小林さんの娘さんに対する俺の第一印象は、まちがっていなかった。
中野から世田谷へつくまでの車中の時間ときたら、最高に
小林さんは、千葉さんを助手席に乗せてアメリカ楽壇の噂話に興じ、俺と詩文と娘さんに、後部座席をあてがった。
だけどさ、同じ年頃なら話が弾むだろうっていうのは、大人の理屈だよ。
自分の同じ年頃を、思い出してみろってんだ。
16歳で初対面の異性と話が弾むやつなんて、よほどのお子様か、はやばやと
いや、俺んちの詩文も、女の相手は得意分野だったはずなんだけれども。
こいつがなあ、ヴァイオリンケースを抱いて、早々に寝入っちまいやがんの。
まあ、疲れているのは俺だけじゃないって、ことなんだけどな。
俺は、東京の交通事情を、やまほどうらんだぜ。
夕方の東京を縦断するドライブは、渋滞に巻きこまれたせいで、遅々として進まなかった。
世田谷までは直線距離にして10キロほどしかないのに、たっぷりと一時間、かかったんだ。
そのあいだ、俺は窓の外ばかり見ていた。
相手も
なんだか彼女が、とても不機嫌に見えたのは、気のせいじゃないと思う。
だから、車が桜ヶ丘について、ちょっとだけごあいさつといって玄関先によった千葉さんが、爺ちゃんにとっ捕まって、飯を食っていくことになったとき、俺は、こまっちまった。
爺ちゃんは当然のごとく、小林さん親子も、夕飯にさそったからな。
お袋と婆ちゃんは、家業の手芸屋がそろそろ店じまいの時間なもんで忙しくしていたし、爺ちゃんは夕飯の手配に走ったし、だれがお客さんの相手をするっていうんだ?
やっぱ、俺と、詩文だよな?
俺、もう、小林さんの娘さんと、いっしょにいるの嫌だよ。
詩文は家に帰り着くなり、ちゃっちゃと台所へいってコーヒーメーカーを動かし、茶菓子のセッティングまでを、あっというまに終わらせた。
まるで、このために車の中では寝てましたって感じだ。
そのあいだ、小林さんの娘さんとかかわりたくなくて、あたりをうろうろしていただけの俺は、役立たずそのものだった。
みっともないったらない。
詩文に、「お客さんを座らせてあげてよ!」なんて、しかられるしまつだ。
でも、どこにお客を座らせればいいんだよ?
ダイニングテーブルか、ソファーか、それともコタツか?
俺んちって、冬場はソファーセットの前にコタツが登場する、インテリアにポリシーがない家なんだ。
詩文は、そのコタツのうえに、茶菓子とコーヒーをならべた。
それでやっと、お客さんの座る場所が決まる。
コタツに入った千葉さんと小林さんは、嬉しそうにいった。
「うお、6年ぶりのコタツ!」
「暖かいわねえ」
「海外に長くいるとさ、こういうものが、懐かしくなるんだよね」
詩文は、にっこりと笑った。
「そういうだろうと思ったから、オコタに座ってもらったんだ。
パパがいってたもん。
この家は、自分の心の故郷なんだって。
加奈子伯母さんや、お婆ちゃんが、家を守っていてくれて、いつでも帰っておいでっていってくれるから、外国でがんばれるんだって」
「わかるわ」
といいながら、小林さんは、コタツにかけてあるキルティングのカバーをなでた。
「このコタツカバー、ぜんぶ手縫いだわ。
お姉さんはキルトの先生なんだって、隆明先生、自慢していたもの。
やっぱり、ご家族皆さんに、芸術的なセンスがおありなのね」
芸術的センスって……。
俺は恥ずかしさのあまり、コタツの天板に
俺、お袋のことを、そんなふうに思ったことなんてねえよ。
いつもいつも小言ばかりいう、こうるさい小母ちゃんじゃねえか。
小林さんは、物思いの顔でつづけた。
「いつでも帰ってこられる場所があるって、いいわよね。
わたしは強引にロシアやアメリカへ渡ってしまったから、つい最近まで、実家からは、
このごろ両親も急に歳が気になりだしたのか、2、3年前からやっと、出入りを許してもらえるようになったんだけれど。
