自分の出番まで、あと5分というところで、俺は舞台の
詩文は俺のあとで本日のトリを飾る予定なのに、早々と、もうそこにいた。
クリスマスのコンサートだ。
俺も、詩文も、衣装には、堅苦しい
爺ちゃんが、初めて本格的なコンサートに出るお祝いだっていって、オーダーメイドで作ってくれたやつ。
もったいないことをするなあと、俺は思った。
だって、俺は、まだまだこれから、背が伸びる予定なんだからさ。
当然、このタキシードも、すぐ身にあわなくなるはずなんだ。
詩文のやつ、やたらとブラックタイが決まってやがる。
それに、硬い表情だ。
そっと、俺の腕にふれてきたりして。
「夏海、だいじょうぶ?」
「な〜にが」
俺は、笑える自分が不思議だった。
ひとりで泣いたら、なにかひとつ、突き抜けたような気がしたんだ。
めそめそしたところで、自分のまわりの世界が、変わるわけじゃない。
しくじったと思うなら、また次のステップに挑戦すればいい。
いまは率直に、そう感じている。
詩文は舞台のほうを
「今日のステージ、なんだか雰囲気が悪いんだ」
「悪いって?」
「プログラムの前半、『くるみ割り人形』の組曲だっただろ?」
「いかにもクリスマスだよな」
「木梨さんと御園さんの解説と
「へえ」
「へえって!」
俺が平然としているもんで、詩文が色めき立った。
そりゃさあ、さっきのあれで、心配もさせてただろうから、腹が立つんだろう。
でもさ。
「あのなあ、物事ってのは、だめなときはだめだし、いつかは、いい風も、吹いてくるだろうってことで」
俺が
「お爺ちゃん、どうしよう。 夏海、へんだよ」
「いや、こいつがへんなのは、いつものことだけどさ」
爺ちゃんってば、ひどいことをいう。
ステージマネージャーが、こちらへやってくる。
「夏海くん、いいですか?」
「はい」
楽屋廊下から、指揮者のエルミニさんが入ってきた。
「ハーイ、ボーイズ!」
顔に満面の笑みをうかべ、俺と詩文の肩を抱いて、かるく、ゆすってくれる。
がんばれってこと。
俺は指示されたとおり、エルミニさんの後ろに立った。
すぐそこで、司会進行役の木梨さんと御園さんが、曲目解説をやっている。
それが終わるタイミングをはかって、とんと、俺の背中がたたかれた。
足を前にだして、―― いち、にい、さんぽ。
それでもう俺は、ステージの上の人。
どっと客席が沸いた。
拍手といっしょに、人の声のざわめき。
ちょっと今日のお客さんの質は、普通のクラシックコンサートとは、ちがうようだ。
だって、エルミニさんといっしょに、俺がステージの中央であいさつのお
今日の記念に自分だけのオリジナル写真がほしくて、カメラを持ち込んじゃったひとが、何人もいるみたいだな。
ロックコンサートの入場時には手荷物の検査があったりするけれど、まさかクラシックのコンサートで、そんなことをするわけもないし。
「オウ!」と、エルミニさんが不愉快そうな小さな声をあげた。
なるほどなあと、俺は思った。
きっとエルミニさんは、前半のプログラムの演奏で、そわそわしたお客さんの雰囲気に、苦労したんだろう。
クラシック音楽って、聴きなれない人には、やたらと長く聴こえるもんなんだよな。
「ノープロブレム」
俺はそういって、目でエルミニさんに、指揮台へ行ってくださいって、伝えた。
ざわついている客席を見あげる。
ああ、思ったとおりだ。
この劇場、ステージだけが明るい状態で客席を見あげると、
おまけに、ちかちか、フラッシュが光っちゃってさ。
星空に、電気信号って感じ。
まあいいよ。
コンサートのマナーなんて、わかんないんだよな。
クラシックを初めて聞くお客さんも、きっと、たくさんいるんだろう。
落ち着くまで、待っててやるからさ。
クソ度胸が決まった俺は、じっと待ちの体制で、客席を見あげつづけた。
いやでも、静かになるって。
俺は待ってますよーと、無言で伝えつづけたら。
うん、もういいかな。
ありがとうと、クチパクで客席にいい、ゆったりとピアノの前に座る。
