれど、よぼよぼになっても、わたし、おしたいすると思うわあ。
つぎ、千葉さん!」
「どうしても、プロになりたかった」
かんばつ入れずにくりだされた、千葉さんのひと言で、浮ついた空気が、いっぺんに冷えた。
「まいったなあ、そんなにマジに、受け取らないでよ」
あわてた千葉さんは、手をふりまわした。
「夏海くんは、そのあたりの事情を、知っているじゃないか。
親父の反対を押し切って、音大へ行こうとしてたんだぜ?
ぼくの親父って、太鼓なんかで食っていけるか。
高校を卒業したら、さっさと寿司屋の修行をしろっていう親父だぜ?
実際、太鼓で食べていくのは、そうとう難しいんだって、タカ先輩からも、アドバイスをもらっていたし。
絶対にプロにならなくちゃって思いこんでいて、あのころのぼくには、本当に余裕がなかった。 目先のことだけで、精一杯だったよ」
柳井さんが話をひきとった。
「ぼくもですよ。
コンクールにいくつか通って、仕事をもらえるようになったものの、自分がいかにものを知らないかってこと、思い知るだけの毎日で。
つらかったなあ、あのころは」
「そのへん、諏訪さんなんか、現在進行形で青春まっただなかでしょ?
新鮮なところを、聞かせてあげたらどう?」
千葉さんから、そういわれた諏訪さんは、持っていたハンカチを、こねまわした。
「え〜、こまったなあ。
わたしも、なにも考えてなかったんですよ。
うち、母が演劇やら、ミュージカルやらが、大好きで。
お稽古事に理解があって、やってみたいっていったら、ハープを買ってくれるようなうちで。
好きだけでフランスへいったら、どういうわけか、賞が取れちゃったんです。
いま考えると、そういう伸び伸びとしたところが、審査員には新鮮だったんじゃないかしら。
わたし、じつは、いまの演奏のほうが、うまくやりたいとか、こう表現したいとか、いろいろ考えちゃってダメだなあって、思ってるんです。
だから、音楽だけじゃなくて、もっといろんなことを勉強しようと思って、あえて普通の大学へ、進学したんですけれど」
「えらい! 一番若い諏訪さんが、一番まじめに取り組んでるじゃないか!」
千葉さんが入れた茶々に、大人たちは、みんなで爆笑した。
俺は、よけいに分からなくなった。
「ええと、一番知りたいのは、プロになる決意をした理由なんだけれど」
しばらくの沈黙のあと、小林さんがいった。
「好きだからの、ひと言に、つきるんじゃないかしら」
静かな拍手が、大人たちのあいだに わいた。
「ほんとに、それだけで、いいのかな?」
千葉さんが、うなずいた。
「いいんじゃない?
クラシックの演奏家で、人もうらやむようなお金もうけができる演奏家は、たぶん、世界中かき集めても、100人もいないと思うよ。
あとのほとんど全員は、むくわれないなあと、思っているんだ。
それでも音楽家でいたいのは、好きだからじゃないの?」
小林さんが優しく笑った。
「そうよ。 売れないのもつらいけれど、そこそこなんていう、わたしのレベルじゃ、自宅には一週間以上つづけて居つけないし、旅行中も、たいして快適なホテルに泊まれるわけじゃないし。
農協主催のコンサートを引き受けちゃったときなんて、お客さんに退屈されちゃって、客席で、おせんべいを食べられちゃったことだって、あるんだから。
物静かな楽章で、あたりに、おせんべいを食べる音が、ぱりん、ぱりんって、響いてねえ」
また大人たちが爆笑する。
演奏家を、10年、20年とやっていれば、そんな体験のひとつやふたつ、みんなあるんだろう。
「地方の無個性なビジネスホテルのベッドの上で天井を見て、こんなはずじゃなかったって思ったの、一度や二度じゃないわ。
それでもこりずに今日もピアノを弾いているのは、ただただ、好きだからなのよ」
「それともなにか?
夏海くんは、演奏家には全人類を幸福に導く使命があるとか、音楽を通じて人間を哲学的に探求しなければならないとか、そういう精神性が、もっとも大切だとでも、いうのかい?
