けっきょく、常磐音高一年生のクラスの出し物、音楽喫茶は大繁盛(だいはんじょうだった。

第二音楽室のまえの行列は、一日中とぎれることがなくてさ。

クラスメイトがつぎつぎに演奏する音楽を楽しむお客さんのなかを、タキシード姿の男子がまわってドリンクのサービスをするシステムがすっかり定着しちゃったから、喫茶店というよりは、ホストクラブって雰囲気だったけれど。

愛想(あいそのいい詩文は、お客さんたちのアイドルだった。

あちこちで声をかけられちゃー、いっしょに写真へおさまったり、たあいのない話で、お客さんを喜ばせたり。

俺は最高に、おもしろくなかった。

(うわさをききつけて野次馬(やじうましにきた渡辺ハイツの住人の音大生の兄ちゃんたちや、谷崎先生ご夫妻や、春海をつれてきた俺の親父と爺ちゃんや、中学時代の友達や、とにかく、ありとあらゆる人たちに、この状況を笑われたからな。

だから、やっと15時からの最後の演奏タイムをむかえたとき、俺は嬉しくて、嬉しくて。

俺と詩文が音楽喫茶での披露用に準備した曲は、モンティの『 チャールダーシュ 』だ。

ヴァイオリン技法炸裂(さくれつ系の、ショーピースなんだけどさ。

そういう曲のピアノパートってのは、ヴァイオリンの華麗(かれい妙技(みょうぎがひきたつように、ブンチャ、ブンチャって、地味な伴奏に徹しているものなんだ。

これがさ、やっと地獄のホストクラブ状態から解放されるーと思うと、弾むんだよねー、リズムが。

あんまり俺が浮かれると、メロディーを担当している詩文は、極限(きょくげんの早びきに追い込まれるから、音が緊迫(きんぱくしてさ。

いや、すごい。

この速さについてくる詩文って、やっぱ、天才。

プロのヴァイオリニストにも、なかなかこのテンポで超絶技巧を披露できる人間は、いないと思う。

大汗かいて最後までひききった詩文が、うわっと弓をかかげたら、お客さんは大興奮。

詩文は、かんかんに怒っていて、ピアノの椅子から立ちあがろうとした俺のむこうずねを、力いっぱい、けとばしてくれたぜ。

広い第二音楽室をうめつくしたお客さんに大爆笑されたけれど、もうどうでもいいもんね。

とにかく、おわりだ!

そのまま第二音楽室から飛び出して

「渡辺くん、どこいくの!」

「トイレくらい、いかせろ!」

って、背中に浴びせられた吉澤の声にそう答えて、階段をかけおりる。

トイレなんて、大(うそ

もう義理は、はたしたもんね。

あと30分ほどで、高等部の文化祭の公開時間は終了だ。

第二音楽室へは、もどるもんか!

