カフェテラス合唱隊が解散になったあと、夜からまた仕事だという木梨さんの希望で、俺たちは大学部のレッスン棟へ急いだ。
たしかに、せっかく音大までやってきて、レッスン室をみないで帰っちゃったら、取材目的の訪問は、あまり意味がないものになっちゃうもんな。
音大生の生活と、音楽の練習は、切り離せないものだよ。
たいして広くもないレッスン室にこもって、自分の音楽とひたすらむきあうのは、けっこう疲れるもんなんだぜ。
そういう、音楽を学ぶ苦しさみたいなものも、木梨さんにはぜひ、みていってもらいたい。
レッスン棟へはいるなり、木梨さんは笑ってばかりだった表情をあらためた。
「ここ、空気がちがうね」って。
そうかもしれないな。
夕方のレッスン棟には音大生があふれていて、いちおう、どの部屋にも防音がしてあるのに、廊下にはいろんな音楽が、こぼれでてきている。
「どこか、のぞかせてもらえないかな」
俺と詩文は、だれか知り合いの大学生が練習にきていないかなと、受付に座っている教務課のおばちゃんの前におかれている、レッスン室使用申込書の名前をみた。
レッスン室のうばいあいは、
不公平にならないように、半分くらいのレッスン室は、あらかじめ申し込んでおかなければならない予約で使用者を決めることになっているんだ。
「だれもいないなあ」
「てきとうに、まわってみる? 空いてる部屋が、ひとつくらいはあるかも」
「だな」
俺と詩文が受付のカウンターにもたれて相談していたら、聞き覚えのある声が、「おや、夏海くん」と。
ふりかえったら、そこにいたのは谷崎先生の一番弟子、俺の憧れの先輩、
野末さんは、
「どうしたの? 谷崎先生に用事かい? なら、急いだほうがいいよ。 今日のレッスンは、ぼくが最後だから。 先生は、もうお帰りになるよ」
はあ、俺、野末さんに、こういうほわっとした目でみられると、でれっとしちゃうんだよな。
いいよなあ。
ほんとに、
いつも優しくて、おだやかで、野末さんが笑うとさ、
「先生」
野末さんは、廊下の奥からやってくる谷崎先生に、声をかけた。
手にクリスタルの灰皿をもって、サンダルばきの足をぺたぺたいわせながら、あいかわらず
そして、開口一番にいった。
「夏海くん、まだ帰らなかったの?
今日はてっきり、半泣きで家へ、ふっとんで帰るんだろうなあと――」
「うぎゃあああっ、やめて、先生! その話は、また今度!」
背負っていたヴァイオリンケースを肩にせりあげた詩文は、ふふんと、鼻で笑った。
「やっぱり夏海が真っ暗になってたのは、レッスンで先生に、なにかいわれたからなんだ」
「うっせーよ、おまえはっ!」
「夏海が真っ暗になってると、直接被害をうけるのは、いつもぼくじゃないか。 さっきだって、掃除当番、さぼってさ!」
「優等生のおまえに、俺の気持ちが、わかってたまるか!」
「なんて言い草だよ!
心配してそっとしておいてやったら、いつのまにか、ご機嫌にもどってて、木梨さんと遊んでるし!」
「俺だってなあ――」
あやうく、どつきあいに突入しそうになった俺と詩文のあいだに、野末さんがわりこんだ。
「まあまあ、きみたち。
そして、ぐいっと俺たちの肩をおして体のむきをかえ、正気にひきもどしてくれる。
「お客さんが、びっくりしているじゃないか。
どうも、きみたちの話から察するに、お客さんは、木梨玲子さんなのかな?
見覚えのある方だなと、思っていたけれど。 正解?」
木梨さんは、声を必死におさえて笑っていた。
うっきー、はずかしい!
