はじめての演奏会


発表会、発表会と、谷崎先生がいうから、俺は自分がでる演奏会のことを、ガキのころ何度かでたことがあるピアノ教室の発表会の大きなもの、ていどに思っていた。

さすがに、谷崎先生の教え子で初心者御用達のブルグミューラーなんか弾くやつはいないだろうけれど、そこそこ上手な人が集まって、適当な小品を弾く発表会なんだろうなあって。

ところが、ふたをあけてみたらどうだい。

虎ノ門にある二百五十席ほどのクラシック音楽専用ホールを借り切って、チケットだって、一枚千五百円だけれど、金とって売るっていうんだ。

しかも、出演者にはみんなコンクール入賞歴があって、まったくノンキャリアなのは、なんと、俺だけ。

演奏曲目も、シューマンの『 幻想小曲集 』とか、ラヴェルの『 夜のガスパール 』とか、大曲ばっかり。

つまり、これは発表会じゃない。

れっきとした、演奏会なんだ。

谷崎先生は、なんでも万事アメリカ流だから、ステージ経験も大切な勉強って、実践重視型の、教育方針だったんだよお!

それにしたってさ、なんで俺がトリなんですかと、おおあわてで電話したら、谷崎先生ってば――

「ぼくは自分の弟子に、ランク付けなんか、したくないんだよね。
それに、どっちのコンクールのほうが格が上かなんていいだしたら、きりがないじゃないか。
だから、アルファベット順とか、アイウエオ順とか、年の順とか、いろいろと考えてみたんだけどさ。
どうも面白味がないから、今年は、くじびきってことに、してみたんだ。
そういうわけだから、うらむんなら、アミダを作った清美さんを、うらんでねー」

――なんて、いうんだ。

ちなみに、『 清美さん 』ってのは、谷崎先生の奥さんだ。

谷崎先生は、アメリカ暮らしが長かったから、奥さんを名前で呼ぶ。
もちろん、先生も奥さんからは、『 純一さん 』と呼ばれている。

いい年して、恥ずかしくないのか……?

ちくしょう!

それにしても、くじびきって、なんなんだよ?

やっぱり谷崎先生は、隆明叔父さんの友達だよ!

叔父さんの音楽家の友達って、豪快親父のフェルドマンもそうだけど、どこか面白系の、変な人ばっかりだ!

 

 

演奏会の当日、午前10時に会場へ集まった出演者たちは、そろってみんな、俺に冷たかった。

空気がトゲトゲしくて、話しかけられるような雰囲気じゃないんだもん。

谷崎先生にむかって、プログラムの演奏順がどうのってケチをつけたりしたのは、どうやら俺だけだったようなんだよね。

そういった情報が入っていなかったら、演奏会出演者たちが怒るのも、無理ないような気がする。

きっとみんな、ノンキャリアの俺がトリを弾かせてもらうのは、隆明叔父さんの御威光だと思っているんだろう。

じつは、プログラムの編成がくじびきだったなんて知ったら、全員が、ぶっ飛ぶにちがいないよ。

この一週間というもの、自分のスタジオ優先権をゆずって俺の練習に協力してくれていた詩文は、俺が朝から落ち着きないもんで、心配してリハーサルに付き添ってきてくれていた。

本当なら、ひさしぶりに会う母親のエヴリーヌさんを、隆明叔父さんといっしょに空港まで迎えにいきたかったんだろうに、もうしわけないことをしてしまったよ。

でも、ありがたかった。

俺、がらにもなく、緊張してる。

となりに詩文がいてくれなかったら、まじでうろたえて、大失敗をやらかしたに、ちがいないと思う。

ほかの出演者たちの付き添いは、ほとんど母親だった。

付き添いが二人いる人は、予備レッスンをしている教師が、ついてきているんだろうな。 谷崎先生のところには、地方から新幹線でレッスンに通ってくる生徒もいるらしいから。

俺たちとは離れたところに立っている、大学生の野末さんは、さすがに一人だ。

まあ、大学生の男のリハーサルに母親がついてくるようだったら、ちょっと別の意味で、怖いもんがあるけどな。

客席のなかに思い思いにすわった、みんなの会話が聞こえてくる。

「トリはぜったい、野末さんか、堀くんだと、思ってたけど」

「渡辺くんって、あの渡辺隆明先生の甥なんですって?」

「渡辺先生って、高校生のとき、常磐の学生だったのよね。 なんでも、付属高校の伝説に、なっちゃってるって話だけれど」

俺は頭をかかえたね。

常盤音楽大学付属高校が叔父さんの母校だってことは、俺も知ってたけどさ。

伝説って、なんだよ?

