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京大原子炉実験所教授の山名元氏をマル激にお呼びし、原子力政策の合理性について話しました

京都大学原子炉実験所教授で山名元氏(原子力村の有力者とされる)をマル激にお呼びし、原子力政策の合理性について話しました。例によって宮台発言の一部を抜粋します。トーク全体は7月18日発売サイゾーをご覧下さい。




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宮台◇三年前に神保さんとCOP15(気候変動枠組み条約第15回締約国会議)でコペンハーゲンに行った頃まで、僕は、再生エネルギーの発展途上で不安定さを吸収する過渡的なベース電力源としてCO2を出さない原子力に希望を託する立場でした。欧米のディープエコロジストにはスチュアート・ブラントを始めとして珍しくない立場です。ではなぜ僕が脱原発派になったのか。理由をお伝えできるでしょう。



宮台◇ 社会学的には原発問題は「技術の社会的制御」の問題です。「技術」と「社会的制御」に分けられます。「技術」の問題は「こうすれはああなる」というif-then文の集積からなる条件プログラムです。他方「社会的制御」は目的プログラムで、そもそも何のための原発かという〈大目的〉と、大目的に資するにせよ社会の何を侵害したらダメかという〈許容限界〉を含みます。つまり価値の問題です
 条件プログラムとしての「技術」面は、山名さんの第二項目「原子力の安全性」に、目的プログラムとしての「社会的制御」面は、山名さんの第一項目「国の方向性」・第三項目「組織信用論」・第四項目「知識ギャップ」に関連します。でも、「国の方向性」に合致しないと判明したり「知識ギャップ」ゆえのセンチメントに対処できないとなれば、是々非々で原発政策を見直す必要があり、現にシュレイダー政権以降のドイツは今世紀に入って(1)推進→(2)抑制→(3)推進→(4)抑制と2往復しましたが、日本は何があろうが推進一辺倒です。ことほどさように「社会的制御」は専ら「組織信用論」に集約されます
 日本はここに問題があります。丸山真男によれば、陸軍参謀本部にも海軍軍令部にも現状分析部署と政策立案部署があり、背後に利権ネットワークを抱える政策立案部署が「えらい」とされましたが、政策立案部署が、現状分析部署を無視して専ら権益だけ参照して政策シナリオを作り、それに合わせて現状分析部署が現状分析を書き替えました。
 丸山はここに日本的組織の出鱈目を見ます。権益だけを見て政策を作り、政策にとって「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉です。丸山は、個人的能力の欠落よりも文化に属する問題だとします。実際、武器弾薬どころか水も食料の補給も欠いた出鱈目な作戦立案について、東京裁判ではA級戦犯全員が「内心忸怩たる思いはあったが、自分にはどうしようもなかった、空気に抗えなかった、やめられないと思った」と証言したわけです。
 ナチスのように「狂気の大ボスに率いられたナラズ者集団の暴走」が問題なら、属人的に処理できるのですが、日本のように「大ボス不在のエリート集団の暴走」が問題なら、問題を組織や人に帰属できず、文化の手当てという困難な問題になります。今般の原発事故で明らかになったように、日本の行政官僚組織の文化は戦中も今も不変です。だからアメリカやドイツと「技術」面で同一の条件プログラムを山名さんのような科学者が提示できても、日本は適切な「社会的制御」を期待できない。「ブレーキのない車」なのですね。



宮台◇ 日本にある資源を使い、不安定さがない点で、木質を用いたバイオエネルギーや地熱を利用した発電システムが、原発と機能的等価たり得たのに、世界最大の潜在可能性がある地熱の推進政策はとっくに中止されて以降は再生エネルギーにも数えられず、バイオエネルギーを使って熱を熱のまま利用するコジェネの地域システムも北欧やドイツのようには普及していない。地域独占電力利権に不都合だからです。
 要はこう。現時点の日本には、再生可能エネルギーの不安定さを補いつつC02を出さないベース電源として、原子力と機能的に等価なオプションがないのは確かだが、それは「あそこに山があり、ここに川がある」が如き自然の事実でなく、盲目的に原子力政策のアクセルを踏んだ人為の結果です



宮台◇ そう。節電は設備投資をして達成するべき産業的成果で、節電の技術的イノベーションで市場が活性化し、経済成長できます。「我慢の節電」の対極にあるペーター・ヘニッケの「節電所=ネガワット発電所」の発想です。グローバル化の中、どのみち新興国に追いつかれる分野で労働分配率を下げて生き残る〈格差加速的な成長策〉と、新興国が発信しにくい価値に沿って市場を立ち上げる〈格差回避的な成長策〉があり、前者から後者に比重を移す〈産業構造改革〉が必要ですが、節電所構想はそれにマッチするのです。



宮台◇ 機能主義の思考が必要です。世界でトップの技術を活かすのが大事でも、原発分野でしかできないわけじゃない。風力や地熱タービンの技術など別分野でも世界でトップの技術を活かせます。どの分野で活かすべきかは別のパラメータを参照して評価する他ない。核兵器保有国である間はどのみち原発をやめられない米仏中と、日本は違うのです。
 別のパラメータとは何か。ドイツのメルケル首相の元で召集された倫理委員会と安全委員会の対照的結論がヒントです。安全委員会は「ドイツには地震はなく、安全基準も高度なので問題はない」「再生可能エネルギーは、蓄電技術の発達までは不安定さを吸収するベース電源が必要で、CO2を出さない原子力が最適」と結論しました。倫理委員会は「不安定さによるブラックアウトは〈規定可能なリスク〉だが、原発事故は〈規定不能なリスク〉であり、たとえ民主主義に基づくものでも〈規定不能なリスク〉の引き受けは「あとは野となれ山となれ」であって倫理的に誤りだ」とします。倫理委員会メンバーで社会学者ウルリヒ・ベックの有名な論理ですが、ドイツのキリスト者らが「あとは野となれ山となれ」的決定はキリスト教の原罪観に反するとして強く批判していたのも背景です。



