谷崎先生と別れて、俺たちが家に帰り着いたのは、かなり遅い時間になってからだった。

妹の春海が、もう寝てしまったせいなのか、家の中は静かだ。

リビングの食卓で、お茶漬けを食っていた詩文と千葉さんも、小声で話していたしな。

「おかえり〜」

詩文は明るく俺たちを迎えてくれたけれど、俺はきつい目で、やつをにらんでしまった。

「あれ、あれ、どうしたんだ?」

千葉さんが、こまっている。

「ごめんね、千葉さん。 今夜の夏海は、きっと最悪の機嫌だと思う」

その詩文のいいようが、俺の腹立ちを倍にする。

すました顔をして、またお茶漬けを、すすりやがるし。

「なんで、おまえ、かくしてたんだよ」

「なんのこと?」

「雑誌の記事のこととか、演奏会の予定とか」

「だって、基本的に、夏海には関係ないことじゃないか。
ぼくたち、いつもいつもいっしょに、仕事をするわけじゃないだろ?」

「そりゃそうだけど!」

「ぼくの将来のことを決めるのに、夏海の意見なんか、いちいち聞かないよ」

なんていいぐさだ。
俺たちは、仲のいい、従兄弟同士だったはずなのに。
打ち明け話のひとつもしてもらえない、そんな関係だったのかよ?

俺は(こぶしを固くにぎった。

そうしないと、支離滅裂(しりめつれつなことを、わめき散らしてしまいそうだった。

詩文の茶碗が食卓におかれる。

「とにかく、今夜は、ぼくだって大変だったんだ。
そこにあるプレゼントの山、半分は夏海あてだから。
バレンタインデイだから、チョコレートが、ずいぶんあるみたいだよ」

いわれたほうを見たら、リビングの一角が、花束と紙袋で埋まっていた。

千葉さんが、いかにも疲れたという調子で、肩をたたきながらいう。

「タクシー一台じゃ、そのプレゼントの山を、ぜんぶ運べなくてさ。
二台に分乗して、帰ってきたんだ。
これからも、きみたち、演奏会のたびに、こんな騒ぎになるのかな」

「ならねえよ!」

俺は、すごんじまった。

だって、俺にはこれからの予定なんか、ひとつもないんだから。

台所から、婆ちゃんが顔をだす。

「夏海、疲れてるんじゃないの?
支度してきて、お風呂に入っておいでよ。
さっきいったお爺ちゃんは、どうせカラスの行水で、すぐにでてくるから」

喧嘩(けんかをふっかけるんじゃないよって、いいたげだ。

そのときだった。

インターホンが鳴った。

受話器を取りあげて、ひとこと、ふたこと、しゃべった婆ちゃんは、いそいそと玄関へでていった。

「春ちゃ〜ん! 電話、ありがとう! ごめんね、こんなに夜おそく」

「いいのよ〜、智ちゃん。 さあ、あがって、あがって」

かん高い声とともに、リビングへ、お客さんが入ってきた。

なんか、ディジャブー。

だって、千葉さんが、フリーズした。

「よしのり〜ぃ!」

お客さんは、寿司政の女将さんだった。

ようするに、千葉さんのお母さんだ。

寿司屋の女将さんらしく、(かすりの着物を着ていて、手に、たたんだ割烹着(かっぽうぎと紙袋を持っている。

そして押しも強く、千葉さんの前にすわる。

思わず立ちあがりかけた千葉さんは、退路をふさぐみたいな形で通路側にすわった うちの婆ちゃんに、すわんなさいと、引っぱられた。

「はーい、これ!」

女将さんは、千葉さんの前に、紙袋の中身をとりだして積みあげた。

詩文と俺は、それをのぞきこんだ。

「これ、写真?」

「見合い写真じゃねえの?」

「そうよー」と、女将さんは、さらにかん高くなった声でいった。

「うちのお父さんの怒りを静めるには、これが一番だと思うのよ。
義則ってば、昨日は逃げちゃったから。
春ちゃんに、義則が顔をだしたら、すぐに呼んでちょうだいって、頼んでおいたの。

