小春日和
その日、俺たちは体育館の裏にある
俺たちは健康な高校一年生男子だ。
だから、弁当を食っても、まだ腹がへるんだよ。
昼休みに高等部と同じ敷地のなかにある大学の売店へいって、腹にたまるデザートを買ってきて食うのは、もう習慣と呼ぶにふさわしい日課になっている。
関東地方は、今日もいい天気だ。
芝生は冬枯れていたけれど、風もなくて、陽だまりの居心地はかなりよかった。
いわゆる、
まだまだ真冬の2月上旬にも、一日か二日ぐらいは、こんな日があるもんだ。
そんなうららかな日に、深刻な話なんかするやつはいない――と、だらけきっていた俺たちは、思っていたんだけれども。
とつぜん。
そうだ。 まったくの、とつぜんにだ。
俺の悪友である、
ぜんぜん意味がわからなかった俺たちは、ピザまんをかじろうとしていた口を、そのまま、あんぐりとあけた。
だって、ついさっきまで俺たちは、「今年のバレンタインに、チョコレートをもらえる、あてはあるか?」とか、「楽理(音楽理論)の桑原先生のヅラ疑惑は、はたして本当か?」なんて、くだらない内容の話をしてたんだぜ?
しばしの沈黙のあと、リードこと山本
「ヒデ、結婚でもするのか?」
当のヒデは、顔をしかめた。
「アホか。 俺たちは、まだ16歳だぞ」
リードは、おおまじめで、いい返す。
「ヒデなら法律なんか無視して、とっぴなことを平気でやりそうだ」
俺は、リードのいい分もあながち大げさとはいえないなと思いつつ、一番だとうな意見をのべた。
「親、どうかしたのか?」
「おお、夏海、するどい!」
ヒデは、かんらと笑った。
夏海と呼ばれた俺は、フルネームを
音楽学校に通ってるって自己紹介しているんだから、いわなくたってわかるだろうけれども、俺は将来音楽家になりたいと思っている、ピアニストの卵だ。
ここでいっしょにピザまんを食っている連中も、ともに音楽家への夢を語りあう仲間だったりする。
笑ったヒデは、けろりと、つづける。
「夏海や、
芸術家を名乗る人間の、あつかいにくさみたいなもん。
俺んちの親父の浮気性に、とうとうお袋の
親父もなあ、『芸術家にはつねに恋をすることが必要なんだ』なんていって、へんに開き直ってるようなところがあるから。
だけど、今回ばっかりは、親父の失態だな。
本気になっちゃう素人に手ぇ出したから、愛人が『別れてください』なんて、俺んちへ乗りこんできちゃってさあ。
お袋が、『芸術家なら芸術家らしく、
明るくしゃべっているけれど、なんだか、ヒデは痛々しかった。
雑談のさいちゅうに、こんな深刻な話をはじめるなんて、そもそも今朝から、いつ話そうかと、思い悩んでいたってことだろう?
詩文が、さりげなく、ヒデの肩にさわった。
はげますみたいになでたあと、いいたいことをいっちゃえよと、軽く
俺の
母親がフランス人で、いわゆる『ハーフ』ってやつ。
だから、こんなときはボディランゲージで、気持ちを伝えるのがうまい。
「お父さんと、お母さん、離婚するんだ?」
詩文が『離婚』といった瞬間、わずかにヒデの
でも、つぎの瞬間には、おどけている。
「おう。 年末くらいから、弁護士あいだにはさんで、テンヤワンヤしてたぜ。
いざ別れるとなると、大人は現実的だ。
財産分与だ、養育費だって、金のことばっか、話し合ってた。
親父がここまでやってこられたのは、お袋のマネージメント能力のたまものなのに、親父のやつ、これから大丈夫なのかね?」
俺は、少々不満だった。
もっと早く相談してくれていれば、気落ちしたときの聞き役くらいにはなれたのに、水臭いじゃないかと思う。
「おまえ、ちっともいままで、そんな素振りは見せなかったじゃないか」
ヒデは鼻で笑う。
「俺はもう、親の離婚ごときでおたおたするような、ガキじゃねえもん。
お袋に義理立てして戸籍は工藤にするけどよ、俺の作品はいままでどおり、俵姓で発表するつもりだし。
そのほうが、なにかと、お得じゃん。
将来、作曲で食っていこうと思ったら、ぬるいことは、いってらんねーもん。
親父の名前だって、人脈だって、なんでも利用できるものは利用するさ」
ヒデの親父さんは、ポピュラー畑の有名な作曲家なんだ。
テレビや映画の音楽で、しょっちゅう当たりをとる、大ヒットメーカー。
ヒデも才能を受けついでいるのか、小学生のころからラジオ局主催のオリジナル・コンサートに出たりして、すでにかなり本格的な曲を書いている。
今現在も、作曲家目指して、
割り切ってるよなあ。
親父さんの名前でも人脈でも、なんでも利用できるものは利用するなんて。
俺なんか、身内に名の知れた音楽家がいるのは、重荷なだけなんだけれど。
俺のとなりで、もぞもぞと、人が動く気配。
「なあ、音楽一家ならわかるだろうって、どういう意味だ?
