クリスマスの雪
俺と詩文は午前中から楽屋入りして、淡々とウオーミングアップや、ゲネプロ(本番直前の総練習)をこなした。
今日の演奏会の会場は、東京文化会館だ。
商魂たくましいTV局とタイアップして東都交響楽団がイベントコンサートを開くのは、今年の夏にあわただしく決まったことだったので、人気がある新しくて豪華なホールは確保できなかったらしい。
クリスマスコンサートと銘を打っているくせに、日取りも微妙にずれた、12月22日だし。
でも、俺、この古いコンサートホールが好きだな。
日本では珍しいオペラ劇場形式のホールで、ステージから見あげると、五階まである
俺は、こんな大きなコンサートホールで演奏するのなんて初めてだっていうのに、かなり落ち着いていた。
準備には最善をつくしたという自信があったし、事前に隆明叔父さんから細かい指導をもらっていて、前日のオーケストラとの練習でも、今日のゲネプロでも、音楽の細部がはっきりと見える、いいアンサンブルを展開できていた。
それに、今日の演奏会を指揮して、俺たちをバックアップしてくれる東都交響楽団常任指揮者のアルフレード・エルミニさんって、すっげーいい人なんだよ。
どうも、隆明叔父さんとは同門の後輩らしいんだけれど、俺と詩文を『ボーイズ』なんて呼んで、かわいがってくれる。
東都響の楽団員さんたちとも、隆明叔父さんのパーティーとかで会っているから、おたがいに顔見知り状態だったしさ。
楽屋廊下なんかで、すれちがいざまに何人も、「がんばれよ」って声をかけてくれて、俺も詩文も、かなり心強い思いをしたもんね。
それでさ、今日のコンサートは、いわゆるガラ公演ってやつなんだ。
いろいろなタイプの曲をあつめて、お客さんに楽しんでもらえるプログラムで進行する、イベント性の強いコンサートのことを、そんなふうに呼ぶんだけれど。
でさ、俺は表面上、平静をとりつくろってはいるけれど、じつは嬉しくてしょうがない。
このコンサートは、関東テレビと東都交響楽団の、タイアップ企画だっていっただろ?
俺と詩文が出るなら、俺たちのデビューのきっかけになった、テレビドラマ『こころ、はるかに…』の関係者が、必ずからんでくるわけで。
「やっほー、夏海くん、詩文くん。
ちょっと、わたしの楽屋によって、お茶を飲んでいかない?」
最終打ち合わせが終わって、コンサートの開始時間まで自由になった俺たちが、腹ごしらえでもしようかと外出の支度をして廊下を歩いていたら、木梨さんが、いきなり、声をかけてきてくれちゃったりするんだよな。
テレビドラマ『こころ、はるかに…』は、次週が最終回だ。
このドラマは回を追うごとに騒ぎを巻き起こし、いまじゃ、日本中のファンが結末をまつ、大ヒットドラマに成長していた。もうすでに、映画化まで、決定しているって話だ。
ピアノの練習に熱中していた俺は、気がついてなかったんだよなー。
年末商戦でさわがしい桜ヶ丘商店街の街頭スピーカーからまで、ドラマのメインテーマである、渡辺隆明作曲『変奏曲』やら、『無言歌』やらが、流れていたなんて。
だからなのか、今日のコンサートのアンコールには、詩文と二人だけで『無言歌』をひくようにと、いわれている。
そして、司会進行役は、ドラマの主演カップルである、木梨玲子と、
まさか、いっしょに仕事をすることになるなんて、思ってもみなかったぜ。
今日の木梨さんからは、女優のオーラみたいなものが、びんびん出ていた。
完璧な化粧といい、高そうでファッショナブルな服装といい、とにかく、かっこいいんだ。
そんなのを見せつけられたら、平凡な一般人の俺は、びびっちまう。
だから、もごもご口ごもりながら、答えるわけだ。
「ええと、俺たち、これから食事なんだけど」
木梨さんは、「えーっ?」と声をあげた。
「これから、外に出るの?」
「うん」
「それ、ぜったいに、やめておいたほうがいいよ」
俺と詩文は顔を見あわせた。
「なんで?」と、いいながら。
そこへ、大きな仕事の時には、いつも付き人役として俺たちについてきてくれている爺ちゃんが、帰ってきた。 先に楽屋口へいって待ってるっていってた、爺ちゃんが。
「おい、いま、外には出られねえよ。
楽屋口にさあ、若い女の子たちが、群れてるんだ」
「なに、それ?」
マヌケ
「その人たち、御園英司さんの、おっかけじゃないの?」
ぷっと、木梨さんが吹き出した。
「御園さんのファンは、もっと年齢層が上だわよ」
「そうなの?」
「その女の子たち、夏海くんと、詩文くんのファンなのよ。
きみたち、めったにメディアの前には、出てこないでしょ?