そんなこと考えていたら、シューマンやヴォルフみたいに、心の病気になるぞ〜」
「ちょっと、千葉さん。
ほんの少しは、そういうエッセンスも、必要なんじゃないの?」
また、小林さんと千葉さんが、絶妙の掛け合いをみせる。
いつのまにか、小林さんは千葉さんのとなりに納まって、千葉さんの腕をゆすったりしてるしさ。
これって、やっぱり……。
「いいわね、好きなことを一生やってられて。
でも、まわりが巻き込まれる迷惑ってのも、ちょっとは考えて欲しいわ。
芸術家をきどれば、なんでも許されるってわけじゃないんだから」
俺たちが盛りあがっている外側で、だれに聞かせるでもない独白風につぶやく、声がきこえた。
小林さんが、こわばった。
「美奈、やめてちょうだい」
「あら、きこえちゃった? ごめんなさい。 ひとりごとなの」
「美奈!」
母親が子供をとがめる口調になった小林さんを、美奈さんはするどい目で見すえたあと、空気の中を泳ぐようにして、出口の前にたどり着いた。
すぐに
「先に帰ってる。 どうせ打ち上げだとかで、今日も遅くなるんでしょ」
でていく美奈さんのあとを追おうか追うまいか迷った小林さんは肩を落とし、のぞき見してはいけない親子間の葛藤を見せられてしまった他の人たちは、みんな遠慮がちに、小林さんから視線をはずした。
「ごめんなさいね。 難しい年頃で。
あの子が高校生になったのを機会に、わたしが海外活動にも力を入れだしたのが、気に入らないらしいの。
いつまでも赤ちゃんで、こまっているのよ」
「気にしないで。
それより、今日は早く帰ってあげたら?
ぼくらも気が利かなかったよ。
あとかたづけくらい、ひきうけるから」
「でも……」
「いいから。 ほら、したくして」
千葉さんは、小林さんを、廊下へつれだした。
シリーズコンサートの常連出演者である三田さんと山内さんはイベント企画会社の人との連絡にでてゆき、ゲストの諏訪さんたちは、自分の帰りじたくをしにいってしまう。
吉澤が、俺のとなりで むくれていた。
「一回レッスンをお願いできませんかなんて、いえる雰囲気じゃ、なくなっちゃったわ」
おい、さっきの天使の笑顔は、どこへやったんだよ。
「しかたないだろ。 俺たちも、帰ろうぜ」
「ええっ? お茶くらい飲んでから帰りましょうよ」
「なにいってんだよ。
おまえ、親父さんの会社の車が待ってるんだろう?
お嬢様のお遊びにつきあわされてる、運転手さんの迷惑も考えろよ」
「彼だって、仕事よ!」
「親父さんの接待につきあって遅くなるのは仕事だろうけど、おまえの夜遊びにつきあうのは、ただの迷惑だね!
つべこべいうな!」
俺は、キーキーいう吉澤を無視して、帰りますって声をかけようと思って、小林さんの楽屋の前にいった。
立ち聞きなんかするつもりはなかったと、断言する。
でも、聞こえちゃったんだ。
「ごめんなさい、義則さん」
「いっただろう。 いまは、美奈ちゃんの気持ちを、一番に考えてあげなくちゃ」
「でも」
「ぼくの忍耐は、証明済みだろ?
いまさら、待つのは嫌だなんて、いわないよ。
こうやって、日本にも帰ってこれたしさ。
ぼくは、たまに美由紀さんと会えれば、それでいいんだから」
俺はあわてて、通用口に通じる階段の前で待っている、詩文と吉澤のところへもどった。
吉澤のやつは、あいかわらず高飛車だ。
「あなた、扉の前で聞き耳なんか立てちゃって、なにやっているのよ」
「いや、なんだか、こみいった話を、してるみたいだから」
「小林さんのお嬢さんって、わがままなのね。
母ひとり子ひとりって、やっぱり、いろいろあるのかもしれない」
「離婚とかか?」
俺は、少なくとも千葉さんの恋愛が、不倫じゃなかったようなので、ほっとした。
でも、吉澤の説明には、ぎょっとしたぜ。
「小林さんは、ニューヨーク時代に、私生児を生んでいるのよ。
日本の楽壇って、そういうところには
いまは実力で、有無をいわせないところまで来たんだから、たいしたものだと思うわよ。
恵まれた環境にいながら、ぐずぐず迷っている渡辺くんなんか、小林さんの爪の垢のひとつでも、もらったらいいんだわ。
演奏家として生き残るためには、小林さんみたいに、不屈の闘志を持っていなくちゃいけないんだから!」
俺は、小さく「そうかよ」としか、答えられなかった。
吉澤のいう闘志と、小林さんのがんばりって、少し質がちがうような気がするけどなあ……。