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断命拳『昼星』 (下)
作者:安東陽介侍
(上)を読んでくれた神様に感謝します!

このまま(下)も読んで下さるとうれしいです!

「鴉! 転んだら自分で立つ! 泣かない泣かない。お前は逞しく、強くなるよ。お姉ちゃんは全部知ってるから」

「この子はね、虎ノ眼殺女。今日から一緒に住むことになったから! 鴉、殺女、二人とも仲良くするんだよ」

「今日からあんたはここで武術を学ぶんだ。武道を通して心身共に鍛えること、いいね? ここで得る力は必ずお前を守るよ。そこでお前は力を得る」

「鴉、この夜が終わる頃、私はいなくなる。私がいなくなった後であんたは色々な事を知ると思う。私は私の都合で色んな事をお前に黙ってきたから」

「私は色んなことを鴉に押し付けて逝くことになる。ごめんね、ごめんね。お姉ちゃんは鴉と過ごせて楽しかったよ? あぁ、お姉ちゃんだけ幸せでずるいよね。ごめんね、私の可愛い鴉、バイバイ」



 叫び、喚き散らして、俺は痛む膝を引きずりながら泥塗れのリングを後にした。情けなさから逃げるように、心の整理のつかないままにリングから山奥の道場へ足を運んだ。
 ……このまま国外へ逃亡しようかともチラっと考えたが、殺女が遠目から見ているのですぐに諦めた。
 王威に殴り込みにもいかず、殺女を振り切って逃げることもせず、姉ちゃんの真相も確かめようとしない。何一つ思い切った行動が取れない自分に嫌気が差す。
「未熟」
 そうぼやくと大樹に向かって拳を放つ。
『拳法・崩拳』
『拳法・正拳』
 殴り続けているとテーピングがボロボロに破れていき、やがて拳が血塗れになる。
 時折、消毒するために粗塩を拳に塗り込んでまたテーピング。
 塩を塗り込むと激痛で体が震える。
その度に自分の未熟さを思い知らされる。
「未熟」
 また大樹に拳を放つ。
 拳だけでなく、肘、肩、頭も使ってみる。
 全ての攻撃を大樹の一点に集中する。
 大樹は俺の攻撃を黙って受けた。
 千か万か億か……?
 億は言いすぎだが、大樹は俺の無数の打撃を全て受けた。
 何年も何年も同じように打ち続けているが、折れそう、倒れそうな雰囲気を微塵も感じさせない。
「敵わねえな……」
 空は赤く染まっていた。
 俺の腹時計が正確ならそろそろ二十時間になる。二十時間ぶっ通しで殴り続けた。
 さすがに限界だった。
「…………この樹はさあ、……樹齢千年くらいなんだってさ。周径何十メートルあるんだよ……とんでもねえよな……全く」
 後ろでずっと見ていた桜花に話しかける。
「………………」
 六時間ぐらい前から桜花は来ていたが、ばつが悪いので無視し続けた。
 本当はそのまま帰って欲しかったが、叢雲桜花は黙って六時間俺の背中を見続けていた。
 また敗北した。
俺は桜花に根負けした。
「よく……、ここがわかったな」
 俺の秘密スポット。知ってる人間は片手で数えられるくらい。
「殺女様が教えてくれました」
「そっか……」
 会話終了。気まずくてしょうがない。
 初めて出会った時を思い出すな……。
「…………痛そう」
桜花が俺を見て言う。
「…………まあ、うん」
「どうしてそんなことするの?」
 どうしてって……そんなこと考えたことないなあ。どうしてだろう?
「さあなあ……酒に依存したり、手首に傷を入れて刺激を求めたりするのと変わんねえじゃねえかなあ」
 鍛錬と言えば格好が付くのかもしれないが、今俺が行っているものは鍛錬とはほど遠い。
 もっと自堕落的な何かだろう。
「その、見ていて、痛いです」
「ん? 別に桜花は痛くないだろう?」
「手……」
「ああ、拳か、こりゃあ、うん。……少々グロいな」
「……そういうことでは……」
 そういうことではない。桜花は言った。
「…………刺激が欲しくなる時があるんだ。骨が軋んで、思わず血尿を漏らしてしまうような強い刺激が……」
 突き付けられた刃のような現実を忘れさせてくれるような刺激が欲しい。
「つらい……」
 別に桜花は痛くもつらくないだろう……。彼女の心がいまいち理解できない。
「…………この樹、俺は千年樹って呼んでるんだけど、こいつは俺の父親みたいなもんなんだよ。俺の暴力を全部、取りこぼすことなく受けきってくれる。子供とじゃれ合うように平然と受け切ってくれるんだ。十年も前から殴り続けてるんだけど、全く折れる気配がない」
「父……ですか」
 桜花も親なしだったな。
「父親ってのはそういう存在らしい。子供の反抗期を受け切って、叱り跳ばす。……俺がさ、イライラしてしょうがなくて、周りに当たり散らして、物壊して、人怪我させて、そんな時に姉ちゃんに耳引っ張られて連れて来られたのがココ。『あんたの自慢の暴力で折ってみな!』って……最初は余裕だと思ったけど、全然だめなんだわ……」
桜花の目がキラキラと輝いて見える。太陽のような綺麗な黄色の感情が視える。
桜花の気分が良くなると、俺まで嬉しくなる。不思議だ。
「わ! 私もイライラする時あります!」
「……そうなのか。桜花は滅多なことじゃ怒りそうにないよね」
 初めてあった時はそりゃあ不機嫌だったが、その時だけだ。(ちなみになぜ不機嫌だったのかは教えてくれない)
 基本的に桜花は結構色んな人から慕われていて温和な性格なのだ。
「怒りますよ……特に最近は、はい。胸のあたりがムカムカすることが多いです」
 胸やけか? 食生活に問題があるとは思えない。精神的なストレスが原因だろう。お姫様ともなると公務とか色々大変なのだろう。
「原因は貴方です」
「えっ?」
「いえ、なんでもありません」
 小さい声で、本当に小さい声で「顔に書いてあんだよ」って言われた。
「怖ッ……」
「…………………………じゃあ日々ストレスで苦しんでいる私のためにパンチのやり方を教えて貰っても良いですか?」
「え? あ、はい、かしこまりました」
 桜花の作り笑いが怖い。

