よほど俺は、そのまま学校から帰ってしまおうかと思った。

だけど、高校生の学校生活ってのは、時間割にしばられているものでさ。

下校前のホームルームをさぼったら、あとで担任の沖村になにかいわれるかなと思うと、それも鬱陶(うっとうしくて。

だから、谷崎先生のレッスン室から教室へもどったあと、ずっと俺は、自分の顔をだれにも見られないように、机につっぷしていた。

たぶん、俺の背中からは、かまってくれるなってオーラが、出ていたんだと思う。

ヒデやリードだけじゃなく、相棒の詩文までが、俺に声をかけようとはしなかったから。

だけど、こんなとき、遠慮(えんりょなく声をかけてくるやつもいるんだ。
女はやっぱり、男とは違う生き物だ。 傷ついた男のデリカシーなんか、理解しない。

「ちょっと!」

吉澤は俺の後頭部を、(ほうき(でこづいた。

邪魔(じゃまなんだけど。 どいてくれない?」

俺はうめいた。

「たのむから、いまは俺を、ほうっておいてくれ」

「じゃあ、そのまま机に、つっぷしてなさい。 だけど、掃除するから、机は動かすわよ」

そういうと、吉澤はおもむろに、俺の机をもちあげた。

つっぷしてなさいっていわれても、吉澤がもちあげて移動する机に、つっぷしたままついていくなんて、マヌケなまねができるかよ。

俺はしぶしぶ、たちあがったさ。

机をどけた吉澤は、俺の足もとを箒ではきながらいった。

「渡辺くん、昇降口の掃除当番でしょ? いじけてないで、いったら?」

「ほっとけ! 俺のかわりに、詩文がやるさ!」

俺は、まじに、むかついていた。

詩文は俺の大切な家族だし、たぶん一生、音楽のいいパートナーだろう。

だけど、なんで、やつはいつもいつも、俺の先を行ってるんだよ?

フランス語と日本語はバイリンガル。

英語だって、日常会話は軽々こなす。

男も女も関係なしに だれとでもすぐに打ち解けられるし、優等生のくせに、ちっとも嫌味なところがない。

一人で自分の将来のことを考えて、ぐいぐい行動できるバイタリティもある。

思考が俺よりずっと、大人びているんだ。

だから、関東テレビの横井さんは、俺にだけ説教する。

大人たちはみんな、詩文には、「さすが詩文くん」としかいわない。

わかってるさ。

これは、りっぱな嫉妬(しっとだ。

いま、俺がいきづまっているのは、俺自身に問題があるからなんだ。

でも、詩文と俺をくらべる世間の目さえなければ、俺にはまだまだ、時間の余裕があったはずじゃないのか。

3ヵ月後のコンサート。

どうすりゃいいんだ?

