練習づけの日々
自分をオーケストラ大好き少年に育ててくれた音楽仲間がつどう桜交響楽団と、モーツアルトの協奏曲を演奏することになって、俺はおおいにあわてた。
爺ちゃんの話を、練習に熱中しすぎて、ぼーっとした頭で聞いたうえ、いいかげんな返事をしたせいで、準備期間が短すぎるという重大な問題に気づいたときには、「ちょいとまった、その約束、なかったことにしてくれ」とはいえない状況に、追いこまれてしまっていたんだ。
ついうっかりで墓穴を掘って、後悔しても あとの祭りっていうのは、のんき者の俺に、よくあるパターンなんだよなー。
失敗するたびに反省するのに、どうしてこうも毎回みごとに、ドツボへはまれるんだろうか?
不思議で しょうがないよ。
とにかく俺は、とぼしい脳みそで、いろいろと知恵をしぼった。
まず最初に考えたのは、桜交響楽団のメンバーを拝みたおして、演奏する協奏曲を一楽章けずって、自分の負担をへらすという方法なんだけれど。
しかし、この方法には、重大な欠点があった。
たぶん連中は、映画 『みじかくも美しく燃え』 のテーマになった第二楽章を、いちばん演奏したいわけなんだ。
でも、一楽章 省略するなら、アンダンテでゆったりと進む、まんなかの第二楽章をすっとばすのが、音楽の常識なんだよ。
いちばん、みんなが演奏したがっている第二楽章を演奏しないなんて、年一回の定期演奏会を活動の最大目標にしている桜交響楽団にたいして、もうしわけなさすぎる。
そのつぎに思いついたのは、谷崎先生に お願いして、『 クラーマー = ビューロー 60の練習曲 』 と平行して、協奏曲の練習をさせてもらう、という方法だった。
これが、もっとも現実的なアイデアなんだけれど、自分自身がどうしてもいやで、廃案にした。
だって、俺は燃えてたんだもん。
谷崎先生は、俺のことを一生懸命考えてくれていて、音高生活初レッスンの日に、新品の楽譜を、五冊も準備してきてくれたんだぜ?
そのうえ、レッスン時間 ひと枠ぜんぶ音階の練習なんて、めちゃくちゃ情けない俺のレッスンに、もんくもいわずに、つきあってくれてさ。
とどめに、「自分を見失わないことだ。 きみなら、だいじょうぶ」なんて、いってくれちゃって。
その先生と、他には浮気しないで、やるからには きっちりやるって、約束したんだ。
ここで、その約束をくつがえすなんて、男がすたると思った。
けっきょく 俺がくだした決断は、死ぬ気でがんばるという、馬鹿げたものだった。
情熱だけでは、時間がたりないという 物理的条件に制約をうけた、逆立ちしたって解決しようがない問題を、どうにかできるわけがないのに。
ゆるされた期間は二ヵ月。
およそ9週間と考えると、60÷9=6 、あまり 6。
つまり、一週間に7曲のペースでがんばらないと、ノルマは達成できないわけだ。
これは殺人的なハイペースだ。
一曲一曲の構成を分析して、作曲者が、なにを教えたいと思っているのかを読みとったうえで、その技術を身につけて、しかも音楽として美しく聴かせられるように、しなくちゃならないんだから。
なにしろ俺は、プロをめざして音楽学校に通っているピアニストなんだから、練習曲の勉強を義務と思って、なんとなくしあげていくような、趣味でピアノを弾く人たちと同じ取り組みかたでは、ゆるされない。
俺、なまけ者なのにさー。
曲想がぜんぜんちがう曲を、一週間に7曲しあげる生活を、9週間もつづけていくだけの精神力なんて、あるのか?