えいっと階段の最後の三段を飛びおりたら、後ろから笑い声がきこえた。

なんか きき覚えのある笑い声だなあと思ってふりむいたら、そこには木梨さんがいて、はあはあ息を切らせていた。

「夏海くん、足、はやっ!」

「き、木梨さん!」

「しーっ! 声、大きいよ!」

唇のまえに人差し指をたてた木梨さんは、帽子を目深にかぶって、淡い色のサングラスをかけていた。

ぱっと見た程度では女優『木梨玲子』だとばれない、軽い変装って感じだ。

「そといこ、そとへ」

木梨さんは、そのままするりと俺の腕に自分の手をからめ、なにくわぬ顔で、歩きはじめた。

風のむきのせいなのか、髪から、ふわりと花の香りがただよってくる。

くすくすと笑う木梨さんの肩が、震えている。

「そといったって、夏海くんが、そのかっこうじゃなあ。 めだつよね、やっぱり」

そりゃね、タキシードなんか、着てんだもん。

自分の腕にからんでいる木梨さんの手を意識しながら、俺は、ぼそぼそと答えた。

「じゃあ、体育館の裏にでもいく?」

くすくすの震えがとまって、明るい笑い声が、木梨さんの唇からこぼれちる。

「うわお、体育館の裏! なんて、すてきな響き! 高校生らしい青春の匂いが、プンプンするね!」

「ばばくせー! 木梨さんだって、まだ大学生だろっ!」

俺は、必死に前を見て、平気な顔をとりつくろった。

そうしないと体中の血が頭にのぼって、卒倒(そっとうしてしまいそうだった。

体育館とテニスコートにはさまれた道は、キャンパスの奥まった一角だ。

学園祭の最終日の午後3時半すぎ。

なんとなく、祭りはもう終わったって気分が、あたりを支配している。

常磐音大の後夜祭は、コンサートホールで行われる学生オーケストラの演奏会だから、はやばやとかたづけに入っている模擬店もある。

俺たちは、その一軒から、売れ残りの缶ジュースを二本買って、体育館の裏手にある芝生(しばふの土手のほうへ入っていった。

土手の下は石垣になっていて、少し低い位置にある学生寮や職員駐車場を見おろせる。

ひなたぼっこにちょうどいいもんで、最近、俺をふくむ一年生男子の、昼飯時の、お気に入りの場所なんだ。

ちょっと冷たい秋風をほほに感じながら、俺と木梨さんは、乾いた芝生のうえに腰をおろした。

持っていた缶をひとつ木梨さんに渡してから、俺は自分の分をあけて、半分くらい、いっきに飲み干してしまった。

「はー、やれやれだ。 クラスの出し物がいそがしくてさ。 俺ってば、朝から、ほとんど飲まず食わずだったんだ」

木梨さんは、サングラスをはずした。

まぶしそうに細められた目が、きらきら陽気に輝いている。

「でも、すっごく、楽しそうだったじゃない?」

「そうかな」

「はじけてたよ、音楽が」

「聴いてたの、あれ?」

「うん。 こっそり、うしろのほうでね」

缶のプルタブを引きながら、木梨さんが、ため息をつく。

「ホントは、昨日の午後の、音高のコンサートを聴きにきたかったんだけど。
仕事、ぬけられなくて、ダメだった」

「音高のコンサート?」

「うん。 夏海くんと、詩文くんの音が、聴きたかった」

「んじゃあ、昨日きても、意味なかったよ。
俺はクラスメイトの女子と小品の連弾やっただけだし、詩文はそもそも、コンサートにでなかった」

「えっ? 詩文くん、でなかったの?」

「一年生は選抜された生徒しか、コンサートにでられないんだよ。
詩文がいくらうまくても、いっしょにグループ組んだ弦楽合奏団のアンサンブルが悪かったら、アウトなんだ。

詩文のやつ、くやしがってたぜー。
グループを指導した指揮者の実力の差だ、なんていっちゃってさ。
じつは、やつって、負けず嫌い」

俺は、真顔で木梨さんにたずねた。

「ねえ、なんで木梨さん、俺たちの音を聴きたかったの? 仕事、ぬけてまでして」

木梨さんは苦笑した。

「なんかねえ、元気がでるんだよ。 きみたちの生の音を聴くと。
わたしもね、デビューは16歳のときだったから。
夏海くんたちの音を聴くとね、大好きなこと、がむしゃらにやっていた自分を、思い出すんだなあ。

いま、ちょっと、スランプかもしれない。
一生懸命やってきて、はっと、われに返ったら、いいのかな、これで――、なんてね」

「ドラマ、評判いいみたいじゃん」

「うん、そうなんだよ。
だからね、これでいいのかなって、心配になる。

ドラマのなかの『ハルカ』って、純粋なんだよねー。
実際には、こんな女の子いないよー、なんてさ。
やってる本人が、つっこみ、いれたくなっちゃったりして。

でも、役者の仕事は、演技を見てくれる人に、夢を見させることだから」

「夢を見させるのか」

「うん。 どうせなら、いい夢、見てもらいたいじゃない?」

「わかるよ、そういう気持ち」

「わかる?
そうよね?
音楽も、おなじだよね?
わたしたちの仕事って、感動を受け手に伝えることだもんね!」

今度は、俺のほうが、ため息をついちゃった。

「仕事かあ。
俺はさあ、いま、そのへんが、ぴんとこなくて、迷っちゃってる感じなんだよな。
たいした実力があるわけじゃないのに、オーケストラと協奏曲ひく仕事なんか、もらっちゃったりして。
ちゃんとやれるのかと思うと、それだけで、びびっちゃうんだ」

「なにいってんのよ。
このあいだの『タイトルのない演奏会』でのラフマニノフなんか、かっこよかったぞー」

「あれはなあ、火事場の馬鹿力だぜ」

「追いつめられて力が出るのは、底力を持っている証拠じゃない。

だいたいね、クラシック音楽なんていったら、『エリーゼのために』と『トルコ行進曲』しか知らなかったわたしが、ラフマニノフなんて、ロシア人の名前を覚えちゃったんだよ?
それ、夏海くんのピアノの威力(いりょくのせいなんだから。