やっぱり帰るところがあると思うと、精神的におちついて、あらゆる面でプラスの結果が出ていると思うわ」
千葉さんがうなずく。
「拠点を海外に置いていても、やっぱり自分は日本人で、帰るところがあると思っているのと、そうでないのとでは、精神的な安定度がちがうんだよ」
「そうなのよ」
うーん、大人の世界の話に、なってきた。
俺もいつかは海外へいくときが、くるのかな。
そのときは、同じようなことを、思うんだろうか。
くすりと、小林さんが笑う。
「いいなあ。 隆明先生の、ご実家。 ほのぼのしちゃう」
そして、ねえねえ聞いてと、身を乗り出してきた。
「隆明先生は、わたしの、初恋の人よ!」
千葉さんをふくむ俺たちは、はなじろむ。
こんな美人に、初恋の人宣言をされるなんてさ。
なんだか、叔父さんが憎たらしくなるじゃないか。
そりゃ、隆明叔父さんは二枚目だから、若いころはさそかし、もてたんだろうけれど。
小林さんは、男たちの複雑な表情を無視して、しゃべりつづけている。
「わたし、ニューヨークへは、傷心の逃避行でいったの。
チャイコフスキーコンクールに入賞しちゃって仕事が忙しくなったら、演奏が荒れて、ゆきづまっちゃって。
日本人って、チャイコフスキーのタイトルが大好きでしょ?
自分じゃ納得がいってない演奏でも、ピアノを弾けば、大拍手がもらえるんですもの。
落ち込んで、勉強しなおすつもりで、ニューヨークへいったの。
そのころの隆明先生は、副指揮者をしてらした楽団の音楽監督と折り合いが悪くなっていて、ステージからしめ出されて、荒れていらしたのよ」
「その話、パパから聞いたことがある」
小林さんは、詩文にむかって、
「隆明先生と対立していた音楽監督は、世界中の楽壇に影響力のある大物だったの。
彼と対立関係にあったら、どこの楽団も、隆明先生とは仕事をしない。
ニューヨークは危険な街よ。
銃だって、麻薬だって、簡単に手に入る。
詩文くんのママの支えがなかったら、隆明先生だって、危なかったんじゃないかしら」
千葉さんが、手元を見ながらいった。
「音楽家が、演奏する場所を失うことくらい、辛いものはないからね」
ほの暗い、実感がこもった言葉だった。
千葉さんは、桜交響楽団で俺にオーケストラのことを教えながら、いつも砂を噛むみたいな気持ちで、いたのかもしれないな。
「皮肉なもんだよな。
タカ先輩が今になって世界中からもてはやされているのは、才能だけじゃなくて、こういう生え抜きとはちがう、経歴のせいでもあるんだ。
ぽっと出の日本人が巨匠に見い出されて、そのまま優等生で育つのかと思ったら、ドロップアウトして。
そのうえ再起して、今度こそ
大衆は、そういう曲がりくねったサクセスストーリーが、大好きなのさ。
タカ先輩は
だから、若手の支援や東都響の育成なんかに、熱心なのかもしれないな」
「ねえ、あのアップライト、ちょっと弾いてもいいかしら?」
小林さんが、リビングのすみに置いてある、おんぼろアップライトピアノを指さした。
「もう下の店も閉店時間だから、べつにかまわないよ」
俺がそう答えたら、小林さんはピアノの前にいった。
いきなり、ズジャーン! と、派手な音が鳴る。
いくつか、印象的な和音が鳴り響き、心臓が驚いて高鳴るような、打楽器的リズムで低音部の
小林さんは、そのリズムを、
ピアノはハンマーで弦をたたく打楽器だ。
俺は、それを実感して、震えるくらい感動した。
やがてリズムは、ジャズの響きを得て、男の声が歌いだす。
というか、歌いだしたように聞こえた。
小林さんのピアノの迫力のせいで、本当に聞こえない歌が、聞こえたような気がしたんだ。
これ、隆明叔父さんが作曲した、ミュージカル『ヤングピープルズ』の出だしの歌だ。
歌は、ひとくさりつづいた。
「あー、だめ。
しばらく弾いてなかったから、この先の音が飛びまくるところが、うまくできない!」
小林さんは演奏をやめた。
俺たちのほうに、ふりむいていう。
「どう? すごいでしょ?