俺は、うしろむきなのは嫌いだ。

問題解決の行動として、勝負から逃げるというのは、最悪の選択だと信じてる。

だけど、いまの俺の力じゃ、シューマンのコンチェルトに取り組んでも、いい結果がでるとは思えない。

シューマンのコンチェルト、大好きなのにさ。

シューマンって、オーケストレーションがヘタなんだよ。

どうでもいいところで、弦楽器に細かい16分音符の連続を割りふって、音をぼよぼよいわせちゃったりしてて。

その不器用(ぶきようなオーケストラパートのおかげで、疾走(しっそうするピアノの音が燦然(さんぜんと輝いて聴こえちゃうという、不思議な魅力にあふれた協奏曲なんだ。

ひきたい。

チャレンジしたいよ。

でも――。

背筋が、ぞくっとした。

いまの俺じゃ、なににチャレンジしても無駄(むだだって気持ちが、冷たい水が流れるみたいな感触にかわって、腹の真ん中あたりを通り抜けていった。

「ねえ」

いきなり話しかけられた。

まだ俺の足もとを、はいていやがったのか、吉澤め……。

そう思って顔をあげたら、教室の掃除はすっかり終わっていて、吉澤はカバンをもって俺のそばにたっていた。

「今日、時間ある? 連弾の練習がしたいな」

俺は声を荒げた。

「かんべんしてくれよ! 俺がおちこんでるのは、みりゃあ、わかんだろうが!」

「だって、渡辺くん。
あなたが打ち合わせだとか、取材だとかで忙しくて、もう一週間ちかく、いっしょに練習してないもん」

「こんなドロドロの気分で練習なんかしても、まともな音なんか、でやしねえよ!」

自分の椅子の背もたれに引っかけてあるリュックをつかみとり、そのまま教室に吉澤を置き去りにして、俺は廊下へとびだした。

むかむかした。

学内演奏会ごときで、ぎゃあぎゃあ騒ぐ吉澤には、心底うんざりしてたし。

いっしょに練習すると、ほんとに腹が立つやつなんだ、吉澤は。

絶対に、自分の主張を、ひっこめない。

詩文も音楽的な意見対立には、かなりこだわるやつだけれど。

でも、吉澤みたいな、ごり押しはしないぞ。

おかげで俺と吉澤の連弾は、練習をはじめてから二週間になるというのに、まだ一度も、無事に曲の最後まで、たどり着いていないんだ。

練習しているのは、演奏時間2分ほどの小品だっていうのに。

もっとも、その不愉快(ふゆかいな練習にうんざりしちゃった俺は、この一週間、仕事の予定が入っているのをいいことに、吉澤から逃げまわっていたわけだけれど。

仕事か。

ああいうのも、音楽家の仕事と、いえるのかな?

取材を受けたのは、硬めの内容を誇る週刊誌と、音楽雑誌何件かと、『テレビガイド』。
それに、東都交響楽団後援会の機関紙『クレッシェンド』。

隆明叔父さんがマネージメント会社経由で俺たちに対する取材に規制をかけてくれたから、取材申し込みを断った他の雑誌には、レコード会社がつくった公式情報が載せられるんだそうだ。

プロデューサーの横井さんから、もう少し番組宣伝のために取材協力してくれと、かなり泣きが入ったらしいけれど、そんなことは、俺たちの知ったこっちゃない。

俺たちは、まだ高校生だし、芸能界をめざしているわけじゃないんだから。

イベント企画会社の担当者と、CDショップまわりの打ち合わせもした。

その手の活動は学業に影響しない程度って約束だから、ドラマのサントラ盤が発売になった週の週末だけ、都内限定で、何ヶ所か、まわることになっている。

そういえば、イベント企画会社のヨシザワ・ミュージック・エンタープライズって、吉澤楽器の系列会社だ。

俺と詩文のデビューに関しては、吉澤の爺様も、一枚かんでいるから。

取材の内容も、わけがわからん。

カフェやホテルのロビーで茶を飲みながら、くだらない話をして、写真を撮ってさ。

きまってきかれるのは、俺と詩文が、どうして仲のよい従兄弟(いとこ同士なのかってこと。

そんなの、レコード会社が発表している俺たちの公式プロフィールをみりゃ、書いてあるのに。

そんで俺はぶすくれ、愛想(あいそのいい詩文がしゃべる。

相手が期待しているとおりの、模範的(もはんてきな回答をな。

―― ぼくは、ひとりっ子だから。
夏海のことを、夏になると会える、大好きなお兄ちゃんだと、思っていたんです。
だって、夏海は妹がいるから、威張(いばりん坊で。
ぼくは小さいころ、完全に弟あつかいだったんだ。

