月曜日に東都交響楽団と関西への演奏旅行へでかけていった隆明叔父さんは、金曜日の夕暮れ時に帰ってきた。
のんきな渡辺家の一同は、帰ってきた叔父さんの顔を見て、ぎょっとしてしまった。
げっそりと、やつれてたんだもん。
そのうえ、「食欲ないからいいや。 疲れた」 なんていって、夕飯も食わないで寝ちゃうし。
詩文も、いってたけどさ。
日本の夏って、ヨーロッパにくらべたら、ひどく蒸し暑いからな。
売れっ子指揮者の、隆明叔父さんの疲れきった体には、猛暑のなかの演奏旅行が、ことのほか応えちゃったんだろう。
移動しながらの演奏会って、大変なんだよ。
演奏会場がかわるたんびに、リハーサルで音響を確めて、お客さんの耳に、もっともいい状態の音が届くように、演奏の細部を調整しなくちゃいけないから。
指揮者の神経なんて、きっと、すりきれちゃうんだろうな。
指揮者ってのは、オーケストラの真ん中で、テンポや強弱の指示をしてるだけじゃないんだぜ。
演奏会にたどりつくまでの練習をどうやるかとか、演奏する曲の楽譜を、どの出版社の何版をつかってやるかとか、ありとあらゆる音楽的な責任を、ぜんぶ背負ってるんだ。
だから、マエストロなんて呼ばれて、みんなから尊敬されるんだよ。
いやいや、大変な仕事だ。
そんでもって、翌日の土曜日。
渡辺家の男たちは、朝から大騒ぎしていた。
その日が、桜交響楽団の、定期演奏会当日だったんだ。
弱小アマチュアオーケストラの演奏会っていったら、そりゃもう、おおごとだ。
楽器の搬入から、会場のセッティング、はては演奏会へきてくれるお客さんの誘導まで、ぜんぶ自分たちの手で、やらなくちゃならないんだから。
隆明叔父さんはパジャマ姿のままで、ぼーっと食卓にすわって、どたばた走りまわる俺たちをながめていた。
いつも早起きで、朝食のときには、きちんとした服装になっている人なのに、これは珍しい現象だった。
でも、俺たちには、叔父さんをかまっている余裕なんかなかった。
なにしろ、うちの爺ちゃんは、桜交響楽団の創立以来のメンバーで、事務局長なんだもん。 雑用を、丸抱えなんだよな。
それでもって、俺たち家族は、いいように、こき使われる。
爺ちゃんときたら、テンションあがりまくりで、さっきから演奏会のプログラムが入ったでっかいダンボール箱をかかえて、わめきつづけてるし。
「勇海くん。 芳川さんから電話あったか? 彼、会社の車で、ティンパニ運んでくれる、だんどりなんだけど」
「ありましたよ、お義父さん。 ぶじ、会場に着きましたって」
「詩文、悪いな。 爺ちゃんの楽器も、もってくれるか?」
「OK。 お爺ちゃん、楽譜は? ドボルザークのがない」
「あーっ、朝飯食いながら見てたから、テーブルのうえだ! やべえ。 詩文が気がつかなかったら、忘れていくところだったぜ」
「もー、お爺ちゃん、しっかりしてよ」
詩文が楽器をおいて、食卓にかけよる。
婆ちゃんは、あきれて、俺達を見ていた。
「毎年毎年、演奏会だっていうと、これだもんね。 浮かれちゃって、どうしようもない」
だってさあ、婆ちゃん。
年に一回の定期演奏会が、桜交響楽団の晴れ舞台だぜ。
俺たち、嬉しくて、楽しくて、たまらないんだってば。
「ごめん、パパ、どいて! お爺ちゃんの楽譜!」
詩文が隆明叔父さんを、おしのけようとした瞬間だった。
椅子から立ちあがって、詩文に通り道をあけてやろうとした叔父さんが、よろめいた。
とっさに叔父さんを受けとめた詩文が、大声をあげた。
「パパ! 熱があるんじゃないの !? 体が、すごく熱いよ!」
ふらふらしながら、詩文に抱きついた叔父さんは、うめいた。
「やっぱり、そうかあ? ふああ、めまいがする……」
「めまい? お婆ちゃん、大変だあ!」