わたし、『ヤングピープルズ』オフ・ブロードウエイ版のロングラン公演を支えた、ピアニスト軍団の一員だったの。
本当はこれ、ピアノ二台で演奏するのよ。
オフ・ブロードウエイ版は、いずれオーケストラで演奏したいっていう、隆明先生の意図のもとに作曲されていたから。
ピアノ一台じゃ、音がぜんぜん足りなかったのよね。
一台は隆明先生が弾いて、もう一台は、音楽仲間が交代で弾いたの。
そのときのメンバーには、私のほかに、若松尚司さんとか、谷崎純一さんとかが、いたわね」
若松尚司って、いまはウィーンに住み着いていて、めったに日本へは帰ってこないけれど、しぶい演目で人気のピアニストだ。
それに、谷崎純一って……!
「夏海!」
詩文が俺をゆすった。
「うおおおっ!」
俺はさけんだ。
「谷崎先生にも、青春時代があったんだ!
今度レッスンのときに、絶対、からかってやる!」
ちがうだろ――と、俺は詩文に後頭部をはたかれた。
小林さんは、けらけらと笑った。
「えーっ? 谷崎さん、夏海くんの先生、やってるの?
音大の先生だってうわさは、聞いていたけれど」
「たくさん弟子がいる、名教師なんだよ。 谷崎先生は」
師匠のことを笑われて、俺はちょっと、気分を害した。
師匠のことを笑っていいのは、師弟の
小林さんは、夢見るみたいにいった。
「いま思い出すだけでも、胸がどきどきする。
音楽って、本当に人の心をゆさぶるものなんだって、ピアノを弾くたびに思ったもの。
わたしの音楽の原点は、あそこにあるのかもしれない」
俺たちは、感激している小林さんにひきずられて、黙りこんだ。
ダイナミックな音楽で聴衆を
なんか、自分の音楽で世界を築きえる一流音楽家って、みんな人生に、ドラマを持っている。
俺は、ヒデの親父さんって、かなり
芸術のために家庭を
隆明叔父さんだって、いそがしいスケジュールに
本当に人を感動させることができるアーティストには、小市民的なせこい性格じゃ、なれないってことなのかな。
たとえば、俺の両親みたいな。
玄関で、物音が聞こえた。
うわさをすれば、なんとやらだ。
親父が帰ってきたみたいだ。
「ただいまぁ。 お客さんかな」
地方公務員のうちの親父は、定時で帰ってくると、早番の日は6時半、遅番の日は8時と、判で押したみたいに正確な時間に帰宅する。
まあ、管理職になってからは、当直や休日出勤もするようになったから、大変っちゃあ、大変なんだろうけれども。
でもさあ、いまひとつ尊敬していますって気持ちになれないのは、俺だけの責任じゃないと思うぞ。
リビングへ入ってきた親父は、お客さんが千葉さんと小林さんだと知るや、うろたえまくって、おおさわぎだった。
「あれっ! 千葉くんだ! いつ日本へ帰ってきたの?
うっひゃー、まいったなあ。
ありゃりゃ!
ひょっとして、お客さん、小林美由紀さんですか。
嬉しいなあ。 ぼかぁ、大ファンです!
あとでサインを、おねだりしてもいいですか!」
大感激で握手をしてもらい、下の店へ内線を入れ。
「カナちゃん(うちのお袋のことだ)、夕飯、なににするつもり?
……鍋? ……お義父さんが、カニを買いにいった?
なるほど、わかった。 じゃあ、ぼく、野菜の支度をしておくから。
……オーケー、オーケー、まかせとけ」
親父はそれから、台所へ立った。
エプロン姿の親父だけを働かせるわけにはいかないから、俺と詩文はカセットコンロや土鍋をセットし、食器を並べたりして、手伝った。
「こんばんはー」
だしが煮える匂いをかぎつけた、渡辺ハイツの住人の佐々木さんと岩城さんが、インターホンも鳴らさずに、リビングへ入ってくる。
「大家さん。 おねがい、飯を食わせてください!
俺、今月、楽譜を買いすぎて、金がないんです!」
「佐々木が金欠なのは、新年会コンパを、はしごしまくったからです!