宮台◇ 山名さんなど原子力専門家の中には、現在の技術水準が与えるif-then文のリストを「if 深層防護から環境防護に制御目標を変えれば then リスクを大幅に低減できる」などの形で誠実に提示して来られた方もいます。でも日本は零式艦上戦闘機を開発する技術があっても、戦争を合理的にマネージする社会的技術がないのです。
 「絶対安全神話」が典型です。この神話を前提に原発立地するから、山名さんがフィルタードベントを推奨しても、「フィルタードベントが必要なほど、本当はそんなに危険なのか」という話になっちゃ困ると、追加的安全策が講じられません。実際フクイチでは、想定より高い津波があった事実が確認されても追加的安全策がとられませんでした。
 原発は事故が起こったら一巻の終わりですが、見たくない「不都合な真実」を見ない「絶対安全神話」や「核燃サイクル神話」のせいで、事業者は、一方で安全投資をサボり、他方で使用済核燃料を資産計上するなど出鱈目な会計処理をして原発は安いと嘯いてきた。こうした出鱈目を積み重ねたので、他国ならブレーキが踏めるところで「従来同様」アクセルを踏み続ける他ないのです。かつての参謀本部や軍令部とまるで同じです。
 繰り返すと、原子力技術に問題があるよりも、日本の社会システムに問題があります。それが、僕が「〈原発をやめる〉から〈原発をやめられない社会をやめる〉へ」と訴え、それに沿って都民投票条例の制定を求める直接請求の請求代表者を務めた理由です。



宮台◇ とはいえ、いつどんな割合で再処理に回せるようになるか不明な段階で---従ってコスト&リスク的にいつでも全量再処理図式が放棄され得る状況で---“いずれは”全量再処理ができるという出鱈目な前提の上で、電力会社が使用済み核燃料を資産計上し、原発は安いとほざくのは、大問題です。全量再処理図式を捨てた途端、最終処分を待つ使用済み核燃料は直ちに負債計上され、バランスシートが暗転、一部電力は潰れます。それが怖いから国際的にも頓珍漢な全量再処理図式に拘るだけの話です



宮台◇ 一水会元代表の鈴木邦男氏が「公安警察官だって家に帰れば幼子の父、休日の過ごし方を悩む」と語って来られた。敵味方図式の中で見失われる事物に敏感にならないと対話可能性が失われるとの趣旨です。推進派を悪代官のようなイメージで捉えるマル激視聴者もいるでしょうが、実際に山名先生をお呼びして話を伺って「普通の方だ」と思われたはずです。そこに対話可能性が開かれます。マル激では今後もオープンな対話環境を作っていきます。
投稿者:miyadai
投稿日時:2012-07-05 - 13:58:42
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モーリー・ロバートソン氏とクラブ終夜営業規制問題について長い対談をしました

かつて仕事を御一緒させていただいたこともあるモーリー・ロバートソン氏と、風営法によるクラブ終夜営業規制問題について、長い対談をしました。宮台発言のうち、全体の三分の一にあたる部分だけ、抜粋します。残りを知りたい人は、河出書房新社から出るアンゾロジーをお読み下さい。


宮台■そう。ドキュメンタリー番組です。僕が93年に朝日新聞でブルセラ女子高生についての論説を書いたら、テレビ局から番組に出演する女子高生を紹介するよう頼んできたので、僕の持つネットワークをつないであげたら、やがて連日のように彼女たちがテレビに出るようになって、96年の援交ブームのピークにつながります。
■その縁で、有害図書規制を担当する東京都女性青少年部(当時)の部長や警視庁の生活安全課の人との交流機会があり、実態照会や摘発相談を受けますが、それを通じてクラブの終夜営業を風営法違反で摘発する可能性があることを知ったので、危機意識を抱いて、知り合いのディレクターとクラブの実態を紹介する番組を作りました。
■目的は、クラブに集うのが悪い子じゃないと示し、彼らから居場所を奪うと副作用が生じるぞと警告すること。番組ではクラブとディスコを比較しました。ディスコはハレ(非日常)の場で、クラブはケ(日常)の場。ディスコはナンパ場で、クラブは寛ぎの場。ディスコはハコがゴージャス、クラブは地下にあって音楽と人の中身が勝負……云々。
■僕は解説者役で出演し、一部台本を書きました。印象的だったのは取材した高校生や予備校生の発言です。「学校では挨拶して軽い冗談を言って大過なくやり過ごし、家でも親に合わせて大過なくやり過ごすけど、素の自分を出せずリラックスできない、寛いで素の自分を出せる場がクラブだ」と。要は「ハメを外す場ではなく、自分に戻る場だ」と
■オンエア後すぐ反響があり、東京都議会文教部会でも言及され、実際95~97年あたりはクラブへの手入れがありませんでした。当時の警察はまだ辛うじて、現実を観察して必要とあれば出て行く是々非々の姿勢を保っていました。警察以外の行政官僚も、クラブは「悪の場所」というより、居場所という意味で「善の場所」だと了解してくれました。


宮台■[略]クラブ的な動きの出発点が1960年代のカウンターカルチャーだと信じる若い人が多いので驚くんですが、そうじゃなく、89年のイギリス発「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」の流れが出発点です。89年から91年にかけてベルリンの壁が崩壊してソ連邦が消え、同時に急激なグローバル化(資本移動自由化)が始まります。
■60年代サブカルチャーは、キューバや北朝鮮を含め、ユートピアたる〈ここではないどこか〉を求めましたが、冷戦終焉がこれを終わらせ、「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」以降は〈ここを自分たちのものとして回復する〉動きが専らとなります。イギリスのレイヴや、ドイツのスクワッティング(注:廃屋などを不法占拠)が典型です。
■とはいえ、60年代には学生らの〈我々意識we-consciousness〉があったように、90年代のクラブシーンにはストリートの〈我々意識〉がありました。60年代の日本にも学生らの〈我々意識〉がありましたが、90年代の日本のクラブシーンには〈我々意識〉がなく、クラブ来訪者らの意識が完全に〈個人化personalize〉されていました

