ムーンライトショック!


翌日の朝、俺はわき腹に強烈なけりをくらって、目を覚ました。

「いってぇ……」

ねぼけまなこをこすりながら半身を起こしたら、妹の春海が、俺のすぐわきで大の字になって寝ていた。

けりを入れてくれたのは、こいつだ。

妹は、まだ小学校三年生だけどさ。

いちおうは女なんだから、もうちょっと(しとやかに寝ろよと、俺はつぶやいた。 兄である俺としては、マジに妹の将来が心配だからな。

俺んちのお袋は、ケチだから。
子供の部屋には贅沢(ぜいたくだっていって、エアコンをつけてくれないんだ。

だから、真夏はエアコンがある親の寝室の八畳間に、みんなで仲良く雑魚寝(ざこねする。

両親の姿は、すでに寝室にはなかった。

いちばん奥の布団で、詩文が、まだ寝ている。

昨日は二階で大人たちが騒いでいたから、客間で寝られなくて、こっちで寝たんだ。

俺は、しげしげと、詩文の寝顔を見てしまった。

寝顔まで綺麗(きれいだから、むかつくったらない。
長いまつげが、びらびらしていやがる。

空中で詩文に拳骨(げんこつをくれるまねをしてから、俺は、二階へおりていった。

「おはよ」

キッチンで卵焼きを焼いているお袋へ、声をかける。

そんでもって、リビングへ。

はいっていったら、フローリングの床に、ワンルームマンションの住人の西田さんと、佐々木さんが、倒れていた。

腹に婆ちゃんがかけてやったんだろう、タオルケットを巻きつけてさ。

大口あけて、すーかーすーかー、寝息をたてちゃって。

こりゃー、酔いつぶれたのを五階まで運びあげるのはいやだって、仲間にも、みすてられちまったんだな。

なさけないなあ。

西田さんなんか、ちゃんとしてりゃあ、茶髪のかっこいい兄ちゃんなのに。

そんなだらしない兄ちゃんたちを横目でみながら、俺は自分で茶碗をだして飯をよそおい、食卓にのっていた納豆で朝飯を食った。

お袋が焼きあがった卵焼きを もってきてくれた。

礼をいうのは照れくさいから、雑談をふる。

「夕べは、ずいぶん盛りあがったんだなあ」

「かなり、おそくまで騒いでたよ。 お父さんなんか、二日酔いで出勤。 自業自得(じごうじとくだけどね」

からっと、お袋は笑う。

かわいそうな、うちの親父。 役所勤めだって、大変だろうに。

「それじゃあ、叔父さんは、まだ寝てる?
時差ぼけだっていってたのに、学生さんにつきあっちゃって、だいじょうぶなのかな?」

「あら、隆明は、とっくに起きてるわよ」

俺は目をむいちゃった。

「まだ、7時じゃん」

そうだねと、お袋はうなずいた。

「まあね、隆明も、だてにマエストロなんて、呼ばれているわけじゃないんだわよ。
演奏会をするために、日本へ帰ってきてるんだから。
夕べの宴会だって、とちゅうからウーロン茶を飲んでたわよ。
氷浮かべてたら、オンザロックみたいに、みえるじゃない?
それで宴会はいっしょに盛りあがっておいて、寝て起きたら、きっぱり現地時間なんだよね。
すごいよ。 気力で時差ぼけを、ねじふせるんだから」

