そして、その翌日。

俺は、ドラマのエンディングの映像のことで、悪友どもから、さんざんからかわれるだろうなあと覚悟を決めてから、学校へでかけていった。

しかし、俺の予想は、大きくはずれた。

俺は、なんと、教室へたどりつけなかったんだ。

吉澤のやつが、下駄箱(げたばこの前で、俺を待っていたんだよ!

俺の姿をみつけるなり、やつは、かけよってきて。

「渡辺くん、お願い!
いっしょにレッスン室へきて!
いますぐ、聴いてもらいたいの!」

「聴くって、なにを?」

「いいから!」

問答無用って調子で、腕をひっつかまれた。

「おい、吉澤! まて! 靴ぐらい、はきかえさせろっ!」

あやうく土足のままで、レッスン室へ連行されるところだったぜ。

それに、いやーな予感がした。

吉澤は俺を、わざわざ3階のいちばんすみっこのレッスン室へ つれていったんだ。

これって、とうぶんのあいだ、俺を拉致(らちって、解放してくれるつもりがないってことじゃないのか?

大きな音をたてて防音扉を閉めた吉澤は、つかつかと、ピアノへ歩みよった。

「口でいっても、わたしのイメージは、渡辺くんに伝わらないから」

「うん」

「だから、聴いて」

ピアノの前にすわって、吉澤は、おもむろにブラームスのハンガリー舞曲をひきはじめた。

俺は、文句もいえないまま、その場に立ちつくした。

だって、吉澤は、ブラームスのハンガリー舞曲を、第1番から順番にひきはじめたんだ。

圧倒された。

ブラームスは、この『ハンガリー舞曲集』という連弾曲集を、えらく気に入っていて、何曲かをオーケストラ用に編曲したほかに、最初の10曲を、独奏ピアノ用にも編曲しているんだ。

吉澤がひいたのは、この独奏編曲版だった。

なんて迫力だろう。

音にこもった気迫のせいで、俺の全身に鳥肌がたった。

音のはしばしに、悲痛な叫びが、宿っているんだ。

長調の愛らしいメロディーを奏でているときでさえ、なにか失ったものを懐かしむような、切ない響きを感じさせる。

激しい舞踏(ぶとう高潮(こうちょうすると、まるで横面を張り飛ばされるような、衝撃が襲いかかってくる。

これが、吉澤の、ハンガリー舞曲のイメージなのか!

夏休みの前に吉澤がひいていた、よく勉強してある模範的なショパンの演奏なんか、どこかへ消し飛んでいた。

あんなの、吉澤の音楽じゃなかったんだ。

苦しい。

いまの吉澤の音は、聴き手の胸をしぼりあげて、殺してしまいそうな音だ。

息がつまって、本当に、……苦しい!

吉澤の演奏は最後まで情熱的で、全10曲でもって、完全に俺をノックアウトした。

聴きおわって放心した俺は、背負っていたリュックを防音扉にこすりつけながら、床にへたりこんだ。

マジで貧血おこしたみたいになって、立っていられなかったんだ。

しばらく自分の(ひざのあいだに頭をつっこんだ俺は、口をきけなかった。

吉澤も、黙りこんでいる。

意識の遠くだけが、なぜかはっきりと、目覚めていた。

その遠い意識で、くだらないことを考える。

いまごろ出席をとる担任の沖村先生が、吉澤さんと渡辺くんは休みなのって、詩文あたりに きいているだろう。

詩文が、てきとうに、言い訳しておいてくれれば、いいんだけれど……。

頭をふって、遠のいていた意識を、今現在に呼びもどす。

「なんでなんだよ」

やっとの思いで、俺は、それだけいった。

顔は、とてもあげられなかった。

耳に、吉澤の声が、くぐもって聞こえる。

俺は頭を抱えちゃっているから。

「どうしても、文化祭のコンサートにでたいの」

「俺が聞きたいのは、そんなことじゃない」

「じゃあ」

「なんで、そういう音が、でるんだよ!
普通、高校生の音って、もっと明るいもんじゃないのか?
おまえの音、最初っから最後まで、泣きが入ってたぞ!
暗くって、重くって、…… くっそおっ!」

涙がでそうだったなんて、いえるかよ!