宮台■日本は91年にバブル崩壊するけど、97年のアジア通貨危機に伴う平成不況深刻化まで経済がさして悪くなかったことが、背景です。ちなみに年間2万4千人台だった自殺者数が、97年度決算期である98年3月から急増、年間3万1千人前後に達して今に至ります。その後2005年からの小泉政権から状況が一層深刻化し、プレカリアート運動に繋がります。
■でも、この運動は、インターネットの延長上で展開したことから想像できますが、道具的instrumentalというより表出的consummatoryで、年収が豊かな若い世代も数多く参加していました。経済成長終焉以降の日本的なデモ一般と同じく、政治=集合的意思決定への、影響力を追求したものとは言えず、お気楽で脳天気でした。
■反政府側がお気楽だとすれば、政府側もお気楽でした。小泉・竹中改革は所詮は〈既得権益産業を身軽にする改革〉に過ぎませんでした。例えば、雇用規制緩和(非正規雇用や解雇の容易化)も、金融緩和(社債や株式を日銀が購入することでの貨幣供給)も、そう。どのみち新興国に追い付かれる領域から離脱する〈産業構造改革〉を目指しませんでした。
■新興国に追い付かれる産業領域で先進国企業が生き残るには、利潤率均等化ないし生産要素価格均等化の法則ゆえ、新興国並みに労働分配率を下げる他ありません。これは労働者の貧困化によって企業が生き残る「一将功成りて万骨枯る」状態。これを避けるには、新興国が発信しにくい価値(例えばエコロジー)に従って市場を作る他ありません。
■二年前にCOP15(気候変動枠組条約第15回締約国会議)の取材でデンマークに行きましたが、先進国経済の温暖化対応が〈産業構造改革〉のツールなのは自明でした。ところが、鳩山首相(当時)による二酸化炭素25%削減目標の提示に対する日本での反対論は軒並み「CO2が温暖化の主犯と言えない」「経済の打撃だ」と、愚昧のオンパレード。