「うへえ」

うーむ。

売れっ子指揮者、渡辺隆明の存在は、努力なくしてあらずか。
あたりまえっちゃー、あたりまえなんだろうけれど。

やっぱり一流と呼ばれる人は、普通じゃないんだなあ。

お袋が食卓にのっていた沢庵(たくあんをひときれとって、ぽりぽりやりながら いった。

「あんたもさ、どうするつもりなのよ? いちおう、受験生なのに。
そろそろ志望校を、ぼんやりとでも決めておかないと、ダメなんでしょ?」

「うーん」

「詩文ちゃん、みてごらんなさいよ。
ちゃんと自分の将来のこと自分で考えて、きちんきちんと、やってるじゃないの。
あんたも、もうすこし、しっかりしなさいよ」

あいたたた。
ここで詩文が引きあいに、でてくるか。

そうだよな。

俺とあいつは、おない年なんだから……。

「志望校ねえ。 夏休みのあいだに、決めればいいかなと」

ぼそぼそ口ごもりながら、俺はリビングのとなりの客間のほうをみた。

なるほど、引き戸が開け放ってあって、もう布団もかたづけてある。

「なあ、叔父さん、どこいったの?」

「隆明? スタジオで、ピアノ、ひいてるよ」

「えっ?」

俺はあわてて、たちあがった。

そんでもって、西田さんと佐々木さんをまたぎ越して、玄関へいそぐ。

ほんと、じゃまくせー兄ちゃんたちだぜ。

お袋の怒った声が背中にぶつかってくる。

「ちょっと、夏海! あんた、学校!」

「まだ、時間あるって!」

いそげ、夏海。

こりゃあ、渡辺隆明のピアノが聴ける、めったにないチャンスだぞ。

叔父さんは音楽に、ピアノから入ってるんだよね。
作曲家として活躍していた二十代のころは、ステージでピアノもひいていたらしい。

それが、なんでだか知らないけれど、最近は人前じゃ絶対に、ピアノをひかないんだ。 いまでも凄腕(すごうでは健在らしくて、マニアの間では 『 幻の名ピアニスト 』 なんて、噂されている。

 

 

玄関から外にでて、階段をかけおりた俺は、スタジオの前で何度か深呼吸してから、扉に手をかけた。

叔父さんに、じゃまだって追いだされたりしたらいやだから、とにかく静かにな。

スタジオの外扉と内扉のあいだには、小さな玄関スペースが、とってあるんだけれど。

俺は、そこで固まってしまった。

ぞくぞく、きちゃったから。

聴こえてくるのは、ベートーヴェンの 『 月光 』 のソナタだった。

静かな水のたたずまいを思わせる三連音符と、夜の(とばりをあらわす低音。

たゆとう旋律は、たしかに透明な月の光だ。

こんなことって、あるだろうか。

ここは、真夏の東京だ。

扉一枚へだてた外には、通勤通学の人たちが駅へといそぐ、早朝の商店街のせわしない空気があるというのに。

なのに、スタジオのなかには、静かな水辺の夜がある。

すいこまれてしまいそうな光景。

静かだ。

月の光に、ぼんやりと照らされた、藍色(あいいろの空。

黒い陰になった、森の木々。

水に(さざなみがたつと、かすかな光がきらめく。

これは、まぼろし……?

足元に浮遊感があった。

俺の体は実体をなくして、遠い風景のなかを漂っている。

うろたえてしまう。

俺の体、どうなってるんだ?

実体をなくしたはずなのに、頬や腕には夜の冷気が、ひやりと、しのびよる。

湖をわたってくる(もやの湿り気が、肌を濡らしている。

このソナタの第一楽章は、技術的にはやさしくて、基本的な訓練さえおわっていれば、アマチュアピアニストにだって、かんたんにひける。

でも、ただ楽譜に印刷されている音をなぞるのと、作曲家が描きたかった音楽を再現するのは、ちがうことなんだ。

この音。

俺がガンガンうるさく鳴らしている、いつものピアノからでているとは思えない音だ。

指の落としかた、ひとつひとつに意味があって、詩情があるんだ。

それが溶けあって、音と音のあいだの無音の瞬間でさえ、音楽をつくる大切な一瞬になっている。

隆明叔父さんの音楽には、気を乱れさせるゆらめきが、ひとつもないんだ。

この音がとどく空間は、時間も、空気も、すべてが叔父さんの支配下にある。

苦しい。

なんでだ?

