翌日の月曜日、隆明叔父さんは音楽顧問をつとめている東都交響楽団と、四泊五日の演奏旅行へでかけていった。
今回の演奏旅行は、東京で金曜日と土曜日におこなわれた演奏会と同じプログラムなんだけれど、隆明叔父さんの東都交響楽団音楽顧問就任を
クラシック音楽ファンは、そりゃもう、驚かされたんだ。
だって、叔父さんはヨーロッパから、
渡辺隆明指揮のオペラは、ヨーロッパの歌劇場まででむいていかなければ聴けないものだと思っていたファンは、そりゃもう大騒ぎでさ。
歌手の出演料をまかなうために 高額に設定された関西公演のチケットが、すぐに完売しちゃったもんで、一般の週刊誌にまで、騒ぎがとりあげられたりしたんだよね。
俺たち渡辺ファミリーは、残念ながら桜交響楽団の定期演奏会と隆明叔父さんの演奏会の日程が微妙にかぶったせいで、その貴重な公演を聞き逃したわけだけれども。
でも、心配は、いらなかったりするんだな。
関西公演の最終日にあたる大阪で、難波放送が演奏会をライブ収録して、来週の日曜日に放送してくれるんだ。
いや、めでたい、めでたい。
隆明叔父さんと東都交響楽団の新たな出発は、とりあえず無事に、すべりだしたって感じだ。
さて、その演奏旅行に、叔父さんがでかけようとしている朝だった。
我が家に、大きな分厚い封筒が届いたんだ。
リビングに
「おおい、詩文! れいのやつ、きたぞ!」
呼ばれた詩文は、朝飯の食卓から離れて、叔父さんのところへ吹っ飛んでいった。
「あけていい? パパ?」
「いいとも」
にこにこしている叔父さんのまえで、詩文は封筒をやぶって、中身をとりだした。
コピー用紙の束みたいなのが、ごっそりと、でてきたよ。
「わお! すごい! 本当に、出版されるんだね!」
さわぎをききつけて集まった家族が、詩文の手元をのぞきこんだ。
ぜんぶ、楽譜みたいだ。
「叔父さん、これ、なんの楽譜?」
俺がたずねたら、叔父さんは照れくさそうに、頭をかいた。
「うーん。 そのー、子供の学習用の、ヴァイオリン曲集なんだ。
技術的なところはエヴァにアドバイスしてもらいながら、ぼくが、ぼちぼちと、……そうだねえ、10年くらいかけて、書きためたものなんだけれど」
詩文がうれしそうに、くすくす笑った。
「ぼく、びっくりしちゃったよ。
ちっちゃな子供だったころ、ママンの演奏から直接覚えた大好きだった曲も、みーんな、このなかの一曲だったんだ」
「どっひゃー!」
家族全員が、そりゃもう、驚きましたですよ。
なんつー、
息子のために、一流作曲家が、学習用の小曲を10年ものあいだ、せっせと書き下ろしていたなんてさ!
詩文は とくいげだ。
「ロマンチックなのや、コミカルなのや、すてきな曲ばっかりなんだ〜」
叔父さんが、あとをつぐ。
「詩文が一人前になったら、楽譜出版社に見せてみようかなあなんて、思っていたんだけれどね。
はやばやと自立宣言をくらってショックだったから、いままで きみが喜んで弾いていた曲は、ぜんぶパパからのプレゼントだったんだよーって、ネタばらししたんだ。
一人で大きくなったような顔をするなと、いいたかったわけなんだけれど」
詩文は、ちょっぴり、怒った顔になった。
「ここ2、3年は、なんだか怪しいとは、思っていたんだ。
ママンやポール小父さんから渡される楽譜、パソコンで清書してあったけれど、作曲者の名前が、いつもなかったんだもん。
ネタばらししてもらったとき、ぼく、すねちゃったよ。
ぼくは本気で、パパはもう作曲ができなくなっちゃったんじゃないかって、心配してたのに」
責められて、叔父さんは言い訳をする。
「だから、ぼくが作曲をするのには、理由が必要なんだってば。
それは、ちゃんと話しただろう?
指揮の仕事のあいまに、詩文のための曲を書くのは、楽しくて、最高の息ぬきだったんだ」
ポーズで怒っていただけの詩文は、満面の笑みをかえす。
「息ぬきで、これだけの曲を書いたんだから、パパって、やっぱりすごいよね。
それで、こんなすてきな秘密を、家族だけのものにしておくなんて、もったいないって いったんだ」
「という息子の意見をうけいれて、今すぐ出版することになったわけ」
「ねー」
隆明叔父さんと詩文は、おたがいの肩を抱きあって、ちゅっ、ちゅっと、ほほに親子のキスをかわした。
叔父さんは、こういうとき、完全にフランス人化する。
はずかしくないのか?