俺は、本当に楽譜を買いましたから、ごまかしなしの貧乏です!」
親父が台所から、のんびりと返事。
「いいよー。 そこにすわんなよ」
千葉さんは、コタツに足をつっこんだまま、のけぞって笑った。
渡辺さんの家って、あいかわらずなんだなあって。
ここでいう『渡辺さん』とは、もちろん、俺の爺ちゃんのことだ。
桜交響楽団の古参団員で、へたなヴァイオリンをかき鳴らしながら、人の世話を焼くのを生きがいにしている、
そして、うちの親父は、その跡継ぎと目されている……。
あ、また玄関で、物音がする。
今度は爺ちゃんか、うちのお袋か?
「ちはー、
うっ、千葉さんがフリーズした。
玄関の人は、遠慮なく靴をぬいで、あがってくる気配。
だって、うちは寿司政の、お得意さんだもん。
出前を取ると、寿司政の大将は必ずリビングへ入ってきて、ご
がっちゃんと、リビングのガラス戸が開いた。
俺は、吹っ飛んでいって、寿司政の大将から寿司
だって、投げられたりしたら、嫌だもん。
「おう、夏坊、気が利くじゃねえか」
「う、うん。 どうもありがとう、寿司政のおっちゃん」
「今日は、タカちゃんの知り合いとか、えらい人が、お客さんかい?
副会長、特上もってこいって、電話をくれたぞ。
いつもは並と上の間ってのはないのかなんて、せこいこというのに」
副会長ってのは、俺の爺ちゃんのこと。
桜ヶ丘商店会の副会長をやっているから。
俺は、目を明後日のほうへ泳がせた。
「えっとねえ」
「なんでい、歯切れがわりい」
そこで、寿司政の大将は、あたりを見まわした。
で、大将もフリーズ。
最初に口をきいたのは、千葉さんだった。
コタツに入ったまま、顔もあげずに、ぼそりとさ。
「親父。 俺、先週、帰ってきた」
うっわー、大将の顔に、どんどん血がのぼっていく。
赤くなって、プルプル震えてるよお。
「なんだ、とうとう太鼓屋は、廃業か」
「ぎゃくだ。 プロとして食べていける、めどがたったから。
俺、いま、タカ先輩のオーケストラのパーカッション主席だ」
だんだん大将の声が荒っぽくなってきた。
「おまえはまだ、タカちゃんの子分なのか!
二度と我が家の
顔をあげて、きっと大将をにらんだ、千葉さんの声も大きくなる。
「タカ先輩は、大先生なんだぞ! 子分で何が悪い!」
「渡辺手芸用品店の馬鹿息子の子分が、そんなにいい御身分か!」
あーあ、とうとうマエストロ渡辺隆明ってば、タカ先輩から、タカちゃんになり、渡辺手芸用品店の馬鹿息子になっちゃった。
千葉さんは、隆明叔父さんと同じ中学校の出身者だっていっただろ?
だから千葉さんは、叔父さんのことを『タカ先輩』なんて、気やすく呼ぶわけで。
つまり、俺んちと千葉さんの実家は、ご近所さんなんだよ。
それも、かなり近い、ご近所さん。
同じ商店街の住人なんだから。
「こらあっ、寿司政! ひとんちで、親子喧嘩するんじゃねえっ!」
最悪。 爺ちゃん乱入だ。
両手にカニがはみ出したビニール袋をぶらさげて、玄関からかけこんできた。
寿司政、反撃。
「副会長、てめえ、こいつとぐるだな!」
「なにがぐるだ! 俺も、義則くんが帰ってきたのは、ついさっき知ったんだ!」
「へえ、大先生のタカちゃんは、もっとまえに知ってたはずだろ。 おまえんちも、親子断絶か」
「んなこたぁあるか。
うちの隆明は、大先生だからな。
100人からいるオーケストラの団員のひとりひとりが、今現在どこへいるのかなんて、知るもんか」
「いばるんじゃねえ! えらいのは、おめえの息子で、おめえじゃねえだろ!」
「この野郎! なんて言い草だ!
気まずくなってるお前んちの親子仲を、とりもってやろうと思って、寿司とってやったのに!」
「あんたは昔っから、よけいな、おせっかい野郎なんだよ!
