さえない新生活
それからの三日間は、表面的には平和にすぎていった。
あくまでも、表面的にはな。
だって、いつもと違ったのは朝の食卓に、隆明叔父さんと詩文の姿が、あったことくらいなんだもん。
我が家は、しょっちゅう、お客がある家だからな。
大人数で食卓を囲むのに、みんなが慣れてしまっている。
本来、二人多くすわっているくらいじゃ、だれも気にとめたりはしないんだ。
しっかし、今回ばかりは家族みんなが、二人多い朝の食事風景について、気にとめていないって演技をしていたのが、みえみえでさ。
表面的には穏やかだったけれど、空気が緊迫してたんだよなあ……。
なにしろ、隆明叔父さんと詩文は、おたがいに口をきかないんだ。
親子では口をきかないくせに、他の家族とは、何もなかったみたいな顔で普通にしゃべるから、渡辺ファミリー日本総本家一同としては、どう接すればいいのか、困っちまう。
たとえばさあ、お袋が詩文にむかって、「詩文ちゃん、洗濯物があったら、出しておきなさい。 おばちゃん、ついでに洗っておいてあげるから」なんて、言うだろう?
で、詩文が、いつもの愛想のいい態度で「うん。 ありがとー、加奈子おばちゃん。 洗濯物干すとき、声をかけてね。 ぼく、手伝うから」なんて、答える。
で、お袋の笑顔が、ぱっと輝いてさ。
「あら、いいのよ。 ついでなんだから」
「だって、加奈子おばちゃん。 屋上まで洗濯物のカゴを持っていくの、大変だもん。 家族全員の分のぬれた洗濯物って、重たいでしょ? ぼく、ヒマだから」
詩文に、こういうことを言われると、うちのお袋は、もだえまくるんだ。
「ああん、もう。 詩文ちゃんって、ほんと、紳士よねえ。 うちの男どもに、爪の垢でも、煎じて飲ませたいわあ」
そんでもって、詩文は無意識のうちに、うちのお袋のもだえのツボを、さらに押す。
フランス人の血が半分はいったきれいな顔で、真剣にお袋の目を見て、けなげな少年の言動をするわけだ。
「加奈子おばちゃん、『 煎じる 』って、どういう意味?
『 爪 』と『 垢 』は、わかったけど」
「ええとね、昔のお薬って、干した葉っぱとかだったでしょ?」
「うん」
「そういうの『 薬草 』って言うの。『 クスリ 』の『 クサ 』って、漢字で書くのよ」
「薬の、草ね。 ヤクソウ」
「薬草を煮て薬を作ることを『 煎じる 』と言うのよ。
つまり、爪の垢を煎じて飲ませるというのは、そうやったら少しは偉い人の態度を見習うんじゃないかっていう、嫌味ね。 日本の古いジョークよ」
にこにこ笑って答えるお袋のとなりで、親父が感心して言う。
「えらいなあ、詩文くん。
そうやって、どんどん日本語を、覚えたんだねえ。
若くて柔軟な頭だから、できるんだよねえ。
おじさん達くらいの歳になると、聞いたくらいじゃ覚えられないよ。
右の耳から入ってきた言葉が、ぜーんぶ左の耳から出て行っちゃうんだから」
そこで和やかに、家族が笑うだろ。
しょうもないオヤジギャグでも、笑ってやるのが思いやりってもんだよ。
でも、隆明叔父さんだけが、笑わないんだよぉ!
そのうえ、とつぜん箸を置いて立ちあがったりするから、空気がひやりとする。
そんでもって、その空気を完全無視して、おだやかに言うんだな。
「お母さん。 すみませんが、今夜も夕飯はいりませんから」
こええよお……!
隆明叔父さんって、鬱積したものを抱えているとき、言葉づかいが、やたらめったら丁寧になるみたいだ。
びびった婆ちゃんが、愛想笑いしながら答える。
「遅くなるの?」
「だと思います。
来期から東都響の常任指揮者に就任するアルフレード・エルミニが、事前の顔合わせに、来日してきているんですよ。
普通、重要なポストは、何度か演奏会をやってみて、おたがいの相性を確めてから任せるものですけれどね。
今回は、ぼくのごり押しで決定した人事ですから、責任をもって、両者を引き合わせないといけません」
「ふーん。 大変なんだね」
「ええ、大変なんですよ」
叔父さんも、ここで、にっこりと笑うんだ。
で、俺達は、めいっぱいひく。
だって、この笑顔が、テーブルのむこうで同じように微笑んでいる詩文の笑顔と、めちゃくちゃ似てる。
そりゃあ親子なんだから、あたりまえなんだけれど。
腹にいちもつ抱えているときの笑顔がそっくりだなんて、はたから見たら、怖すぎるんだってばっ。
テーブルのまわりに、ブリザードが、吹き荒れちゃうよ〜〜〜〜!
