2012年07月11日

秩父っ言葉と元狭山村ことばの文化性


秩父神社に向かう道を歩くといくつかの秩父の方言に出会えます。


秩父方言@.JPG


秩父方言A.JPG


「秩父っ言葉 あちゃむ詩だんべ絵」石橋城呉著は、桃太郎(創作)を秩父の方言で表現して見せています。

<引用開始>
いとおしねえたって 赤の せっちょうなんざあしてらんねえや
朝づくりに あにも食わずに ひとっ働きしたもんでひだるくって
まんまのかありに でっけい桃を お婆あと かたけに くったんでがんすよ
腹さんざ こげえたまま くちくなるほど きりゃねえ
<引用終了>

元狭山村の方言
「こどものころ聞いたことば 話していたことば」関谷和著より
<引用開始>
A 「いいあんべーだねー」
B 「でーぶぬくくなってきたー。こんじゃー花もじきに咲くベー」
A 「そーよなー、あと2〜3日ちゅーとこだんべかな。花が咲くのもいいけんど忙しくなんかんな」
B 「あにがよー、忙しいのは年中だーよー。おらがなんか びんぼーひまなしだからよー」
A 「そーは云っても、茶ぐれー飲むひまはあんべ。ちょっくらよってからっしょーよ」
<引用終了>

<引用開始>
あか(あかっこ) (名詞)赤ん坊
あさづくり (名詞)朝食前のひと仕事 「桑くれはあさづくりにやっちまーだ」
<引用終了>

秩父では「がんす」と言うように書かれていますが、元狭山村では使っていなかったようです。その理由は、鎌倉街道沿いの元狭山村の方言はおもに当時の小田原公家ことばに東海道沿いの武家ことばが多用され、東北の方言とも広島の方言とも言われている「がんす」は入ってこなかったものと考えられます。

それ以外はよく似ています。秩父の方に聞いた話によれば、かつては八高線で生糸を八王子経由で横浜に送っていたとのことです。

八高線 ウィキペディアより<引用開始>
当路線はもともと、東海道本線方面と上越線方面の軍事輸送を都心から迂回する目的で建設された。また、生糸生産地の群馬県と海外輸出港である横浜港とを結ぶいわゆる「絹の道」の近代化や、すでに幹線として輸送量があった高崎線のバイパスとしての役割があった
<引用終了>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%AB%98%E7%B7%9A

八高線の開通は昭和6年ですから、それ以前の何百年もの間、秩父から飯能、元狭山村、八王子というルートで、秩父で産出された生糸が各地に届けられたことでしょう。

茶祖栄西は桑を茶同様に桑の葉を上薬と捉えていました。

『喫茶養生記』に見られる道教文化の影響に関する試論
浙江工商大学 江静 呉玲
<引用開始>
道教が説く養生の手段はさまざまあるが、仙薬の服用はその重要なもののひとつである。服せば老いが童に戻り永らえて仙人となる薬が仙薬である。『抱朴子内篇』第十一『仙薬巻』に神奇作用をもたらす薬の数々が紹介されている。栄西はこれを引いて茶を「養生の仙薬」とし、「桑木もまた仙薬なり」、「服す者は仙者にして、種々の薬を服して久しく命を保つ」とした。また、桑木を服す方法を「仙術」とし、茶を服することを「妙術」と呼んでおり、ここにも道教の影響が明らかである。周知の通り道教は「術」を重んじる宗教であり、「寓道於術」「道無術不行」はいずれも道教の説法である。
<引用終了>
http://www.japanology.cn/japanese/paper/ch/02%E6%B1%9F%E9%9D%99%EF%BC%88%E5%96%AB%E8%8C%B6%EF%BC%89.htm

桑の効用について記載されたブログを見つけました。
<引用開始>
 京都 最古の禅寺 建仁寺に行ってきました。
  ”喫茶養生記”を著し 桑茶を広めた 栄西禅師が開山(1202年、建仁2年) 開基は源頼家の
お寺です。 その境内の一角に ”桑の碑”があります。
説明書きに 病の相は 一に飲水病 二に中風 三に不食 四に瘡病 五に脚気 そしてこれらの諸病を治する妙薬は”桑”であり これを服すれば長寿無病を得られる。
 諸病を治するには 仏教に順じた生活をすることが肝要であるが 桑樹は妙薬であり 諸仏菩薩の樹であると 喫茶養生記の一文が書かれてあります。
<引用終了>
http://www.kuwachahonpo.co.jp/nikki_kuwanohi.html

この記事の表題は「秩父っ言葉と元狭山村ことばの文化性」です。

なぜ同様の言葉の文化を共有するのか。答えが見えてきました。

鎌倉時代の文化は、禅の文化です。禅宗の朝食は「粥」に決まっていますが、公家も武家もあるいは天皇家も、健康のために上品(じょうばん 上薬)である桑粥を食し、茶を飲んでいたのでしょう。

秩父でつくられた茶葉を桑茶に加工し、秩父の天領の民が「牟佐志の地」の天領の民に届け、狭山の地で生産された茶とともに鎌倉幕府の使者が受け取り、鎌倉や小田原、関東の禅寺、そして各地に散った武家や公家に届けられたものと容易に類推されます。

狭山の地元狭山村の方言を話せないとコミュニケーションできないわけですから、この推論は外れていることはないと思います。

歴史を知ることは、ジグゾーパズルを完成させるようなものです。マクロの視点で各自が有している情報を「ここに当てはまる」と提供していけば、NHKが生み出すような「野蛮な日本人像」ではなく、宮崎駿監督の歴史観である「最近の歴史学、民俗学、考古学によって一般に流布されているイメージより、この国はずっと豊かで多様な歴史を持っていたことが判っている。」「武士と百姓の区別は定かでなく、女達も職人尽くしの絵にあるように、より大らかに自由であった。」全体像が「見える化」してくるのです。

江戸時代までは、日本人は気品高き民族でした。それをこなごなにぶち壊したのが「和魂洋才」という外国から強制注入された日本人愚民化プログラムだったのです。
posted by M.NAKAMURA at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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