谷崎先生は灰皿を受付のカウンターにおいて、うれしそうに居ずまいを正した。
「いやあ、これはどうも。
たしか、渡辺先生の例のドラマに、主演されるんでしたね。
すみませんねえ。 この子たちは、二人そろうと、やんちゃで。
ときどき手におえないんですよ」
って、そりゃ、先生、いくらなんでもひどくないか。
俺だって、高校生になってからは、だいぶ落ち着いてきたと思うのに。
詩文が、そっぽをむいて、つぶやいた。
「ぼくは夏海に、ひきずられているだけだ」
「なんだと、てめえ!」
「あー、こらこら。 いいかげんにしなさい」
ぺん、ぺん、って、俺と詩文は谷崎先生に、おでこの真ん中をたたかれてしまった。
情けねえ……。
木梨さんは、まだ笑ってるし。
「いいわねえ。 詩文くんと夏海くんって、ほんとに仲良しなんだ」
なんていわれた。
しょうがない。
気をとりなおして、俺は師匠と野末さんを木梨さんに紹介した。
「木梨さん、こちらは俺のピアノの先生で、常磐音楽大学の谷崎教授。
それから、谷崎先生の一番弟子の野末徹さん。
すっごいすてきなピアノをひくんだよ」
ひととおり、あいさつのやりとりがすんだら、谷崎先生に、なんでレッスン棟へきたのかって、きかれた。
理由を話したら、自分がいつも学生とのレッスンに使っている103号室が、いまなら空いていると、教えてくれた。
一階の広めのレッスン室には、グランドピアノが2台ずつ入っているから、だいたい日中はピアノ科の個人レッスンに使われているんだよね。
礼をいって木梨さんを案内しようとしたら、俺たちのうしろに、谷崎先生も、野末さんも、くっついてきた。
「先生?」
なんの用だよと俺がふりむいたら、谷崎先生は、へらっと笑って、携帯をとりだしてさ。
「いっしょにワンショット、だめかなあ。 清美さんと息子たちにみせて、自慢したいの」
野末さんまでが……。
「ぼくはサインでいいんだけど、ぜひ」って。
音楽家は、みんなオタッキーな連中だけどさ。
いがいと素顔は、こんなもんなんだよ。
人気女優と知りあえたら、大喜びだって。
そんなわけで、俺たちは総勢5人で、103号レッスン室へはいった。
広めのレッスン室も、人が5人いると、なんか息苦しいや。
防音室って、もともと閉鎖的な空間だからな。
2台ならんだグランドピアノのまわりを、ぐるっとまわった木梨さんは、ちゅうをみつめてさ。
「
無知な俺は質問。
「誠って、だれ?」
「『瀬川誠』。 ドラマのなかで、御園英司さんが演じる音大生よ。
不器用だけど、誠実な人」
「誠実だから誠って名前なの?」
木梨さんは大真面目でいいかえした。
「わざと、ねらってるのよ。
最近、日本のテレビ局がつくるドラマって、不発ばっかりでしょ?
韓国製のドラマが新鮮だって、ものすごい視聴率を、たたきだしているし。
だから、変に流行を追ったり、ひねりをいれたりしないで、直球勝負の作品をつくるって、コンセプトなの。
ドラマのサントラに詩文くんと夏海くんの音楽が採用になったのだって、渡辺先生の名声に便乗するためだけじゃないんだから。
ピアノとヴァイオリンで奏でられた、シンプルな音から生みだされる世界をいかした映像になるのよ。
楽しみにしてて。
ドラマの世界をつくりあげるのは、わたしが演じる『北浦ハルカ』と、御園さんが演じる『瀬川誠』なの。
ほかの だれでもないわ」
俺は、木梨さんを、かっこいいと思った。
テレビドラマをつくるのは大勢のスタッフだけれど、主役を演じる俳優が、作品世界のすべてを代表するっていうのは、本当だろう。
木梨さんは、そういう責任をまっこうから受けとめて、まかせてくれといえる人だから、人気女優でいられるんだ。
どこの世界でも、まっすぐ前をむいている人は輝いている。
俺、女の人に対して、こんなに共感するのって、はじめてかもしれない。
尊敬するし、憧れるし。
かっこいいよ。
すごいや。
「ねえ、せっかくレッスン室をみせてもらったから、二人で一曲、きかせてくれない?」
ピアノにもたれた木梨さんにお願いされて、俺は、すかさず答えていた。
「よろこんで!」