それからの騒ぎったら、もう。
無理やり隆明叔父さんを布団におしこんで、婆ちゃんが熱を測ったら、39度もあったんだ。
だけど、隆明叔父さんは、病気じゃないって、いいはるし。
婆ちゃんと、本格的な言い争いになっちゃった。
「なんでもないよ、お袋さん!」
「なんでもないわけないでしょっ! 大阪から、幽霊みたいになって帰ってきたと思ってたら! あんた、夏ばてで、ご飯をちゃんと食べなかったんじゃないのっ?」
熱でぼんやりしている隆明叔父さんは、自分でせっせと、墓穴を掘るようなことをいった。
「いや、べつに食えなくても、いいホテルに泊めてもらえたから、そこのクリニックの医者に点滴してもらえたし、なんとかなった」
みるまに、婆ちゃんの眉が、つりあがる。
「点滴って、あんたっ! そりゃ、まちがいなく病人が、することだよっ!」
婆ちゃんは手にもっていた氷枕で、布団からぬけでようとした隆明叔父さんのおでこを、ぐいっとおした。
叔父さんは、あっけなく、ひっくりかえった。
どこもかしこも、力が入んないみたいだ。
すっかり婆ちゃんは、ありし日の肝っ玉母さんに、もどっちゃってる。 まるで、俺のお袋みたいな、迫力だよ。
「つべこべいわないで、おとなしく寝てなさいっ!」
叔父さんも、完全に、こまった息子へと退行中だ。
「だって、お母ちゃん。 今日は桜響の、演奏会なんだよお」
「この馬鹿たれっ! 四十にもなって、子供みたいな、駄々こねるんじゃないっ!」
「だって、ぼくはねえ、詩文がお爺ちゃんと、仲良くならんでステージにのぼるところを、見たいんだあ……!」
「うるさいっ! 外出なんて、ぜったいさせないからねっ!」
「だって〜〜〜〜!」
うひー。
だって、だってと、いいまくったあげく、隆明叔父さんは、まじに布団をひっかぶって、泣きはじめた。
夏布団って、薄いだろ。
背中丸めて、えぐえぐいってるのが、丸見え。
なんつー、情けない姿。
隆明叔父さんってさあ、じつは音楽から離れると、子供っぽい人なんだよね……。
毎年、俺も、妹の春海といっしょに、隆明叔父さんの信州の別荘へ、遊びに行くけどさあ。
こと遊びとなると、叔父さんは、熱心なんだ。
俺、虫取りも、魚釣りも、素もぐりのやり方も、ぜんぶ、隆明叔父さんから習った。
習ったっちゅーか、いっしょにやって、覚えた。
クワガタをおびきよせる秘伝のネバネバ液を作ってるときの叔父さんなんてなあ、すっげー嬉しそうで、ほんと、ただの悪ガキだ。
つぶしたバナナと蜂蜜で、そこらじゅうをべたべたにして、俺たちといっしょになって、奥さんに、叱られたりしてな。
だけど、今年の俺は、叔父さんってばガキだなあとは、笑えなかった。
叔父さんのマジ泣きの理由が、たんに童心へかえっているからだけだとは、思えなかったんだ。
たぶん叔父さんは、日本の家族から詩文が特別あつかいを受けないように、いままであった いろいろなことについては、口を閉ざしていたんだと思う。
ざっくばらんで、ずうずうしくて、めちゃくちゃ明るい俺たちの態度が、詩文には癒しになるだろうって、わかっていたんだろうな。
にが笑いしながら、枕もとにすわった詩文が、叔父さんに話しかけている。
「パパ、泣かないでよ。
演奏会、団長さんの息子さんがビデオに撮ってくれるって、いってたから。 ねっ?」
「詩文、ごめんよお……」
布団のなかから、叔父さんの手だけが、にょっきりとでてきて、詩文の手を握った。
固く握られたのは、右手だった。
――父親の才気に圧倒されると、震えてしまうという、息子の右手。
叔父さんは、いったい どういう思いで、早く大人になろうってもがいて、一歩一歩、懸命に前にむかって進んできた詩文のことを見守っていたんだろう?
