「ベルさん」の愛称で親しまれた女優の山田五十鈴さん(本名・山田美津)が9日午後7時55分、多臓器不全のため都内の病院で死去した。95歳だった。1930年に13歳で映画界入り。250本以上の作品に出演したほか、60年代からは舞台を中心に活躍し、演劇界の発展に貢献した。その一方で、私生活では結婚、離婚を繰り返す、波乱に満ちた人生を送った。02年に体調不良のため舞台を降板して以降は表舞台から遠ざかっていたが、最後まで女優復帰への意欲は失ってはいなかった。
山田さんは水谷八重子さん(先代)、杉村春子さん(いずれも故人)と共に「日本三大女優」と呼ばれ、70年以上にわたって第一線で活躍。山田さんの作品を多数手掛け、40年以上の付き合いがあった演出家の北村文典さん(66)によると、9日昼に「呼吸がいつもと違う」と連絡があり都内の病院に駆けつけると、肩で息をしている状態だった。だが、しばらくして小康状態となり「顔色がいいですね」と声を掛けると山田さんがうなずいたため、午後6時半ごろに病院を後に。その後、病状が急変した。
代表作である舞台「たぬき」で自らが弾く三味線の曲をカセットテープで聴きながら、永遠の眠りについた山田さんの顔は穏やかで眠るようだったという。死後、爪にはマニキュアが塗られ、約20年間“自宅”としていた東京・内幸町の帝国ホテルでも部屋着として愛用していたというオレンジ色のワンピースが着せられた。
女優として初文化勲章受章 1930年、13歳で映画の世界に入った山田さんは、36年の映画「浪華悲歌」「祗園の姉妹」で一流女優の道を歩み始めた。38年に東宝へ移籍。「たけくらべ」(55年)、「流れる」(56年)、「蜘蛛巣城」(57年)などで、名実ともに日本を代表する大女優へと成長した。
60年代に入ると、映画に加え、演劇の世界でも活躍。「香華」「たぬき」といった代表作を生み出した。83歳となった2000年には、女優として初めて文化勲章を受章。その際には「ひたむきに、ひたすらに、芸の道に取り組んで参りました。これからも、今まで通りの自然体で、つとめていきたいと思っております」とコメントしていた。
女優として誠実に生きた一方で、プライベートでは“恋多き女”として世間を騒がせた。最初の結婚相手だった俳優の月田一郎との間に生まれた女優・嵯峨三智子さんは、92年に旅行先のタイで急死。その際には、危篤になったとの知らせにも「自分が座長を務める舞台のけいこは休めない」と舞台に上がった。
常々「舞台が命」と口にしていた山田さんだったが、02年に体調を崩して同年9、10月の舞台「仁淀川」を降板。その後、都内の病院を数度転院し、療養生活に入った。それでも、山田さんの目は、常に舞台に向いていた。関係者によると、まひが残る右手を懸命に動かして三味線のバチを握り、ベッドの上でもセリフを何度も繰り返していたという。最後まで女優としての人生を貫いて天国に旅立った。
◆山田五十鈴(やまだ・いすず)本名・山田美津。1917年2月5日、大阪府生まれ。父は関西新派の俳優・山田九州男。30年、13歳で日活に入社し、「剣を越えて」で映画デビュー。34年に第一映画に移籍、溝口健二監督の「浪華悲歌」「祇園の姉妹」に出演。戦後は成瀬巳喜男監督「流れる」、黒澤明監督「どん底」、小津安二郎監督「東京暮色」など巨匠の作品で個性的な演技を見せた。62年に東宝演劇部と契約以来、舞台出演が多くなり、「たぬき」「太夫さん」で芸術祭大賞を受賞。先代水谷八重子、杉村春子とともに「日本三大女優」と称される。テレビもNHK大河ドラマ「赤穂浪士」、「必殺仕事人」シリーズなどに出演。2000年に文化勲章を受章のほか、芸術選奨文部科学大臣賞や芸術祭大賞など数々の賞を受賞。
◆恋多き女 山田さんは6度の結婚、離婚を繰り返した(事実婚も含む)。35年、映画で共演した俳優の月田一郎と結婚。36年には長女が誕生するが、40年に別居。41年にプロデューサーの滝村和男さんと結婚したが1年余りで破局。3度目は新派の女形として人気だった花柳章太郎。47年からは、映画監督の衣笠貞之助と同居を始めた。その後は俳優の加藤嘉、下元勉と家庭を築いたが、いずれも長続きせず、その後は半世紀近くを一人で過ごした。
[2012/7/11-06:05 スポーツ報知]