さあ、見て、見て。
義則ったら、もう36なんだから。
早いところ結婚して、孫でもできれば、お父さんも、きっと許してくれるわよ。
いうじゃないの」

女将さんの高い声で、演歌の一節が歌われる。

「どうしてこんなに、かわいんだ、孫ってやつはよ〜♪」

「そうそう、子は(かすがいってね!」

婆ちゃんが、嬉しそうに同意する。

女将さんは、うっとりといった。

「春ちゃん、孫って、やっぱり、かわいい?」

「かわいいわよお、智ちゃん。 こんな、お馬鹿な孫でもね」

って、婆ちゃん、俺の頭をなでるなよ!

うーと、千葉さんがうなった。

これは、写真を見ないことには、解放してもらえないな、きっと。

「ほら、このお嬢さんなんかどうだい?
30歳で、ちょっとトウは立っちゃってるけど。
池田学園短大の音楽教育科を出て、音楽教室の先生をしてるんだって。
音楽家の生活に、理解ありそうじゃない?
またアメリカへ行くことになっても、ついてきてくれるって」

婆ちゃんも、負けてない。

写真の中から、ひとつを取りだして、広げてみせる。

「この話は、わたしがお客さんから、預かってる話なのよ。
銀行へお勤めでね。 英語、ぺらぺらなんだって。 美人でしょ?」

なるほど、女ばかりの手芸教室で話題になるのは、息子や娘の縁談ってわけか。
婆ちゃんも、世話好きだからなあ。

「おとなしめの子がよかったら、この子よ。
クリーニング屋のナオちゃん、覚えてる?
義則が小学校の通学班長をしていたとき、一年生にいたでしょう?
お下げ髪の、おとなしい子!」

寿司政の女将さんが三つ目の写真を広げたところで……。

うげー、三階へ行って着替えをすませてきた、うちのお袋までが、いそいそとちかよってきて、話に参加しようとする。

「あらー、だめよ、おとなしい子なんて。
また義則くんが海外へ行くことになったりしたら、ノイローゼになっちゃうわよ。
はっきりものをいえるタイプでなきゃ」

千葉さんは不機嫌な顔で、じゅんじゅんに写真をとりあげた。

「音楽教室の先生かぁ。
ガキの相手もあきたから、生活環境を一変させてくれる相手を待ってます、みたいなタイプだな。
夢見がちな女って、期待を裏切ると怖いんだよな。
結婚なんて、現実のかたまりなのに」

つぎの写真。

「おー、すごいっ!
エリート社員の男と対等にやってきて、ちょっと疲れたって感じか?
プライド高そうだなあ。
一流大卒をかさにきて、頭の悪い男を軽蔑しているタイプだな。
俺の毛色がちょっと変わってて、人に自慢できそうだから、見合いを承知したんじゃないの?
こんなのと結婚したら、学歴がないってだけで親父やお袋のことを馬鹿にしまくるだろうから、不愉快だ」

三枚目。

「俺、ブスはだめ!」

ひ、ひどい!

千葉さんがいいたいことも、わからないでもないけれどさ。

でも、「ブス」は、まずいだろうに。

大人の話を聞いていると、愛が前提(ぜんていでない結婚って、こんな妥協(だきょうの産物なのって、俺、未来に希望が持てなくなっちゃう。

女将さんが、深いため息をついた。

「義則。 おまえは、そうやって、けちばっかりつけて。
そんなことをいっていたら、今時、36歳の男に、相手なんかみつからないわよ」

「べつにいいよ。
俺は、結婚っていうのは、究極(きゅうきょくの信頼関係が行き着く姿だと、思っているから」

「結婚してから、育つ信頼もあるよ?」

また俺のお袋が、話に割りこんだ。

「うちのお爺ちゃんと、お婆ちゃんなんて、おたがいに好き勝手やってるでしょ?
でも、根っこじゃ信頼があるから、夫婦なわけで」

「あらやだ」と、婆ちゃんが切りかえす。

「あたしとお爺ちゃんは、いまでいうデキ婚よ。
しまったと思ったときには、もう加奈子が、お腹にいたんだもん。
お爺ちゃん、若いころはそりゃもう、いい男だったんだから。
あたしってば、顔に(れて、お爺ちゃんに人生を(みつぐことになっちゃったのよ」