俺たちは普通の家の出だから、さっぱり意味が、わかんね」
リードと、タケヤンこと竹内光彦が、身をのりだして、たずねてくる。
リードは中学生になってからクラリネットにはまった普通の家庭の出身者だし、タケヤンはステージママにここまで引っ張ってこられた、マザコンピアニストだもんね。
我が家は代々音楽家で〜す、みたいな家のことは、確かにわからないだろう。
まあさ、俺んちだって、いちおう音楽一家として世間に認知されてはいるけれど、俺自身の血筋は、
一流音楽家なのは俺の叔父さん夫婦であって、うちの
ちなみに、うちの婆ちゃんと、お袋の職業は、手芸屋さんだぜ。
遊び人の爺ちゃんを笑って遊ばせといて、一家の大黒柱を、ずーっとやってきたのは、渡辺家の女たちなんだ。
俺の親父は、影の薄い
で、音楽一家について、ヒデはえらそうに、
「芸術家というものはだな」
「ふんふん」
「つねに精神が、
「なるほど」
「親父にいわせるとだな」
「うん」
「恋の歌を書くときには、やっぱり現在進行形で恋をしていたほうが、いい曲を書けるものらしい」
「なるほどねえ」
「そんなことを、平気でいうやつだからな。
うちの親父、創作意欲が枯れると、しょっちゅう旅にでちゃうんだぜ。
シルクロードをうろついてて、半年行方不明なんてこともあったぞ。
まじで、俺たち家族は、親父は砂漠で死んじゃったんじゃないかと、思ってた」
「ひゃあー」
「詩文のところは、どうなんだ?」
「どうなんだって?」
急に指名された詩文は、身構えた。
ヒデは、とんと、詩文の胸を、ひとさし指でつつく。
「おまえの親父さんだって、作曲をするだろう」
「あのねえ、作曲をする人間に、みんな
うちのパパは、三年先のスケジュールまで
わはは、とヒデは笑った。
「スター指揮者ってのは、大変なんだなあ」
そう。
俺の叔父さん、つまり、詩文の父親は、世界的に有名な指揮者で作曲家でもある、渡辺
ヨーロッパとアメリカと日本をいったりきたりして、いそがしい生活をしている。
詩文は、ため息をついた。
「いくら仕事がうまくいっててもさあ、最近のパパの暮らしぶりは、ひどいもんだよ。
ひと月のうち五日くらいしか自分のうちにいられない生活なんて、あんまり、うらやましくないや」
「売れっ子指揮者の生活なんて、そんなものだろう」
「ぼくさあ、男と女のことが分かるようになったころ、ぼくがひとりっ子なのは、両親が二人とも音楽家で、生活がすれちがいがちになるからなんだなあって、みょうに納得したのを覚えてるよ」
「うひゃひゃ、親の夫婦生活の心配をするなんて、詩文は、ませたガキだったんだなあ」
「あのねえ、ヒデ。 ぼくが、フランス育ちだってこと、忘れてない?
フランスのカップルは、カップルであるかぎり、同じベッドで寝るんだから。
ひさしぶりに家族みんなの休日が同じ日になったときなんて、朝、親の寝室へは、いけないよ。
乱れた寝具にくるまって、抱きあって寝息をたててる両親なんて、あんまり見たくないもん」
俺たちは、しばらく、黙りこんだ。
想像しちゃったもん。
幸せそうに。 そう、幸せそーに、奥さんと抱きあって眠っている、早朝の光景を。
健康な高校生男子なら、だれだって、その手のことに興味がないわけないだろ。
おたがいに咳払いなんかして、沈黙をなんとかしようとする、この気まずさったらないぜ。
その嫌な雰囲気をやぶって、タケヤンが、ぼそりといった。
「ぼくら、そろそろ大人に対する考え方を、変えなきゃいけない年頃なんだね。
ぼくも、このごろつくづく、親もただの人間なんだなあって、思うもん」
思わず、絶句だぜ。
こいつの口から、こんなセリフを聞こうとは。
タケヤンは、高校生になっても自分の母親のことを『ママ』と呼ぶ、筋金入りのマザコンだぜ?