吉澤は、しばらくいいよどんだあと、ポツリと答えた。

「わたし、この学校、やめるかもしれない」

「なんでだよ!」

がばっと顔をあげた俺のことを、吉澤は苦笑してみていた。

「小泉教授とケンカした生徒に、常磐音高での居場所なんて、あると思う?」

俺は、むきになっていいかえした。

「ピアノ科の教授は小泉先生だけじゃないぞ。

まともなレッスンをしてもらえないって話は、聞いたけど。
それなら、戦えよ!

親にいって、教師へ抗議してもらえ!
生徒のいうことには耳を貸さなくても、親がでてくりゃ、馬鹿教師も動くだろ?

谷崎教授だって、無責任に吉澤の演奏を、けなしたわけじゃない。
谷崎教授のひとことがきっかけで吉澤が変わったんだとなったら、新堂先生あたりに、担当教師を変更してくれるように、働きかけてくれるはずだ」

「渡辺くんは、人の善意を、まっすぐに信じられる人だから」

「それって、お人よしっていわれているようで、不愉快(ふゆかいだ」

「いいなって、うらやましいから。
渡辺くんは、御両親や、お祖父さまや、お祖母さまや、叔父さまに、大切に愛されてきた、幸せな人だもん」

「おまえだって、そうじゃないのか?」

吉澤は大きな楽器屋の、社長一族の令嬢なのに。

ピアニストなんてさ、やっぱり家庭環境が整っていないと、育たないものだよ。

親が、一生遊ばせてもいいやってくらいの、おおらかな覚悟を子供にたいして持っているか、あるいは、芸能人を育てる親みたいに、子供の才能にかけるって、のめりこんでいてくれないと。

ごく普通の『まともに(かせいで、そこそこ幸せになってくれ』なんて価値観を持った親のもとでは、才能なんて、育たない。

芸事(げいごとって、そういうものだ。

しばらく沈黙したあと、会話が再開する。

「わたしだって、母に相談くらいは、したのよ」

唇を震わせて、吉澤は、うつむいた。

「でも、後悔するはめに、なっただけ」

膝のうえで、制服のスカートが、固く握られる。

「わたしから話を聞いた母は、驚いて、すぐに父へ電話したわ」

「ほら、親って、そういうものだ」

「ちがうの! わたしの親は、渡辺くんのご両親とは、ちがうんだってば!」

高ぶった感情を静めようとして、吉澤は何度も、息をすった。

「母は、父へ電話したところで、問題をすべて丸投げよ。
母は、こまったことはなんでも、父に相談するの。
自分じゃなにも、考えない。
お金持ちの奥様の優雅な生活を楽しんでいられれば、それで幸せな人なの。
毎日のようにお稽古事(けいこごとに通って、お友達と観劇の時に着ていく着物の相談をして、ランチを食べ歩いて、お買い物にでかけて!」

「じゃあ、……親父さんは?」

「父は、留学を考えたらどうだって、その日のうちに、受入先を3ヵ所も探してきたわ」

「いきなり、――留学かよ!」

「うん。 吉澤楽器の娘が、常磐音大の教授とトラブルを起こしてはいけないということくらい、賢いきみにはわかるはずだねって、いわれた。
ピアノの勉強をつづけたい気持ちがあるのなら、いっそ海外へいきなさいって」

「おまえの親父さんって、高校生の俺のところへ、菓子折り持って謝りにきたくらいだもんな。
仕事に対するポリシーが、そこまで徹底してるのか」

「うん」

だけど、この話、ひどくないか?

娘の気持ちを聞いてやるとか、なにかしかるべきリアクションがあってから、留学なんて話は、でてくるもんだろう?

やっぱり吉澤の家の親子関係って、普通じゃないよ。

「そりゃね、わたしは、恵まれてるのだろうって、思うのよ。
すぐに安心してでかけられる留学先を手配してもらえて、お金の心配なんか、まったくする必要がないし」

でもと、吉澤は俺の目を、まっすぐにみつめた。

釈然(しゃくぜんとしないの。
このまま、追い出されるみたいにして、この学校をやめて海外へいくなんて、納得がいかないの。
小泉先生と、三条先生に、これがわたしのピアノよって聴かせてからでなきゃ、わたしは先へ、進めないような気がしてるの」