しかも、その生活がやりとげられたあかつきには、一ヶ月でモーツアルトの協奏曲をしあげなくちゃならないという、スペシャルオプションまでついている。
まさに、地獄へのツアーだよ。
ぐああああっ、まじで泣けくる。
しかし、泣いたところで問題は解決しないんだ。
俺は、練習曲づけの生活をはじめた。
これがどうにもなあ。 精神修養のための生活みたいで……。
俺にとって、隆明叔父さんは神さまみたいな存在だから、むやみやたらと練習するなという叔父さんとの約束は、神聖な
叔父さんの理屈は、おもしろいんだ。
筋肉というのは、運動をすると、乳酸とかいった疲労物質を組織の中にためこむんだって。
それが分解されるまでには4時間くらいの時間が必要で、疲労物質が組織の中から消えたら、疲労感がとれるわけ。
だから、何時間か練習したあと、四時間以上の休みをとると、つぎの練習がスムーズに進むし、故障をおこしにくくなるって、いうんだよね。
実際、休んでから もう一度練習すると、前回の練習で、どうしてもうまくいかなくてひっかかっていたところが、するりと弾けるようになったりするから不思議だ。
たんに気分転換がはかれた効果なのかもしれないけれど、そんな経験を何度もしてしまったら、叔父さんの説を、信じるようになっちゃうじゃないか。
で、俺は、朝、早起きして学校へいくまえに練習して、学校では とりあえず勉強して、家に帰ったら、また練習して、宿題やって寝るという、いままでの俺の生活からは考えられない、『 規則正しい良い子の生活 』 をすることになってしまったんだな。
ちくしょー。
おもいっきり大声あげて、そのへんをのたうちまわって、泣きわめきたい。
でも、がんばるしかないじゃん!
小学生だった俺を気持ちよく仲間に入れてくれて、オーケストラで合奏する音楽の楽しさと喜びを教えてくれた、大切な桜交響楽団の仲間を、うらぎれるか?
できの悪い弟子である俺を、無条件で かわいがってくれる谷崎師匠を、ないがしろにできるか?
できるわけがない!
でも、時間が足りない。
とにかく、がんばれ夏海よ!
すて身の必死、無我夢中。
一意専心、わき目もふらず。
あー、わけわかんね。
俺ってやっぱ、アホかもしれん。
そんな生活が、5週目をむかえたころだったと思う。
あとで考えると反省しちゃうんだけれど、そのころの俺は、かなり追いつめられた気分で、ゆとりというものを、まったく失っていた。
5週目って、9週間の、ちょうど、まんなかだし。
なんか、練習曲集の内容も、佳境に入ってきたって感じだったし。
クラーマーのおっさんも、ビューローのおっさんも、すっげーんだもん。
この練習曲集が、本当によくできていてさ。
先へ進むほど難易度が着実にあがっていくし、曲としても、はっとするような音が、でてくるようになるんだ。
緊迫した前打音とか、短調の哀愁感を生かした旋律とか、しっかりとした骨格を感じる和声なんてね。
それぞれの曲に、考えぬかれた技法がちりばめられていて、どの曲も、まったく気がぬけない。
だから、ピアノをまえにしての練習だけじゃ、ぜんぜん時間がたりなくなっていた。
しょうがないから、俺は学校でヒマをみつけちゃ、楽譜をにらんでいた。
思考と記憶なら、楽譜だけを相手にしても、できる作業だからだ。
「おい、夏海! 玉けりしにいかねえか?」
昼休み、遠くでヒデとリードが、俺をよんでいる。
それで俺の意識は、現実界へ引きもどされる。
このごろは、そんなのばっかり。
教室の出口に立っている悪友にむかって、片手をふっていう。
「わり、俺、今日もパス!」
サッカーボールを放りあげながら、ヒデとリードは、俺のほうへやってきた。
「なんだよー、おまえ、このごろやけに つきあいが悪いぞ」
「ふたりで玉けりしても、おもしろくないのに。
タケヤンは怪我したらママに怒られるって、ぜったいにサッカー、やらないしさ」
俺は、わめいたね。
「俺だって、勉強より、サッカーのほうがいいよ!」
そりゃもう、投げ出せるものなら、今すぐ投げ出したいですよ、本気で。
ヒデが不思議そうにいう。
「音階、終了になったって、いってたじゃん」
「音階は終了になったんだけど、いまはアルペッジオ(分散和音)やらされてんの。