そう答えたあと、詩文は、おまえもなんかしゃべらなきゃだめじゃないかって目で、俺をみる。

で、俺は答える。

―― こいつ、泣き虫だったから。

記者とカメラマンが笑い、インタビューは無事に終わる。

毎度、毎度の、ワンパターン。

まったく、馬鹿馬鹿しい。

むかむかしながら、俺は昇降口へでて、靴をはきかえようと、自分の下駄箱(げたばこの扉をひらいた。

そしたら。

ガラス扉のむこうから、詩文が声をかけてきた。

「夏海、ずるいぞ。 掃除さぼって」

ガラスのむこうで立ち話をしている、リードの声がきこえる。

「うはは、そうそう。普通の学校なんスよ。 掃除当番もあれば、ああやって掃除をサボるふとどき者もいたりして。
音楽学校だからって、なんも特別なところは、ないっスよ」

リードのやつ、なにを浮かれていやがるんだと、俺は思った。

なんか、昇降口のそとに、人だかりがあるんだよ。
下校する生徒が、そのままそこに、ひっかかってしまっているというか。

あのなかを通り抜けるとき、ひと悶着(もんちゃくしたらいやだなと思いながら、俺は外へでていった。

詩文と目をあわせずに、「俺、さきに帰るから」とだけ、いう。

そして、そのまま人垣(ひとがきのわきを、よけて通ろうとした。

「あのっ!」

人垣の真ん中から、女の声が俺を呼んだ。

「夏海くん、今日は忙しいのかしら?」って。

俺は、ぎょっとした。

よく通る声だった。

涼しげで、同級生の女子とはちがう、(りんとした響きのある声。

驚いた顔のまま声のほうをみたら、そこには、よく見知った女がたっていた。

いや、知っているってわけじゃない。

よくみかける ―― が、正しい。

「おどろいた? 夏海?」

詩文が笑っている。

女も俺に笑いかけた。

「こんにちは、木梨玲子(きなしれいこです」

礼儀(れいぎただしく、頭をさげられてしまった。

俺は、ぼんやりと思った。

なんで、テレビでしょっちゅう顔をみかける人気女優の木梨玲子が、ここにいるんだろうって。

理由は木梨玲子が自分でしゃべった。

「もうドラマの撮影がはじまっているので忙しいんですけれど、たまたま午後だけ、オフがとれたんです。
それで、もしお(ひまがあったら、詩文くんと夏海くんに、いろいろ話がきけたらなって、思って。
ほら、わたしがドラマのなかで恋する御園英司(みそのえいじさんの役って、ヴァイオリンをひく音大生でしょう?」

そういわれて、そういえば俺と詩文が演奏する隆明叔父さんの曲を使うドラマの主演女優って彼女だったっけ、と思う程度にしか、俺はドラマの内容については、興味を持っていなかった。
ほかに考えなくちゃいけないことが、山ほどありすぎたからな。

木梨玲子をとりかこんだ女子生徒は、どよどよと、もりあがっている。

詩文くんたちが曲を提供したドラマの主演って、『キナピー』と『エイちゃん』なんだーって。

『エイちゃん』こと、御園英司といったら、ちょっと陰のある美形として売れている俳優だ。

そうか、世間じゃ、けっこう話題になっているのかと、俺は他人事みたいに感心してしまった。

木梨玲子は首をかしげた。

「約束なしで来ちゃったから、ご迷惑だったかしら」

首をかしげる仕草(しぐさが、いように決まっている。

まるで、グラビア写真のなかから ぬけだしてきたみたいだ。

タンクトップにジーンズ、はおっているのは、ごく普通のチェックのシャツという私服姿なのに、つねに全身に気を配っている女の迫力みたいなものが、伝わってくる。

セミロングの髪が綺麗(きれいな内巻きにしてあって、つやつや輝いているし。

これが芸能人というものかと、俺は圧倒されるばかりだった。

そうなると俺は、口ごもってしまう。

「べつに、迷惑じゃないけど。 だけど、俺、今日は……」

煮え切らない、ハイともイイエともとれる俺のあいまいな返事をきいて、詩文が、からかい口調でいった。

「夏海は、はずかしがり屋だからなあ」

はずかしがり屋 ――。

そのひと言が、俺の頭の中で、何度もこだました。

なにかというと照れて尻込みする、この性格をどうにかしないと、俺の音楽も、俺自身も、ここから先へは進めない。

そう思ったら、この場から逃げだすのが、とんでもないことに思えてきた。

負けるな、夏海。

なんでもいいから、とにかく一歩前に、でるんだ!