隆明叔父さん、いったい学校で、どういう悪事を働いたんだ?

そんでもって、噂話に、きりはない。

「いっしょにいる、きれいな子、だれ?」

はい、はい、つぎは、詩文の噂かい。

「堀くんなら、知ってるんじゃない? 谷崎先生のところで、渡辺くんと会ったって、話してたから」

女の子たちは、いっせいに、堀先輩のところへ雪崩れよった。

取り囲まれた堀先輩が答えてる。

「ああ、彼? 渡辺先生のご子息。 詩文くんだよ」

堀先輩は、いかにも俺たちと親しいんだって、態度だった。

まるで、隆明叔父さんとも知り合い、みたいな態度なんだもん。

むかつくなあ。

しかも、こんな失礼なことまで、いうし。

「詩文くんは、ヴァイオリンを弾くんだって。 実力のほどは、知らないけどね。
渡辺先生の息子なんだから、あの容姿と人脈で、将来は売れるかもよ。
だれか、アタックしてみたら?」

「やっだ〜。 堀くんったら、聞こえるわよ」

「だいじょうぶ。 彼、フランス語しか、わかんないから」

「渡辺くんがフランス語通訳、できるようには見えないしね」

くっそー、笑い声なんか、弾けさせやがって!

どーせ。

もういいよ、笑いたきゃ、いくらでも笑ってくれ。

「息子が美形って、やっぱり血筋よね。 渡辺先生って、ダンディですもの。
海外のオーケストラのまえに立って、見劣りしない日本人指揮者って、そんなにいないわ」

「あら、あの子、ハーフでしょ? だから、きれいなのよ」

「渡辺くんと並んでると、本当に従兄弟同士なのかしらって感じ」

「ちょっと、悪いわよ」

小さな声で話してるそぶりだけど、ぜーんぶ聞こえてるぞ、はあ……。

ここで俺は、となりから、不穏な空気を感じとった。

「立て、夏海!」

いきなり詩文にいわれて、反射的に立ちあがる、俺。

「夏海は姿勢が悪いんだよ。 だから、いつも、へらへらして見える。
背をのばす! 腹と尻を緊張させろ! あごを、ひけ!」

そういいながら詩文め、俺の背中や腹を、ばしばしたたいて、にやりと笑いやがった。

俺に聞かせるようなふりをして、大声あげるし。

「ぼくのパパがステージのうえでダンディなのは、二十年の経験の結果だよ。
18歳で日本からでていったパパには、大人のエレガンスなんか、ぜんぜんわからなくて、若いころは、苦労したみたいだ。

だから、パパは ぼくに、フランス流の教育をした。
フランス人は、自分の親から、大人のエレガンスをたたきこまれるんだ。

エレガンスというものは、見た目の美しさから生まれるものじゃない。
正しい姿勢や、緊張した精神の力で、意識して生みだすものなんだ」

女の子たちが、いっせいに、堀先輩をにらんだ。

詩文くん、ちゃんと日本語、しゃべってるじゃないのって。

いまさら遅いよ。

詩文の頭には、もうとっくに全員嫌いなタイプって、インプットされたから。

こいつ、執念深いぜ?

窮地に立たされた堀先輩は、谷崎先生に救われた。

ぱんぱんと、注目を要求する拍手の音が鳴って、いつのまに会場へ入ってきていたのか、谷崎先生の大きな声が、あたりに響いた。

「詩文くん、いいこというね。
ステージマナーもエレガンスだよ。
そういうことも学んでもらいたくて、企画した発表会なんだからね。
ステージへでてくるときには、エレガンスを意識して、やってみよう。
さあ、リハーサルを、はじめるよ」

あたりがざわめく。

俺は、ため息とともに、椅子にすわった。

頭のうえを、見まわしてみる。

きれいなホールだった。

ロビーには、バーラウンジなんかも、あるらしい。

コンサートシーズン中は、室内楽を中心に、ピアノや講演会なんて、気品に満ちた企画が楽しめるホールなんだってさ。

木質の内装に、落ち着いた雰囲気の照明。

つまらない演奏を聴かされたら、眠くなりそうな上等な椅子。

俺、いままで自分がでる演奏会っていえば、区民会館とか、学校の体育館とかが、専門だったもんね。 桜交響楽団の晴れ舞台っていえば、そんなもんだ。

響きが良さそうなホールで演奏する経験ができるんだから、今日はそれだけ、楽しめればいいや。

そう思いながら、俺はプログラムをひらいた。

ええと、先頭バッターは、鴨川知香さんか。

名古屋の普通科高校の二年生。

この人か、新幹線レッスン組って。

大変なんだなあ、演奏家になるって。

普段レッスンを見てもらっている先生への謝礼だろ、新幹線の切符代に、谷崎先生へ渡す謝礼。

ひと月、いくらくらい、かかってんのかな。 お嬢様なんだろうなあ、きっと。

そういえば、俺んちって、どのくらい谷崎先生へ謝礼してるんだろう?