フランス育ちの詩文が、親のことを『パパ』『ママン』と呼ぶのとは、わけがちがう。
タケヤンは渋い顔でつづけた。
「ぼく、このごろしょっちゅう、ママと
電車で通学するのを納得してもらうだけでも、大変だった」
「ふ、ふーん」
「ぼく、渡辺くんたちのクリスマス・コンサートを聴いて、真剣に考えたんだ。
とくに、夏海くんのピアノがよかった。
激しさと
小さくまとまった、いまの自分の演奏って、つまらないと思った」
「そりゃどうも」
俺のピアノを、そういう風に思ってくれているのは、ありがたいけどさ。
当人は、ひたすら悩んでて、その迷いが音に出ているだけなんだけどな。
なよなよのタケヤンも、けっこう頑張ってるんだなあと思ったよ。
自立への第一歩が電車通学実現っていうのも、なんだか情けない話だけどな。
でも、移動はつねにママの車だったタケヤンにとっては、電車通学を実現するのって、大事件だったにちがいない。
俺たちはさ、音大付属高校の生徒なんだ。
それって、けっこう、大変なことなんだぜ。
日本じゃ、まだまだ男が音楽で食っていくことに対する抵抗感が強いから、ただでさえ専門学校色が強くて一学年の定員が少ない音楽高校では、男子生徒は絶滅寸前の希少種みたいな存在なんだ。
ここにいる5人と、けして俺たちとつるんだりはしない、一匹狼のヴァイオリニスト
あわせて6人で、一年生男子全員。
あとのクラスメイトは、全員女子だ。
おかげで俺たちは、昼休みになると、こんなところへ逃げ出してくるしまつでさ。
だから、将来は必ずプロになるという固い決意を共有している俺たちの、結束は強い。
ダメだったら結婚すればいいわ、なんて考えているお嬢様たちと、俺たちは、ちがうからな。
男には、そんな甘っちょろい逃げ道はない。
とにかく頑張って、この学校で勉強したことは
俺は、ピザまんに、大きくかじりついた。
もしゃもしゃと、力強く、口を動かす。
仲間が頑張っているんだと思うと、自分にも、力が湧くじゃないか。
「あーっ!」
詩文が腕時計を見て声をあげた。
「夏海、やばい。 そろそろ支度して学校から出ないと、リハーサルへ遅刻する」
「もう、そんな時間か」
俺も詩文につづいて立ちあがる。
悪友どもは、俺たちを見あげた。
「今度は、バレンタインデイ・コンサートだって?」
「そう」と、俺は答えた。
残りのピザまんを、口に押しこみながら。
「もうこれで、テレビドラマがらみの仕事とは、おさらばさ。
本当はクリスマスでひと区切りのつもりだったんだけれど、例のドラマ、映画化になったから。
宣伝活動用に、どうしてもっていわれて、もう一度イベントコンサートをやるはめになったんだ」
詩文が俺をせかす。
「夏海、はやく食べろよ! 高校生はまじめに学校へ行かなくちゃだめだって、東都響の団員さんたちの好意で、リハのスケジュール、午後の遅い時間にとってもらってるんだから。
遅刻したら悪いじゃないか」
「へー、へー」
俺は詩文にひっぱられながら、高等部の校舎へむかった。
俺と詩文は、いろいろ事情があって、去年の秋、隆明叔父さんが作曲したヴァイオリンとピアノのデュエット曲で、
弱冠16歳でデビューなんて不本意もいいところだったんだけれども、俺と詩文は、その
まあ、能天気な俺としては、今回のバレンタインデイ・コンサートは、けっこう嬉しいコンサートだったりする。
いつかはオーケストラと全曲演奏してみたいと思っていた、ラフマニノフの『パガニーニの主題によるラプソディ』を、弾かせてもらえることになっていたからさ。
東都交響楽団常任指揮者のアルフレード・エルミニさんのことも、俺ってば、大好きだし。
俺は、ピアノも好きだし、オーケストラも大好き。
コンチェルトを弾かせてもらえるなら、音楽少年夏海くんは、とにかく、ごきげんなんだ。