詩文が俺のとなりで、息をのんだ。
こういう時、返事をするのは、いつだって詩文の役目だったから。
でも、俺は無意識に、しゃべってたんだ。
「リクエストある?」
「うん。 エンディングテーマに採用になった『無言歌』がいいな」
「オッケー、オッケー」
さっき俺は、ミーハーだって、谷崎先生と野末さんのことを笑ったけどさ。
自分の中にも、同質なものを発見してしまって、苦笑いだよ。
この103号レッスン室で、谷崎先生に
木梨さんにいいところをみせたい俺は、本気で、はりきっちゃっててさ。
鍵盤の
「おまえ、やる気あんの?」なんて、いっちゃって。
詩文のヴァイオリンの準備をまって奏でられた音楽は、われながら、会心のできだった。
なにか、いままでとはちがう
俺って、単純なやつだから。
木梨さんに、いいところをみせたいって思っただけで、こんなに音が変わるんだ。
谷崎先生は心のストッパーをとれって俺に忠告したけれど、それって、悩みまくるほど難しいことじゃないかもしれないという気がしてきた。
ただ素直に、こうやって音に気持ちをたくしてやればいい。
静かに結ばれた最後の音が消えたら、木梨さんは大きなため息をついた。
「ありがとう。 すごく、感動しちゃった。
どういう『ハルカ』を演じるか、自分の中でイメージが固まってきたし。
勇気をもらったような気がする」
俺は、木梨さんに、じっとみつめられて、あわててしまった。
勇気をもらったのは、俺のほうもだ。
そう答えたかったけど、いえなかった。
そんなにすぐに、この照れ屋な俺の性格は、どうにかなりゃしねえ。
「ふーむ」
とつぜん、谷崎先生がうなった。
「夏海くん、ちょっとさ、スローワルツをひいてごらんよ。
ほら、あのシューマンの『蝶々』の、10曲目」
「はあ、あれですか?」
俺は記憶をたどって、鍵盤をみつめた。
手をゆっくりとかまえて。
『蝶々』の10曲目。
でだしは華やかなファンファーレだ。
不器用な兄ちゃんから仮装の衣装をうばいとった弟のヴルトが、ディーナのまえへでていくところからはじまる。
彼女の手をとって、スローワルツを踊るんだ。
夢みるアルペッジォ。
歌う旋律。
せつない三拍子のリズム。
憧れた女性の手をとって踊るって……。
こういう気分なの……、かな……。
単純な俺が、木梨さんのまえで舞いあがっちゃってるみたいに、善人ぶった弟も、ヴィーナのまえで舞いあがっちゃってたのか。
こいつ、ホントに馬鹿な男だ。
自分がいいところをみせればみせるほど、兄ちゃんの株があがるんだぜ?
おひとよしも、いいかげんにしろよ。
まるで、不器用な自分をみているみたいで、情けないや。
ヴィーナがかわいいから、たまらないんだよな。
いいとこ、みせたいよな。
ほんと、馬鹿。
短い夢の時間は、あっというまに終わり。
『蝶々』の世界も、このあと弟が派手なポロネーズでヴィーナを
ピアノから手をはなした俺は、ふうと、天井をみあげた。
ポロネーズは、来週までの課題ってことに、してもらお。
まだ俺には、人のために身をひくなんて弟の気持ちは、理解できないや。
彼女のことが好きだったら、まっすぐ行っちゃいたいもん。
視線を天井からおろした俺は、あたりをみまわした。
なんだよ、この沈黙は……?
「はあ……、ロマンチック」
と、いったのは木梨さんだ。
使ってないほうのピアノに両肘をついて、手のうえに
すっかりあきれたって目で俺をみながら、詩文が同意する。
「うん、ロマンチックだ」
「よかったよ」と、野末さんがつづく。
口もとに、笑みが浮かんでいる。
そして、谷崎先生。
「夏海くーん!」
なんだよ、師匠。
その、名前を呼んだっきり、
谷崎先生はポケットからハンカチをとりだして、広い額をふいた。
「わからん! ぼくには、まったく、きみのことがわからん!」
「はあっ?」
「なんでなの?」
「なにがですか?」
「なんで、ぼくが、ついさっきここで、けちょんけちょんにたたいてダメ出しした曲が、もうひけるようになってるんだよぉ!
そうだよ。
ロマンチックだよ、せつないよ!
そういうふうに、ひいてほしかったんだよ!