「はい、じゃあ、構えて、打つべし! 打つべし!」
「シッ! シッ! シッ! シッ!」
桜花さんは自分で「シッ」と言っているが言葉ほど躍動感がない。手入れされた髪が少し波打つだけである。そこに言霊の力は皆無である。
「パンチと言うより腕を伸ばしてるだけです。だめです。そんなんじゃ猫一匹追い払えません」
「ぶーぶーぶーぶー猫は追い払わないよー」
「はい、『ぶー』は一回でよろしい。殴る瞬間に踏み込んで下さい。腰をぐるんと回転させる。肩も回転させて押し出す感じで!」
「注文が多い料理店だよ。私食べられちゃうなー」
 桜花がブツブツ言いながら一歩踏み込んで虚空を殴る。
「歩くんじゃなしでスリ足で半歩、後ろ足のつま先を立てて前にせり出す」
「お、おう? おうわ!」
 転びそうになる体を支える。ちっぱいおっぱいキャッチ。ありがたやー。
「うん、悪くないね。じゃあ次は腰、正面向いてると半分損してるから、左半身を前に出しておこう。左手を前に伸ばした状態から左手を引っ込める代わりに右手を出す」
「て、てやー」
「回転不足」
 桜花の腰を思い切り回す。
「いったい! 痛い痛いッッ! 腰がグキって言った!」
「『痛い』も一回でよろしい。このぐらい回すの! はい、もう一回! 左手前に出して!」
「やー」
「ふむふむ、もっと大袈裟に回しても良いけどね。今の感触忘れないように。それと肩使ってないね。肩回す」
「ぐるぐるぐるぐるぐるぐる……」
 風車の羽の如く、桜花の肩を回す。
「ほら、そんなに動くじゃない。そんなに動くんならパンチの速さ上げるのに使わないと勿体ないじゃん。じゃあゆっくりパンチの時に肩を出す」
「注文が多い料理店だ」
「はいはい、良いから『せーの』で続ける! 『せーの』……」
 ……
……二十分が経過した。
「ふっ……もう俺が伝えることは何もなさそうだ。確かに伝授したぞ『右ストレート』!」
 ビシっと桜花を指差して宣言する。
「よし! じゃあ最後に実際に叩いてみようか」
 手がボロボロだけど手に嵌めるミットがない。でも相手は女の子だし問題ないだろう。
手を顎の辺りまで上げて、手の平を桜花に向ける。
「来いッ。イライラを吹っ飛ばせ!」
 桜花が左拳を前に出し、集中する。ただの遊びなんだから気楽にやれば良いのに……。
「ッッ! ずああああああああああああ!」
 大きく踏み込み、腰と肩を回転させる。
「グオッッ ブベラッッ」
 桜花の拳は正確に炸裂した。
ただし俺の手にではなく、俺の顔面に。
 ド派手に吹っ飛ぶ。俺が知る人間の威力ではない。千年の樹にぶつかり、落ちる。
「はあ……はあ……はあ……はあ……」
 肩で息をする桜花。それを地面から見上げる俺。
「はえ!? えッ!? えぇぇぇええ!?」
「あーーーー全ッッッッく! すっきり、しないです! しないです!」
 桜花が絞り出すような声で叫ぶ。
「すっきりしないのかよ! 俺は殴られ損かよ!」
「『笑え』って、言ったのは、貴方でしょ、……どうすればいいのよ……」
『笑顔をばら撒いたりするお前の態度も嫌いだ』そう言ってしまったことは覚えている。でも『笑え』って言った覚えは……ない。申し訳ないが……覚えていない。でも桜花の顔は凄く真面目で、痛くて、つらそうで、俺にどうしようもなく突き刺さった。
「………………ごめん。その……覚えて……ない。言った記憶がない」
 怒られる! そう思って言い終えた瞬間に顔を背けて目を瞑った。
 しかし、拳も怒声も跳んで来ない。恐る恐る目をゆっくり開ける。
「私はそもそもそんなに格闘技は好きではないのですよ、殴るのも好きじゃないんですよ暁様」
 いや、格闘技好きじゃないとか……それはおかしいだろう。だってチケット全部取ってあるし、ビデオもあるしテレビの格闘技有料チャンネルも見られたりするじゃん。
「へぇ、へえ。そお……なんだ。勘違いしてたなあ。うっかりうっかり」
「信じてないじゃん。顔に全部書いてあんだよ……」
「そんなにわかりやすいかね、俺の嘘」
 肯定された。
姉ちゃんにも殺女にもすぐにバレたりしていた。なんでかね?
「小さい頃ね、訳もわからずお城に連れてかれてね、毎日が退屈でしょうがなかったんだあ。お城の人が興味があるのは私の力だけだし、皆私の御機嫌取ろうとしてつまんなかった。私が力を持っていたのは偶然だし、力がなくなったら見向きもされなかったと思うと釈然としなくて……」
「……うん」
 王威が姉ちゃんの話をしていた時のことを思い出す。姉ちゃんも食い物にされたとか言っていたな。
「だから隙を見つけて逃げたの、あてもなく彷徨ってた。明け方で寒かったなあ……。それでどこか寒さを凌げる場所を探してたら拳闘場を見つけて……」
「ほうほう、確かに拳闘祭の時は一日中開いてるからなあ。しかも男臭くて暑そうだ」
「それで、灯りがポカポカで温かくて……気付いたら一番前の席に座ってた」
「明け方なら前の席も空いてるな」
「観てたら貴方がいたの。闘ってた」
「マジか」
 メインは当然夕方から夜だ。明け方やってるような試合は駆け出しのファイターばっかりだ。何年前の話だよ。
「体格が大きい人を凄いパンチでやっつけて、凄い楽しそうだった。鼻血出しながら大声で叫んで、汗撒き散らして、ガッツポーズして、リングの上を走りまわって……」
 調子乗ってるな、当時の俺。
「それで、最後はロープに昇って、観客席に向かって色々言ってた。『俺を観ろ!』とか『文句あんならかかって来い!』とか『もっとやらせろ』とか……」
「うぜえ! 超うぜえ」
そこに今の俺がいたら俺をボッコボコにしているな。
「それでね、最後に私を見付けて、言ったの『笑え』って……私、すっごいビックリしちゃって……ちょっとどうして良いか混乱しちゃって。でも、たぶん、笑ったと思う。私の顔を見た後に満足そうに降りて行ったから……」
 あぁ、まじか。恥ずかしい。しかし残念なことにそれは紛れもなく、俺だ。
記憶がある。
「俺だな。俺だ。俺のデビュー戦だ。覚えてる。あの時の子か……俺の目の前で不貞腐れてる子がいたから『笑え』って言った」
 頭を抱える。そんな頃から俺を観てくれている人がいるとは……。
「覚えてるの!?」
「……はい。その、ごめんなさい。桜花は笑顔が良く似合うよ。嫌なこと言ってごめん。もしよければ、……その、……笑ってほしい……です」
「うん!」
 やっと謝れた。桜花の笑顔は可愛い。
「ねえ! どうして拳闘やろうと思ったの?」
 桜花が笑顔のまま聞いてくる。
「もう、昔のことだから忘れた……イチイチ覚えてねえよ」
 体を桜花とは逆の方に倒して、寝る。
「はい、嘘頂きました~~」
 桜花が俺の正面に周り込む。逃がしてはくれないようだ。
「教えません」
「教えろよ~」
 ほっぺをぐいぐい引き延ばされる。
小さなおっぱいが胸に当たってしている。気持ちが良い。
「いや別に大した理由はないよ」
「うんうん。で?」
 俺は立ち上がると人差し指で千年樹を撫でた。
「俺は……昔、乱暴者だったから、喧嘩とか、頻繁にしてたんだよね……」
「ふうん」
「で、弱かったら良かったんだろうけど、拳法っつう武術やってたから……そういうの使うと全然負けなくて……勝っちゃうと気持ち良くなっちゃうんだよね……」
 全身の流れを感じる。
地面から脚、膝、腰、背、肩、肘、腕、を通り拳から力を解放するイメージを持つ。
人差し指を引っ込めて拳を作った瞬間に拳を放つ。
『拳法・寸勁』
俗に言うワンインチパンチである。
人指し一本より短い距離、超至近距離から放たれる拳である。
「勝てば気分は良いかもしれませんね、喧嘩に限らず。ただ武術を喧嘩に使用するのは人としてどうなんでしょう?」
「……俺、話すの止めて良い?」
「ああぁん! だめ! 説教しないから続けて」
「俺も良い感じに名前が売れてきて、自惚れてて、色々な所を巡って喧嘩相手探してたんだよ。そしたら大物がいたんだわ。でっけー外国人。現役のヘビー級拳闘士」
「喧嘩しちゃった?」
「まあ最終的には……というのも先に喧嘩してたんだよね。五、六人を素手で反撃する間もなく倒していった。んで優雅に酒飲んで、葉巻吸ってる訳よ。その時なんか考えちゃったんだよなあ……拳法使わずに、正面からぶん殴りあったら最高だろうなって……」
「へえ……」
「気付いたら、皿の破片とか短刀は捨ててた。思いっきり殴りに行ってた」
「どうなったの?」
「ボコボコ、個人的には頑張ったつもりだけど……。拳が速すぎて見えなかった。殴られながら本当にヘビー級なのかよって思ったよ」
「負けたんだ、でも嬉しそう」
「うん、楽しかった。目が覚めても、そいつがいて、外国語で喋る訳よ。『ユーはカンフーマスターだろ? なぜカンフーしない?』って……んで『そっちの方がカッコいいと思った』って答えたら、そのまま拳闘場に連れてかれた。言葉は通訳越しだけど熱意は伝わった」
「どんな?」
「男と男が凶器も持たずに一騎打ち。相手を制圧する技術は沢山あるけど、そういうの抜きで真正面から真正面のみを狙って、拳だけでぶつかる。相手が倒れても、起き上がるのを待ってまた殴り合う。そういう男の世界がここにはある……って。それで拳闘を始めた」
「そうして、非行少年が一人更生した訳だ! 今その人は?」
「病死した。あんなに強かったのに呆気ないもんだよな……約束も守れなかった」
「約束?」
 俺は頷いて空を見上げた。夕焼けが綺麗だ。
「どうしたらお前に勝てる? って聞いたらさ……天の星の数ほど拳を振るえば、無敵だってどんなものでも砕けるって……勝てるって……それまで待ってるって……」
 桜花も空を見上げた。
「天の星の数ほど拳を振るえば千年樹も折れるって言われたよ……今は星、ないけど」
「あるよ! 星はある!」
「え? ないんじゃん。見えないし……」
「見えないんじゃなくて、見ようとしてないんだよ。目を凝らしてみると見えるよ!」
「えっ……う~ん。どうかな? 俺、目一つだけだし、視力はあまり良くなさそうだけど」
「目の数は関係ないよ! 視力は関係あるかもだけど……。私はお昼でも星が見えるよ! 目は凄く自信があります!」
 ニシシシと笑う桜花。昼に星なんか見える訳ねえだろ。……でも夜が来ている今なら、この『逢魔が時』だったら見えるかもしれない。
 先入観を捨てて空を見る。
「あっ一番星みっけ……」
 この時、俺の中で何かが未完成した。