「人生貢いだといえば、隆明のところもよね。
エヴァがよくもまあ、あいつのことを、見捨てないでいてくれたもんだと思うわ。
彼女が詩文ちゃんを一人ででも育てる決心で生んでくれなかったら、隆明のやつ、まだぐずぐずと、迷っていたかもよ」

「そうかもしれないねぇ。
なまじブロードウエイでミュージカルが大ヒットして、一生食うにはこまらない状況に、なっていたしね」

俺は、ぎょうてんした。

隆明叔父さんって、そんなに金を、持っていたのか。
ブロードウエイって、ブレイクすると、すごいんだな。
そういえばアメリカのスターって、みんな豪邸に住んでるもんなあ。

お袋は、くったくなく笑った。

「だから隆明は、一生、エヴァに頭が上がんないのよ!」

「頭どころか、いつも彼女が歩いたあとの地面まで、拝まんばかりじゃないの!」

婆ちゃんとお袋の笑い声は、ギャハハと、くずれる。

詩文がつぶやいた。

「ショックだ。
ぼくは、パパとママンが、ぼくが生まれる直前に入籍したのは、フランス流の事実婚を実践していたからだと、思っていたのに。
パパに迷いがあったって、どういうことなの?」

「え?」

「いや、まあ、その……」

大人たちは、いっせいに、詩文に注目した。

気まずい、雰囲気だ。

その雰囲気じたいが、なにかかくしていることがありますって、証明みたいじゃないか。

千葉さんが、とつぜん、ぴしゃりといった。

「とにかく、俺には、見合いなんかする気はないから!」

すかさず、女将さんが懇願(こんがんする。

「これも、ひとつのきっかけと思ってさあ。
会ってみたら、写真の印象とは、ちがったりするかもしれないじゃないの」

俺は考えてしまった。

30を過ぎれば、顔は人間の本質を、語るようになると思うんだけれど。
千葉さんなんかさ、夢を追いつづけているナイーブな青年って、顔をしてるじゃないか。
もう36歳だっていうのに。

気まずい空気は、電子音に破られた。

千葉さんのポケットで、携帯電話が鳴っている。

おたおたと、千葉さんが電話を取りだす。

「はい。
……あ、美由紀さん。
……ええ、どうもありがとう。
……でしょう? 夏海くんは、友達が多いらしくて。
……ええ、伝えておきます。 喜びますよ、きっと。
……ああ、はい。
……へえ、おもしろそうだね。 混ぜてもらえるの?
……もちろん、いいよ。
つぎ、ぼく、降り番だから、一週間くらいなら時間に余裕があるし。
……あはは。
……あははは。
じゃ、そういうことで。
……うん、10時ね。 渋谷の。
……はい、はい。
……はい、わかりました。
……じゃ、お休み」

電話を切った千葉さんは、さきほどとは、うってかわって、ご機嫌だった。

「美由紀さんが仲間を集めてやっている室内楽のコンサートに、ゲストで呼んでもらえることになっちゃった。
とうぶん忙しくてダメだから、その話、ぜんぶ断っておいて。
明日からリハーサルで、木曜日に本番だ」

お袋たちが意気込んで なにかをいおうとしたところに、風呂からでてきた爺ちゃんが。

「婆さん、新しい石鹸、どこだ?」

「ちょっと、お爺ちゃん! お客さんがいるのに、タオル一丁で!」

あわてた婆ちゃんが立ちあがったせいで、千葉さんには逃走ルートができた。

そのすきを逃がすかと、千葉さんが飛びあがる。

「じゃ、帰るから」

俺のほうをむいていう。

「そうそう、美由紀さんが夏海くんの演奏を、とてもよかったって、ほめてたぞ」

そんでもって、あっというまに千葉さんは、リビングから消えた。

あとには、寿司政の女将さんの、でっかいため息が残った。