だって、自分の存在自体が、息子の重荷になってるんだぞ?
でも、叔父さんは音楽家で、音楽を奏でることが、生きることでもあるから。
自分自身も、さらに前へ進むことは、やめられない。
永遠の、追いかけっこだ。
叔父さん、桜響の演奏会へ、どうしても、いきたかったんだ。
手が震えて弓をもてなくなっちゃった詩文が、がんばって問題をのりこえて、やっと他人といっしょに音楽を奏でるところまでたどり着いたのを、見守りたかったんだよ。
その夜の桜交響楽団定期演奏会は、大成功に終わった。
西田さんのトランペットは最高にかっこよかったし、俺も、ドボルザークのシンバルのひと打ち、気持ちよく決められたしな。
でも、隆明叔父さんは、演奏会にこられなかった。
四十歳を越した大人が高熱だすって、大変なことみたいだ。
午後には本当に動けなくなってしまって、家中でお世話になっている桜ヶ丘クリニックの栗田先生に往診にきてもらったって、婆ちゃんがいってた。
風邪がうつるって客間から追い出されて、俺と春海と両親が雑魚寝する八畳間に枕をもって寝にきた詩文は、叔父さんが息も絶え絶えだって、しょげてたし。
風邪っちゅうか、過労なんだろうな。
世界を飛びまわる仕事をしていて、疲れがたまらないわけがない。
だから隆明叔父さんも、8月は働かない月なんだって決めて、詩文や俺や春海を相手に、信州で遊び暮らすんだろうし。
なんか、隆明叔父さんが寝込んでいるあいだの我が家は、家全体が意気消沈してて、まいった。
なにより、寝込んだ叔父さん本人が、むちゃくちゃ落ち込んでて暗かったからな。
その隆明叔父さんの落ち込みがなあ、我が家に、また嵐を呼んじゃったんだ。
桜交響楽団の定期演奏会が終わってから数日後、ようやく隆明叔父さんが布団から起きだした日に、事件はおこった。
ことのおこりは、新聞だった。
ひさしぶりに、家族と同じ朝の食卓へすわった隆明叔父さんは、なにげなく、爺ちゃんが読みおわっておきっぱなしにしていた新聞に、目をとめた。
うちの爺ちゃんは、筋金入りのクラシック音楽マニアだからな。
いつも新聞の文化欄、とくにコンサートやアーティストの情報を、ていねいに読む。
んで、隆明叔父さんの目に、とまっちゃったんだよ。
叔父さんと東都交響楽団の、夏の特別演奏会の批評記事が。
じっと新聞を見おろして、叔父さんは文字を目で追っていた。
その態度は、やけに静かだった。
飯を食っていた家族は、緊迫した。
だって、爺ちゃんが、ぼそぼそいったんだもん。
「やべーよ。 あれ、あんまり誉めてないんだ。
ほら、後半のスクリャービンのできが、いまひとつだったじゃねえか。
笛が出遅れたり、太鼓が乱れたり、けっこう目立つ傷のある演奏だっただろ。
東都響って、ふだんはマンネリプログラムで、ちんたら演奏してる連中だから」
そうなんだ。
俺達が聴きにいった初日の演奏、後半のプログラムのできが、あまりよくなかった。
なんか、指揮者の叔父さんが気の毒になっちゃうような演奏だったんだよ。
オーケストラの汗が、客席に、つたわってきてさ。
隆明叔父さんの指揮も、演奏しなれない曲にとまどったオーケストラを必死に鼓舞して、音楽からこぼれ落ちるプレイヤーをださないように、事故防止に奔走してるって、感じだった。
ありゃあ、練習不足だな。 練習時間がたりなかったっていうのは、プロには、あっちゃならない言い訳なんだけれど。
記事を読みおわった隆明叔父さんが、椅子をひく大きな音とともに、立ちあがった。
そのまま、すたすた電話器のところへいって、どこかへ電話をかける。
「アロウ」
第一声は、フランス語だった。
詩文が、あっちゃーっと、額をおさえた。
「パパ、マネージャーのアルに、電話してる。
やばいよー。 いま、サマータイムだから、フランスとの時差は七時間だよ?