ドラマの公式ホームページの掲示板で、さわぎになってたぞ。
『どこへ行けば、ふたりに会えるの?』って」
「どえええええっ!」
思わず大声をあげた俺のわきで、詩文が
「夏海、子供っぽい反応をするのは、やめてくれよ」
「悪かったな、って、お前は、おどろかねえのかよ!」
詩文は、肩をすくめた。
「だって、ぼくはこんな、日本人の中じゃ、目立つ外見をしてるじゃないか。
学校への行き帰りには、たいていいつも、ヴァイオリンを背負ってるし。
一人で歩いてる帰り道に、渋谷あたりで、よく声をかけられたよ」
「なんで、俺は声をかけられなかったんだ……?」
けらけらと、笑われた。
「夏海は最近、なにやら悩みっぱなしでさ。
いつも真っ暗で、下むいて歩いてるじゃないか。
風景と同化してたんじゃない?」
「夏海くん、悩んでるんだあ」
「そうなんだよ、木梨さん。
ため息ばっかりついちゃって、うっとうしいんだから」
ここで俺は、爺ちゃんまで参加した、笑い声の三重唱をあびた。
なんだよ!
青少年が悩んで、なにが悪いってんだ!
けっきょく、そのあと爺ちゃんが会場近くのテイクアウト専門チャイニーズフードの店から、いろいろと食べ物を買ってきてくれて、俺たちは木梨さんの楽屋で飯を食った。
木梨さんは、たくさんしゃべって、たくさん食った。
俺たちは、本番前だっていうのに緊張感のかけらもなくて、たっぷりと笑ってすごせて、いい気分だった。
そして、本番開始、一時間前くらいだったと思う。
そろそろかたづけて、支度をしなくっちゃと、いっているさいちゅうに、ドアにノックの音があった。
「玲子、いいか? 『フラッシュ・グラフ』の取材、きたけど」
「いいよー」
木梨さんが立ちあがって、ドアを開けにいく。
ドアが開いたら、そこには木梨さんのマネージャーと、御園英司が立っていた。
御園英司はあいかわらず、影があって、いい男だった。
その後ろには、マスコミの人間らしい男たちが、機材をかついで立っている。
『フラッシュ・グラフ』っていったら、旬の話題の人物の談話と写真を売りにする、ちょっと高級なイメージの月刊誌だ。 芸能人がこれに載ると、肩書きに『一流』がつくといわれている。
御園さんは部屋の中をのぞきこんで、くすりと笑った。
「すごいな、木梨くん。 本当に、この子たち、取材へ呼びこめたのか」
木梨さんが、あせって、御園さんを黙らせようとする。
「ちょっと、まってよ。 まだその話、夏海くんたちには、してないんだから」
「じゃあ、早くしちゃえよ。
まったく、有名な音楽家の身内だかなんだか知らないけれど、鉄壁の守りに固められて、マスコミにちっとも顔を見せてくれないって、横井さんが嘆いてたんだぜ。
ターミナル駅にはられた、この子たちのポスターは盗まれまくってるし、オリコンに歌詞のないクラシック音楽が、異例のランクインをはたしたりしてさ。
せっかく、これだけの大騒ぎになっているのだから、ドラマの宣伝のために取材協力くらいしてくれって、はっきりいったらどうなんだ?」
御園さんは、あきらかに俺たちに聞こえるように、大きな声でしゃべっていた。
木梨さんが、こまりきった顔を、こちらにむけてくる。
その、こまった顔をみたら、状況のすべてが飲みこめた。
俺は、椅子に座ったまま、ぼうぜんと、木梨さんをみあげた。
あれから俺と木梨さんは、時々、メールを交わす仲になっていた。
木梨さんのメールの最後は、いつもこの一言で、しめくくられていたんだ。
――スタジオへ、遊びにきてね。
なるほどな。
遊びに行ったら、そこにはマスコミが、まっている手はずになっていたのか。
「俺さ……」
なにを、いおうとしているんだ、俺は。
御園さんが、部屋に入ってくる。