24の調で、ド ミ ソ ド ミ ソ ド ミ ソ ド ミ ソ ド ミ ソ ♪ あがっておりて、あがっておりて、エンドレス」
こんなんだぜと、4オクターブのアルペッジオを歌ったら、後半の声が、ひーと裏がえったもんで、ヒデとリードは爆笑した。
「ぎゃはははは!」
「おまえ、おもしろすぎ!」
ひらきなおった俺は、ブレザーのポケットから、ボロボロになったカードをとりだした。
「みてくれよー。 タケヤン特製カード、みんな角がとれちゃったよ。
シャッフルしにくくなったから、新しいの、作らなきゃ」
ヒデとリードは、のけぞって笑いつづけている。
「なあに? ぼくを呼んだ?」
タケヤンがやってきた。
すみで静かに本を読んでいたのに、こっちのこと、気にしてたんだな。
気になるに、決まってるよな。
女子ばっかりの教室で、片手に満たない数しかいない男の同級生が、さわいでいたら。
一匹狼の植村は、昼休みはたいてい、どこかへ消えてしまっているしさ。
ひと月ほど つきあってみてわかったんだけれど、植村は、孤独を愛する、ハードでニヒルな男なんだよ。
俺たち同級生の男子を、まじでガキっぽくて、つきあいきれないと思っているらしい。
タケヤンは俺の手元をのぞきこんだ。
「なに? 楽譜、読んでるの?」
「うん。 練習曲のだけどさ。
いま、俺さあ、基礎を、たたきなおされてんのよ」
「それは大変だね」
「まじにやれば、練習曲も、おもしろいけどな。
ほら、この曲なんてさ、しつこくでてくる低音の連続が、まるでバグパイプの響きなんだよね」
ヒデが俺から楽譜をとりあげる。
「おお、なるほど。 聞こえる、聞こえる。 バグパイプだ。 ズオー、ズオー、ズオーって」
「ヒデ、楽譜みただけで、わかるのか?」
「おい、俺さまは、作曲専攻だぜ? 楽譜から音が聞こえなくてどうする?」
いちどう、尊敬のまなざしだぜ。
俺は、うやうやしくページをめくって、もう一度、ヒデに楽譜をさしだした。
「なら、先生さま、教えてください。
こっちの曲、右手は4分の4拍子で、左手は8分の12拍子なんだけど。
どうやったら、うまく両手をあわせて弾けるの?」
「うむ、お答えしよう。 深く考えないことじゃ」
「なんだそりゃー」
俺たちは、ぎゃはぎゃは笑って、おおいに盛りあがった。
「1小節を4つにとって、おおまかに弾きゃあいいんだよ。
割り切れない数の音符を一拍に書きこむなんて、ロマン派や現代曲じゃ、しょっちゅうみかける手法だろ。
音楽には、感覚にたよった、あいまいさも大切なんだ。
アバウトに、自分が美しいと思うように弾けよ。
この練習曲の練習目標は、そこにある」
「おお、ヒデ、大先生!」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、聞きたいことがあれば、なんでも、このわたしに聞きたまえ」
「じゃあさ、じゃあさ、この音型がつづくとき――」
その瞬間、ちいさな咳ばらいが聞こえた。
ちいさいけれど、あきらかに いらだっている響き。
たしかに、俺たちは、すごくうるさかったと思う。
でもさ、俺は咳ばらいが聞こえた方向をみて、なんでいちいち、この女はトゲトゲしてるのかなあと、思ったわけだ。
俺のまえにすわっているのは、吉澤なんだよ。
教室内の席順は、まだ出席簿の番号順のままだったから。
吉澤は、教室中に響くような音をたてて椅子をひき、たちあがった。
「ちょっと、静かにしてくれない?」
俺たちは、いっせいに だまった。
だまったら、なぜか教室中が、しーんと静まりかえった。
女どもが、全員こっちをみている。
吉澤よ、この現象は、絶対に、おまえの迫力のせいで おこったんだぞ。
ふりかえるとき、長い髪がひゅんって、ひるがえってさ。
切れ長の目をつりあげて。
色つきのリップクリームでも ぬってるのかな。
唇が桜色で、つやつやしてる。
その きれいな唇を、きゅっと結んでさー。
俺たちのあいだでは、吉澤は将来、女優タイプの美人になるだろうと意見が一致しているけれど、そんな顔をしたら、怖いぞ、まじに。
吉澤は、静かな教室に響く声でいう。
「あなたたち、いつも渡辺くんの机のまわりに集まってきて、うるさいのよ!