俺は顔をあげた。

まっすぐに、木梨玲子をみて、いった。

「いいよ。
どうせなら、大学部のカフェテラスへいって話そう。
音大がどういうところかを、知りたいんだろ?」

詩文が目を丸くして、俺をみている。

いつもの俺なら、女をつれて大学部のカフェテラスへいくなんて、絶対にやらないからな。

知ってるだれかにみつかって、あとでからかわれるのも嫌だし、よく知らない女を相手にして、話題をみつける自信もないし。

「じゃあ、ぼく、荷物を」

とってくるからと、つづけようとした詩文の言葉を、俺はさえぎった。

「まってんの、たりいぞ。 俺は木梨さんと、さきにいってるからな」

あっけにとられて、ただうなづく詩文をみたら、なんとなく、胸がすっとした。

やろうと思えば、俺にだって、できるはずなんだ。

少し大人になって、年上の女の人と、普通に話すことくらいは。

 

 

幸いなことに、木梨玲子は『となりの家の幼馴染(おさななじみ』みたいな、親しみやすい雰囲気で売っている女優だった。

つまり、会話のなかに、俺が硬直する原因となる女の武器みたいなものは、いっさいもちこまない人だったんだ。

歳もまだ21で、自分が現役の高校生だった時代がそんなに昔じゃないから、すぐに俺とタメクチで話すようになったし、大学部の新館にあるカフェテラスにつれていったら、大喜びして、はしゃいだし。

蛍光灯(けいこうとう照明に照らされたあたりをみまわして、「うっわー、わたしがいってる大学の学食と、そんなに雰囲気、かわらないね」なんていってる。

たしかに、常磐音大のカフェテラスは、普通の学生食堂だ。

広いフロアにならべてあるテーブルやイスは積み重ねてかたづけられる機能的なデザインのものだし、セルフサービスで食べ物や飲み物を売るカウンターと客席のあいだが、観葉植物を植え込んだプランターで、くぎってあったりしてさ。

さて、深呼吸だ。

とりあえず、無難(ぶなんと思える学校の話題をふってみることにして、俺は笑顔をつくった。

「木梨さん、大学生なんだ?」

「うん。 いちおうね」

木梨さんも、笑顔を返してくる。

俺の笑顔とちがって、ごく自然なやつ。

そんでもって、つらつらとしゃべる。

「でもねえ、卒業できるかどうかは、びみょうだなあ。
所属してる事務所は、今度のドラマがあたりをとったら、もっと力を入れて売込みしてくれるつもりらしいし。
そうなったら、忙しくなるしね」

「役者さんも、たいへんなんだね」

木梨さんは両手をもちあげて、力こぶを作るまねをした。

「うん。 たいへんだよー。
でも、好きでやってることだから、がんばるんだー。
ねっ、夏海くん。
きっと、音楽も、おなじなんだよね!」

「まあね」

「あはは、クールじゃな〜い!」

すかっと笑ってくれちゃってさ。

ちょびっと子供っぽい感じも残っていて、憎めない雰囲気だ。

「飲み物のむ? なにか食べる?」と、食べ物がならぶショーケースを指さして俺がたずねたら、「そうねー、音大ってどんなところかをみにきたんだから、ぜひとも学食メニューのチェックも、しなくちゃいけないわね!」なんて浮かれて、プラスチックのトレーをもって、セルフサービスの列の最後尾へ吹っ飛んでいくし。