俺の様子をうかがっていたエルミニさんは、ちょっと驚いたみたいな顔をしていた。
エルミニさんからオーケストラへ、準備の合図がだされる。
指揮棒が構えられ、息をのむ休符が
次の瞬間、俺とオーケストラは、アウフタクトで緊張感漂う、シューマンの世界へ飛び込んでいった。
俺のあとで、詩文が演奏したチャイコフスキーも、文句なく聴衆を酔わせた。
チャイコフスキーの
アンコール演奏の前後は、ステージにかけよった女性ファンの集団のおかげで、ひと騒ぎになったりもしたけれど。 コンサート自体は、つつがなく終わったよ。
すべてが終了してから、俺たちは、上野公園の裏手にある小さなイタリア料理店へ移動した。
貸切で、打ち上げ会だ。
いままでお世話になった人たちにお礼をいって、ひと区切りつけようという、隆明叔父さんの計らいだった。
デビューはしたものの、俺たちは、まだ高校生なんだから、芸能界なんて場所からは離れていたほうがいいというのが、叔父さんの意見だ。
俺も、そう思う。
今回のことは、ちょっぴり、心の傷になったぜ。
俺の初恋って、最初から、
一人芝居って、まさに、このことじゃんか。
はあー、
それでもって、詩文は、打ち上げ会の会場にいるあいだじゅう、
「今回は、完全に夏海にコンサートの山場を持っていかれた」なんていって、ぶんむくれている。
大人たちがみんな、俺をほめてくれるもんで、気恥ずかしいったらない。
エルミニさんなんて、ワインを飲んで いい気分になっていたからだろうけれど、「きみにはすでに、客を味方につける、風格がそなわっている!」なんて、べたぼめしてくれたんだよな。
恥ずかしいから、やめてほしい。
でもさ、俺も今日は最高の気分で、演奏できたんだ。
音楽が
その疾走感には、悲しみみたいなものが、ふくまれていて。
俺の音にたくされた、青春の胸の痛みに、オーケストラも、客席も、共感してくれていたのが、苦しいほど分かった。
それでいて、冷静に自分の演奏をコントロールしている、もう一人の自分も感じちゃって。
まるで、ホラーだよな。
演奏しながら、泣きが入ってる自分と、冷静な自分、二人の人格を感じていたんだから。
んでもさあ、正直いって、疲れた。
全力投球の演奏会って、こんなに疲れるものだったんだ。
よく、隆明叔父さんが演奏会のあと、へろへろになるのは知っていたけれど。
そんな状態だったから、俺は立食形式に配置されたレストランのすみに立って、大あくびをしていた。
あくびが最高潮にたっしたところで、俺の前に人影がさした。
うえ、みっともないところを見られた、と思ったら、相手は木梨さんだった。
俺は、あくびの口のまま、ぼへーっと、いった。
「ふあ、どーも、木梨はん」
なんか、俺は、開き直ってしまって。
木梨さんには、もっとみっともないところを見られたんだから、いまさらあくびくらい、どうってことないもんな。
木梨さんは、半泣きで笑っていた。
「夏海くん……」
俺の名前を呼んでから、絶句しちゃったりしてさ。
そして、きれいな顔をゆがめながら、こういった。
「ごめんね。 きみの前で演技したのは、謝るよ。
最初は、横井プロデューサーに、なんとかきみたちをマスコミの前に引っぱり出せっていわれて、自分もこのドラマにかけていたから、必死だったんだ」
「そうだったのか」
俺は横井プロデューサーの顔を思い浮かべて、鼻の上にしわをよせてしまった。
あのヒゲオヤジめ。
「でも、きみと知りあえば知りあうほど、なんだか、わたし、
演技に迷いが生じたとき、夏海くんに会いたかったのは、ほんとうだから。
夏海くんの、まっすぐ前にむかって生きてるみたいなところを見ていると、わたしの『ハルカ』も、これでいいんだって思えたから」
「なるほどね」
そう合いの手を入れたのは、俺ではなくて、詩文だった。
木梨さんのうしろに、腕組みをして立っている。
おまえ、その整った顔で相手を見すえたりしたら、めちゃ怖いからやめろと、俺は思った。