第五章 虎ノ眼殺女



 
「いちゃいちゃしちゃって……若いって良いねえ」
『忍法・遠視法』
 大層な術ではない。指で小さな穴を作り、その穴から覗くと光が制限されて良く遠くが見えるのだ。
 目を凝らして見ることと大差ない。
「……もう大丈夫そうね、もう帰ろう」
後は他の人に任せよう。鴉はあたしがいなくても大丈夫だ。逢魔ガ時様も必要ない。

……あたしの話をしようと思う。
私は忍者の里で生まれ、そこで育った。
才能は……なくはない。けどずば抜けている訳でもない。ごく平凡だと思う。たぶん。
ある時、あたしは鴉の母(鴉は姉と思っている)である逢魔ガ時様に買われた。
人身売買だ。
前代未聞だった。
里は里単位で任務を請け負う。貰った任務を分析し、里側で必要な技術を持つ人間を必要な分だけ提供する。
与えられた問題に対して、誰が、いつ、どこで、何を、どうやって、行ったかを報告する必要はない。
全て企業秘密だ。
そうやって飯を食っている里に対して、企業秘密が詰まった人間を売買するなど到底ありえないのである。
しかし、逢魔ガ時様は折れなかった。
ありえないほどの金とおとな気ないほどの武力、それに予言と預言を持って交渉した。
里と逢魔ガ時様は一人だけ、しかもまだ忍者として完成されていない幼児を提供することで合意した。
……らしい。全て逢魔ガ時様から聞かされた話である。
少し覚えていることもあるが、あたしも幼児だったので細かい部分は曖昧だ。
記憶の片隅にある部分と逢魔ガ時様が言ったことが一致しているのでたぶん本当のことだと思う。
逢魔ガ時様曰く、鴉以外に嘘は人生で一度しか吐いたことがないとのこと。
預言者として嘘を吐くことはないが、女として母としてなら平気で嘘を吐く。それが逢魔ガ時様だ。
本人がそこまで言うのだから間違いない。というか疑ってもしょうがないことだ……。
「田舎の父ちゃん母ちゃんは元気でやっているかしら……?」
「む?」
「あ、いえいえ、なんでもありません。失礼しました……」
 王威さんを目の前にして変なことを言ってしまった。
 王威さんは現在の仮の上司である。仮というのもあたしの主は今も昔も逢魔ガ時様だけで、逢魔ガ時様が死んでも変わりはないのだ。
それに実は逢魔ガ時様から与えられた任務はまだ完了していない。
逢魔ガ時様は未来を覗くことができる予言者なのだから、死んでも予言通りに仕事を全うするのだ。
ちなみに予言は確実なものではない。
現実が逢魔ガ時様の予言から離れた時に私の任務は終了となる。
しかし今の所は逢魔ガ時様の予言通りだ。
この国の政治事情から天災等の大きい事象だけではない。
逢魔ガ時様が選んだ叢雲桜花が十代にして、大きな力を持っていること。
暁ノ鴉が『死救い』に選ばれたこと。そして叢雲桜花に恋をしていること。
かつて逢魔ガ時様の『死救い』であった王威伏龍が暁ノ鴉を憎んでいること。
あたし、虎ノ眼殺女が鴉に恋していることも……。
全て予言通りだ。
これは偶然ではない。
逢魔ガ時様は予言者であり預言者なのだ。
逢魔ガ時様から預言を授かった者は全て逢魔ガ時様の予言通りに生活する。
預言通りの行動が最良の未来を呼ぶと信じて。
だから逢魔ガ時様の予言はほぼ正確なのだ。
逢魔ガ時様にとって予言は的中させるものではない。預言通りに行動させ予言へと導くものなのだ。
考え方によっては、逢魔ガ時様の預言を受けた者は皆彼女の傀儡なのだ。
だからあたしは任務が終わったらこの国を出ようと思う。逢魔ガ時様が用意したこの舞台から去ろうと思う。この足で名前も思い出せない自分の生まれた里を探そうと思う。
…………鴉も桜花も王威もそれ以外の多くの人も逢魔ガ時様を聖人のように考えているが、あたしにはそうは思えない。
あたしは予言の行く先を知らない。
あたしはそれが恐くて堪らない。
逢魔ガ時様には明確な目的があったようだが、逢魔ガ時様が一体何を考えて死後まで予言を行い続けていたか計り知れない……。
「何か難しいことを考えているようじゃが……?」
「……そうでもないですよ?」
「怒っているのか?」
「はい?」
「わしが鴉に制裁を加えたことじゃ」
 あれが制裁……。
確かに制裁されるようなことを鴉はしたが、制裁の内容を逸脱している。
 でも立場上、鴉を憎くてやったとは言えないわね。
「いえ、男同士って殴り合って語るとも言いますし、あたしは気にしません。活気があって良いのではないでしょうか?」
「ふむ、しかし鴉はおぬしの片恋相手じゃろ?」
「昔の話ですよ」
 鴉は桜花に惹かれている。あたしは半ば失恋しているようなもんだ。
 それに逢魔ガ時様からも言われている。
 お前の恋は実らないと……。
 逢魔ガ時様のその言葉は、その予言は鴉を取られるかも知れない嫉妬心から来ている牽制かとも思ったが、そうではないようだ。
 鴉はあたしを兄弟か逢魔ガ時様の見張りぐらいにしか考えていない。
「……もし、いや、……差し支えなければ鴉のどういった部分に好意を持ったのかを教えて欲しい……失礼かな?」
「え? そうですね、馬鹿なところですかね。または阿呆なところ」
「わしは……馬鹿は嫌いじゃ」
 だから自分も嫌いだと王威さんは呟いた。
 王威さんも、そんな人だから放っておけない。
「もう休みませんか? あたしも王威さんも昨日から一睡もしていないじゃないですか」
「そうじゃな、今日は無理をし過ぎた。年には勝てんの」