月はじめに、いつも白い封筒をもたせてもらうけれど、中身がいくらなのか、俺は知らなかったりする。

うーん、俺ってば、弟子失格か?

谷崎先生が、えらい先生なんだっていうのも、つい最近、知ったアホだし。

で、ええと。

××年、潮流社ピアノコンクール、ジュニア部門小学生の部、第一位。 あとは、ずらっと、いままで習った先生の名前。

あれ?

いま、高校生なんだよね?

それで、小学生のときの入賞歴を、プログラムにのせてるのか?

まあ、俺のプロフィール紹介文の『 中学校三年生。谷崎純一に師事 』のひとことよりは、価値があるのかなあ。

しばらくしたら、彼女がステージのうえに、エレガントにあらわれた。
すんげー、花嫁さんのお色直しみたいな、ぶわぶわのピンクのドレスをひきずってだ。

しばらく客席を仰ぎ見たあと、エレガントにお辞儀をして、エレガントにほほ笑んで。

そして始まった演奏に、俺はおもわず、うなりそうになった。

曲はショパンのエチュード。

弾けてる。

とにかく、弾けてる。

スピードは速いし、音もまちがわないし、内声の強調も、全体の強弱も、完璧に、楽譜どおり。

でも、このパサパサした耳障りさは、なんだろう?

となりの席で、詩文が、つぶやいた。

「一曲目がおわったら、外へでようよ」

そのつぎの言い草に、俺は顔をしかめたね。

「耳が腐る」――って、詩文、おまえはあっ!

性格悪いぞ。

好意をもっている人間と、そうじゃない人間に対する、この態度のちがい。

でも、外へでようという誘いには、文句なんかなかった。

こんな調子で何曲も聞かされたら、退屈しちゃうこと、まちがいなしだ。

 

 

コンサートホールは大きなビルのなかにあったから、俺と詩文は一階のエントランスまでおりて、そこにあったカフェの立ち飲み席のテーブルに、アイスコーヒーのグラスをもって、おさまった。

止まり木みたいな、細長いテーブルだ。 もたれかかるとちょうどよい、高めのつくりになっている。

テーブルにとりついた人たちは、みんな、ぼーっと、目の前にある窓の外をながめていた。

8月の真昼の陽射しをあびている都心の風景って、見てるだけで、疲れちゃうな。

街路樹の下にできた影は もうしわけ程度で、照り返しに白く光るコンクリートから、ゆらめく陽炎が立ち昇っている。

ガラスのこちら側には、空調のきいた快適な空気があるから、時間や空間に対する感覚が、おかしくなるよ。

歩道を歩いている人が、遠い異国の人みたいに見えるんだ。 実際は、ほんの数メートル先に、いる人なのに。

詩文が、俺のほうをむいた。

外の景色から、目をそらすみたいにしてさ。

ひょっとしたら、同じことを考えてたかなって、俺は笑ってしまった。

グラスに浮かぶ氷をストローでつつきながら、詩文が話しかけてくる。

「気分の悪い音が、まだ耳から離れないや。 ああいうの、ピアノしか見えない生活をしてきた人に、よくある演奏だよね。

彼女の音楽と気持ちのあいだには、つながりが何も感じられない。 音楽院の仲間にも、ああいう演奏を、するやつがいたなあ」

さっきの、ショパンの、彼女の話のつづきだ。

俺も、ため息まじりで、うなずいた。

「いつのまにか、目的が変な方向へ、いくやつもいるからな。 好きな音楽を極めたいんじゃなくてさ、音楽家になることじたいが、目的みたいになる。
演奏家が華やかに見えるのは、ステージのうえでだけだよ。
あとのほとんどは、音楽を作りあげる苦しい作業を、くりかえすだけの生活なのにさ」