でも、詩文は冷たく言い放つ。
「だから、ドラマの中の『ハルカ』って、評判になったんだ。
純粋で、ひたむきで、こんなやつは現実にはいないってキャラなのに、やたらとリアリティがあるって。
モデルは、夏海だったんだね」
木梨さんは、詩文の顔を見て苦笑した。
「ナイトのおでましね」
俺は思わず、たずねた。
「ナイトって、なに」
木梨さんは、体をひねって、立ち去ろうとしながら答えた。
「あのあと、詩文くんに
夏海くんを傷つけたら、だれだって、ゆるさないって。
怖かったわよぉ」
じゃあねと、木梨さんが去っていく。
俺は詩文を上目づかいでにらんだ。
「おまえ、俺のナイトかよ」
「
ちゃんと見てないと、夏海はときどき、とんでもない暴走をするじゃないか」
そう詩文にいわれたら、俺の目は横に泳いじまった。
暴走うんぬんに関しては、否定できないものがある。
そのとき、会場のおしゃべりのトーンが、いきなり落ちた。
正面で、隆明叔父さんが、あいさつを始めたからだ。
「では、そろそろ時間も押してまいりました。
このあたりで、打ち上げ会は終了とさせていただきます。
皆様、おいそがしいなか、ご参加いただきまして、ありがとうございました」
あいさつを聞きながら、俺たちはあわてて、レストランの出口へむかった。
来てくれたお客さんの、見送りをしないといけないからな。
次々に店から出て行くお客さんへ、ありがとうございましたと、何度も頭を下げた。
感謝、感激、雨あられ。
お礼は、いくらいっても、いい足りないくらいの気持ちだったし。
楽団関係者、ドラマの関係者、ヨシザワ・エンタープライズの社員、レコード会社の人、マスコミ関係者、そのほか、よくわからん人たち。
俺たちのデビューには、こんなに大勢の人たちがかかわっていたのかと思うと、正直いってびっくりする。
そして、最後には、身内に近い人たちだけとなった。
俺と、詩文と、隆明叔父さんに、爺ちゃん。
両親と婆ちゃんは妹の春海をつれて、コンサート終了後、すぐに帰ったから。
そんでもって、俺の師匠の谷崎先生と、詩文の師匠の金森先生。
あと、俺の練習伴奏をしてくれた、野末さん。
「うわ、雪だあ!」
詩文が声をあげた。
深夜の街に、雪がちらついている。
俺たちの口元からは、白い息が、もうもうとあがった。
「明日はパリだ〜」
雪が落ちてくる空をあおぎみながら、詩文は、やたらと嬉しそうだった。
今回のコンサート、エヴリーヌ叔母さんは、来られなかったんだ。
パリだってクリスマス
音楽家の叔母さんが、本拠地から、離れられるわけがない。
詩文のやつ、心はもう飛び立ってるって、感じなんだろうな。
エヴァ叔母さんはクリスチャンだから、パリの渡辺家では、クリスマスは必ず家族で過ごすって、約束になっているらしい。
うきうきと、詩文はしゃべりつづける。
「パリのクリスマスはねえ、意外と静かなんだよ。
みんな、クリスマスの夜は、家族や恋人とすごすからね。
来年は、夏海もいっしょに行こうよ。
シャンゼリゼのイルミネーションを、夏海にも見せたいな」
陽気にしゃべる詩文のむこうで、隆明叔父さんが、俺の師匠へ頭を下げている。
師匠は、おちゃらけて、「夏海くんは、よくわからない弟子なんだよ〜」なんて、いっている。
すみませんね、師匠。
「さあ、では、そろそろ行こうか。 JRの人は、こっち。 地下鉄の人は、その道ですよ」
隆明叔父さんが、みんなに声をかけた、そのときだった。
「先生!」
夜がふけて、しんと静まり返った雪降る街に、野末さんの声がこだました。
「はい」
「なんだい」
「野末くん」
金森先生、渡辺先生、谷崎先生。
三人の先生が、いっせいに答えた。
なんだか、おまぬけ。
隆明叔父さんが
呼ばれているのは、あんたみたいだよって。
谷崎先生と叔父さんは、20年来の友達だからな。
えへんと
「なんだい、野末くん」
野末さんは、足元をにらむようにしていった。
力が入った肩が、
「ぼくは、もっと勉強を、つづけたいんです!