気をつかう朝のやり取りを終えて学校へ登校した俺は、教室へたどりついた時点で、すでに疲れはてていた。
新入生オリエンテーョンとか、歓迎演奏会といった行事が終了して、いよいよ今日から本格的な授業が、はじまるっていうのにさ。
まだ朝の満員電車には圧倒されっぱなしだし、はきなれない革靴のせいで靴ずれができた足が痛いし、制服のネクタイがうまく結べなくて苦しいし、女ばっかりの教室の居心地は最悪だし。
たまんねーよ、ホントに。
今だって、朝のホームルームで出席を取る沖村先生の声に、女子ばっかりのキンキラした返事がまとわりついて、疲れた頭の芯が、じーんとする。
沖村先生は、落ち着きはらった外見からは想像もつかないほど、声が高いんだ。
甲高い女教師の声って、鼓膜にあたると痛い。
うう、いかん。
思考がどんどんマイナス方向へ、傾いていく。
「おい、夏海、どうした!」
ぽかんと、後頭部を、本でたたかれた。
俺ってば、机にへたりこんでいたから。
「つってー、手加減しろよぉ、ヒデ」
かなり、たたかれた頭のうしろ側が痛かった。
『 音楽理論 』の教科書は、三年間使うハードカバーの本だから。
たった三日のつきあいで、すっかり打ちとけた仲になってしまったヒデは、遠慮がない。
「ぼーっとしてるなよ。 一時間目、『 楽理 』だろ? 第二音楽室に移動だって」
「うひー、しょっぱなから、専門教科かよ」
「なんだよ、その言い草。 家で時間割、見てこなかったのか」
「見たけど、うすらぼんやりとしか、記憶にない」
「寝不足か?」
「うん。 今、従弟が俺の部屋に泊まってんだよ。
毎晩、日本語の勉強に、つきあわされるもんで」
「日本語の勉強って?」
「従弟の詩文は、半分フランス人なんだ。
イースター休暇とやらで、こっちに遊びに来ててさ。
こいつが日本語の勉強をするんだって言って、パリで語学学校へ通ってるんだけどさ。
しゃべるのは父親が日本人だから、かなり達者なんだけれど、読み書きのほうが、てんでダメなんだ。
フランス語って横書き言語だろ?
縦書きの文章が、やつには幾何学模様に見えるらしいぜ。
上級のクラスになってから、漢字に、てこずってるみたいだし。
木とか森とかいった象形文字レベルまでは理解できたけど、それ以上になると、お手上げだ、なんて言ってる」
ヒデは、ぶひゃひゃひゃひゃと笑った。
「象形文字か、すっげー」
ヒデのうしろに立っていた竹内が、ひかえめに聞いてきた。
「ねえ、ひょっとして、その渡辺くんの従弟って、渡辺隆明先生の息子さんなのかな?」
俺は、真剣に竹内の口もとを見つめながら、「そうだよ」と答えた。
いつもぼそぼそと自信なさそうに口の中でしゃべるから、竹内の言葉は、聞き取りにくいんだ。
外見も、しゃべり方にふさわしい痩せっぽちで、とんと肩をひと突きしただけで、あっけなく転んじゃいそうな雰囲気だ。
ヒデと席が近いから、自然とヒデのうしろについて歩くようになっちゃったんだけど、何をするときでも、竹内は、遠慮ばかりしている。
俺達、クラスでたった五人しかいない男子生徒なんだから、ざっくばらんにやろうぜと、言っているのに。
また、ぼそぼそと、竹内がしゃべる。
「じゃあ、渡辺先生といっしょに来日したんだね。
おとといのニュース、見たよ。
渡辺先生、東都交響楽団の音楽顧問に就任されるんだってね」
俺は力なく笑ったぜ。
「ははは、叔父さんといっしょに来たのなら、なーんも問題、なかったんだけどなー」
ヒデが変な顔をする。
「ほえ、なんだよ? それ、どういう意味だ?」
ヒデが首をひねったところで、リードが帰ってきた。
「ようよう、お待たせ、諸君。 では、参ろうか」
俺とヒデは、ふざけて言い返す。
「だれも、おまえのことなんか、待ってねえよ」
「いないことにも気づいてなかったぜ」
「ひっでーなあ」
リードがトイレに行ってたことくらいは、気づいていたけどさ。
男は女みたいに連れションなんかしないし、いちいち教室移動をいっしょになんて、気を使ったりもしねえよ。
そばにいればいっしょに行くし、いなきゃべつに、それでもいい。
そういう気楽さが、男同士の仲ってものだ。
だけど、なよっちい竹内は、気を使うやつだ。
「ねえ、植村くんにも、声をかけたほうがよくないかな」
俺とヒデとリードは、教室のはじのほうを見た。