「だから、コンサートに、でたいのか」

「渡辺くんが、ピアノの演奏に順位をつけるの、嫌いだって、知ってるけど!」

「わかったよ」

びっくりした顔の吉澤に、俺は いった。

「一番、とってやる。 これが吉澤のピアノだって、演奏でだ」

「いいの……?」

「良いも悪いも あるかよ。 やるしかないだろ。
ちょっと待ってろ。
俺、となりのレッスン室から、ピアノの椅子、かっぱらってくるから」

俺は急いで、となりのレッスン室へいって、ピアノの椅子をはこんだ。

3階のレッスン室は、ピアノが一台しか入っていない、小さな部屋ばかりだからな。

連弾の定位置に椅子を並べるまえに、吉澤にいう。

「もう一度、さっきの、聴かせろよ」

「独奏版?」

「うん、10曲、全部。 音のイメージ、固めるから」

「わかった」

演奏がはじまる。

切ない、苦しい音。

吉澤の執念だ。

小泉教授と三条先生を、ぎゃふんといわせなきゃ、留学になんかいけるかって。

その心意気こそが、おまえらしさだと、俺は思った。

ここしばらく吉澤が、俺に連弾の練習をせまってこなかったのは、これを練習していたからなんだろう。

アホなやつだぜ。

なんで、独奏版、10曲全部なんだ?

ただ俺に聴かせるためだけなら、連弾の練習をしている第5番を、一曲だけ練習すりゃあ、よかったはずなのに。

10曲全部ひかなきゃ気がすまなかったってところに、吉澤の怨念(おんねんのすごさが、こもっているのかもな。

心のたけを、音楽にたくす。

こういうたくしかたも、ありなんだな。

マイナスの感情だって、音楽にエネルギーを与えるもとになる。

俺は、またひとつ、開眼した気分だった。

それに、吉澤の音に宿る哀感にかくされた、もうひとつの理由。

だれよりも近しい人であるはずの両親とのあいだに、距離感を感じている吉澤の、悲しさみたいなもの。

それを、吉澤は表現したがっている。

でも、ひとりでする演奏では、とりあってもらうことすらできない状況だ。

なら、連弾で、やってみせるしかないじゃないか。

いくら三条先生が小泉教授の子分で、常磐音高ピアノ専任講師の主任だからといっても、吉澤といっしょに俺まで無視することは、できないはずだ。

このときばかりは、隆明叔父さんの名声の力を、心強いと思ったぞ。

俺をコケにしやがったら、俺の親も、隆明叔父さんも、黙っちゃいないからな!

渡辺家ってのは、そういう家なんだ。

熱血漢の、馬鹿集団。

そう、俺は馬鹿なんだ。

すべてを傾けて吉澤の音楽を理解して、いっしょにそれを表現してやろうなんて、無謀(むぼうな取り組みを、平気でやっちまうんだから。

 

 

ホント、俺は馬鹿だった。

問題の合奏の授業は月曜日で、時間がどうにも足りなかったから、金曜日は、まるごと一日、授業をフケた。

正確には、気がついたら、そういうことになっちまってたんだ。

俺と吉澤は、弁当も食わずに、練習に熱中していたから。

詩文は、朝のホームルームのとき、担任の沖村先生にむかって

「渡辺夏海は、なれないことをやりすぎて、知恵熱がでたので休みです」

(うそをついてくれていたけれど、そのありがたい嘘も、俺自身が、台無しにしてしまったし。

金曜日の一時間目は、一年生の副科のレッスンにあてられていたんだよ。

弦楽器や管楽器や声楽を専攻している連中が、いっせいにピアノのレッスンを受けることになっている時間だ。

だから、俺と吉澤がレッスン室をひとつ占領(せんりょうして、授業をさぼって連弾の練習をしていることが、すぐにばれちまった。

ホントにホントに、馬鹿な俺。

さっさと大学部のレッスン棟へでも、移動しときゃあいいものを。

もっとも、それが問題にならないところが、常磐音高のすごいところなのかもしれない。

練習に没頭(ぼっとうしている俺と吉澤を、先生たちは、もうしあわせたように、放っておいてくれたんだ。

まるで、その昔、指揮者になる決心をした渡辺隆明少年が、授業をさぼって大学のオーケストラの練習を見にいってしまうのを、それもまたよしと、先生たちが温かく見守っていたという、伝説のエピソードそのままにだ。

窮屈(きゅうくつな学校では、おおらかな才能は育たないって、神野先生、いってたもんなあ……。

しかし、詩文よ。

おまえ、『知恵熱』ってなんだよ?