親のために、いい息子になろうと思いましたけれど、どうしてもだめです。
今日のコンサートめざして、ひたすら
今日、客席から夏海くんの演奏を聴いていたら、ぼくは、あのステージでピアノを弾いているのが自分だったら……、自分だったら……、どんなに嬉しいかと!」
眼鏡をとって、野末さんは指先で涙を払った。
目が真っ赤で、すぐにまた新しい涙がわいてでる。
必死に こらえているけれど、いまにも
谷崎先生はポケットをさぐって、とりだしたハンカチを野末さんに渡した。
それをうけとって目元をぬぐい、野末さんは深く、うなだれた。
「すみません。こんなところで、取り乱したりして。
でも、どうしても、あきらめられません。
いい息子には、なれません。
ぼくは、今日、まだ一度も夏海くんに、『おめでとう』を、いってないんです。
思うぞんぶん、音楽に うちこめる夏海くんが……、うらやましくて……、ねたましくて……、どうしても、『おめでとう』が……、いえませんでした」
「そうか」
「なんとか方法は、ないでしょうか。
奨学金とか、留学試験とか。
先生、勉強がつづけられるなら、なんでもやります!」
静かに、俺たちのまわりには、雪が降っている。
あまりに静かすぎて、落ちてくる雪が耳にふれる瞬間、かすかな音が聞こえた。
――ぱさ。
――ぽさ。
小さな音を発したあと、とけた雪の粒が水滴にかわって、耳を濡らす。
これもまた、音楽か。
野末さんの熱い思いを、遠い空から降りてくる雪が、応援しているみたいだ。
「野末くん」
谷崎先生は、唇に嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ぼくは、ひょっとしたら、夏海くんの
きみさえ、どんな障害を乗り越えてでも やりとげようと思うのなら、手助けは、おしまないよ」
先生のかたわらで、隆明叔父さんが、
「野末くんのうちって、貧乏なんだって?」
なんて失礼な言い草だろう。
俺は思わず、大人の話に、割り込みそうになったよ。
でも、叔父さんは笑ったまま、いったんだ。
「な〜に、心配するな。
ぼくのうちだって、いまは姉夫婦の
ぼくが学生だったころは、貧乏だったんだぞ〜」
爺ちゃんが、ぺしっと、叔父さんの後頭部をたたいた。
マエストロの
痛いのなんのと、爺ちゃんとやりあったあと、隆明叔父さんは、ぼそりといった。
まるで、なんでもないことをいうという、くちぶりだった。
「きみ、来年の秋、パリへおいで」
「は?」
さっきまで肩を震わせていた野末さんは、あまりに
ぼうぜんと、叔父さんを見ている。
ぎゃくに、叔父さんは、へいぜんとしていた。
「ロン・ティヴォー国際コンクールが、来年はピアノの番だ。
渡航費さえ自分でなんとかできるのなら、ぼくがフランスでの生活一切の面倒を、みてあげる。
ぼくんちにホームステイして、ピアノも弾きほうだい。
どうだい?」
「わ、渡辺先生!」
「日本の奨学金は、出し渋りがひどすぎる。
国費や文化財団の留学生になれる推薦を受けたかったら、そうとう有名なコンクールに、トライしないと。
信濃国際のキャリアじゃ、きみが求めている生活費までめんどうみてもらえるような、大きな奨学金は無理だ。
きみが頑張ってみるというのなら、ぼくも、協力をおしまない」
俺は、かっとなって、声を荒げた。
「叔父さんは、俺がたのんだときは、知ったこっちゃないって、いったじゃないか!」
だから俺は、こんなに悩んだのに!