前から四番目の席で、五人目の男子クラスメイトの植村庸介が、教室移動の準備をしている。
やつは教科書や筆記用具を小脇にかかえて、さっさと教室からでていった。
「ほっとけよ」と、ヒデが言った。
「俺は博愛主義者だから、植村にも初日に、あいさつしたんだ。
けど、迷惑そうだったから、それきりだ」
「迷惑そうか」
「ああ。 おまえらに声をかけたときと、まったく同じように話しかけたのに、うさんくさそうに俺を見て、『 どうも 』としか答えなかった」
俺は思わず、鼻の頭にしわをよせてしまった。
「ヒデよぉ。 まったく同じようにって言ってるけど、それ、初日に俺をからかったみたいに、へんな挨拶だったんじゃないだろうな?」
「馬鹿言うな。 俺だって、空気読むくらいのことはする。
夏海は初対面のとき、こいつはからかってもだいじょうぶって、顔に書いてあったんだ」
「なんだよ、それ!」
俺をのぞいた全員が、楽しそうに笑った。
笑ったあと、植村がでていった出口のほうを見て、ヒデがひと言つけくわえる。
「植村は、内気とか、そういうのとは、ちがうな。 ひとりが好きなんだろう」
「へえ」
俺とリードは顔を見合わせた。
「勇気あるなあ。 こんな女ばっかりの学校で、一匹狼かよ」
「すげーなあ」
ヒデが、うしろの竹内に言う。
「気になるなら、ときどき、竹内が声をかけてやればいい。
うるさい俺達よりは、植村も返事がしやすいだろ。
やつが友達づきあいしたがるようだったら、俺達は、いつだって歓迎だし」
なあと、目で同意を求められた。
もちろんだと、うなずく俺とリード。
ヒデって、リーダータイプなんだなあと、俺は感心してしまった。
しっかし、本気で眠いぞ。
春眠あかつきを覚えずって、ほんとだよな。 うららかな陽射しをあびていると、朝寝がしたくなる。
隆明叔父さんと冷戦中の詩文は、叔父さんといっしょに客間で寝るのを嫌がって、俺の部屋へ布団を持ちこんできてるんだ。
毎晩、やつの語学学校の宿題につきあってやって、そのあとくだらない話をいつまでもしているから、やっぱり寝不足だ。
詩文は愚痴っぽい。
漢字って、どうして何千個もあるんだろう、とか、いつまでも子離れできないパパは、やっぱり日本人だとか。
でも、いいかげんうんざりした俺が、なら日本のことを理解するなんていってつっぱってないで、万事フランス流で暮らせばいいじゃないかと突き放すと、しょぼくれるんだよな。
そうなると、俺も落ち込みモードに、ひきずりこまれちまうんだ。
一流音楽家を両親に持った詩文の複雑な心の中を、俺は知ってるんだもん。
両親を心から愛して尊敬しているのに、自分も音楽家を志すとなると、近寄れない距離が生じる、苦しさっていうのかな……。
「渡辺くん。 おい、渡辺くん!」
名前を呼ばれて、俺は、われに返った。
やっべー、授業中じゃん!
今、俺、机につっぷして、完全に寝てたぞ。
おたおたして周りを見まわしたら、黒板の前に立っている桑原先生が、あきれたといった様子で、こちらを見ていた。
「きみ、大物だなあ。 初授業で居眠りかい」
どっと教室中が笑った。
くっそー、恥ずかしすぎるぞ。
第二音楽室は音楽理論やソルフェージュの授業に使われる教室で、黒板の前に先生用のピアノが置いてある。
桑原先生は、きどった態度で、そのピアノにもたれかかっていた。
なんつーか、このひと、女子生徒の視線を意識してるのかな。
ひと目でブランド物だとわかるジャケットを羽織っててさ。
中途半端な長髪を、顔の周りにたらして。
音楽家である自分に、酔っているような雰囲気だ。
悪いけど、苦手だ、こういうひと。
冗談ぽく、先生は言った。
「ぼくの恩師の門脇教授は、むかし、きみの叔父さんを、教えたことがあるそうだよ。
当時は門脇教授も、新進気鋭の講師だったわけだが。
門脇教授によると、渡辺隆明少年も、よく居眠りしていたそうだ。
なぜ寝るとたずねたら、先生の授業はつまらないと言われて、門脇教授は、おおいに傷ついたそうだが」
また教室がわきかえる。
俺は赤くなってしまった。
常磐音大付属高校が隆明叔父さんの母校だということは知っていたけれど、まさか初授業のときに、教師の雑談の話題にのぼるとは、思ってもみなかった。
やっぱり叔父さんは、この学校に名を残す、名物生徒だったんだ!