おいかけていった俺は、あきれてしまった。

だって、木梨さん、騒ぐ騒ぐ。

「うわお、カツカレー、キツネうどん、本日のAランチは、アジのフライとインゲンの胡麻(ごまあえ!
普通だぁ! すごく普通だ!」

「あたりまえだろっ! 音大は異世界だとでも、思ってたの?」

「だってえ、知らないものって、なんでも神秘的にみえるもんだよ。
クラシック音楽って高尚(こうしょうで近よりにくいものだって、普通の人は、みんな思ってるんだから」

「やっぱり、そうなのかなあ。
男の俺がピアノをやるんだっていうと、小中学校の同級生のなかには、ひくやつもいたもんね。
性格暗いんだろうとか、オタッキーなんだろうとか、先入観、もたれやすいし」

「じっさいは、どうなの?」

「うーん、オタッキーというのだけは、否定できないなあ。
好きじゃなきゃ、毎日何時間も、ピアノの練習なんかできないし。
練習に時間をとられるから、世間のことに、うといしさ」

「うといんだー」

「うといよー。
木梨さんのこと『キナピー』っていうんだって、ついさっき知った」

「あはははははっ!」

笑いながら木梨さんは、会計のレジの前に、トレーを「どん!」とおいた。

俺はあきれた。

「木梨さん、それ、ぜんぶ食うの?」

「うん、食べるの〜。
わたし、甘いものがあると、ぜんぶ味を知りたくなっちゃうんだ。
これでも候補をしぼったんだよ。
ここのデザート、すごいねえ。 種類が多くて」

木梨さんのトレーの上には、3個のケーキと、焼きプリンと、ゼリーがのっていた。

重たいから、「どん!」なんて音がしたんだ。

ここのカフェテラスのデザート類が充実しているのは、やっぱり客の中にしめる女子学生の割合が高いからなんだろうな。

それに、木梨さんがいうとおり、常磐音大の門前にある洋菓子店が納品しているケーキやプリンはうまそうだ。

ゼリーなんて、色のちがう果汁を三層に重ねた、おしゃれなやつだし。

おまけに木梨さんは、俺が自動販売機のまえに立ったら、元気いっぱい怒鳴(どなるしさ。

「夏海くん、コーヒー? わたしにも買って! レギュラーの砂糖ミルク入り!」

うえっぷ!

ケーキ3個食って、そのうえ砂糖入りのコーヒーも飲むのか?

すっげー。

なんだかさ、自然に笑いが、こみあげてきちゃったよ。

そんでもって木梨さんの食いっぷりってのが、いいのか女優がそんな食い方でってぐらい、豪快(ごうかいだった。

あっというまに3個のケーキがなくなり、つぎは焼きプリン。

うまそうに食うなあと、俺は思った。

なんか、好感もてるじゃん。

食い物をうまそうに食う人間に、そんなに悪いやつはいないと、俺は思ってる。

食いながら、よくしゃべるしな。

返事を返す俺は、ついてくのがやっとって感じだ。

「音大のカリキュラム?」

「うん。 そういうのも、知りたいなあ」

「んじゃ、知りあいの学生さん、つかまえて、きく?」

「いるの? 知りあい」

「ちょうど、あそこに、ヴァイオリン専攻の佐々木さんが」

「わお、ヴァイオリン専攻? なんて運がいいのかしら!」

「佐々木さーん!」

俺に呼ばれて、窓際から走ってきた佐々木さんは、嬉々としていた。

「やあやあ、夏海くん。 声かけてくれないかなあと、まっていたんだ!」

佐々木さんが俺たちのところへやってきたら、あとは、なしくずしだった。

佐々木さんの友達やら、学生オーケストラの仲間やら、そのまた友達やらが、なだれよってきた。

だって、俺といっしょにいたの、木梨玲子なんだもんな。

カフェテラスにいた学生がみんな、「キナピーよ」なんてこそこそしゃべりながら、こっちをみていたし、こっそり携帯のカメラで、撮影していたやつもいたし。

「佐々木さんは、俺の祖父が経営しているワンルームマンションに住んでるんだ。
俺の祖父ってのがまた、とんでもないクラシック音楽マニアで。
マンションに住んでる住人は、みんな音大生なんだよ」