日本人の家族の前で……。
紙の束の厚みを手ではさんで測りながら、叔父さんがいう。
「ぜんぶで 5冊になるんだよ。
後半の難しいやつには、せっかく出版になるんだからって、はりきってピアノ伴奏に、ずいぶん手を入れちゃった。
でね、5冊目の終曲が、去年の夏つくった、『 変奏曲 』 になるんだ。
息子が自立してしまったから、これにて、父から息子への音楽教育は終わりですって。 そういうこと」
はあーと、叔父さんは、大きなため息をついた。
「シモ〜ン、パパは、さみしい」
「パパ〜、愛してるよ」
おい、恥ずかしいから、それ以上親子で、べたべたしないでくれよ。
ピンポーンと、玄関のチャイムが鳴った。
「迎えの車じゃない?」と、婆ちゃんが応対にでていく。
あわてて荷物をまとめながら、そうだと、叔父さんは顔をあげた。
「その曲集さあ、出版のまえに、お
ほら、今年の夏も、山荘でバーベキューパーティーをやるからさ。 そのときにでも。
父から息子への、愛の贈り物なんだよ?
初演するのが他人じゃあ、ちょっと哀しいからさ。
詩文と、夏海くんで、好きな曲、5 曲くらい選んでさ」
俺は、びっくりして、問いかえした。
「なんで、俺?
どうせなら、親子でやればいいじゃん。
叔父さんが ピアノ弾いて」
「ぼくは、いそがしいんだよー。
今年の夏は、お盆が終わるころまで、仕事がつまってるんだもん。
常磐音大のオーケストラと、演奏会をするから」
「ああ、そうかあ」
「このあいだのモーツアルトを聴いて、ぼくは感動したんだ。
夏海くんには、アンサンブルの心というものがわかってる、なんてね。
だから、これ、作曲者からの大真面目な、初演依頼だぞ?」
「うっひゃー、責任重大だあ」
「そう、かたくるしく考えるなよ。
学習用の小曲だから、たどたどしい演奏も、また良しってことで」
俺は思わず、ふくれちゃったよ。
「そういうわけには いかないよ。
俺も詩文も、プロの演奏家を めざしてるんだから。
やるからには、きっちりやらないと」
「ははは。 どんな演奏になるのか、楽しみにしてるよ。
その楽譜、印刷のまちがいをチェックする校正用の楽譜だから、汚さないでくれよな。
練習用には、コピーをとって使って。
じゃ、たのんだよ」
そういい残して、叔父さんは、あわただしくでかけていった。
俺と詩文は顔を見あわせた。
詩文め、にやりと笑いやがる。
「おもしろいことに、なっちゃったねえ」
「おもしろいかよ? 俺は、かぎりなく不安だ」
楽譜を見せてみろと、俺は詩文から紙の束をうけとって、ソファーのまえのローテーブルに広げた。
はじめの曲は、『 イ長調のロンド 』というタイトルの曲だった。
「かっ、かわいい! これ、マジに隆明叔父さんが、書いたのかよ!」
「いいでしょ! かわいいでしょ!」
俺たちが騒ぐもんで、爺ちゃんがうえから、楽譜をのぞきこんだ。
「おー、うほほほ、こりゃ おもしれえなあ。
ファーストポジションでヴァイオリンの練習をはじめたばかりのころって、イ長調がいちばん、弾きやすいんだよな。
小さな手でも弾きやすくて、かわいいメロディーじゃねえか。
隆明のやつ、やるなあ」
「つぎが、D線とA線のうえで歌う、陽気なやつなの。
これも弾きやすい、ニ長調ね」
「なんだよ? 『 マダム・パスカル 』ってタイトル」
「ぼくんちの、となりの小母さん。
これ、小母さんがいつも庭の手入れをしているとき歌ってる鼻歌を、パパが書き取ったんだ」
「なんだそれー!」
俺と爺ちゃんは、テーブルをどかどかたたいて、大うけした。
他にも、おもしろそうな曲が、たくさんあったぞ。
『 パパはもう、きみの
教師と二人で競争しながら弾いたら、すごくおもしろそうな、左手の指の練習をかねた二重奏曲。
きっと小さな子供だったころの詩文に気に入られて、エヴリーヌ叔母さんが何度もねだられちゃー、いっしょに弾いてやっていたんだろうな。
で、作曲した父親は、聴きあきちゃって、うんざりしてんの。
でも、息子に気に入られたのは嬉しかったから、しょうこりもなく 『 第12番 』 まで、作ったんだろう。 叔父さんらしいや。
しかし、この曲集、よくできてる。
さりげなく変拍子や現代的な音の使い方が取り入れてあるし、真ん中あたりから、どんどん難しくなっていくし。
詩文の成長といっしょに、書かれてきたものだからなあ。
ちゃんと、大ヒットミュージカル『 ヤングピープルズ 』の作曲家、渡辺隆明の音楽だってわかる、個性もでてる。
しかもさ。
「おい」
最終巻の楽譜を見はじめた俺は、
「これ、学習用じゃ ねえじゃん!」
詩文は すまして答えた。
「そうだねえ。 パパはヴァイオリン、自分じゃひかないから。
ぼくに技術がついてきたら、いろんな制約から解放されて、自分の芸術性のほうに、走っちゃったみたいだね」
「この曲なんて、ピアノ伴奏譜が、三段組みになってる!