宮台■そう。COP15段階では僕も原発ルネサンスに賛成する立場を公言していました。再生可能エネルギーの不安定さを吸収するベース電源となり、かつCO2を出さないという意味で、原発が有効だからです。でも、日本が「ブレーキのない車=原発をやめられない社会」だと気づき、ここ二年は「日本では原発はダメ」と言い続けています。
■その流れで僕は「原発都民投票条例の制定を求める直接請求」の請求代表者をしました。“「原発をやめる」より「原発をやめられない社会をやめる」ことが大切”と主張し、住民投票とワークショップの組合せで、追加的安全策を阻む「絶対安全神話」や原発安価論を支える「全量再処理神話」など〈巨大なフィクションの繭〉を壊そうと呼びかけました。
■〈巨大なフィクションの繭〉の破壊は、現に社会がどう回っているかという〈リアリティ〉の獲得と同じです。世直しの営みを有効にするには、強力な〈価値〉と徹底した〈リアリティ〉が必要です。ところが日本は両方を欠きます。だからこそ、先進国のどこよりも「安心・安全・便利・快適」なのに、先進国のどこより幸福度が低い社会なんです。
■このことがクラブ終夜営業の風営法規制に関わります。僕のテレクラ・フィールドワークは85年施行の新風営法に反対する立場に、女子高生売春フィールドワークは92年施行のの暴力団新法に反対する立場に関連します。95年にはクラブ終夜営業を支援するテレビ番組を作り、複数の本で「暴力団新法で◯チガイが野放しになった」と言い続けてきました。
■そのテレビ番組から「17年遅れ」でクラブ終夜営業規制が問題化し、僕が書いた著作(『まぼろしの郊外』)から「15年遅れ」で、全国化した暴力団排除条例や来年上程予定の暴力団対策新法が問題化しています。僕は当初から一貫して「警察が悪いのでなく、新住民が悪い」「新住民の愚昧な要求に対応して、警察が権益を拡張した」と言ってきました。
■1980年代から発言力を増す新住民は、現に社会がどう回っているかの〈リアリティ〉を欠いた存在です。暴力団排除の世論も、店舗風俗排除の世論も、有害図書排除の世論も、クラブ終夜営業排除の世論も、専ら新住民のものです。新住民の「◯△排除」の運動になぜ反対するのか。要は〈社会は、いいとこ取りができない〉からです。
■分かりやすい例が売買春。「世界最古の商売は売春」と言われますが、売買春を合法化しようが非合法化しようが市場規模は変わりません。禁止するとサービス提供するのがリスキーになるけど、そのぶん付加価値が上がって儲かるため、参入動機が強くなるからです。かくして売買春に関わる社会秩序維持には三つの選択肢があることになります。
第一は、管理売春合法化。女性を性感染症や暴力から守るのを目的とするオランダのやり方です。第二は、売春禁止とヤクザ温存。日本がやってきた方法です。1958年に売春防止法が施行されるけど、非合法商売なのでトラブルが発生しても店も客も警察を呼べない。でもこれだと秩序維持ができません。だから警察の要請もあってヤクザが色街に入ります。
■警察はお目こぼしと引き替えにヤクザから情報を得ます。中にはお目こぼしと引き替えにヤクザから金銭を得る駄目警官が出てきます。でも僕に言わせれば単なる歩留まり問題(程度問題)に過ぎず、本質的じゃありません。ところが1980年代から、新住民の増大を背景に、こうした警察とヤクザの取引きを癒着だと激しく糾弾する動きが全国化します。
■95年に大阪で高校生売買春の取材をしていた際、大阪府警の刑事に言われました。「我々は杓子定規な取り締りでなく、現実に危険があれば対処する仕方でやってきました。現実を見るためにヤクザを情報屋としても使いました。でもそれが許されなくなりました。大阪府警といえばヤクザとの癒着が批判されます(笑)。宮台さんもご存じでしょう」と。
■17年も前です。彼はこうも言いました。「現実を見ようとすると出世できなくなります。だから現実を見ずに杓子定規にノルマ主義でやるのが普通になりました。これってやってみると楽なんです。特に中央からきた30歳そこそこのキャリア署長にしてみりゃ現実を見ようとするだけ馬鹿を見ます。しかも市民がそれでいいって言うんですからねえ……」と。
■90年代後半の青少年条例強化に続き、99年に再度大幅改正された風営法が施行されます。これ以降、都を皮切りに店舗風俗街やチョンの間街が壊滅しますが、これが暴力団排除条例全国化に繋がる第三の選択肢です。つまり、第一が、管理売春合法化。第二が、売春禁止とヤクザ温存。第三が、ガチンコ化によるヤクザのマフィア化です。
■ガチンコ化は北九州では一般市民を巻き込む「戦争」に発展していますが、売買春については弱者である女の子の不利益が増大したことに注目すべきです。第一に、店舗と違って地回りヤクザがケツ持ちできず、風俗嬢が客の暴力に遭いやすくなりました。第二に、ホテルや客の自宅など個室で営業するので、生本番競争になって性感染症が拡がりました。
■社会全体を見渡すと、第三の選択肢は「新住民の気が済むかわりに、女の子たちを犠牲にさせる最悪のもの」です。暴力団徹底排除の動きが「新住民の気が済むかわりに、生活世界に◯チガイを溢れさせる最悪のもの」なのと同じです。昔はヤクザに電話番や運転手として抱えて貰えたアブレ者が、紐付けがない状態で社会に吐き出されたことを言います。
■こうした動きの端緒が77年の三重県「隣人訴訟」でした。子どもを隣家に預けて出掛けた間に池で溺れ死んだというので、夫婦が隣家を訴えたところが、全国から「ふざけるな」と抗議が殺到。控訴を取り下げたので、83年一審判決が確定します。判決は常識的なもので、責任の大半は親である夫婦にあるとしました。
■ところが以降、世の中の流れは判決とは逆に向い、何かというと設置者責任や管理者責任を問う訴訟が全国で起こるようになります。訴訟を恐れる行政や事業者は、マンション屋上はロックアウト。放課後の校庭もロックアウト。児童公園からは箱ブランコや回旋塔に始まってジャングルジムやシーソーも撤去。河川は柵がついたり暗渠化されました。
何かというと行政を問題にする連中を僕は〈クレージー・クレーマー〉(〈CC〉と略称)と呼びます。彼らはラウド・マイノリティ(声だけデカイ少数者)に過ぎません。でも行政が彼らを恐れるのは、「子供の目が潰れたらどうするんだ!」「子供が骨折したらどうするんだ!」というクレームが“それなりに正論”で、訴訟に負けかねないからです。
■〈CC〉出現の背景は地域共同体の空洞化です。二つの側面があります。第一に、地域共同体がしっかりしていれば、隣人訴訟がそうであるように地域住民が〈CC〉の暴発を食い止めます。第二に、丸山真男の末端ファシズム分析に従えば、社会的に恵まれず、知的ネットワークから排除された「孤独な人」が、専ら〈CC〉として噴き上がります。
■後者について言うと、〈CC〉と「ネトウヨ」や「ネット釣られ層」は(1)暴発中和機能と(2)感情的包摂機能を持つ地域共同体の、空洞化という背景を共有します。実際ヨーロッパの街にはガードレールがありません。それを要求する住民も出てきても、「安心・安全・便利・快適」よりも「街らしさ」を優先する地域住民が囲い込んでしまいます。
■85年から十年余り全国をフィールドワークしていた僕から見て、こうした地域共同体の空洞化が生み出す〈CC〉現象の延長線上に、暴力団排除や、店舗風俗排除や、クラブ終夜営業排除が位置づけられるのは明白です。今や隣家の騒音でさえ、自分で文句を言わずに警察を呼び出す、〈行政過剰依存〉の時代です。ましてクラブにおいてをや(笑)。
■こうした〈行政過剰依存〉から、監視カメラだらけの街も生まれるし、違法ダウンロードの処罰化も生まれます。愚昧な新住民が「何もかも取り締まれ」と合唱するから取締り対象がどんどん未規定になり、線引きを警察OBに頼らざるを得なくなって天下り先が増えます。実際、規制条例や規制法が出来るたびに企業が警察OBを雇うようになりました。
■警察OBは、線引きに関する警察組織内の暗黙的合意事項を教えてくれるだけじゃない。あの会社は警察OBを引き受けてるから摘発はやめようという話にもなります。実際、日本ビデオ倫理協会が天下り先を断ったら、途端に警察の摘発を受けたという出来事があったばかり。でも、警察を悪者にするのは間違いで、背景は新住民の〈CC〉化です。