むこうは真夜中だあ」
俺は隆明叔父さんの流暢なフランス語をききながら、テーブルに腹をのっけて、詩文のほうへ顔を近づけた。
「なに話してんだよ?」
「東都響とは、もう二度と仕事しないって。
パパったら、普通に話してるみたいに見えるけど、むちゃくちゃ怒ってるよお……!」
そして一時間後、我が家に、客が吹っ飛んできた。
この一時間って短い時間に、お客さんの切迫した気持ちが、こもってるんだよね。
はあ、気の毒で、ため息がでる。
「渡辺先生!」
お客さんは、いきなり我が家の、あまり熱心に磨いていないフローリングの床に正座して、額をこすりつけるほど、頭をさげた。
俺と詩文は、おもわず、顔を見あわせた。
子供は三階へあがっていろって、俺たちはリビングから追いだされたんだけれど、 興味がわかないわけが、ないじゃんか。
俺たちは三階へあがるふりだけしておいて、キッチンへ忍びこんでいた。
お茶を沸かしていた婆ちゃんに見とがめられたけれど、婆ちゃんだって、暖簾のすきまからリビングをうかがってたんだから、同罪だよな。
ダークスーツに、きっちりと身を包んだおじさんが二人、大きな声で訴えている。
「どうか来年の契約のキャンセルだけは、ひらに、ご容赦ください!」
「お願いいたします!」
お客さんは、東都交響楽団の幹部だったんだ。
隆明叔父さんは、ここしばらくの不機嫌を、かくそうともしなかった。
土下座状態のおじさんたちの前に、立ちはだかるみたいに、怖い顔で立っちゃってて。
「岩井理事、豊島事務長。 芝居がかったことはやめてください。
こんなことをされても、ぼくの気持ちは変わらないし、マネージャーに伝えさせたことで、もうすべては終わりだから」
「いいえっ! キャンセルは取り消すとのお約束をちょうだいするまで、わたくしどもは、帰らない覚悟でごさいます!」
やつれた叔父さんが、まとった雰囲気は、すさんでいた。
「もうしわけないが、ぼくも四十をこえてから、無理がきかなくなったなあと、実感したんです。
この時期は、一年の疲れが、たまっている。
真夏の日本で、点滴を打ちながらツアーなんて、もうごめんです」
「では、先生! せめて、東京公演だけでも!
来年はリハーサルの日程も十分にとりますし、なにもかも、先生のご希望にそうように、いたしますので!」
「なにもかもって、関西遠征を中止にしたうえで、そんなことをしたら、東都響は財政的にこまるんでしょう?
だいたいねえ、今年の演奏会だって、ぼくは 『 このプログラムでやるなら、せめて初日までに、五日の練習期間をちょうだい 』 と、お願いしたのに、金がないから無理です、なんていってさ。
三日しか練習できないんだったら、見栄をはらずに、もっと簡単なプログラムに、しときゃあよかったんだよ!
無理してかっこつけたあげくに、今回の東都響は関西公演がおわるまで、ずっと、おたおたしたまんまだったじゃないか!