あのとき夏海くんの演奏を聴いたから、わたしは、きっと一生、ラフマニノフって作曲家の名前を覚えてる。
まちがいなくね」

「木梨さん、くち、うまいぞ」

「おせじじゃないってば!」

俺たちは声をあげて笑った。

笑ったら、なんか、気持ちがすっきりして、嬉しかった。

木梨さんにも、やっぱり迷いがあるんだなって、わかったからな。

無から、なにかを作りあげる仕事って、どんな仕事でも、おなじような辛さがあるんだ。

苦しいけれど、感動を味わいたいから。

その感動を受け手に伝えたいから、俺たちはこうやって、じたばたしている。

だから照れ屋の俺にしちゃあ、まっとうなことをいってしまった。

「俺、一度、こういうことを、木梨さんと話してみたいなって、まえから思ってたんだ。
今日は、きてくれて、ありがとう」

あらと、木梨さんは俺のほうへ、むきなおった。

「それなら、電話してくれたら、よかったのに」

「だって」

俺は、赤くなった顔をかくそうとして、うつむいた。

この距離じゃ、うつむいてみたところで、赤くなってるのは、ばればれだけれど。

「どういうタイミングで電話したらいいのか、わかんない。
ドラマの撮影の仕事って、深夜までかかっちゃうこともあるんだろ?
俺だって、ふだんは学校、いってるし」

「じゃ、メールは?
連絡の手段がなくちゃ、なかなか会えないし」

「会うって……!」

「えーっ、なんでそこで、おどろくのよ!
わたしたち、もう友達だよね?」

心臓が、ばくばくいいはじめた。

お友達っていわれて、なんで興奮してるんだ?

俺って、本当に、馬鹿だ。

「ほら、携帯、だして!」

木梨さんのポケットから、真っ赤な携帯電話がとりだされる。

「まさか、わたしのメアド、夏海くんの携帯に、はいってない?」

「いや、プライベートな名刺(めいしをもらったときに、いちおう、いれてはおいたけど」

「じゃ、いますぐ、ここで、メールして」

「……うん」

俺もポケットをさぐって、携帯電話をとりだした。

木梨さんのメアドを検索して、メール作成画面を呼び出して。

「なに書きゃいいんだ?」

「じれったいなあ、空メールでいいよ」

「え? でもさ」

いちおう俺から木梨さんへの、初メールだから。

少し考えて、『ラフマニノフ好き?』と、打ちこんだ。

メールを送信したら、木梨さんの携帯の着メロが鳴ってさ。

それが、ドラマのエンディングテーマに採用された、隆明叔父さんの『無言歌』の一節だったから、俺はもう、びっくりしちゃって。

俺たちの演奏、携帯サイトでも配信されてるのかって。

ドラマ、本当に、評判がいいんだな。

「オッケー。 夏海くんのメアド、こっちにも登録したよ。
ためしに返事、送るよ」

俺の携帯の着メロが鳴る。

あわてて親指を動かして、電子音をとめた。

だって、いま、俺の携帯の着信音は、ぜんぶシューマンの小品や歌曲なんだ。
その曲なんの曲なのって、木梨さんにきかれたくなかった。

ホント、俺って、単純だから。

没頭して勉強しなくちゃいけないと思ったら、着メロまでシューマン。

あちこちのダウンロードサイトをまわって着メロ探すひまに、ピアノの練習をしたほうが、よほど有意義(ゆういぎだってのに。

親指をもう一度動かして、メールを表示する。

あらわれた文字は――。

『大好き!』

ずっきんと、痛いくらい、心臓がはねた。

木梨さんが好きなのは、ラフマニノフだって、わかっているけれど……!

「ねえ、いちどさ、ドラマの撮影スタジオへ、遊びにおいでよ。
出演者みんなが、よろこぶから」

「撮影スタジオ?」

「そう。 ね? いいでしょ?」

「詩文もいっしょに行けるようだったら、行こうかな」

俺ひとりじゃ、ドラマの撮影現場に行ってあいさつするなんて、とてもそんな勇気はでないよ。 情けないけれど。

木梨さんは、携帯電話をとじながらいった。

「約束だよー! メールで、撮影予定、知らせるからね!」

嫌とはいえないままに、約束をかわしてしまう。

そもそも俺には、スタジオ見学とやらに、自分が行きたいのか行きたくないのかさえ、わからなくなっていた。

ただ、木梨さんは、やっぱり笑顔が輝く人だなあ、なんて、アホなことを考えただけだった。