 鴉と王威さんが喧嘩をした日から二カ月が経過した。
 あたしは相変わらず桜花と鴉を背後からストーキングする日々を続けている。
 あの桜花と鴉は今凄く良い関係にある。
先ほど、中々進展しない彼らに大事件が起きたのだ。
接吻……。
そう、キッスをしたのだ。
それはそれは初々しいものだった。
二人は鴉が千年樹に寄りかかるように座り、兎と兎が一本の草を両端から食べるように、ゆっくりと二人の唇が接近していき、触れ合った。
唇と唇が触れ合った瞬間に静電気が走ったかのように、バッと二人は離れた。
裏方に徹している筈のあたしは思わず
「もっとやれ! ベロチューだ!」
っと声に出してしまった。
 顔を真っ赤にして怒った鴉に石を投げられてしまった。
 それで今は鬼源城の詰め所に帰ってきた。
 ……あぁ悶々する。
 あたしも女だと気付かされた一瞬である。
 あたしにも性欲がある。
 あたしも身が悶えるような初心な恋愛がしたい。
「良いな! 良いな! 良いな! 良いな! 良いな! 良いなぁああああ!」
 体をくねらせる。クネクネクネクネ……。
「若いのう……」
「はっ! 王威様ッ! ……いつからそこにッッ……」
「阿呆。先客じゃ。おぬしより先におったわい」
 失態、失態である。穴があったらぶち込んで貰いたい……じゃなくて入りたい。
「それより、おぬし、もう終えたのか?」
「へっ? あぁそうですね。見回り行ってきます」
 王威さんの言っていることは城の見回りである。
 前に桜花へ暗殺者が送られてから、見回りが厳重になっているのだ。
 鬼源城、最深部の桜花の寝室まであと少しの所まで侵入を許しまったのだ。
あの事件で八人の人間が処刑されている。
あのようなことは二度とあってはならない。
それだけではない。今日は見回りという名目の逢魔ガ時様の予言書を確認しに行く日だ。あたしの本来の任務だ。
逢魔ガ時様の予言書は国の最高機密であり。この任務は超極秘ミッションである。
あたしは鬼源城で、あたししか知らない部屋に向かう。
桜花の部屋へ続く廊下を渡り、階段を降りる。
誰も見ていないことを確認し、階段の裏の死角に入る。
『忍法・暗視』
 暗い中でも物を見ることができる忍術である。
 その術を駆使して、隅にある小さな木の閂をゆっくり引き抜く。
そうすると扉に木のパズルが現われる。
パズルをいつもの手順でサクサク解く。これで開錠。
ちなみに間違えると爆発すると逢魔ガ時様は言っていた。軽いジョークで作ったらしい面白部屋。
「あたしがうっかり間違えたら、部屋にある物はどうすんのよ」
 などど軽口を叩きつつ。ここで、もう一度人の目を確認する。開けるようになった隠し扉に入る。
 非常に入り組んだ構造になっている小さな部屋だ。明りも何もない。人が一人通るのがやっとな小さな部屋。
 この部屋には四方八方に引き出しがあり、その全ての引き出しに逢魔ガ時様が残した大量の予言が隠されている。
 この狭い部屋で引き出しを開けると人がいるスペースがなくなる。
「あらよっと……」
 だからあたしは股割りの容量で壁に張り付き、足で下に落ちないように体を支えつつ、手で引き出しを慎重に開ける。
「最近の分は……」
 暗視術を用いて逢魔ガ時様が残した予言書を一枚一枚確認する。そして最近起きた大きな出来事と予言書の内容を比べる。
「政治、天災はほぼ狂いなし……」
 今度は個人用の予言を調べる。
 こちらが非常に面倒臭い。
 有力政治家に官僚、商人、芸人、そしてあたしを含む鬼源城の関係者。これらを一人ずつ確認してゆく。全部で三十人だ。
「しかし、これだけの量を一人でよく予言したものだわ……」
 ぶつぶつ文句を言いつつ、一人一人ずつ前回確認した分から今日までの予言を確認する。
 逢魔ガ時様の唯一の予言管理者のあたしでも、勝手に今日以降の予言、つまり未来の予言を覗くことはきつく禁止されている。
 未来を知ってしまったあたしがうっかり予言に介入してしまうことを避けるためである。
 だからこそ、うっかりページを捲りすぎて未来の予言を見ないように最善の注意を払う。
「赤ちゃんの誕生日までぴったりね」
「金儲けだけやってれば良いのに、政治家がこいつに務まるのかしら?」
「生きて娑婆に出られてオメデトウ。逢魔ガ時様の預言がなかったらどうしてたのだろう?」
 そして鴉の予言書を開く。
「…………鴉のファーストキスが予言されてる……」
 『我が愛する息子がファーストキスを取られる』と書かれていた。親馬鹿すぎる。
 この文面だけ予言者のような客観的な視点ではなく、日記のような主観的な形で書かれている。逢魔ガ時様も人の子なのだ。思うところがあったのだろう。この調子では初体験の時はどうなっているやら……。
 初体験の時もあたしはあの二人を監視しなくてはならないのだろうか?
 うわ……超ドキドキする。あたしは変態かもしれない。
 その時はリズムに乗せて手拍子を送ろう。
勘違いしてはいけない。決して妨害行為ではないのだ。祝福の手拍子だ。
「変な妄想が先走りしてる……今夜のおかずには不自由しなさそうだ」
 喪女子街道まっしぐらである。
 でも、これでもあたしは人生をわりと楽しんでいる。割り切ってしまえば簡単に幸せは訪れるものだと知ったのだ。
「じゃあ最後の人、あたしの予言に行こうか…………あれ?」
 ちょっとした違和感、あたし左手に視線を落とす。しなやか指がある。いつもと何一つ変わらない指であるが…………? ここじゃ暗くて良く見えないから後で確認しよう。
 そう思ってあたし、虎ノ眼殺女の予言書を開く。
『虎ノ眼殺女、貴女がこれを読んで外に出た時、貴女は選択を迫られます。冷静に対応すること、貴女なら切り抜けられます。ご武運をお祈りします』
 …………………………………………。
……はい、わかりました。逢魔ガ時様。お心遣いに感謝します。
 そう言って予言書を閉じた。
 緊急事態だ。
心臓がバクバクする。
 冷静に冷静に……深く深呼吸をする。
 ふぅ……すー……ふぅ……すー……ふぅ……すー………ふぅ……すー……。
 あたしはゆっくりと部屋を開けて外に出た。

「王威……さん? 何しているんですか? こんな場所で?」
 長い廊下に一人、道を塞ぐように王威さんが座っている。
「ふむ……大して驚いてないようじゃのう」
 王威さんはあたしの反応を確認しているようだ。
 一応刀は脇に置いてある。置いてはあるが、場合によっては戦闘になる。『ご武運を』というのはそういうことだ。
「あたしの、……あたしの跡をつけていたのですか?」
「いや、隠密術に長けているおぬしを尾行できる者は少ない。……元々この場所については知っておったのじゃ」
 ……冷静になれ。冷静になれ。
「廊下をあたし達で二人占めにするのはどうかと思います。どこか場所を移しませんか?」
「ここで構わん、人払いは済ませてある。桜花も鴉も直ぐには戻らん」
 王威さんが上の桜花の部屋を指差しながら言う。
 基本的にこの廊下を通る人間は桜花と鴉とその二人に用がある者だけだ。
 つまり、今ここを通る人間はいない。
 最悪、ここで戦闘になっても誰も駆けつけて来ないのだ。
「とりあえず座らんか?」
 嫌だ。
 断る。
 助けて。
 逃げたい。
「廊下って冷たいですね」
 苦笑いをしながら、王威さんと若干距離を置いて対面に座る。
 王威さんを抜いて駆け抜けることはかなり厳しいし、桜花の部屋から跳び降りるという選択もあるが、どうせ誰かが待ち構えているに違いない。
『冷静に対応こと』という逢魔ガ時様の予言は「無茶をするな」とも受け取れる。
預言者は嘘を吐いてはいけない。落ち着け、切り抜けられるのだ。
「おぬしが逢魔ガ時から引き継いでおったか……」
 王威さんは感慨深げに言った。
「お答えできません」
「……ん。今のは問いかけではない。ただの独り言じゃ。すまん」
「勝手に納得されては困ります」
「おぬしは、知らんのかの? その部屋はおぬしか逢魔ガ時しか入れぬのじゃ。無理に入れば中身が燃える」
 爆発すると聞かされていたが……。逢魔ガ時様は話を大袈裟に盛ったようだ。
「はあ……」
「逢魔ガ時が死んだ時にのう、逢魔ガ時の亡骸から指が一本なくなっておった。それで大騒ぎじゃ。逢魔ガ時の指がそのまま宝庫への鍵となるからの。激しい権力争いの末に逢魔ガ時の指は破壊された。罰あたりなことがあったもんじゃ」
 その話については聞いたことがある。逢魔ガ時様の指の話。
 当時は禁術に使用するだの呪いに必要なだのと騒がれていたが、この部屋を開けるための物だったのか……。
 つまり王威さんはこの預言書の部屋とあたしの関係について適当にカマをかけている訳ではなく、確信持っている可能性が非常に高い。断定はまだできないが……。
「あたしはあれが宝とは到底思えませんが……」
 あたしは敢えて書のことには触れずに、宝と言ってみた。
「預言書の価値がわからんほどボンクラでもあるまい。わしを試しているのか?」
 ああ、決定だ。部屋の中身も完全に知っている。
 あたしは殺されて、指切られて、終わりだ。
木のパズルもあるが、あれは途方もない時間をかければ誰でもできる。逢魔ガ時様の指が取られた前例があるということは、既に解が見つかっている可能性もある。
「そう青い顔をするな、開錠できても、聖域に踏み入ることはできぬ。足が付いた瞬間に燃えるからのう」
「はあ……」
 助かった……。
「うーむ、しかし良く考えてみると地面に屍を敷くという手があるのう」
「………………………………」
「冗談じゃよ」
 冗談ではなく脅迫であることは明確だ。
 情報を小出しにして、逃げ場をゆっくりと潰していく。
 あたしが疲弊していくのを待っているのか?
だとしたらたちが悪い。
この人と逢魔ガ時様のことは良く知っている。この人は本当に逢魔ガ時様を愛していた。結構良い人だと思っていたんだけど……。
「王威さん、変わりましたね」
「おぬしとは付き合いが長いからのう。こういうやり方をおぬしにはしたくなかった。しかしおぬし自身の身を思ってのことだ。許して欲しい」
 あたしの身を思うというのは、殺さず済ます方法が他にないということか……。
「そんな悪知恵、どこで覚えたんですか?」
 もう敵意を隠す必要はない。
「今の地位まで昇り詰めるのに苦労したからの、色んなことを覚えた」
「……わかりました。本題に移りましょう。何が目的ですか?」
「少しばかり先のことを知りたい。次の日食の時を教えて欲しい」
「そんなことは陰陽師にでも聞いたら良いのでは?」
「奴らの暦はあまり正確ではない」
 日食は魔が非常に強くなる時であり、呪いや術などでも日食時にはやってはいけないもの、逆に日食時にしかやれない禁術が存在する。教える訳にはいかない。
 適当な時を教えて誤魔化すという手があるが、預言の偽りは道徳に反する。大事の前の小事という考え方もあるが、預言を軽視するような行動は予言を狂わす力(言霊)となる。できる限りやらない方が良い。
どうしたら良い……?
「…………わかりました。今調べて参ります」
 少しでも時間を稼ぐため、あたしがゆっくり、ゆっくりと立ち上がろうとした時、王威の手が素早くあたしを捕えた。
「待てッッ……どこへ行く?」
 はい? どこって……預言書の部屋以外どこよ?
「予言を確かめに行くのですが?」
「……なぜだ?」
王威の顔が激しく歪む。何をそんなに慌てている?
「ぬしはたった今、書を読み、出て来たばかりだろう? なぜ知らないのだ!?」
「あたしは……
慌ててその後の言葉を飲み込んだ。『確認だけだ。あたしは……逢魔ガ時様の死後も予言にズレがないか確認しているだけだ』と言いかけた言葉を飲み込んだ。
ここまで話してようやく理解した。
 なぜ気付かなかったのだ……。
王威はあたしが預言書の部屋に籠城することを恐れている。
それは王威に取って最悪なのは予言も手に入れることができず、あたしの死体も回収できないことだ。
あたしが自分の役割を話してしまったら最後、確実に殺される。
「どうした? 早く続きを言え!」
 急かすな。落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 視線を下に動かす。
 自分の手を見る。
 綺麗な手だ。汚れていない。再び違和感……。
 汚れていない?
 なぜ?
 いつもは墨で汚れているのに……。
あたしは預言書を乱暴に扱ったりはしない。ページも妄りに擦ったりはしない。
ただ、紙の束の裏側には良くさわる。いつも左手の指先は黒くなってしまう。癖なのだ。
それが無いということは……ひょっとして、裏面は何も書かれていなかったのでは?
………………予言は今日で最後だったのか……。
「そうか……そうだ。そうですよね……逢魔ガ時様は予言したんですね。あたしが何をしようと織り込み済みですよね……」
 あの偉大な予言者は皮肉なことに自分の予言の顛末を予言してしまったらしい……。
「さっきから、何を言っている!? 殺女ッッッッ!」
「これがあたしの最後の仕事!」
 王威の手を全力で振り払い、あたしは預言書の部屋の入り口を飛び蹴りで破壊した。
 壊れた扉の向こうで室内が激しく燃えているのがはっきりと見えた。
「なッ……貴様! 気は確かかッ!」
 王威が燃える部屋に入って紙をかき集める。
「後はよろしく!」
あたしはそう宣言すると、一気に桜花の部屋まで駆け上がった。
桜花の部屋には男が二人。既に刀で武装済み。形勢は極めて不利。それでも突っ込む。