おかげで、ぼくは神経がすり切れて、ボロ雑巾みたいになっちまった!」
うっひゃーだ。
隆明叔父さんが飯も喉に通らなくなった理由って、たんなる夏ばてだけじゃなくて、そんなところにもあったのか。
叔父さんは胸のまえで小さく手をあげた。
「やめよう。 不毛だよ。 すぎたことを、あれこれいうなんて。
とにかく、ぼくはもう東都響と、仕事をする気はない。 そういうことだ」
「先生……!」
叔父さんに呼びかけたきり、しばらく黙りこんだその人は、正座の膝のうえに握りこぶしをのせて、はたはたと、本物の涙を流した。
「渡辺先生のかわりなど、だれに務まると、おっしゃるのですか。
不肖、豊島、先生がさわやかな御青年であられたころより、先生の音楽を、深く、深く、ご尊敬もうしあげております。
たしかに東都響は、お世辞にも、一流の団体とはいいがたい。
ですが、その東都響を、いままで十年のながきにわたって、こころよくご指導くださいましたのは、渡辺先生も、わたくしどもに、愛情をおよせくださっていたからではございませんのか。
それともこれは、わたくしどもの、一方的な片思いでございますか。
豊島、情けなくて、涙がとまりません……!」
「豊島さん。 あなた、十年前に、ぼくのところへ客演契約をたのみにきたときも、土下座して、泣いたでしょう? もう、だまされないんだから。
あなたの涙にほだされて、ずるずると十年だよ。
とっくに義理は、はたしたはずだ」
「そこをまげて、なんとか!」
「だいたいね、豊島さん。
いっしょに酒を飲みながら、毎年、あなたは、ぼくに約束しただろう。
若手の実力派指揮者をひっぱってきて、オーケストラをトレーニングする。
欠員がでたときには、力のある楽員を増強する方向で努力するって。
だけど、十年のあいだ東都響は、ぜんぜん変わらなかった」
事務局長さんは、しおれた。
「そ、それは……」
もう一人のおじさんが、隆明叔父さんを見あげていった。
「渡辺先生、お言葉ですが。
いままで客演指揮者というお立場にありながら、いろいろとご心配いただいていたのは、先生のお心のなかに、東都響のあるべき未来像というものが、すでに描かれているからではないのですか。
それをひしひしと感じるからこそ、わたくしどもは毎年、先生に東都響の音楽監督になっていただきたいと、お願いしてまいったのです」
「その話は受けられないと、はっきり断ったはずだよ」
「しかし」
「ぼくにはねえ、いま、家族が一番大切なんだ。
ぼくの苦しかった時代を支えてくれた女房や、かわいい息子のために、もう無理な仕事はやらないって決めた。
毎年日本へ帰ってきていたのは家族団らんが第一目的で、悪いけど東都響との演奏会は、おまけだったんだ」
「先生!」
「もうお話することは、なにもない」
「先生〜〜〜〜!」
隆明叔父さんは、静かに、深く、怒っていた。
その原因は、きっと、今回の不本意な演奏会のせいだけじゃないんだ。
楽しみにしていた桜交響楽団の定期演奏会へ、いけなかったからだ。
仕事を犠牲にしてまでして大切にしてきた息子が、やっとつかんだ努力の成果を、叔父さんは見守って、いっしょに喜んでやりたかったんだよ。
でも、それはあくまでも、プライベートな事情だ。
叔父さんは、怒りをのみこんで、息をついだ。
「そうだね。 来年の夏の東都響の東京公演と関西遠征をひきうけてくれそうな人になら、何人か心あたりがあるから。 そちらへ口利きするということで、かんべんしてください」
まだ泣いている豊島事務局長さんが、絶叫した。
「いいえっ! 豊島、ここまできて、ますます決意が固まりました!
いいお返事をお聞かせ願えるまで、豊島、毎日先生のもとへ参ります!」
「ここへきたって、いないよ。 息子と信州へいくから」
「信州でも、どこへでも、お供いたします!」
ついに叔父さんが、ぶっちぎれた。
「信州へ顔をだしてみろ! 金輪際つきあいは、お断りだっ!」
「先生〜〜〜〜!」
事務局長さんは号泣して、隆明叔父さんの足にすがった。
「はなしてよ、豊島さん!」
「いいえっ!」
「はなせってば!」
「はなしません!」
「はなせ!」
「はなしません!」
大真面目な豊島事務局長さんには悪いけれど、ここからは、まるっきり、ギャグだった。
いい歳した大人が、このあともえんえん、大声でいいあうんだ。
俺は隆明叔父さんに対して、血のつながりってものを、感じてしまった。
肝心なときに、びしっときまらないコメディな渡辺家の気質は、まちがいなく、隆明叔父さんにも受け継がれてるんだなって、思ってしまったんだもん。
三十分後、やっと岩井理事さんが泣いている豊島事務局長を、なだめてつれて帰ってくれて、我が家は静かになった。
静かになったら、わらわらと、人が湧いてでた。
客間で将棋を指していた、うちの親父と爺ちゃん。
風呂の掃除をしてくるといってでていったくせに、ちっとも水音が聞こえなかった、お袋。
お茶をだすタイミングを逸した婆ちゃん。
それに、俺と詩文。
爺ちゃんが、まっさきに口をひらいた。
「どうすんだよ、隆明。
なんで連中が、あんなにあわててるのか、わかってんだろう?