「音楽には、魔力があるもん。
楽器がじょうずに弾けると、自分には人とはちがうことができるんだって、優越感みたいなもの、あるし」

あきれた俺は、詩文の顔を、まじまじと見てしまった。

「おまえ、優越感なんて、また難しい日本語を」

とくいげな輝きが、詩文の表情に宿った。

「パパと、いっぱい話をしたから。 言葉なんて、話さないと、上達しないだろ?」

「うっほー、渡辺隆明と、なに話したんだ? マエストロの音楽観とか、そんなことまで話したのか? うらやましすぎるぞ」

「いいだろ」

詩文は、嬉しそうに笑った。

気持ちのいい、笑顔だったよ。

叔父さんと詩文のあいだの何かが、変化したんだってわかる。

俺はそれを、そのまま、詩文にいってやった。

「おまえ、いい顔してる」

詩文の表情が、生き生きと輝く。

「ありがとう。 ぼくも、すこしは強く、なれたのかな。 マイナスから積みあげたものは、やっぱり自信になるんだよね。 それにさ」

薄い茶色の瞳が、俺を、じっと見る。

「ぼく、どうやら、夏海に負けたくないらしいんだ。
夏海が、ものすごいパワーで、ぐいぐい前へ進んでいくのを見ていたら、かなり悔しかった」

おもわず、俺は、苦笑いだ。

「ぎゃくに俺はさあ、おまえを見て、考えなしに暴走するのは、ちょっと控えようと反省したんだぜ」

俺たちは声をあげて笑った。

気分最高だった。

詩文の声にも、勢いがある。

「スーパーマンみたいに見えるパパにだって、いろんなことがあって、苦しい時代が、あったんだもんね」

「だな」

「もっともっと、強くなりたいよ。 それで、これがぼくの音楽だっていうものを、いつか必ず、人に聴かせられるようになりたい」

「うん。 俺もだ」

そうだよな。

俺も、これが渡辺夏海オリジナルっていえるような、音楽を築きたい。

渡辺隆明の甥と呼ばれて、コンクールを勝ちぬいてきたエリート連中とくらべられるのは辛いなって思っていたけれど、あくまでも、俺は俺でいこう。

ライバルたちに無視されようが、悪口をいわれようが、へっちゃらさ。

そんなことより、詩文に負けるほうが、よっぽど悔しいもん。

がんばってる、こいつに負けるってことは、俺の心が弱いってことだ。

男がすたるってもんだぜ。

だいたい、くよくよするなんて、ぜんぜん俺らしくない!

 

 

俺は、その日、はじめて出演する本物の演奏会のステージのうえで、いまの自分にできる精一杯の思いをこめて、『 ムーンライト ・ ソナタ 』 を弾いた。

今日はきっと、家族も総出で応援にきてくれているだろう。

昨日の夜、婆ちゃんが、午後の店番はバイトのクニちゃんに、たのんだからねー、なんていってたもん。

爺ちゃんは、次から次へとかかってくる電話の対応に、追われていたしな。

桜交響楽団の仲間がさ、「夏海くん、合同コンサートに、でるんだって?」なんて、問い合わせてきてたらしい。

たぶん、「死んでもジュリアード音楽院へ留学するんだ!」って宣言して、お盆も田舎に帰らないで、トランペットの練習にはげんでいた西田さん経由で、話がみんなにまわったんだ。 ヒマなやつは、みんな俺のピアノを、聴きにきてくれているにちがいない。

感謝だ。

俺が、こんな音楽大好き小僧に育ったのは、まちがいなく桜響の仲間たちのおかげだ。

それに、隆明叔父さんと、叔父さんの奥さんのエヴリーヌさん、仲良しの従弟の詩文にも、山盛りの感謝。

エヴリーヌ叔母さんは、空港からコンサートホールへ、直行だぜ。 ちょっと、もうしわけない気分。

でも、聴いてもらえたら、嬉しいよ。

みんな、聴いてくれ。

まだまだ未熟だけれど、これが俺の音楽なんだ。

あれだけ感激して、ショックを受けた隆明叔父さんの音楽とも、まったくちがう。

奏でる音にこもっているのは、俺の熱意。

小さな音ひとつのなかにも、もれなく意思の力をそそぎこむ。

すべての音に意思がこもると、音楽が燦然と光り輝く。

音に、命が宿る。

そう思えるのは、俺がまだプロの演奏家をめざして歩きはじめたばかりの、赤ん坊みたいな存在だからなのかもしれないけれど。

でも、いまは、かくあるべしと、信じる音を鳴らすだけだ。

これが、俺の 『 ムーンライト ・ ソナタ 』。

これが、俺の、ベートーヴェンなんだよと。