――ザク――

一人に腹部を斬られた。もう一人がとどめを刺しにくる。
「来いッッ! 非常事態だ! 構うなッッ」
 焼けた臭いに気付いたのか、二人があたしを無視して、階段を駆け降りた。
 王威の判断は的確で素早い。もうあたしの死体など必要ない極限状態なのだ。
「無駄な努力頑張って……」
 あたしは天守閣から跳び降りた。




第六章 空亡



 
「その話は本当か?」
「んにゃあ、勿論本当じゃ、あんた指名手配されとるぞ」
 俺は一枚の紙を受け取る。
『暁ノ鴉。十七歳。身長一七五センチメートル。体重七十キログラム。隻眼で釣り目』
と書かれており、その説明文の横には俺のイラストが描かれていた。
遠くでは鬼源城のてっぺんが燃えてなくなっている。
俺がやったらしい。
「あんまり似てないね。この似顔絵……悪人みたい」
桜花の反応である。
ちなみにこの桜花姫を拉致ったのも俺らしい。覚えがないが……。
「ごめんな、俺、お前のこと好きすぎて拉致ってしまった」
 桜花を抱き寄せる俺。
「世界の果てまで付いて行きます。暁様」
 俺の胸に寄り添う桜花。
 不自然なまでにこんな赤面トークを自然に繰り広げる俺達。というか俺も凄い恥ずかしい。
「あんまし長居されると困るんじゃのう……」
 俺と桜花はそのまま千年樹を離れた。
「これからどうしましょう?」
「う~ん。なぜか殺女もいないんだよなあ。困った」
「私が弁解しましょうか? 何かの間違いですし……騙されているとか、洗脳されていると思われるかもしれませんが」
 ふむ……昔、聞いたことがある。犯罪加害者と被害者が同じ環境にいることで信頼や愛情が芽生える現象があるらしい。誘拐事件や監禁事件のような閉鎖的な環境で起きやすいとか。
 ……なるほど、悪くないかな……。そう思った。
 桜花の手に握り締める。
「桜花……、俺はさ、桜花が思っているほど良い人間じゃないんだぜ?」
「ちょっと先走ったり、暴力に訴えたりするところは今後直して欲しいです」
 はあ……気が抜ける……。俺はこれからお前を本当に拉致しようとしてるんだぜ?
 小悪党なんだぜ?
「俺はさ、自己中心的な人間なんだよ。自分が可愛い。桜花のことも好きだけど、その感情も、もしかしたらただの生物として繁殖したい欲望かもしれない」
 桜花は顔を赤くして俯いた。
「私は……特に構いませんよ……その、ね? 繁殖。その欲望は嫌いではありません」
 そこに反応するか……むっつりだな。
「……俺は死にたくないんだよ……『死救い』は嫌なんだよ。桜花のことは心配だけど、俺は俺の命で桜花を救おうとは考えていないんだ」
 なんて情けないのだろう……。
「愛した女に命一つ賭けることができない小物。それが俺だ。ごめん」
「そんなこと言わないで下さい。私は、ずっと、一緒にいたい。二人でいたいんです。勝手に死なれても困ります。私も死にません。自分の試練は自分で乗り越えます」
 強いなあ。もし立場が逆だったとして、俺はここまで言えるだろうか? 無理だな。俺は小者だから。弱いから。
「このまま、俺と、この国出ないか?」
 桜花の手を握っている俺の右手が汗ばんでいる。
心臓が破裂しそうなぐらい激しく上下している。
「……桜花には、もっと良い奴がいるかもしれない。俺よりも優しくて、俺よりも魅力のある奴が現われるかもしれない。あてもなく国を出ても美味い飯も柔らかい布団もない……」
 自分で誘っておいて、デメリットばかり話してしまう。
 矛盾していることはわかっている。
 でも止まらない。
 これが俺の弱さだ。
「先ほども申し上げました。『世界の果てまで付いて行きます。暁様』」
 桜花が俺の手を桜花の胸に当てた。
 桜花の鼓動が伝わってくる。
「私を攫って」
 俺の耳に桜花の白い吐息がかかる。桜花の長髪に手櫛を入れながら彼女の頭を撫でる。
「ああ」
誰かに見られている。
「雪……?」
「寒いな」
 気付いたのは、桜花を抱きしめた後だった。
 俺と桜花は駆け出した。
 金もない。頼れる人間もない。若さだけしか持ってない俺達ができることなんてたかが知れているが、行ける所まで行くまでだ。