東都響は、不景気のあおりをくって、ひどい財政難だって話だ。
唯一、チケットが発売と同時に売り切れる夏の特別演奏会が中止になったら、悪い噂が、また噂を呼んで、きっと存亡の危機に、みまわれちまうんだぜ」
隆明叔父さんは、すっげー機嫌が悪くて、かみつくみたいに言い返した。
「親父さんまで、なんだよ!
そういうことを心配するために、楽団には理事会とか、事務局ってものがあるんだろう! ぼくの知ったことか!」
うちの親父も、野次馬根性まるだしでしゃべる。 事件が起こったのが、遅番出勤の日だったってのが、嬉しくてしょうがないみたいだ。
「でもさあ、隆明くん。
東都交響楽団は、ご老体の遠藤音楽監督のもとで、二十年って団体だぜ?
ここ十年の停滞は、だれでも知ってることだし。
隆明くんなみに、人気と実力のある指揮者でも親分にすえないことには、新規まき直しは、不可能だよ。
また東京からひとつ、オーケストラが消えちゃうのかなあ……。
寂しいねえ」
「義兄さん、そうはいいますけれどね、無理なものは無理です。 パリと東京は、遠すぎる」
爺ちゃんが、うなった。
「だなあ。 家族のことを考えれば、義理ばかり立ててもいられない」
叔父さんは、考えこんじゃった。
「方法が、まったくないわけでも、ないけどな。
信頼できる若手を補佐役として常任指揮者にすえて、客演陣を固めて……」
なんだかんだいっても、叔父さんが十年も東都響といい関係をつづけてきたのは、東都響がもつ雰囲気に、叔父さんが普段いっしょに仕事をしている一流楽団にはない良さを認めているからなのかもしれないな。
さんざん考えこんだあと、叔父さんは首をふった。
「だめだ、だめだ。 やりたいことは、いくらでも思いつくけれど、ぜったいに実現は無理だ。
もう考えるの、やめた。
ぼくは予定どおり、明日から信州へいくよ。
東都響の連中に、いどころを、ばらさないでくれよな」
「わかったよ」
叔父さんは、詩文のほうをむいた。
「ごめんな、詩文。 コンサート、聴きにいけなくて。
詩文がはじめて参加する、大きなコンサートだったのになあ。
信州では、ひさしぶりに二人で、のんびり遊ぼうな。
午後から、勇海伯父さんの車を借りて、バス釣りのルアーを仕入れにいこう」
俺はおもわず、会話に割りこんだ。
「いいな、釣具屋。 俺も、いきたい」
俺も、自分の発表会がおわったら、春海といっしょに隆明叔父さんの別荘へ、おしかける約束だからさ。
やれやれと、叔父さんが笑った。
「ついてくるのは、ぜんぜんかまわないけれど、夏海くん、演奏会の準備はいいのかい?」
「練習と練習のあいだは、四時間くらい空けないとだめだって、教えてくれたのは、隆明叔父さんじゃんか。 息ぬき、息ぬき」
「自分に都合のよいことだけは、よく覚えているんだなあ」
家族が、いっせいに笑った。
まあ、気まずい雰囲気のときは、道化者が俺の役どころだ。 このさいは、よしとしよう。 いつまでも薄暗いなんて、渡辺家らしく、ないからな。
だけど、せっかく盛り返しかけた雰囲気は、またすぐに薄暗くなってしまった。
「ぼくは、いかない!」と、詩文が大声をあげたからだ。
隆明叔父さんは、面食らったみたいだった。
「なんだ、もう釣りは、あきてしまったのかい?」
「ちがうよ! 信州にはいかないって、いってるんだ!」
詩文は、いつも隆明叔父さんのまえで見せている、よい息子の優しげな顔をしていなかった。
せっぱつまって、懸命に言葉を探している。
「どうして――」
やっと、ひとこと搾りだした詩文の眉間に、悔しげな眉がよる。
そして、とうとう感情に負けた攻撃的な言葉が、堰を切ってあふれでた。
「どうしてパパは、いつもやりたい仕事を、あきらめちゃうんだよ!