テーブルの上に散乱している、チャイニーズの箱を見て――。
「おい、木梨くん。 いいのか、こんなに食って。
きみ、いつだったかケーキを無茶食いしたとかいって、3日くらい絶食して、ぶっ倒れたことがあっただろう」
「ちょっ、御園さん!」
木梨さんのあわてぶりは、
もういいよ。
わかったから。
俺の前では、元気にものを食う、
ガキの俺が、女の匂いにおびえるって、お見通しだったんだよな。
情けない。
唇が、ふるえやがる。
「俺さ……、やっぱ、本番前に取材なんて、無理。 ……ごめんなさい」
やっとの思いで、それだけいって、俺は木梨さんの楽屋から出た。
足ばやに廊下を歩き、自分に割り当てられた個室へ急ぐ。
最後の数歩は、走ってしまった。
だって、部屋に飛びこんで、扉を閉めた瞬間、どわっと目頭が熱くなってしまって。
俺は、本当に、ガキだ。
こんなことくらいで、おちこんで、われを失ってどうする。
木梨さんは女優で、芝居なんか、なれっこなんだよ。
俺みたいな坊やと、親しくなろうと思ったら、演技するしかないじゃないか。
大きく何度も深い呼吸をする。
泣くな、馬鹿たれ。
必死にこらえるのに、吐く息といっしょに、うめき声がもれてしまう。
とにかく落ち着かなくちゃと思ったら、鏡の前の小さな机の上にそろえておいた、楽譜が目に入った。
咳ばらいしながら、椅子に座って、楽譜をひざにおく。
ちきしょ、震えるなってば!
なんだよ、俺の手は!
うまくページがめくれなくて、最初に開いたのは、解説のページだった。
ここは、俺の鉛筆の書き込みで、ぐちゃぐちゃでさ。
解説と一致する楽譜の練習番号とか、関連する文献からの抜き書きとかが、これでもかってくらいに書いてあるから。
その、印刷文字と自分の文字で黒々とみえる紙のあいだから、乾燥して変色した、バラの花びらが落ちた。
枯れきった、赤……!
まるで、失った
鮮やかに、10月のコンサートの情景が、よみがえる。
あのとき、もらった、花束のなごりだ。
――木梨さん、教えてくれよ。
ラフマニノフが好きってのも、嘘なのかよ!
俺は、まじに木梨さんのことを、好ましい人だと信じて、おもはゆい思いで、このバラの花びらを、楽譜にはさんだのに……!
泣くのを我慢するなんて、無理だった。
楽譜の上に、ぼたぼた涙が落ちた。
今日のコンサートにたどり着くまでに、いろんなことが、ありすぎた。
俺は、シューマンの音楽って、感情過多で理解できないと思っていたけれど、ここ最近の俺だって、十分、感情過多じゃないか。
大人の世界へふみこんでみて、自分とは立場がちがう人と触れあうたびに、傷ついたりして。
服のそでで涙をふいて、ついでにそのまま楽譜の上も、ごしごしこする。
ページをめくって、五線譜に記された、最初のメロディーをみつめた。
やっと、この楽譜に書いてある、シューマンの気持ちが、わかったような気がした。
人や、人をとりまく世界と触れあうと、だれだって不安になるんだ。
思いつめたら病気になっちゃうほど、それぞれの人の足元は危うい。
人と人の
怖いと、思った。
どうしたらいいのか、わからないほどに。
これは、理屈ではなく、自分が人として生きているから、感じる感情なんだろう。
自分以外の人が、なにを考えているかなんて、知り得るすべはない。
でも、それを受け入れて、人は生きていくしかないんだ。
俺は、いまこうして、傷ついたとかいいながら、ちゃんと生きている。
ただ生きるのは、簡単だから。
息をしてりゃあいい。
でも、本当に生きるということは、世界とつながることだったんだ。
自分を守ってくれる人たちから受けとる、優しさだけで作られた小さな世界から手をのばして、