『なぜこうなった』
 わしは王だ。
 王の威光で龍も平伏す、それが王威伏龍だ。
そのわしがここでくたばる訳がない。
わしは無限の力を手に入れる者だ。
「今どうなっている?」
「全身の十数パーセントの面積を熱傷しています。全身の細胞の損傷レベルが高く、血圧も低下しています。深刻な状態です。現在意識が残っているのは奇跡だと思います」
 息が苦しい。
 僅かではあるが、熱風を吸い込んでしまったらしい。
「現在は同志の力を借り、輸血と植皮を行っています」
 懸命に息を吸い込み、言葉を発する。
「違う、預言書だ。日食はいつだ?」
 今の肉体などどうでも良い。
 どうせ捨てる体だ。
「解読はほぼ完了しています。ですが、……全て過去の物でした。日食時期はおろか、先の予言自体見つかっておりません。無念です。大変申し訳ありません」
 元々、可能性の一つとして考えていたことだ。
 逢魔ガ時を出し抜くことはできないらしい。
「わし以外に重体に陥った者は?」
「おりません。皆軽傷です」
それはよかった。
「貴方にいなくなられてはッッ! 私達はどうすれば……」
 わしはわし自身の予言を知っている。わしが死なぬことを知っていたから火の中に跳び込んだまでだ。だが、わしはわし以外の人間の運命を知らぬ。
 余計な犠牲を出さずに済んだ。
「陰陽師の暦では日食はいつだ」
「千時間以内には必ず……と」
 誤差が大きすぎる。
「腕の良い医者を呼べ、俺の寿命から逆算しろ。急げッ!」
「私は……貴方の命で博打をするつもりはありません」
 わしは良い同志を持った。
「これは博打ではない。逢魔ガ時の予言にズレはない。そうだな?」
「はい」
「ならば逢魔ガ時の予言は今も力を持っているということだ。わしは必ず日食を見る。百鬼夜行は必ず実現する。心配するな……」
 百鬼夜行……鬼を生み出す伝説の儀式だ。
 鬼は赤子も老人も、女も男も平等に喰らう。
 鬼は森を焼き、川を濁し、町を壊す。
鬼の死骸は瘴気となり、その土地を殺し続ける。
 我らが目指すものは鬼による国の破壊である。
 思想もなく、信念もない。鬱憤を晴らすためだけに集まった屑共。
 下らないことだとは理解している。しかしこの国はあまりに弱者を食い物にしすぎた。弱者を消費して成り立つ国など、その弱者にしてみれば到底受け入れられない。
「王威様、いえ同志、私に力を下さい」
 ここで跪いているわしの同志はまだ二十代の青年だ。
やり直しはいくらでもできる。そう諭したこともあったが無駄であった。
契りを交した彼の妻は犯され、殺された。彼は知らなかったが、妻は胎内に新しい命を宿していた。彼の妻は腹部を何度も何度も踏みつけられた痕跡があった。胎児は外に引きずり出され、原形をとどめないほど破壊されていた。
女を殺した畜生は一切罪に問われることがなかった。懺悔もなかった。今ものうのうと娑婆で生きている。
『人モドキは人にあらず、家畜と同じである』とのことだ。
胎児を引きずりだし、潰した畜生から懺悔の言葉を聞くことはなかった。
『最高に具合が良かった。俺の人生で最も輝いた瞬間だった。今も俺はあの瞬間を思い出して自慰に耽る。俺は生涯、人を愛することはないだろうと思っていたが、あの女は俺のその固定観念を一掃した』そう青年に言葉を吐いた。
救い難い、……聞くだけで耳が腐り、見るだけで目が潰れそうな圧倒的な邪悪が存在した。救い難い。
命は取り返しがつかない。失った誇りを取り戻す方法をわしも青年も知らない。
だが、無念を吹き飛ばす方法をわしは知っている。
……わしが愛した逢魔ガ時は戻らない。
復讐なぞ意味がない。
全てが終わった後に残るものなど何も無い。あるのは空虚だけであることも知っている。
そんなことはわかっているが、止まらない。
中毒者が肉体を破壊してしまうと理解していても薬物を欲してしまうのと同様に邪悪を目の前にして奮え、皮膚が掻き毟りたくなるほどの怒りの衝動を抑えることができない。
誰でも良い。
 誰でも良いから止めてくれ。
 誰でも良いから救ってやってくれ。
「…………桜花じゃ」
「はい……?」
「彼女の力なら、…………叢雲桜花の力なら、空を亡くすことができるかも知れぬ」
 日を食らう黒い太陽、空亡の出現は百鬼夜行の引き鉄となる。
「わかりました」
 消費されたわしらが他人を消費して下らぬ願望を叶えようとは……なんと救い難いのだろうか。



 俺と桜花が逃避行を続けて三日が経過した。
今は他人の家の小屋を借りて、休息している。
 今日までの俺と桜花の生活は順調であった。
 桜花のド派手な着物は長い距離を歩くには重たく、邪魔であると思ったが布団としての機能を発揮した。
こんな良い着物は売ったりすれば足が付くし、捨てるのも目立つため、処分に困っていたのだが非常に助かった。
 雪の中の旅は想像以上に過酷なものであったが、桜花は本当に良くやっている。何年もお姫様やっていたとは思えない体力と大胆さを兼ね備えている。
ちなみに着物を切って布団を作ろうと言いだしたのも彼女の方だ。
「人が体外に放出する熱量は意外と大きいんですよ。これを活用しない手はありません。だから二人でくっつきあって、この着物の布団で保温しましょう」
 『二人でくっつきあって』というのは勿論全裸でとのことだった。
 俺は本当に臆病な人間で他人と異常に近い距離を保つことが苦手だ。いつも疎まれ、蔑まれてきた。そしていつも負けまいと虚勢を張って生きてきた。
 ぶつかり合うことには慣れてきたが、……それだけだ。
 自分のボロボロの体にコンプレックスがある。
 そう桜花に説明したが、全く聞き入れて貰えなかった。
「そんなこと言っている場合ですか? この寒さで……死にたいのですか?」
 ばっさり言われた。
桜花が真面目な顔で言うもんだから俺もこの非常時になんと阿呆なで愚かなことを言ってしまったと反省して、こそこそと脱ぎ出したのだが、俺の裸を見た時、桜花の目は怪しく光り、桜花の体からは桃色の感情が出始めていた。桜花は明らかに発情していた。
……………………。
…………。
怖くてしょうがなかった。
惨めな体を見られたくなかった。
俺の体にある擦り傷や火傷、潰れた目を近くで見たら嫌われると思った。
桜花を永遠に失うと思った。
そう想像しただけで頭の奥が冷たく凍る。
けれど桜花は……叢雲桜花はこの穢れた体を愛し、余すところなく舐めてくれた。
桜花の色欲が優しく俺の体を包みこみ、禊いでくれた。
俺は嬉しくて……だから思い切り仕返しをしてやったのだ。
抵抗したって無駄だ、絶対に逃がさない。
俺が貪欲な雄で良かったと本当に思う。
桜花より力があって本当に良かったと思う。そうでないと俺は桜花を奪えなかっただろう。乱暴に愛せなかっただろう。
……反省は………………していない。
「淫乱」
 俺が桜花の耳元でそう囁くと
「獣ッッ!」
 と桜花は顔を真っ赤にして人指し指をぶんぶん上下に振りながら叫んだ。
 これがついさっきのやり取りである。
 桜花はさすがに疲れて眠ってしまった。
 俺の胸の中で桜花が寝息を立てている。
「可愛い奴め」
 桜花の頭を撫でてやる。
「俺はさ、怖かったんだぜ……いつも疎まれて、蔑まれて、その度に傷ついた醜い体を……お前は……あんな小さな舌でちろちろと……」
 俺は桜花を強く抱きしめた。強く強く、抱きしめた。
 俺は彼女が愛おしい。
心を奪われている。
どんどんのめり込んでいる。
 こんな生活がずっと続けば良いと真に願っている。
 だが、止まない雨がないように、醒めない夢もないのだ。
 自分と姫の終わりは近い。
 お迎えが来たようだ。
 そっと、桜花の額に接吻し。俺の着物を着て小屋の外へ出る。
正面に二人、その奥に一人、小屋の後ろに一人。
敵意はない。しかし、緊張の色が視える。
「四人か……少ないな、意外と切り抜けられそうだ」
いつも通りの虚勢である。
完全武装した者たちに、非武装で疲れ切っている俺、逃げるだけならともかく迎撃ともなるとかなり難しい。
しかし、諦めるってほどでもない。
この程度の逆境は慣れている。
「来い」
 桜花を起さぬように、低い声で小さく言い放つ。
「暁ノ鴉殿、叢雲桜花姫。本日はお願いがあって参上しました。ご無礼をお許し下さい」
 三人がそう宣言して、俺の前で平伏した。
 チャンスか?
 正面の二人なら同時に頭を叩き潰し、一撃で決着をつける自信がある。
 奥の一人も連中の小刀を用いれば、体勢を整える前に片づけることもできる。
 最後の一人は実力で押し切れるだろう。
 そういう算数を頭の中で行うが、邪魔が入った。
「暁様……ッ!」
 桜花だ。連中が大きい声出すから起きてしまった。
「服来て待ってろ、こっちには出るな」
「叢雲桜花姫、我々のご無礼をお許し下さい。今、急ぎのようがあったため参上仕りました」
 小屋の後ろにいた奴も小屋に裏口がないことを確認すると、正面の連中二人と一緒に並んで平伏した。
 四人全員が俺の射程内に入る。
 いくら武装しているとは言え、平伏した状態ではこちらが有利だ。
 俺の頭の中に迎撃の方程式が完成するが、四人は動く気配を見せない。連中は俺の戦闘能力を見誤ったか? どうする……?
 桜花に視線を送る。桜花は話しだけでも、と俺に合図してきた。
「話しだけは聞こう。刀は回収するぞ? 必要ないからな」
俺は四人の武器を回収して小屋に放り投げた。
「王威伏龍殿が現在、危篤状態にあります。叢雲桜花姫のお力が必要です」
「王威が……そ、
 桜花の発言を制止して、俺が交渉役に回る。桜花は人が良すぎる。危うい。
「そりゃあ大変だな、だが桜花は医者じゃねえ。他をあたれ」
「もう医者ではどうにもなりません。叢雲桜花姫の神力が必要です。逢魔ガ時様にも匹敵するそのお力が……」
「ッッ……」
 桜花が一瞬怯える。
 前々から思っていたことだが、桜花は俺の姉ちゃんのことを知っているようだ。
「桜花を都合よく利用しようとするな。逢魔ガ時様って奴もあれこれ他人に良いように利用されて力がなくなった途端にポイって話しを王威本人から聞いたぞ? 俺は王威が嫌いだが、それでも王威がそんな情けない頼みごとをする奴だとは思えないぞ」
「それは……」
 『神倒れ』を終えていない桜花が力を行使するのはリスクを伴う。極力避けたい。
「仮に、仮にだ。桜花が王威を治すことができても、その話を聞きつけて次から次へと患者が湧いてくるだろ? 全ての人間に対応することなんてことは不可能だ。これが王威の天命だ。諦めな」
 言い終えてから、言い過ぎてしまったのではないかと反省した。交渉が決裂すれば襲われる可能性が高い。
 俺は四人の僅かな挙動をも見逃さないように注意した。誰かが僅かでも体勢を変えれば戦闘を開始する。そう自分に言い聞かせた。だが、そうはならなかった。
「王威ど、……いえ我が同志、王威伏龍は私達『人モドキ』の希望です。自分の身分や立場を顧みず私達『人モドキ』の救済に尽力して頂いています。嘆かわしいと、どうにかしなければならないと憂いていました」
「それは、俺の知ったことじゃねえ……」
「失礼ですが、暁ノ鴉。貴方も『人モドキ』だと伺っております……。どうか、どうか私達に力を貸して下さい」
「俺はッ
「やります!」
 桜花め……余計なことを……。
「桜花姫……」
「私はまだ力の使い方を教わっていない未熟者ですが……、できることがあるなら、是非やらせて下さい」
 駄目だ。全然駄目だ。
「話しになんねえよ……。そんなことは全く俺には関係ねえ。ぶっ飛ばされねえうちに失せろ。自分達でどうにかしろ。…………桜花、行くぞ」
 俺は桜花を引っ張って、その場を離れようとした。……離れようとしたが、桜花が動かなかった。断固として動かなかった。
「おい! 行くぞ」
「でも、お願いがあります。今回の件が終わったら、私達のことには関与しないで欲しいです。了解して頂けますか?」
「私共の一存では……」
無視しやがった。
「では『神倒れ』で死んだことにして下さい……。それなら簡単なのでは?」
「おいッ! 巫ッッッ山戯んな! こいつらにそんな話ししても無駄だろッ!? 大体お前は――――ああ……ああああああああああああ!」
 『お前は王威と俺のどっちが大事なんだ?』そんなつまらないことを言いそうになった。危ない。またいつものつまらない女々しい俺を見せるところだった。
冷静になれ。成長しろ。最善を探れ。
「お、お、桜花ちゃん。愛してるよ?」ビキビキ
「「……」」
 笑えよ。
「だからね、桜花の胸の内を聞かせて欲しい……」
 作り笑いで、ありったけの罵倒の言葉を飲み込んで、言ってやった。
「…………お願い、やらせて……」
桜花の両肩を両手で掴む。
 だから理由をッッ! こいつ……。こいつ……。腹の虫が暴れすぎてお腹壊しそうだ。
「駕籠を用意しております。移動しながら相談しましょう」
 相談というか、引き受けるのが前提になっているのだが……。
「時間ねえんだろ? 駕籠は乗らない。俺と桜花は今から飛んで戻る。お前らは悪いけど自分らでどうにかして、鬼源城の連中に連絡取って自分で戻れ」
俺は懐から一枚札を取り出す。
『飛天』
 この札には空を優雅に飛行している天女が描かれている。
能力はそのまんまだ。空を飛ぶ。
「了解しました。お願いします」
 そう言って一人が伝書鳩を取りだした。理解が早くて助かる。
「桜花、振り落とされるなよ!」
「はい!」
 俺は桜花を抱きかかえて、飛んだ。
 