生徒の笑い声に気分をよくした先生の言葉に、嫌味の棘が入りはじめた。
「たしかに、あの渡辺先生には、この程度のレベルの話は退屈すぎたのだろうがね。
初授業で居眠りするきみだ。 きっと叔父さん以上の大物になるのだろう。 期待しているよ。
ということで、質問に答えてくれ」
たまらん。 桑原先生って、まちがいなく、援護集団がいると態度がでかくなるタイプだな。
俺は、しぶしぶ立ちあがった。
家に帰ったら、絶対、叔父さんに文句を言ってやると決意しながら。
先生からの質問。
「今、二十四の調性の関係について、ざっとしゃべったところだ。
常磐音高の生徒に、こんな基本的な講義は、いまさらという気がしないでもないんだが、まあ、復習だと思って答えてくれればいい。 変ニ長調の平行調は、なんだろう?」
問いかけを受けて、一瞬、俺の頭の中は、真っ白になった。
俺、理屈は苦手なんだよ。
とっさに答えられないから、頭の中に鍵盤なんか、思い描いちゃって。
変ニ音はレの♭だから、ドとレの間にある黒鍵だ。
平行調てのは、確か、調記号が同じになる短調のことだよな?
三度下がって、ええと、ええと。
頭の中の鍵盤を押したら、ポン、ポン、ポロンと、音が出た。
この音、シの♭だ。
「ええと、変ロ短調、です、……か?」
桑原先生は渋い顔をしていた。
「正解だけど、きみ、時間がかかりすぎだよ。 すぱっと答えてほしかったなあ」
教室中に忍び笑いが広がった。
ぶざまだ。
初授業で、頭が悪いの、ばらしちまった。
「じゃあ、前に出て、変ロ短調の音階を弾いて下さい。 そこから、次の説明に移ります」
「はい」
やれやれと思いながら前に出てピアノの椅子に座ったら、またもや頭の中が、真っ白になった。
うっきー、変ロ短調って、フラット五個だよな?
弾きはじめは、2番の指でいいんかい?
そのほうが合理的だよな?
弾きはじめる鍵盤が黒鍵で、つぎが白鍵だから、高い位置にある黒鍵を、ほかの指より短い親指で弾いちゃったら、つぎの白鍵が押せないもん。
だから、最初は2番。
そうすると、どこで指を返せばいいんだ?
桑原先生もひどいや。
フラット二個くらいの出題に、負けといてくれればいいのに。
なんでわざわざ難しいことを、要求するんだ!
「渡辺くん?」
桑原先生がピアノ越しに俺をにらんでいる。
ええい、面倒くさい!
俺は、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン、ポン♪ と、人差し指一本で音階を弾いた。
ばらけた、投げやりな音がでた。
案の定、桑原先生は気色ばんだ。
「渡辺くん! きみ、まがりなりにもピアノ専攻だろう!?
一本指で何をやってるんだ! 音階ひとつ、満足に弾けないのか!?」
こめかみのあたりで、ぶちっと何かが切れた俺は、ふて腐れて答えた。
「べつに正解なんだから、いいじゃないすか」
「いいかい? きみ、大先生の甥だからって、ここでは、特別あつかいは、されないんだよ」
「そんなもの、期待してません」
「じゃあ、ぼくを馬鹿にしているのか?」
俺は、びっくりだよ。
顔をあげて、まじまじと桑原先生を見つめてしまった。
「なんで、話がそこまで、ぶっ飛ぶんですか?」
先生の顔と声がひきつった。
「きみが、ふてぶてしいからだろう!」
「ふてぶてしいって……」
「もういいっ! 席へもどりなさいっ!」
桑原先生は大きく息を吸って、胸の動悸を押さえるような仕草をした。
口答えしたのが、まずかったみたいだ。
どうも俺、桑原先生の心の暗闇につながっているスイッチを、押しちゃったらしい。
最初に隆明叔父さんを引き合いに出されたとき、もっと警戒しておけばよかったのに。
俺ってば、鈍感だから。
同じ門脇教授の門下にいたのに、隆明叔父さんは一流アーティスト、桑原先生は平凡な高校教師。
エキセントリックでプライドが高い芸術家肌の人なら、胸にわだかまりが、ないわけがない。
人間の心の闇って、理性じゃなかなか、抑えられないものだよ。
しんと教室の中が、静まり返っている。
いたたまれない。
俺、この学校にいるあいだ、これからもずっとこうやって、隆明叔父さんの影におびえていなくちゃならないんだろうか。