山田重辰
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山田 重辰(やまだ しげたつ、生年不詳 - 慶長14年10月27日(1609年11月23日))は、徳川家康の六男松平忠輝の川中島藩時代の重臣。官途は長門守。皆川広照、松平清直(義弟)とともに「上総介殿の三臣」と称された。室は松平近清の長女(清直の姉)。子女は臨川院(酒井重忠室)。信濃国松代城代を務め、10,000石を領していた。
生涯
長沢松平家の宗家に入嗣した頃の松平忠輝は、若気の至りか気性が激しかった。なお、入嗣の際に付随した花井吉成を家老として重用した。
以前より長沢松平家に仕える山田重辰ら生え抜きの旧臣は、それまでの主君であった松平上野介康忠・康直の父子とは気風の違う新たな主君の乱行を諌めようとした。しかし一方で、忠輝に忠実という花井に代表される新参派は主君に同調。この為、忠輝の乱行は一向に収まる気配がなかった。
そこで慶長14年(1609年)には山田重辰、皆川広照らは忠輝の不行跡を徳川家康に訴えた。しかし、忠輝生母の茶阿局の取り成しもあり、家康は忠輝を罰しなかった。
山田は不行跡を訴えた責任を負い、切腹。また、皆川広照には改易処分、松平清直は減封となった。