「わー高―い」
 人が豆粒よりも小さく見える。いつか鬼源城の天守閣で見た光景を思い出す。
「腕が疲れるから俺にしがみ付いてくれない?」
「そしたら下見えないー」
「落としそう……」
 落ちるという概念がなかったのか、桜花は素早く体を回転させて俺に抱きついた。
「あっ! 鳩!」
「鳥には勝てんかあ……」
 必死でスーパーマンしているが、鳩には追いつかない。『飛天』は優美な女性なのだ。速度を求めてもしょうがない。
「…………」
「…………」
 谷を越え、山を迂回する。
 田んぼで拝まれる。神様とちゃうぞ! 見せ物やないで!
「……怒ってる?」
「怒ってるよ! 空には俺達二人だけだ。思ってること……全部、全部吐け!」
 桜花は静かに笑顔を作った。何かを憂いているように。
 湿っぽい、実に湿っぽい。
「逢魔ガ時、俺の姉ちゃん……じゃないな。母ちゃんに関係することか?」
 桜花がバッと顔を上げた。あんまり動くな、墜ちる。
 小さい時の記憶が……少しは残っているのだ。
俺は姉ちゃんの乳を吸ってた。姉ちゃんに抱えられて子守唄を聴かされた。姉ちゃんをマンマ、マンマと呼んでいた。俺は姉ちゃんに祝福されて生まれてきたのだ。
 いつからだろう……母を姉ちゃんと呼ぶのに違和感を覚えなくなったのは……。
 いつからだろう……母を忘れたのは……。
俺は姉ちゃんから体中のカルシウムを奪って生まれた。
結果、姉ちゃんは低カルシウム血症を起こし、体を壊した。
歯や頭髪はボロボロ抜けていき、下痢や嘔吐を繰り返し、幻覚さえ視えるようになった。
全て俺のせいだ。王威の『寄生虫』という例えは本当に的を射ていると思う。
でも姉ちゃんは俺を罪と向き合わせないようにと嘘を教え込んだ。
頭のどこかでは理解していたことだ。王威に言われるまでもなく……。
俺は姉ちゃんを常に意識していながら、忘れようと向き合うまいと必死だった。なんと愚かなのだろうか……。
向き合うなら今だ。
「俺は逢魔ガ時っていう人間のことをあんまり知らないんだよ。だから教えてくれ、あの人がどんな人間であの人の何を恐れているんだ?」
 桜花は俺の話をゆっくり聞いて、意を決して話し始めた。
「逢魔ガ時様は……正直私にとっては恐怖の対象です。今でも怖いです。私は、私の力は逢魔ガ時様によって見出されました。私は平穏な生活を望みましたが、逢魔ガ時様はそれを許しませんでした。私を城に引き入れて、私に予言を下さいました」
 予言者であり、預言者……そういう話しだったな。
「日食の時に、あの城で私、その、死ぬ、……そうです……」
 死の予言……。告げられた本人にしてみれば、死刑にも匹敵する恐ろしさだろう。そんな予言が視えたとしても、本人に告げるべきではないと思うが……。
脅迫か?
「阿呆らしい、真に受けるなよ」
「怖くて……どうしても怖くて……」
相手が姉ちゃんじゃなくても死の予言なんてされたら怖いよな……。
「日食っていつなんだ?」
「王威の話では数ヶ月後だそうです……それで私は、色々と後悔のないように生きようって決めたんです。今回の王威のこともそうです。私が、……私がいなくなってしまっても、王威が暁様の暮らしやすい世の中を作ってくれるなら、私は応援したいと思います。私は貴方と出会えて幸せでした。本当に、一生分の幸せを頂いたような気がして……やっぱり怖くなりました」
 幸せの隣には不幸せがある。
 最近は俺もそう感じるようになった。絶頂にいるなら墜ちるしかない。この幸せは続かない。いつか終わる。そう感じることが多くなった。
「『後悔がないように』……ね、それで桜花ちゃんはあんなに大胆だったのかあ……淫乱娘め。姉ちゃんに感謝しねえとな!」
「なあ! 獣のくせにッ」
 なんだ、そんなに綺麗に笑えるじゃないか。
「……俺は足らねえよ。まだまだ幸せが足らん。全然足らん。勝手に満足されちゃ困る」
「暁様……」
「それに前に言ったろ? 俺が守るって。日食は二人で過ごそう。恐れることなんて何もねえ」
「暁様大好きッッ」
「その暁様ってのも卒業で良いかな、鴉って呼べよ」
「はい!」
「そろそろかな……降りるぞッッ」
 こそこそ隠れながらとはいえ、三日間費やして行った道を数時間で戻った。速すぎる。一直線の最短距離だが、それでも速い。
桜花の力という訳でもない。……俺が桜花といるからだ。
桜花のためなら何でもできる。
「無事……」
―――――――ズザアアアアア―――――――
 桜花を姫様抱っこしている分慣性質量が大きくなり、予想以上に地面を激しく削る。
「……着地!」
 生まれて初めて駕籠に乗った所だ。今思えばここから始まったんだな。
「お疲れ様です!」
「応! という訳で俺はここまでだ。後は頑張れ!」
 しんどい。王威に会いたくない。あと桜花が可愛すぎて眠れなかったから眠い!
「すぐ戻って来ます。お休みになって下さい」