宮台■グローバル化は資本移動自由化です。資本移動自由化は人を不安にします。店も人も文物も入れ替わるからです。人は不安から逃れたいから〈悪者探し〉にかまけがちです。自分が不安なのは、中国人がいるからだ、風俗があるからだ、暴力団事務所があるからだ、終夜営業のクラブがあるからだ、といった具合(笑)。
■幼稚です。なぜ地域に中国人がいるのか、店舗風俗があるのか、組事務所があるのか。中国人や店舗風俗や組事務所と、地域住民や地域事業者との関係の沿革はどうか。そうしたことを知らないからです。例を挙げます。ここ二年で沖縄の色街である前原と吉原が壊滅し、古い色街である辻に業者と嬢が集約されました。僕はここをリサーチしてきました。
なぜ辻がつぶされないか。警察がこの色街の機能を弁えるからです。沖縄はオジイ・オバアのいる温かい血縁主義の島。でも物事には裏面がある。沖縄は女性の初婚年齢が若く、DV等を背景に若年離婚も多いので、二十歳そこそこで連れ子がいるシングルが多数います。でも、父系血縁制で長子相続制の沖縄では、連れ子が男児であれば再婚困難です。
■なぜなら再婚相手となるべき相手方親族が「種も与えていないのに家督を継がせるのか」と反対するからです。再婚できない彼女らの一部は実家に戻ります。でも父のDVなどで実家に戻れない場合もあります。全国一所得が低い沖縄で、このご時世。子連れシングルが働ける場はありません。数少ない選択肢の一つが嬢として食いつなぐことです。
■こうした事情をブローカーが弁えます。彼らは彼女たちがナイチャー(本土客)だけ相手にするようにします。ウチナー(沖縄客)は本土嬢が相手にします。ナイチャー価格はウチナーの倍。市場原理もあるけど、ブローカーが彼女たちを守ろうするからです。また子どもが母親を訪ねて来た場合、母親が風俗嬢だと気づかないで済むようになっています。
■その沖縄でも新住民化を背景に色街つぶしが加速しています。彼らは好んで前原や吉原の近くに居を構えたのに---元々は米軍用跡地--警察を含めた行政に強いクレームをつけるようになって行政が対応せざるを得なくなりました。辻への集約は最も古い色街で周辺の「理解」があるからでもあるけど、警察が事情を「理解」するからでもあります。
■最古であるがゆえに最後の色街となった辻。ここを潰したらどうなるか。子連れシングル母には他に働き場所がないから、やはりアングラで売春します。この場合、今述べたように守ってくれてきたブローカーはいなくなります。価格の境界線にせよ、市場の境界線せよ、情報の境界線せよ、ブローカーなくしては維持できず、彼女らは不利益を被ります。
■新住民化が進んだ昨今の沖縄では、今申し上げたことを弁えたウチナー(沖縄人)は殆どいません。単に客として現地に入ってリサーチしても、こうしたことは一切分かりません。ブローカーにケツ持ちしてもらい、疑問があればブローカーに尋ねて情報を貰うことで、初めて分かります。警察が色街の情報を採る場合にもまったく同じです。
■別の例。ストーカー防止法が2000年に制定されるまで、知り合いの女の子がストーカーに遭って困っていると警察に相談しにいくと、実際に事件(傷害や強姦や殺人)が起こらないと動けないと言われたものです。関西や九州の人なら、暗にヤクザを使えというメッセージだなと受けとめました。実際ヤクザに電話をすれば30分でカタがつきました。
■僕は誰かを擁護している訳じゃなく、事実、社会とはそういうものだったと報告しているだけです。売買春が非合法化されたがゆえに色街の秩序維持をヤクザが担ったように、事情を知らぬ新住民には目障りに見えても、一定の機能を果たしてるものが沢山あります。目障りをつぶしてもいいが、代替機能の調達を考えないのは、いいとこ取りの無責任です。
投稿者:miyadai
投稿日時:2012-06-30 - 18:09:32
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6月半ばの街作りについての講演の、概要をまとめました。

イベント:街づくりの仲間たち
講師:宮台真司
主題:街作りは住民のニーズに応じてはならない
日時;6月17日(日)14:30〜16:00
場所;キャロットタワー5F セミナールーム


■人間を中心にして、人間のニーズに応える「安全・安心・便利・快適」で街を評価するような功利主義的な発想では街や環境を保全できない。街づくりが住民ニーズに応えてきた結果「満足度は高いが幸福度は低い国」になった。どこよりも「安全・安心・便利・快適」で、どこよりも不幸せな国、日本。
■ベアード・キャリコット(環境倫理学者)は、人ではなく「場所」を主体にせよという。人間は、場所に寄生(パラサイト)するもの。街の全体性-いわば「街」という生き物-にとって自然なことかどうかで適切さを判断することがとても大切だという。
■彼にによれば、「場所」は単なる空間ではなく、人の営みやコミュニケーションや内側から生きられた感覚地理を含むもの。そうした複合体としての「場所」の時間的展開を明らかにすることで、何が「場所」という生き物にとって自然なことなのかがわかる。
■人間のニーズを中心にした「安全・安心・便利・快適」のまちづくりは、必ず人間の尊厳を脅かすものになる。人と場所の関係、人と人の関係が、入れ替え可能なものになってしまうから……というのがキャリコットの議論である。