もう少し、ましないいわけを、すりゃあいいのに。

くだらない日本語ばっかり、覚えやがって。

そんでもって、俺と吉澤は、土曜日も、日曜日も、練習した。

早朝から、大学のレッスン棟へ、もぐりこんでな。

そして、いよいよ三条先生と対決する、月曜日がめぐってきたんだ。

 

 

三条先生との対決は、これまたちょっとした学校の伝説になりそうな、ハデな事件になってしまった。

なにしろ、第二音楽室には、満場の聴衆がいた。

第一音楽室と合奏練習室に分かれて、弦楽セレナーデの練習をしているはずの弦楽器専攻のやつらや、大学のリハーサル室へでかけていって練習するはずだった金管楽器専攻の連中、音楽鑑賞室をわりあてられた木管楽器専攻の連中、レッスン室で二重唱を歌う声楽専攻の連中、マリンバアンサンブルをやっていたパーカッション専攻の……。

ようするに、一年生のクラスメイト全員が、第二音楽室へいたわけだ。

クラスメイトを扇動(せんどうしたのは、いうまでもなく、俺の悪友どもだった。

俺が、なんで吉澤との連弾に没頭していたのかを、打ち明けたからな。

ヒデとリードと詩文が、聴衆のほぼ真ん中で、不敵に笑っている。

一匹狼の植村でさえ、窓際に腕組みをして立っている。

興味半分だろうがなんだろうが、ありがたい応援だった。

やっぱりな、生徒側にしてみたら、自分の将来を教師たちの好き勝手にされちゃあかなわないという気持ちがあるんだろう。

学校ってのは、俺たちを守り育てるゆりかごであり、束縛(そくばくする(おりでもあるんだ。

理不尽(りふじんなしめつけには、だれだって抗議したいだろう。

でも、師弟の上下関係が絶対になりがちな音楽の勉強をしていると、いいたいことがいえないやつって、多いと思うんだ。

あえてクラスメイトが教師に逆らおうとしているとなったら、自分のまわりにも、涼風を感じる気分になるんじゃないのかな。

三条先生と神野先生は、緊張した顔で、チャイムと同時に第二音楽室へはいってきた。

教室いっぱいの生徒をみて、三条先生は何かいおうとしたけれど、「てめー、何かいったら、いいかえすぞ」と身構えている男子生徒たちににらまれて、この状況を、教師の権力でどうにかしようとするのは、あきらめたみたいだった。