胸が、ドキドキして、かーっと、のぼせてる感じがする。

目がくらんで、たっていられない。

わかっちゃったんだ。

隆明叔父さんの音楽世界にくらべたら、俺の音楽なんて、うるさいだけだって。

おじさん自身の体から出てくる、生きた音を聴かされたら、わかっちゃったんだ。

これが、本当の音楽ってものだって。

俺、いままで、なにやってきたんだろう。

気がむくままにガンガン鳴らす俺のピアノなんて、まるで竜巻みたいなもんだ。  どこへ進むかわかんないし、破壊的だし。 世間の迷惑ってもんだ。

俺は腑抜(ふぬけたみたいになって、小さな愛らしいトリオの第二楽章も、上行する激しいパッセージと和音進行とリズムが炸裂(さくれつする第三楽章も、すべてスタジオの小さな玄関に、うずくまって聴いた。

ちきしょう、涙がでてきた。

こんな音を聴かされちゃったら、俺、もうどうやってピアノをひいたらいいのか、わかんねえよぉ。

膝をかかえて悲嘆にくれていたら、いきなり、もたれていた扉がひらいた。

とーぜん、俺はうしろむきに、ひっくり返って、後頭部をしたたか床に打ちつけた。

ごんって、派手な音がした。

スタジオの床は、ピアノの重量に耐える固い床だ。 痛いのなんのって。

「いででででっ!」

「オゥ、パルドン!」

とっさにフランス語が飛び出す、叔父さんって……。

「ごめん、ごめん。 ピアノがあくのを、まっていたのかい?
遊んでただけなんだから、声をかけてくれればいいのに」

叔父さんが起きるの手伝ってくれて、ぶつけたところを、さすってくれた。

遊んでた……。

遊んでたんですか。

そーですか。

脳震盪(のうしんとう、おこしちゃったのかな?

頭のなかに 「ガーン、ガーン、ガーン」って、音が聴こえる。

まるで漫画だよ、漫画。

叔父さんの声に、エコーがかかってるぞ。

(こぶになったぞ。 夏海くん」

「平気、平気。 俺、頑丈(がんじょうなのが、とりえだから」

そういいながら、俺は心のなかでつぶやいていた。

頑丈です。 ほんとに、頑丈。
演奏するピアノまで、融通(ゆうずうがきかなくて、頑丈で、がさつ……。

くっそー、また泣いちゃいそうだ。
叔父さん、早くどっかへ、いってくれよぉ!

そう思った瞬間、グッドタイミングでスタジオの外扉がひらいて、婆ちゃんが顔をのぞかせた。

「隆明、東都交響楽団の事務所から、電話だよ」

「ああ、はい」

婆ちゃんはスタジオにもインターホンがあるのに、ぜったい使わないんだ。 外線を保留にして、内線を呼びだして、外線につなぎなおすという、かんたんな手順が、どうしても覚えられない。

隆明叔父さんと婆ちゃんが電話の応対のために階段を登っていってしまって、俺はひとりになった。

ちきしょう、まじに泣けてきた。

こんな みっともねえところ、だれかに見られたら大変だ。

スタジオにかけこんで、なかから鍵をおろした。

広々としたスタジオの真ん中には、俺が愛してやまないグランドピアノが、どかんとある。

黒くて、ぴかぴかしてやがる。

しばらく、ピアノのまえに棒立ちになって、めそめそ泣いてしまった。

そんでもって、ピアノの前にすわった。

俺、落ちこんだときは、いつもピアノをひいて、気をとりなおしてきたからな。

蓋をあけて、キーカバーを丁寧にたたんでおいて、指を鍵盤におろして。

それから……。

ショックで、俺は、ふたたび固まった。

どうやったら、まともな音がでるんだろう?

なんちゅーかその、どの曲を弾いても、でてくる音がぜんぶ、「ちっがーう!」ってわめきたくなる、変な音なんだけれど……?

ドキドキしながら、じゃあムーンライト ・ ソナタをひいてみようかな、なんて、考えた。
ピアノの上に、隆明叔父さんが見ていた楽譜が、おきっぱなしになっていたから。

叔父さんは、たしか、こんなふうにひいていたなって。

だけど、まねなんか、できるわけもなく。

じゃあ、自分流でいいやと思っても、自分の音って、どんな音だったっけ、なんて、考えこんじゃって。

どうして、こんなにかんたんな、ワンフレーズが弾けないんだ?

ううっ、くそ。 指がすべる。
冷汗がでてきやがった。

俺はそのあと、「学校に遅刻するわよ!」と、お袋がスタジオへ怒鳴りこんでくるまで、七転八倒しつづけた。

そして、絶望モードにはまりこんだ、自分を発見してしまったんだ。