ぼくはねえ、きみみたいな不思議坊やを弟子にもつのは、はじめてで。
もうさあ、なにをやっても
あああああっ!」
悩んでますとばかりに、先生の髪の生え際が、くしゃくしゃかき混ぜられる。
「谷崎先生、夏海には、理屈は通用しないから……」
詩文がそういって、先生をなぐさめた。
野末さんが、さわやかに笑い、つられた木梨さんまでが笑って。
俺、立場がないんですけど、師匠……。
だから思わず、憎まれ口なんかきいてしまった。
「せんせー、あんまり乱暴に頭をかいたら、また毛が抜けるよ」
「うるさいっ!
先生に「ぺん!」と、脳天をはたかれてしまった。
力がこもっていたから、けっこう痛かったぞ。
たしかに俺って、谷崎先生の、いちばんのストレスの元かもしれないなあ。
そのあと先生は、鼻息も荒く宣言した。
「よし! 見切り発車だろうがなんだろうが、とにかくやるぞ!
来週からコンチェルトの練習にはいるから!
しっかり
「うぃっす!」
急に目の前がひらけたみたいになって、気持ちが
わははと、みんなが笑う笑い声のなかに、携帯の着信音が響く。
木梨さんがあわてて、ポケットを探った。
「はい。 ―― すみませーん。
いますぐ、そっちへいきますから。
―― はい、―― はい。 わかりました」
通話を切った木梨さんは、すまなそうにいった。
「ごめんなさい。 時間切れになっちゃった。
むかえにきてくれたマネージャーが怒ってるから、すぐにいかないと」
右手が俺のまえに、さしだされた。
「ありがとう、夏海くん。
きみに案内してもらったから、音大のみんなと楽しくすごせたし、すてきなピアノも聴けたし。
おたがい、がんばろうね。
またそのうち会うとは思うけれど。
今日は、本当にありがとう」
にぎられた
俺は、頭にのぼる血のせいで、
木梨さんの笑顔は、最高に魅力的だったんだ。
芸能人って、やっぱり笑顔が、輝くもんなんだなあ。
そして木梨さんは、谷崎先生の携帯カメラに素早くVサインをだしながら写って、野末さんの手帳に、さらさらとサインをいれ、
「あ、そうだー。 これ、わたしの携帯ナンバーとメアド。
二人とも、ヒマなとき、電話して」
と、詩文の手のなかに小さなカードをおしこんで、消えた。
ほんとに、消えたって、感じだった。
木梨さんがいなくなったら、レッスン室の中から火が消えたというか、華がなくなったというか。
「ふえええ」
脱力した俺は、つぶやいた。
「ドラマ、ヒットするといいなあ。 応援しなくちゃ」
「じゃあ、これは夏海が、もっとけば?」
木梨さんがくれたカードを、詩文は俺にさしだした。
そして自分は、ヴァイオリンの後始末をはじめる。
丁寧にやわらかい専用の布で楽器をふきあげてケースにおさめ、弓の張りをゆるめて、ホルダーに固定するんだ。
「おまえ、自分の携帯に、メモリーしとかなくて、いいのか?」
花柄のカードをながめながらたずねたら、詩文は、そっけなくいった。
「あんなの、芸能人の社交辞令だよ」
いつも女には特別な気をつかう詩文のセリフとは思えん。
しゃべるあいだ、詩文は作業の手を、とめもしないし。
俺は、つぶやいちまった。
「そうかな……」
「親しくなりたいのなら、電話してみればいい。
そしたら、むこうの本音も、わかるだろ」
「えっ、電話、するのか?」
「そりゃ、夏海の自由だ」
ヴァイオリンケースをとじた詩文は、俺をみて、意地悪く笑った。
「なんにせよ、今日は夏海の、初恋記念日だね。
『夏海のシューマンには、ほんのり甘い、初恋の味わいがあります』
ぼく、帰ったら日記に、そう書いておこうっと!」
「やめろ〜〜〜〜っ!」
詩文の日記ってーのはなあ、日本語の勉強のために、へたくそな
爺ちゃんが、毎日せっせと目を細めながら
かくして、俺と詩文の喧嘩は、さいげんなくつづく。
あきれた谷崎先生と野末さんは、いつのまにか、レッスン室から、いなくなってしまっていた。