いまだって、そうだ!
本当は、もっと日本のオーケストラと、仕事がしたいくせに!
やったらいいじゃないか!
ぼくは、もういやだ!
ぼくのせいで、パパがやりたいことを我慢したり、疲れてため息をついたり、そんなのを見るのは、もういやなんだ!」
叔父さんの手が、興奮してふりあげられた詩文の腕をつかまえた。
「詩文、きみのせいだなんて」
「ぼくのせいだよ!
パパが作曲をやめちゃったのだって、あちこちのオーケストラから誘われているのに常任指揮者や音楽監督にならないのだって、みんな、ぼくのせいなんだ!」
「ちがうよ!」
「もう、ぼくは、いつも大人といっしょにいなくちゃいけない、子供じゃない!
自分のことは、自分でやるよ!
できるから!
だいじょうぶだから!
もういいんだ!
だからパパは、自分のことを考えてよ!
やりたいことを、あきらめないで!」
「詩文、おちついて、きちんと話そう」
「ぼくは、おちついてる!」
「そうは見えない」
「おちついてるってば!」
「だって、泣いてるじゃないか!」
暴れて叔父さんを突き放そうとする詩文の腕を、叔父さんは必死に、つかまえていた。
その、からまった腕のなかに頭をつっこんで、詩文は、泣いている。
「ぼくがパパの才能を食いつぶしたって、きっと、本当だ……。
パパが、ぼくを愛してくれれば愛してくれるほど、ぼくは苦しい。
神さまが、世界中の人を喜ばせるためにパパに与えたものを、ぼくが無駄にしちゃう……!」
「詩文、それはちがう」
「もう、ぼくに、かまわないで!」
強く体をひねって、詩文は隆明叔父さんの手から逃れた。
家族は、みんな言葉を失っていて、リビングから飛び出していく詩文を、とめられない。
閉まるドアが、激しい音をたてた。
静まりかえった部屋のなかに、隆明叔父さんの乾いた声が響いた。
「はは……、これが、反抗期ってやつか?」
爺ちゃんが、叱りつけるみたいに、いった。
「しっかりしろ、隆明。 ここが親としての、ふんばりどころだろうが」
「だって、親父さん。 こんな不意打ち、あるか?
懸命にやってきて、それで、こんな……」
叔父さんの目にも、涙が浮かんでいた。
「ぼくたち夫婦は、国際結婚カップルで、しかも、おたがい家には不在になりがちな、音楽家だ。
子供によけいな負担をかけていると思ったから、できることは、なんでもしてやりたかったんだ。
それが、いけなかったのか?
ぼくは、まちがっていたのか?
詩文のためなら、命だってやるよ!
それが、親ってものだろう!
ぼくって人間は、息子にとっては、やっかいな――」
そこで叔父さんは、とんでもないことを口走ったとばかりに息をのんで、俺たちから顔をそむけた。
俺の背筋に、ぞくりと、冷たい感触が走った。
詩文とおなじように、隆明叔父さんも、苦しいんだ。
自分の存在自体が息子にとっての負担なんだと気づいたとき、隆明叔父さんが、どんなにつらかったかなんて、想像するまでもない。
だって、叔父さんは音楽家であるまえに、息子を愛している、普通の父親なんだ。
だから、仕事を犠牲にしてでも、息子を守ろうとした。
叔父さんはそのまま、頭をかかえて、ソファーにすわりこんでしまった。
お袋がリビングボードのひきだしをあけて、鍵の束をとりだした。
「夏海。 詩文ちゃん、きっとスタジオだよ。 泣いてたから、外には、いってない」
「うん」
俺は鍵の束をうけとって、玄関へむかった。
背中に感じる、大人たちの気配は、重苦しい。
このごろ、すこし、俺にも、わかってきたんだけれど。
親だって、俺たちと、どこも変わらない。
悩みのなかで、生きているんだ。
選ぶ道は無数にあって、これがいいと思う道を、恐れといっしょに歩いていく。
信じている道が、正しい道であるように。
いきつく先に、良い結果があるように。
そんなふうに、願いながら、生きている。