和音とリズムが、
「ハデだよねえ」
「ハデって……」
「ヴァイオリンパートも、負けてないから」
「そうなのか」
「うん。 スパークするよ。
ネタばらしのあと、パパが遊びで伴奏してくれたことがあって、あのときは、すっごく興奮しちゃった。
だって、パパってば、
最後には、もとの音楽とは、ぜんぜんちがうものになっちゃっててさ。
あの伴奏パート、楽譜に起こすと、こういうふうになるんだね」
俺は笑顔をひきつらせながら、紙をめくった。
即興で、できただって?
スパークする音楽って、どんな音楽だ?
次の曲は、もの悲しい短調の曲だった。
ピアノのきらめくような高音の響きを生かした伴奏のうえで、ヴァイオリンが静かに歌う曲だ。
「これは、いいな。
タイトル、なんて読むんだ?
ロマンセ ・ サンス ・ パロレス?」
「ロマーンス ・ サン ・ パロレス。
意味は、言葉のない唄、かな?」
「『 無言歌 』か」
そっと詩文は、楽譜の表題の下に印刷してある、『 ロアールにて 』というコメントをなでた。
「ぼくがどうしてもなじめなくて、最初の音楽院からドロップアウトしちゃったとき、パパとママンが、ロアールへ旅行に、つれていってくれたんだよね。
きれいだったよー。
緑の野原。 川と、古いお城。
空が広くてねえ」
楽譜をよく見たら、古い舞曲の断片みたいな音の動きが、ピアノの低音に、ところどころ現れている。
この響きを聴いて、『 ロアールにて 』 ってコメントを読んだ人は、情景描写音楽だな、なんて誤解をするのかもしれない。
でも、この曲にこめられた真実は、もっと重い。
幼い詩文が音楽院にいられなくなるほど傷ついたことで、父親の隆明叔父さんも、母親のエヴリーヌ叔母さんも、いっしょに傷ついたはずなんだ。
親子で 静かなロアールへ旅行して、叔父さん親子は、なにを話して、なにを考えたんだろうな……。
美しい音楽。
せつないヴァイオリンの歌に、ピアノがよりそう。
音楽って、本当に作曲家の心の
俺は、うんと、うなずいた。
「よし、一曲目は、これに決めた」
「いいよ。 ぼくも、これ、かなり好きだ」
あとね、と詩文はつづけた。
「終曲の『 変奏曲 』 は、はずせないよね〜」
俺は、あせって、詩文の顔を見た。
「え? あれ、やるの? やっぱり?」
詩文は俺の目をしっかりと見つめかえして、断言した。
「ぼくと夏海でパパの作品を演奏するのに、あの曲やらなくて、どうするのさ?
ぼくと夏海が、プロの演奏家になるぞって決意した夏に、作られた曲なんだよ?
パパの作曲の
「だって、あれ、メチャ難しい!」
「でも、いい曲だもん!」
「いい曲だけど!」
うぎー、詩文にTシャツの襟元を、つかまれた!
「プロの演奏家をめざしてるくせに、夏海ったら、逃げるの !?」
もう俺、必死。
「逃げられるものなら、逃げるぞ。 俺は、本気で」
詩文の声が大きくなった。
「だめっ! ぜったいに、逃がさないからね!」
そんな声でわめかないでも、聞こえてるっつうに!
とにかく、言い逃れだ、夏海!
「だってよー、隆明叔父さんのバーベキューパーティーっていったら、お客が、さりげに大物だったりするし!
豊島さんなんか、町工場の工場長みたいな見てくれなのに、東都交響楽団の事務局長だったりするじゃん!
俺、そういう耳が肥えた客のまえで、恥さらすの嫌だ!」
「なら、いっぱい練習しよっ!」
軽く笑顔で、かわされてしまった。
俺は、むきになった。
「おまえは、どうして、いつもいつもそう、まえむきなんだよー」
「ポジティブシンキングは、いいことだ」
「そんなもん、クソくらえだぁ!」
「だいたい、夏海はねえ!」
「うるせー!」
「まだ、なにもいってないよっ!」
二人して、ぎゃあぎゃあ
朝っぱらから、うるさいって。
あんたたち、精神的
だけどさあ、お袋。
これは重大問題なんだよ!
成長したがゆえに、桜交響楽団との音楽活動から、
そんな感傷的な出来事からはじまった俺の夏休みは、あいかわらず
そうとも。
夏海くんの音楽人生は、山あり、谷あり、でこぼこだい!
ああ、もうっ、たまらん!
だれでもいいから、この状況を、なんとかしてくれぇ!