そもそも、うちの義則が太鼓屋なんかになったのだって、あんたが義則の高校に、タカちゃん大先生を送り込んだからだろうが!」
「ありゃあ、隆明が正式に桜ヶ丘高校から、講演会と吹奏楽部の指導を依頼されたからだ! 俺は関係ねえ!」
「なにが関係ねえだ! あんたが仲立ちしなきゃ、大先生が、しょぼい都立高校へ教えに来ることなんか、あるわきゃねえだろっ!」
鍋に入れる豆腐や
「お義父さんも、大将も、落ち着いてくださいよぉ」
でも、親父、迫力負け。
つかみあいになりかかっている高齢者二人に、
よろめいた先にいた寿司政の大将は、親父の手から、皿をうばい取った。
皿の中身をぶちまけないように、助けてくれたのかと思ったら、ちがった。
大将は、皿をひっくり返して、千葉さんの頭のうえに、豆腐と白滝の雨を降らせた。
「うわああっ!」
「なにをする!」
千葉さん、びしょぬれだ。
皿にのっていたのは、豆腐、白滝、水で戻した
「けっ! これで頭が冷えただろう!
約束だからな!
じゃましたな、渡辺さん!
今日の寿司の代金は、いらねえよ!
部屋を汚した、おわびだっ!」
そういい捨てたあと、寿司政の大将は、どかどか足を踏み鳴らして、俺のうちから出ていった。
リビングにいた人間は、みんな恐る恐る、千葉さんの反応をうかがった。
千葉さんの頭には白滝がひょろひょろぶらさがっていたし、前髪からは、ぽたぽたと
「すみません」
第一声を発したのは、千葉さん本人だった。
「ご迷惑を、おかけして」
「いや、いいんだけどよ」
爺ちゃんは、カニの袋をコタツに置いた。
そのままかがんで、千葉さんのまわりに散乱している、つぶれた豆腐をひろいはじめる。
台所からタオルを持ってきた親父が、千葉さんを立たせた。
タオルで、ていねいに白滝や車麩を、とってやりながらいう。
「千葉くんさあ、お父さんに、
「親父は、あのとおり、聴く耳もっちゃいませんから。
渡米した当時は、30過ぎても夢をあきらめられないでいる俺に、そうとう怒ってましたし」
「不思議だなあ。 じゃあなんで、千葉くんを音大へ、いかせてくれたの?」
「親父を説得して、音大へいかせてくれたのは、お袋なわけで」
「なるほどね」
親父は、千葉さんの手を引いた。
「お風呂、入っちゃいなよ。 で、今日はうちに、泊まったらいい」
「いや、それは……」
親父は、ほっこりと笑った。
いつも俺たち家族を和ませてくれる、
「ぼくはね、千葉くんのために、いってるんじゃないの。
千葉くんのお母さんのために、いってるんだよ。
お父さんと、すぐに仲直りするのは無理でも、お母さんには、きちんと帰国報告しておきなよ。
お母さんは、喜んでくれるはずなんだから。
今夜はもう遅いから、明日の朝、一番でいきなよ。
寿司政さん、ご近所なんだからさ。
これはね、昔の音楽仲間としての、ぼくの心からのアドバイスだから。
家族は、大切にしなくちゃいけないよ」
はあっと、小林さんが、大きなため息をついた。
「いいですねえ。 隆明先生のご実家。
隆明先生の音楽が情熱的で、芯の部分で人間を愛しているのが伝わってくるのって、このお家で、育ったからなんだわ」
いやあ、こりゃどうもって、爺ちゃんが照れている。
俺は、ちょっとだけ、親父を見なおした。
いつもへらへらしているけれど、親父もちゃんと、人間を愛してるってわけか。
そうでなけりゃ、爺ちゃんの跡継ぎなんて、いわれたりはしないよな。
千葉さんを風呂場へつれていったあと、親父は何もなかったみたいな顔をして、リビングへ集まった人たちに、カニ鍋をふるまった。
いつもより、うまいカニ鍋だと、俺は思った。
鍋を囲んでいた人全員が、笑顔だったから。
いや、一人だけ、しらっと、しらけていたやつがいた。
小林さんの娘さんは、鍋を食いながら、ほとんど何も、しゃべらなかったんだ。