「夏海くんのおうちは、有名な音楽一家だもんね」

「いや、すごいのは、隆明叔父さんだけなんだけど……」

この話題には、つっこまれたくない。

俺は、佐々木さんにいった。

「佐々木さん、木梨さんは役つくりのために、音大のことを知りたいんだって。
どんなことを勉強するのか、教えてあげてよ」

「やー、熱心なんですねえ。 まかせてください!
なんでも、お答えします!」

「そんなに鼻息、荒くしなくても……」

俺は頭をかかえちゃったよ。

集まった音大生の兄ちゃんや姉ちゃんたちときたら、佐々木は馬鹿だから質問は俺にとか、木梨さんがききたいのは女の感性でみた音大ライフでしょうとか、口々にしゃべって、うるさいのなんの。

「まず疑問なのは、音大って、音楽ばっかり勉強するところですかってことかな」

木梨さんが真面目(まじめな顔でそういったので、みんなが、どっと笑った。

「ちがいますよー」

「音楽の勉強のためには、世界と人間を、知らなくちゃいけないんだから」

「歴史、文学、哲学、宗教学、ほかにもいろいろ。 体育もあるよ」

「教員資格とる人は、教育関係の学科もだな」

「福祉系へ進むの考えてる人は、心理学や法律なんかも」

「経営学の講座もあるよ。 企画制作論なんてね。 音楽だってビジネスだ」

「語学は必修だし。 英語はもちろん、ドイツ語とイタリア語が理解できないと、音楽のプロとしては、やっていけないからね」

「わたしなんか、選択でフランス語もとってるから、四ヶ国語が頭の中でぐ〜るぐる」

木梨さんは素直に感動してくれた。

「すごいわあ。 わたしも第二語学はドイツ語をとっているけれど、忙しくてあまり学校へいけないもんだから、『イッヒ・リーベ・デッヒ』くらいしか、覚えてない」

佐々木さんが、うんうんと、うなづいた。

「『(われ(なんじを愛す』ですね。 あれは名曲です」

「は?」

意味がわからない木梨さんにむかって、佐々木さんは、たたみかけた。

「ベートーヴェンです」

「それじゃ、一般人にはわかんないよ」

そういって佐々木さんを押しのけた男子学生が、のびやかなテノールで、ベートーヴェンの歌曲、『我は汝を愛す』を、朗々と歌いはじめた。
もちろん、ドイツ語でだ。

声楽科の兄ちゃんだな。

芝居(しばいけたっぷりに、木梨さんへ手をさしのべたりしちゃってさ。

「いいぞ! 池田!」

「そのまま、木梨さんの足元へ、ひざまずけ!」

全員で大うけだよ。

まったく、音大生って、常識がちょっとちがうほうへ、ぶっ飛んでる。

ドイツ語で『イッヒ・リーベ・デッヒ』っていったら、アイ・ラブ・ユーのことだぜ?

普通なら、ベートーヴェンなんか、でてこねえよ。

クラシック音楽も、りっぱなオタクの一分野だと、つくづく俺は思うよ。

高等部の校舎からでようとしていたときに担任の沖村先生につかまったとかで、ずいぶん遅れて詩文がカフェテラスへ現れたときには、ドイツ語の歌は、ついに全員で熱唱する『第九』の合唱へとかわっていた。

なんで『第九』なのか、俺には、よくわかんね。

ベートーヴェンつながりかよ?

コーラスって、音大じゃ、たいていどこでも必修だからさ。

みんな腹の底から声がでていて、ちょっとしたコンサート状態だった。

木梨さんは笑い転げて、大喜びしちゃってさ。

「んもう、みんな、お馬鹿! すてきよぉ!」って。

いったいどこから探してきたのか、デジカメが持ちだされて、最後にみんなで記念写真なんか撮っちゃった。

まったくきどらない明るい木梨さんは、音大生のあいだでも、たちまち人気者になっちゃったんだ。