〜〜〜
■なぜ人々のニーズに応じると街は出鱈目になるのか。いくつか解答が試みられてきた。第一に、街がよい街になるために必要な積み重ねの時間尺度は、人生の尺度の何十倍。街のよさを支える視座と、生活上のニーズの視座とは、スパンがまったく違うこと。
■第二に、人は、規定されたものの中にいる限り、〈世界〉を〈世界〉として感じないという根本的な問題がある。規定不可能なもの、カオス的なもの、計算不可能なものに囲まれて、人は初めて〈世界〉の中に生きていると感じる存在である(キャリコットが影響を受けた京都学派の発想)。
■こうした発想は、超越神の宗教が根づいた社会では自明である。「人の視座」を越える「神の視座」を想定するからである。日本人の神は取引可能な「友達」で(例えば妖怪)人を越える視座を与えない。
■ただし、鎮守の森のように、かつては森を得体の知れないものと見做す発想があった。今は森と共に生きる生活はない。人を越える視座を与える宗教的生活があれば、人間は自らを愚かだと見做し、暴走しない。
■ニーズに応じた街づくりが出鱈目になる理由は言葉にするのが難しい。だからキャリコットも「場所を生き物として捉えないと、我々の尊厳は保てない」と比喩を用いる。「場所を生き物として捉える」とは、学知というより、経験知の言葉だ。
■だが、我々の尊厳を保つ街を言葉にしにくいのに比べ、「安心・安全・便利・快適な街」は言葉にしやすいので、言葉にならない暗黙知に謙虚になる習慣を失った我々は、学知ならざる経験知の言葉であれ言葉を手にしないと、出鱈目から抜けられない。
■理由を言語化できないがゆえに、尊厳が、つまり自分がここにいることの価値が、奪われてしまうこと。街という「場所」をどんな生き物として捉えるのかは、社会の歴史や成り立ちに依存するものだ。日本人ならでは、各地域ならではの、街という生きものの捉え方があるだろう。

〜〜〜
■民主主義には主題化が困難な事柄がある。「損して得とれ」的問題の多くがそうだ。例えば昨今の欧州では、グローバル化対応と民主主義的決定が両立しない。民主主義的決定は大きな政府を要求するが、国民が巨額債務に向き合う意図がないと見做され、国債が暴落して一挙にデフォルト化する。
■人々の民主主義的決定が全てを台無しにすることがある。ことほどさように社会は「未規定性を抱えたもの」としてある。それをわかって街を設計する否かで雲泥の差だ。わかった人の設計は未規定性を残す。かつての(!)浅草仲見世通りのように、カオスなのに統一性を感じさせるようにする。
■かくて社会学では「計算不可能性を設計する」(講師の著書名)ことの大切さが理解されるようになった。「計算不可能性を設計する」必要があるのはなぜか。我々の尊厳を保つためだ。口実は何であろうが(テロ?)全てを計算可能化する営みは、我々を不安に陥れ、最終的に尊厳を破壊する。
■「安全・安心・便利・快適」はむろん大切だ。だが何よりも大切な価値か否かは吟味されなければならない。ニーズの実現がもたらす副作用にどこまで敏感になれるか。どこまで副作用を小さくできるかがポイントだ。そこには是々非々の懸命な努力の積み重ねがあるだけだ。
■怪我をしても文句を言わない者だけが遊ぶ資格を持つ羽根木プレーパーク。「安心・安全・便利・快適な街」と「子どもにとって輝く街」は異なる。「輝き」や「ときめき」は行政用語になりにくいが、明らかに幸せと関係している。「便利&快適」から「尊厳&幸福」へのシフトが必要だ。
■ニーズに応じたら街づくりが出鱈目になる。民主主義的決定が全てを台無しにしうる。だからこそ「自分の視座を越えるために」ワークショップ(WS)が有効だ。あらかじめの利害やイデオロギーに縛られた数合わせの多数決のための討議から、気づきの体験を通じて成長するための討議へ。
■WSは、方法の吟味が大切だ。例えばデンマーク発のコンセンサス会議。論点毎に対照的立場の専門家らがバトルし、最後に専門家を廃して当事者住民が決める。医療のインフォームドコンセント&セカンドオピニオンと同じだ。
■都民投票条例の制定を求める直接請求の請求代表人である僕は「住民投票の極意はWSにある」と述べてきたが、WSの適正規模を聞かれて20人と答えると、投票日までに間に合わないと批判される。だがニコ生やUストリームなど動画ライブ配信テクノロジーを使えば、いろいろなことが可能だ。

〜〜〜
■今回の原発事故は「技術の社会的制御」の問題を提起した。工学者が技術的十分さを主張するだけでは話にならない。高度技術(原子力!)にはそれに応じた社会的制御が必要だ。だが工学者は社会的制御のテクネーについて素人に過ぎず、「安全だから採用せよ」という資格はない。
■技術者がなすべきことは、技術的高度さに応じた社会的制御のテクネーの模索に資するべく条件プログラムの伝達。つまりif-then文(もし◯◯なら△△となる)集積を伝えるのが責務。だが、社会的制御は条件プログラムに還元できず、人々が何を望むかという目的プログラム(価値)が最大問題となる。
■その意味で、科学者や技術者と呼ばれる専門家が、if-then文の提出を越えて、だから社会は採用すべきだなどと「専門家の威を借りて」提案するのは、越権行為に過ぎない。日本が「原発を止められない社会」だというのは、技術の社会的制御に問題を抱えるということだ。
■その意味で、「安心・安全・便利・快適」なるものは本来、幸福(輝きやときめき)の実現という目的プログラムの追求に際して、副作用を計測し緩和するための条件プログラムにすぎない。条件プログラムにすぎないものが、目的プログラムのツラをする所に、日本的な街づくりの出鱈目がある。
■条件プログラムは、目的プログラムの遂行に伴う適正手段の選択を支援してくれる。目的と手段の関係は線形に延長し、目的を実現するための手段・を実現するための手段・を実現するための…という具合にブレイクダウンされる。(目的プログラム、条件プログラムは、第2回基本構想審議会でのご発言中のことば)
■幸福(輝きやときめき)の実現という目的に資する手段の選択に際して、どんな手段が有効なのかの吟味に使える条件プログラムのリサーチは難度が高い。だからこそキャリコットは「場所を生き物として扱うならば…となる」という比喩的if-then文を使った。難度が高くても次善の策で行くべきである。