ここを溜まり場にされたら、迷惑をこうむる人間もいるんだって、少しは気をつかってもらいたいわ」
俺たちのあいだで、なにかとリーダーシップをとるヒデが、まっさきに反応した。
「おう、そりゃあ悪かった。
そういえば、このごろ何かっていうと、夏海のところにいるな、俺たち」
「すまん。 最近、俺がいつもここに すわってるからだ」
なんで自分の席に すわっていることを謝らにゃーならんのだ、とは思ったけれど、俺は吉澤の迫力に、けおされてしまっていた。
さわらぬ神に、たたりなしって いうじゃん。
吉澤は、俺の机のうえに広げられた、練習曲の楽譜をみおろした。
鼻で笑いやがる。
「渡辺くん、あなた、叔父さまに、スタインウエイのコンサートモデルを、買ってもらったんですってね」
あたりがどよめいた。
俺だって、びっくりだぜ。
「なんで知ってんの?」
「わたしのうち、楽器屋だもの」
驚愕。
俺たちのアゴは、驚きのあまり、そろって かっくんと開いたぜ。
「ええっ !? 吉澤んち、楽器屋? 吉澤楽器? 銀座のど真ん中に 自社ビルどんとかまえてて、新宿にピアノを何十台もならべたショールームもってて、全国に支店がある、吉澤楽器 ?!」
「吉澤楽器は祖父の会社。
わたしの父は、子会社のヨシザワ・ミュージックの役員よ」
「うっひゃー、俺、秋葉原にある ヨシザワ・ミュージックのディスクセンターへ、しょっちゅう いくぞ。 ビルが丸ごと、CDショップなんだよな!」
「俺も、俺も。 あそこ、4階がぜんぶ クラシックの売り場だろう。
あと、3階のジャズ売り場にも いくなあ。 地下の書籍売り場にも」
「ヨシザワ・ミュージックって、全国に何店舗くらい 支店があるんだろ?」
「デパートや大型スーパーのCD売り場へいくと、しょっちゅうヨシザワの系列店に、あたるような気がするよな?」
「吉澤さん、お嬢様だったんだね」
興奮した声が、みだれとぶ。
だけど、吉澤が口をひらいたら、空気が凍ったぞ。
「渡辺先生って、優しいかたなのね。
音階練習しているあなたに、コンサートグランドなんて、豚に真珠も、いいところじゃない」
リードがすかさず、冷えた空気をまぜかえす。
「吉澤、きっつー。
あんまり意地悪なこといったら、夏海、泣くぞ。
音楽やってる男ってのはなあ、心がナイーヴなんだぞぉ」
ありがとよ、俺に気をつかってくれて。
でも、いいんだ。
豚に真珠は、本人も自覚している。
「んまあ、いろいろと事情があってさ。
でも、いいピアノが買ってもらえて、素直に嬉しかった。
新宿ショールームの人に、知り合いがいるのか?
世話になったから、礼をいっておいてくれよ」
「のんきね」
「のんきは、俺の性分」
「吉澤楽器の社内じゃ、おおさわぎになったのに。
渡辺先生に納期をここまでって切られてしまったら、応じないわけにはいかないじゃないの。
ピアノ、航空貨物でくるのよ。
400sのピアノを、ヨーロッパから飛行機で運んだら、採算がとれなくなっちゃうわ。
あなたのわがままで、ずいぶん迷惑したのよ」
俺は思わず身をのりだした。
「ええっ? 叔父さんはべつに、納期を早くしろなんて、要求しなかったぜ?
残念、やっぱり夏海の誕生日には、まにあわなかったかって、いっただけだ」
ヒデとリードが笑った。
「なんだ、楽器屋の店員が、気をまわしすぎただけじゃん」
「そりゃあ、天下の渡辺隆明に、好印象をもってもらいたいもんなあ、吉澤楽器としては」
「それにしても、超豪華な誕生日プレゼントだなあ!」
「うらやましすぎるぞ、夏海」
俺は真面目な顔で吉澤をみあげた。
「なあ、まだ、いまからなら、航空貨物の予約、取り消せるだろ?
急がないからって、会社の人に、いってくれないか?
契約者からの申し入れじゃないとダメだっていうなら、すぐに叔父さんと、連絡をとるようにするし。
採算取れないんじゃ、こまるだろう?」
吉澤は、ぷいっと、そっぽをむいた。
「うちの店は、一度確約した納期を、お客様の都合以外で、変更したりしないわよ」
「だから、お客様が変更していいって、いってんじゃん」
「もういいわ」
「よくない。 事情を知っちゃったら、黙ってられないだろ」
「うるさいわね、ほんとに。
今度のホームルームで、ぜったいに、席替えを提案するんだから!」
「あー、そうしてくれ。 ぜひとも、たのむ」
俺は教室からでていく吉澤の背中にむかって、そう吐きすてた。
むかつくなあ。
いつのまにか、クラスの女子全員が、それぞれ額をよせあって、「渡辺くんって、本当に渡辺先生の甥なのね〜」だの、「ピアノ買ってもらうくらい、かわいがってもらってるんだぁ」 だの、こそこそ いいやがるし。
どうして吉澤は、いつもいつも俺に、つっかかってくるんだろう。
うー、考えんの、めんどい。
時間がなくて、楽譜の勉強、しなくちゃいけないのに。
つまんないことに煩わされて、気分最悪だよ。