聴衆は、まだまだ増えそうな、気配だったしな。

それぞれのグループを指導する教師たちが、もぬけの(からの自分の教室をみて、驚いて集まってきていたし、騒ぎを聞きつけた、担任の沖村先生と、教頭先生もきたし。

よし。

舞台装置は万全だと、俺は思った。

立ちあがって、ふてぶてしく、三条先生にいったさ。

「先生。 前回の授業で演奏できなかった俺たちのペアが、最初に演奏して、いいですよね?」

「え、ええ。 そうですね。 よろしいですわよ」

びびった三条先生は、なるべく教室をうめつくしている生徒たちと、目を合わせないようにしている。

教室中に、忍び笑いが飛びかった。

三条先生はなあ、ピアニストというよりは、どっしりとした体型の、オペラ歌手みたいな雰囲気の、おばちゃんなんだよ。

いつも派手な服を着てて、首の(しわをかくすためのロングスカーフを背中にたらして、風になびかせている。

いまだに自分が20代のころの美貌(びぼうを維持していると勘違(かんちがいしている、痛いタイプっつーのかな。

そのおばちゃんをへこませた、俺たち生徒の気分って、そりゃあもう、さわやかなものだった。

前にでて、ピアノの椅子にすわった俺と吉澤は、目をみかわした。

きゅっと唇をかんだ吉澤は、かなり緊張しているみたいだった。

だから、いってやった。

「いいから、おまえ、やりたいようにやれ。 きっちり俺が、フォローしてやる」

三日間の練習で、吉澤のくせや演奏の性質は、すべてのみこんだつもりだった。

俺はな、アンサンブルをこよなく愛する、オーケストラ少年なんだよ。

音を合わせることに関してだけは、ちょとばかり自信がある。

吉澤がどんな演奏をしても、そくざに対応して、そのときそのときにふさわしい響きをたたき出して、思うぞんぶん吉澤に、こだわりを語らせてやろうと思っていた。

みんなが息を飲んで、俺たちに注目している。

いい気分じゃないか、吉澤。

やっぱり演奏家ってのは、聴いてくれる人がいてこそ、成り立つ商売だぜ。

俺、そういうことを、演奏会のたびに思うんだ。

ま、いままでの俺の聴衆のほとんどは、桜交響楽団の、アットホームな聴き手ばかりだったんだけどな。

でも、常磐音高に通うようになって、俺はちがう種類の聴き手の前に出ていく機会を、何度も得た。

そのたびに思うことは――。

いい音楽を奏でたい。

感動を、聴き手と分かちあいたい。

それだけだよ。

ここでは、音楽だけに集中しようぜ。

悩みや苦しみを、音にたくすのはいい。

でも、音楽は、聴き手あってのものだから。

(うらみ言を音にこめるのだけは、やめよう。

そんなことを、俺たちは練習しながら、話し合ったんだよな。

すうと、俺のとなりで、吉澤が息を吸う。

俺も同じ呼吸をする。

胸がいっぱいに(ふくらんだ瞬間に、音楽がはじまる。

第一音から、魂がこもった音がでた。

吉澤が奏でる主題のメロディーを、俺の低音が支える。

メロディーは自在にゆれる。

自由で奔放(ほんぽう

それがジプシーの魂。

自由を手にする代償(だいしょうに、失うものの大きさ。

なんだか、小泉教授と決別した吉澤が、いままさに苦しんでいる状況と似ているな。

自分の思うとおりにならない生徒をいじめる教師なんて、理由もなくジプシーを差別する大人の社会を、そのまま映したみたいな存在だ。

聴いてくれ!

理不尽なことをされると、苦しいんだ!

怒りがわくんだ!

だから、奔放なメロディーの最後には、強烈なアクセントがつく。

俺たちは、ここにいて、音楽を奏でている。

聴いてくれ!

音にたくされた叫びを、聴いてくれ!

神経がちぎれそうな、和音がとどろく。

吉澤め。

好きなようにやれといったら、本当に爆発しやがる。

俺は必死だ。

吉澤においてけぼりを食わないように。

吉澤の音楽を生かしてやるためには、俺の低音が、しっかりとしたリズムで、全体のスケールの大きさを示さなくちゃならない。

どっしりと、腰のすわった音でだ。

ゆるぎない、理想を追い求める精神の存在を暗示する音で。

そして、音楽は高みに駆け登る。

この第5番が、全部で21曲あるブラームスのハンガリー舞曲の中で最高の傑作(けっさくとされるのは、奔放さと同時に、完成された構造美までを持っているからだ。

ラスト三つの和音で、音楽は完璧な終わりを告げる。

激しかった、すべての余韻(よいんを、聴き手の心に刻みつけて。

残響が完全に消えた瞬間、わっと教室がわいた。

それと同時に、吉澤が、俺に抱きついてきた。

俺は、パニックだよ!

真っ赤になって暴れましたとも。

「やっ、やめろ〜〜〜〜っ!  はなせっ!
吉澤っ、おまえ、俺のことを男だと思ってないな!
抱きつくなって、いってんだあ〜〜〜〜!
はなせええええええっ!」

拍手が爆笑に変わった。

ああ、俺って、ほんとに何をやっても、最後が決まらん人間だ。

だけど、たまらなかったんだ。

抱きついてきた吉澤は、まちがいなく『女』だった。

『男』とは、ちがう生き物だったんだ。

谷崎先生が、いったとおりだった。

細っこくて、ふわふわしてて、いい匂い――。

に、匂い !?

なんちゅーことを考えてるんだ、夏海、おまえは!

自分で自分をしかりつけたら、やっと正気にもどれた。

大暴れして吉澤の抱きつき攻撃から逃れた俺は、ピアノから5歩くらい離れた位置へ、飛びすさった。

あらためて、その位置で、第二音楽室のなかを見まわしてしまった。

しんと、あたりは静まり返ってしまっていた。

みんなが、俺のひとことを待っている。

なんで、俺なんだよ?

問題の中心にいるのは、吉澤なのに。

三条先生までが、びくびくしながら、俺のほうを見ているし。

何をいえば、いいんだよ?