質疑応答(Aは宮台)
Q:宗教の話。戦後の日本人がとってきたのは、戦後の復興。神と思ってきた経済がだめになったときに、視座として何があるか。
A:記憶が大事。冷戦終焉ないしバブル崩壊と同時に始まったノスタルジーブーム。記憶がない人たちが『懐かしい』と述懐するのが特徴。理由は十分解明されていないが、懐かしさの正体はたぶん「濃密さ」。人間関係が濃密だから紛争も殺人も多かった。豊かなのに濃密さを欠いた社会よりも、豊かでなくても濃密な社会へ。それがブームの志向ではないか。そこにヒントがある。

Q:基本構想は、区政の憲法だといわれた。現行の構想をどうお考えになるか。シャドー審議会も考えているが。
A:異論を唱えにくい内容よりも、参加や自治を惹起しうる形式に注目した方がよい。WSの形式を吟味し尽くすことに、実は大きな鍵がある。

Q:現在の基本構想は?
A:参加と自治を推奨する理念(目的プログラム)はよい。だが理念だけではどうしようもない。実践過程(条件プログラム)を通じて方向性を指し示せるかどうかだ。デンマークのコンセンサス会議を紹介したのは、有効な条件プログラムだからだ。

Q:安全・安心・便利・快適、孫たちにとっていいように、と長期的には考えている。
A:目的(幸福)にせよ、手段(安全・安心…)にせよ、機能的に思考することが必要だ。例えば空洞化しつつある家族。「古い家族を取り戻せ」と言うと排除的になる。必要なリソースを持つ者が限られるからだ。そうでなく「家族的機能を果たす者は全て家族だ」と機能的に思考する。社会学では家族の最低限の機能として(1)人口学的・感情的な労働力再生産、(2)子供のプライマリーな社会化に注目する。この2機能を満たす集合体を全て「家族」と見做して行政的に支援すべきである。

Q:税が高くて相続できなくて、土地を手放すと、マッチ箱ハウスが林立するのが問題。
A:措置は簡単。建ぺい率を下げれば良い。小さな土地に家を建てられなくなり、土地を過剰に小分けして売却できなくなる。だが、そうすると土地が売りにくくなり、不動産市場の流動性が下がる。そうなると、相続税が払えない人が苦境に陥る。結論。建ぺい率低下と相続税軽減措置を同時に。

Q:京王線が立体化されると世田谷区のボディが決まってしまう。そういう議論をやるようなWSをやっていかないと。
A:賛成だ。路地が入り組んで車が入れないから人が滞留する。人の滞留を前提にした下北沢の街。列島改造論で失ったものを想起する。
 日本の旧市街は鉄道城下町。60年代からモータリゼーション。列島改造論でバイパス建設ラッシュ。新市街が出来るかわりに旧市街は閑古鳥。新市街も「国道16号線的風景」でどこも似た風景。スーパー、パチンコ屋、家電量販店、消費者金融……。
 似た話が日米構造協議での米国産木材輸入解禁と2×4化。90年代に和風軸組建築集落がなくなる。井戸端、縁側……といった動線が変化し、コミュニケーションが阻害され、地域共同体空洞化が加速。
 何をしたらどうなるか(車道整備で人の滞留を阻害したらどうなるか、バイパスで新市街化したらどうなるか)をWSを通じて徹底的にシミュレーションし、WSを通じて「幸せ」の目的プログラムに照らして評価すべきだ。
 開発計画が一部始まっているので、三軒茶屋再開発のように、エリア分けの手打ちが必要になる可能性がある。三軒茶屋ではかえって古い屋台的な飲食街が残った。
投稿者:miyadai
投稿日時:2012-06-30 - 17:31:51
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福山哲郎氏の新著『原発危機-官邸からの証言』へのオビ文(案)です。

オビ文(案-表紙)


原発問題とは[技術の社会的制御]の問題である。
社会的制御の不全は[ブレーキの不全]と同じだ。
[技術的安全対策では解決できない問題]の数々。
[政権中枢にいた福山氏だけが知る事実]がある。
彼が語る[脱原発の提言]は誰の発言よりも重い。




(案-裏表紙)


原発専門家は社会的制御がクリアすべき課題を示せるだけ。
実際にクリアできるかどうかは原発専門家には分からない。
社会的制御のキャパシティは政治文化の問題だからである。
だから原発専門家による原発推進の合唱は越権行為なのだ。
火力と原子力では必要な社会的制御のキャパシティが違う。
残念ながら日本は[原発をやめられない社会]のままである。
[原発をやめる]から[原発をやめられない社会をやめる]へ。
そのために必要な変化は何なのかを福山氏が示してくれた。

投稿者:miyadai
投稿日時:2012-06-29 - 11:41:30
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マル激で京都大学の植田和弘教授を招いて、委員会の経産官僚お手盛り審議について語り合いました

マル激で、総合資源エネルギー調査会基本問題委員会にも出席していらっしゃる京都大学の植田和弘教授を招いて、この委員会の経産官僚お手盛り審議について語り合いました。例によって宮台発言の一部を抜粋します。植田先生の発言を含めた全体は6月18日発売『サイゾー』を参照して下さい。

〜〜〜〜〜
宮台◇ 政治学者の丸山眞男が、戦前の陸軍参謀本部と海軍軍令部に関して興味深い分析をします。現状分析部署と政策決定部署があり、順序としては現状分析を元に政策決定がなされますが、利権に念頭に置いた政策決定が現状分析を無視してなされる上、現状分析部署が政策に合わせて現状を書き換えます。つまり日本では「現状に合わせて政策を策定」できず、「利権に基づく政策シナリオありきで、それを成立させるために現状認識の歪曲」がなされる。昨今のエネルギー問題を見ても〈巨大なフィクションの繭〉の中で決定が行われるこの構図は変わりません。