叔父さんは、すまして答えた。
「ぼくは、やる気のないやつに、援助の押し売りなんかしないよ。
いくら才能があったって、ムダな投資になるだけだもんな」
ふざけた口調は、そこまでだった。
表面はおだやかだ。
だけど、俺たちは隆明叔父さんの眼光の鋭さに、身を縮ませた。
まるで、その場の空気が、いっきに叔父さんのもとへ吸い寄せられたような、息苦しさがあったんだ。
「親不孝、おおいにけっこう。
そこまで覚悟が決まったのなら、死ぬ気でやってみろ。
どん底を知っている人間には、そこから
言葉がぴりぴりと、俺たちにあたる。
叔父さんは、こうやって気合ひとつで人を黙らせることができる魔力を持っているから、百人の音楽家の上に
叔父さんだって、マエストロと呼ばれるようになるまでは、血を吐くような思いをしてきた。
プロとして、自分の力だけを頼りに生き抜いていくことは、はんぱな覚悟では、やりとげられない。
叔父さんは、それを誰よりもよく知っているから、本人の強い意志が確認できない人には、冷たいんだ。
ぽんと、叔父さんは、野末さんの肩をたたいた。
叔父さんと、野末さんのあいだで、視線がかわされる。
野末さんの瞳の輝きには、曇りがない。
その瞳をのぞく隆明叔父さんの目にも、おだやかな光がある。
俺の全身から、緊張がとけていく。
ほっとしたんだ。
いまの叔父さんは、家族のことを一生懸命考えてくれる、優しい、いつもの叔父さんだ。
「さあ、帰るぞ〜。早く帰らないと、日付が変わっちゃう。
ぼくと詩文は、明日の午前中の便で、パリ行きなんだから」
叔父さんの陽気な声といっしょに、俺たちは歩きだした。
嬉しい。
足どりが、弾んじゃう。
俺のコートのポケットで、マナーモードにしてあった携帯が震えた。
とりだしてみたら、液晶画面には、20件以上のメッセージが未開封でたまっていると、表示されていた。
ヒデに、リードに、タケヤン。
桜響のコンサートマスターの小川さんや、パーカスのメンバー。
渡辺ハイツの住人。
うは、吉澤からまで。
あいつ、俺の演奏を、聴きに来てたのかよ。
内容は見なくてもわかる。
ぜんぶ、お祝いのメッセージにちがいない。
最新のメールは、木梨さんからだった。
なんだろうと思って、俺はメールを開けた。
『いいそびれたから、いっとく。
今日の夏海くんの演奏、最高だった。
それから、ラフマニノフが好きだっていうのは、うそじゃないから!
夏海くんの音楽が、大好き!
だから、友達やめるなんて、いわないで!!!!!』
そういうメッセージが、暗がりに浮かぶ画面に表示された。
ラストに、びっくりマーク5個かよ。
自然に、笑みがこぼれる。
「やったー!」
俺は両手をふりあげて、空をあおいだ。
なにやってんだって、大人たちが笑った。
空から落ちてくる雪が顔にあたって、すっげー、気持ちいい。
俺のかたわらで詩文は、コートの前を開けて、ヴァイオリンのケースを、だきかかえてやがる。
命のつぎに大切な、ヴァイオリンなんだもんな。 ぬれたりしたら、おおごとだ。
疲れているけれど、俺の脚は、きびきびと前にでた。
駅前のにぎわいが聞こえてくる。
東京の街は、深夜でも眠らない。
クリスマスソングと、ネオンの明かりが、あたりには
でもな。
耳元で、小さな氷がとける音が鳴る。
かすかに、消え入る音。
無限につづく音。
音――。
音楽の源となるもの――。
目をとじて、ひそやかな音に耳を澄ます。
この気持ち、わかるかな……。
俺の耳には、そのひそやかな音が、まるで天からの使いが何かを告げたがっている音であるかのように、きこえていたんだ。
―End―