俺、あんまし頭がいいほうじゃないんだぞ。

理屈じゃとても、吉澤には、太刀打ちできない。

こまりはてて視線を泳がせたら、教室の一番うしろに、吉澤の親父さんを見つけてしまった。

なんで吉澤の親父が、ここにいるのか。

そりゃ、俺が電話で呼びつけたからだ。

いいたいことが山ほどあったけれど、こちらから出向いていったんじゃ、いいたいことは半分も伝わらないと思ったから。

「こいよ」

俺は吉澤の腕をつかんで、まっすぐに吉澤の親父のところへいった。

「吉澤さん!」

あとで考えると、恥ずかしいぜ。

この時の俺の言動には、若さっちゅーものが、ほとばしりまくってたもんね。

(えろ、若造――、みたいな感じ?

もうちょっと冷静に、話しゃあいいのに。

でも、この時は、おさえがきかなかった。

俺は吉澤の親父に、問答無用と、かみついた。

「俺が、いちばん文句をいいたいのは、あんたになんだよ!
夫婦そろってこいっていったのに、女房はどうしたんだよ!」

「いや、佳織の母親は……」

「また、お買い物か? お友達と展覧会へおでかけか?」

痛いところをつかれたらしい、吉澤の親父は、黙りこんだ。

「あんた、仮にも音楽を商売の種にして、飯を食ってんだよな?

なら、今の演奏で、ぜんぶわかったよな?
俺がつべこべいう必要は、何もないよな?

吉澤の話を、ちゃんと聞け!

親ってのは、子供の、いちばんの理解者なんじゃねえの?
高校生を、なめんなよ!
俺たちはなあ、もう親がどういう人間かわかる程度には、大人なんだ!
子供を失望させる親なんて、最低だ!」

吉澤の腕をひっぱって、どんと、親父さんの胸に押しつけてやった。

「きょーとーせんせいっ!」

俺の怒鳴り声で、教頭先生は飛びあがった。

「いま、時間ありますか!」

ないとはいわせねえぞ。 暇そうな顔をして、俺たちの授業を、のぞきにきていたくせに。

そういう気持ちが、俺の極悪(ごくあくの目つきには、宿っていたらしい。

「あるとも、あるとも」といいながら、教頭先生は、こちらに かけてきた。

俺は吉澤親子を、教頭先生の前におしだした。

「んっじゃあ、吉澤んちと、親子面談やってください」

そして、そのままの勢いで、背後のクラスメイトのほうへわめく。

「見世物は、これで終わりだ! さっさと、自分の授業へもどれよ!
見物料をとらないんだから、ありがたく思え!」

どっと、クラスメイトが笑った。

「夏海、かっこいいぞ!」

「よくやった!」

「ひゅう、ひゅう!」

ヒデとリードの口笛が、硬くなったあたりの空気を、ほぐしてくれた。

ぞろぞろと、クラスメイトが移動しはじめる。

俺は出口のそばに立っていたから、やたらと、みんなに声をかけられた。

いい演奏だったとか、感動したとか。

ありがとよ。

みんなの応援があったから、ここまで張りきれたんだ。

俺は全員にそういいたかったけれど、どうにも照れ屋な性格がわざわいして、だめだった。

小さく、おう、と答えるのが精一杯だったよ。

最後にでていったのは、男子生徒たちだった。

すれちがいざまに、

「けっこう、やるじゃない」

と、詩文がいった。

ふん!

俺様にだって、このていどの行動力はあるんだ。

たとえ、きっかけは吉澤に押しまくられたからだといっても、男なら、それだけで終わったりしちゃあいけない。

正々堂々、真っ向(まっこう勝負。

それが、俺のポリシーだからな。

そんでもって、第二音楽室に残ったのは、11人の生徒と、三条先生と神野先生だけになったわけだ。

まいった。

なんで、みんなして、俺のほうをうかがうんだよ。

まだ俺が、イニシアティブをとらなきゃならない雰囲気だぜ。

ずかずかと、音楽室の前のほうに固まってすわっている仲間のところへいく。

音をたてて椅子をひき、腰をおろして、俺は思いっきり生意気な口調でいった。

「どうぞ、三条先生。 授業をつづけてください」

かーっと、三条先生の顔に血がのぼった。

神野先生が、必死に笑いだしそうなのを、こらえている。

ざまあみろだ。

俺は、胸がすく思いだった。