宮台◇ 基本問題委員会の事務方たる経産省官僚が言い出したのが「ベストミックス」。従来の枠組内で電源種別シェアをいかに微調整するかを利得計算で決めるものです。ドイツの例を見れば瞭然ですが、エネルギー基本政策の変更は「新興国に追い付かれて労働分配率切り下げ競争にならざるを得ない既存産業」から「新興国が簡単には踏み出せない新規産業」へと軸足を移す〈産業構造改革〉や、食の共同体自治やエネルギーの共同体自治を含めた〈統治構造改革〉と結びつくものです。さもないと基本政策の変更と呼べない。原発を10%減らすとコストが何割上がるなどという話は、〈産業構造改革〉も〈統治構造改革〉も一切しないという「ただ一つのシナリオ」を意味します。本当に必要なのは、それ以外のシナリオの模索なのに、あまりに愚昧です。

宮台◇ 基本問題委員会は官僚御手盛りの「ベストミックスの検討」というシナリオにそって議論するだけの場で、ベストミックスは既得権益を守るために設定された主題です。専門的には、ベストミックス・シナリオは応用均衡分析の枠組です。他の条件を全て不変とし、電源比率だけ変えたら市場均衡がどうシフトするかを分析する。これがナンセンスなのは、電源比率の大幅変更が〈産業構造改革〉や〈統治構造改革〉に直結し、他の条件をダイナミックに変えるからです。再エネ産業や廃炉産業や節電産業が巨大な雇用と経済成長を生むのに、均衡分析はこれを覆い隠します。定常分析へのシフトが必要です。

宮台◇ 戦中の内閣と同じです。相互にセクショナリズムがあり、縄張りを侵さないようにする。そして、全セクションの議論を俎上に載せる場面では、それぞれのセクションが蔑ろにされないように配慮して手打ちをするやり方です。陸軍と海軍では武器弾薬の企画が全く異なっていました。

宮台◇ 消費者がエネルギー需給のあり方を考えるようになったのは大きな変化です。僕はとりわけ巷で流行する「我慢しない節電」というテーマに注目します。ゴーヤや朝顔を植えてグリーンカーテンを作り、簾を垂らして打ち水をしたり…と、涼しくなる方法を模索し合うのですが、このプロセスが楽しいんです。〈エネルギーの共同体自治〉が楽しいという経験が日本でも共有され始めました。共同体自治のスタートラインです。

宮台◇ 僕は都民投票条例の制定を求める住民直接請求のための署名活動の請求代表人として街頭署名活動で演説してきました。そこで「家庭や事業者が電力会社を選べない国は日本しかない。どこの国でもどの電力会社からどんな電源を組み合わせて買うか選べる。安いものを組み合わせるもよし。再エネを組み合わせるもよし。原発好きならそれでもよし」と話すと、何も知らない聴衆が多く、皆さん驚かれます。
 地域独占電力がテレビやラジオのスポンサーである限り、「先進国はどこでも電力会社も電源も自由に選べる」という番組は作られません。かくして「電力を選べる状況」が想像できないよう霞が関とマスコミに情報を操作されてきました。だから電力自由化の議論が進まず、仕組み作りに乗り出せない。ここにも〈巨大なフィクションの繭〉があります

宮台◇ ところが市民が参加を求めると、「エネルギー政策は安全保障の根幹に関わる国策だから素人が口出しするな」という輩が出てきます。問題は、国策が〈巨大なフィクションの繭〉の中で決定されることだというのに。〈フィクションの繭〉が私権や私益を糊塗する装置として機能し、私益が国策の名の下でゴリ押しされます。丸山政男が喝破した問題です。

宮台◇ マスメディアは「再生可能」の意味を説明せず、「再生可能エネルギー」を「自然エネルギー」と言い換えがちです。化石燃料も太陽光エネルギーを濃縮した“自然”エネルギー。自然由来か否かでなく、再生可能か否か、消尽するのか否かを、きちんと意識できる情報伝達が必要です。

宮台◇ 日本だけが、「ネガワットの発電に関する新たな技術や市場が生まれる」というポジティブな思考でなく、「我慢して節約する」という発想になるのが、困りもの。これも、電力供給維持という公的名目で既得権益産業の私益を覆い隠す〈巨大なフィクションの繭〉の一種です。

宮台◇ 僕は世田谷区基本構想審議会座長代理をしているのですが、「どんな街づくりをするか」という議論で必ず出てくるのが「安心・安全・便利・快適」。僕はいつも「それらは確かに大事だけれど、何にも増して優先すべき価値か否かを考えるべきだ」と申し上げます。国民生活選好度調査的には日本はどこよりも「安心・安全・便利・快適」ですが、幸福度は先進国のどこより劣る70位台から90位台。なぜなのか
 グリーンカーテンや簾や打ち水の工夫をめぐる話し合いが以外にも幸福をもたらすように、「エネルギー使い放題で便利快適な生活をするのが幸福だ」という紋切型を信じるのをやめ、それが本当に幸せか、胸に手を当ててみましょう。エネルギー消費が増えれば従来の重厚長大産業が儲かりますが、それによって人々が幸せになるという道筋はどうにも描けません。良さげな概念に踊らされる前に、筋を弁えましょう。

宮台◇ 映画やアニメの世界で40~50年前に〈未来〉と言えば「原子力」。それが82年の『風の谷のナウシカ』あたりから「風車」が盛んに描かれるようになります。90年代後半の第二次ロボットアニメのブームもそう。最近作では『魔法少女まどか☆マギカ』もそう。〈未来〉イメージとして巨大な風車が回るのが当たり前になっています。アニメ的・SF的には「自然と共生しない未来社会はありえない」という感覚が一般的なのに、政府が目標として掲げる2030年の電力は、供給削減どころでなく、高度経済成長期に描かれた〈時代遅れの未来〉に縛り付けられています。
投稿者:miyadai
投稿日時:2012-06-09 - 11:09:47
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