 暁様が頑張ってくれた。私の我儘を聞いてくれた。
ここからは私は頑張る番だ。
「風のように走る!」
 イメージする。それを言葉にする。その言葉は発しても良いし、頭の中で念じるだけでも良い。それが私に力を与えてくれる。
 『言霊』
 それが、今の私にある唯一の力である。
 これがそんなに特別な力だとは思わなかった。
 小さい頃、近くにあった、山の中で美味しそうな木の実があったのだ。どうしても取りたかった、だから取っただけなのだ。
 その光景を見られたらしい……。
 私は取れると確信があったから手を伸ばして取っただけなのだが、周りの大人達が不思議だ不思議だと大騒ぎしていたことを覚えている。
 他にもある。私が遊びで折ってしまった釣竿を直って欲しいと念じたら、本当に直ってしまった。私が大人を驚かせようと思って隠れて、わっと叫んだら吹っ飛んでしまった。
 ある日、お寺に来ていたちょっと太った女性に対して、赤ちゃんいるの? と聞いたことがある。無知とはいえ失礼なことを言ってしまった私だが、その女の人は優しく私に、あたしは食いしんぼうでねと話した。
 しかし私は女の人の話を聞かずに、赤ちゃんだ! 見せて見せてとせがんだ。
 その女性は子宝に恵まれずに悩んでいたらしい。それでお寺に来ていたそうだ。
 だけど、半年後に女性は出産した。私は自信満々に「ほらね!」と言ったが、女性は赤ちゃんを私に見せながら何度も何度もお辞儀をしていた。
 それから私の噂を聞き付けて多くの人がいた。
 そして鬼源城の巫女、逢魔ガ時様に出会った。鬼源城に招かれたのだ。
「懐かしいなあ」
 鬼源城の庭に足を踏み入れる。
 ここで私は逢魔ガ時様に叩かれた。何度も何度も叩かれた。
「不自然を知ること、不可能を知ること、限界を知ること、でしたね」
 何度も叩かれて、何度も泣いて、何度も叫んでも、どうにもならないことがあると学ばされた。私は幼い頃から無意識のうちに力を行使し続けていたため、私が望んだことは何でもできると思っていた。
力に甘やかされて育った分、私は打たれ弱かった。
 その頃の私にとって、逢魔ガ時様は恐怖の対象でしかなかった。
 私は力で逢魔ガ時様に対抗したが、逢魔ガ時様だけには通用しなかった。そうして逢魔ガ時様を受け入れるようになった、私の我儘を押しつけなくなった。
 そして私は成長していき、逢魔ガ時様に対等と認めて貰い、預言と予言を授かった。
「私は……、叢雲桜花は最高の男と出会って……最高の恋をして……太陽と共に死んでいく」
 自分の子供を最高の男と言う母親の心理はどういうものなのだろうか?
まあ、可愛い男では、あるかな……?
「期待して、本当に期待して、初めて出会った時はなんなのだ! このシスコン野郎ッッ! と思いましたけど……」
 着ている服や格好が似ているだけで、あんな鬼より怖い逢魔ガ時様と間違えるなんて……。
「今では良い思い出かなあ……ってもう終わりみたいなこと言ったら怒られるかな……」
 あの人はまだまだ足りないと言ってくれた。
 幸せが足りないって言ってくれた。
 嬉しい。
 あの人のことを思うだけで、こんなにも胸が熱くなる。
 早くあの人の下に戻って幸せの続きをしよう。
階段を上がる。
私の部屋は見事に焼け落ちていた。
「王威ッッ! 無事ですか。私です。桜花です」
 見事に焼け落ちて空を見ることができるようになった部屋で王威が布団の上で平伏していた。
「桜花様、このような醜態を晒して申し上げありません」
 王威は全身に火傷の跡が見られる。顔や頭なども酷く爛れていて痛々しい。
「構いません。すぐに治しましょう」
「その前にどうしてもお伝えしなければならないことがあります。暦博士の暦に誤りが見つかりました」
「そんなこと! 今は――
「今から日食が起こります。備えて下さいッッ!」
 王威が、死を間近にした王威が、叫んだ。
 叫んだ。
 叫んだ。
―――――――――――――――――――――。
えっ――――――――――――。
「日食……そんな筈は……だって……まだ」
「魔が強くなります。備えて下さい」
「日食が起こるのですか……?」
 頭の後ろが冷たく凍るような感覚。
「起こります」
 日食が起こる……。
 死

死                                      死
             死
                               死
 死    死


    死             死
死死
                       死にたくない


 一帯が暗くなり、自分の影が消えた。
眼球から血が滲み出す。
手で押さえても溢れだす。
止まらない。主観世界が溶け出す。
やめて……やめて……
やめてやめてやめ
てやめてや めてやめ て
やめて 
  止
「嫌ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」




「神倒れ……」
 溶け出す意識の果てでそんな言葉が聞こえた。

「ハハはは……漲る。これが新しい体か、悪くないな」








「鴉」
「応」
 



第七章 鬼



 
「穏やかじゃ、ねえ……なあぁあああ!」
 現在俺は、暁ノ鴉は寝込みを襲われている。試合であれば、コンディションが悪いとか眠いとか色々言い訳ができるのだろうが、死合ともなるとそうはいかない。
 どんなに状態が悪くても全力。なにせ命のやり取りだ。次がない。
 俺の首を目掛けて振り下ろされそうになった刀を、肘に短刀を刺すことで止める。
 下から相手の肘に突き刺した短刀に捩り、襲撃者の腹を蹴り飛ばす。
 襲撃者は吹っ飛ぶ。
距離が離れたところで即座に俺は立ち上がった。
「ふー……一応聞いておくが、人違いじゃないよな? 俺が誰か知っている上でやってるんだよな? ちょんぼで殺されるのは勘弁だ」
「……………………」
 襲撃者は無言で刀を納めて、短刀を握りしめた。室内では短刀が有利との判断だろう。
……いやそれだけではない。奥にまだ別の人間がいる。同士打ちを避けるための武器を選んだようだ。つまり奥の奴も参戦してくるということだ。
「なんか喋れよ……」
 手に握った短刀を俺は相手に向けた。
 良く見ると俺の持っている短刀と相手が持っている短刀が同じ物であった。
 この短刀は俺が飛行する前に話していた連中から勝手に貰った物だ。
「王威の配下か……」
「同志だ」
 短く後ろの襲撃者が言った。こっちはお喋り好きらしい。
「その同志のために頑張ってきたんだが……この仕打ちはどういう了見だ?」
 狭い室内で鎧を纏った敵が二人。
 桜花が心配だが、どう考えてもリスクなしでは切り抜けられそうにない。
「その事については感謝してい――
 不意に後ろ側の襲撃者が倒れ込んだ。
「殺女ちゃんでーす! 以後お見知りおきを!」
 殺女はそう言ってもう一人の襲撃者に手刀を叩きこんだ。

「で、この人達は誰なのさ? なんで襲われてるわけ?」
「王威の部下、らしい……襲われた理由はわからん。王威が死にそうだからって来たんだけど」
「それ、私。王威さんが逢魔ガ時様の予言を欲しがったから制裁加えた」
「え? ええぇ?」
 殺女が姉さんに買われた子供だったということ。姉さんの予言を管理していたこと。この国の権威者や王威がそれを欲していたことを聞いた。
「ずっと知らなかった……」
「秘密だったから……」
「王威はなんのために予言が欲しかったんだ?」
「わからない。ただあの人は日食の時期に興味があると言ってたわ。日食なんて魔が悪い時を知りたがるのは……怪しいと思う。」
 殺女は言った。
 日食……。
 桜花が死ぬと予言された日食。
 悪寒、嫌な汗が全身から出る。
「その、鴉? 顔色が凄く悪いわよ……どうしたの?」
「あ、え、あ、うん。大丈夫。……それで殺女は日食がいつ起こるか知ってるの?」
「…………さっき話した通り、私は管理するだけだから、未来の事象を知らない。鴉。貴方日食に何か心当たりがあるの? 震えてるわよ」
 なんだ。なんだ。
 偶然か、なんだこの状況、まるで仕組まれているようだ。導かれているようだ。
 振り返る。走る。
 さっきまで何ともなかった外が、空が、太陽が、今は少し欠けていた。
「そんな、なんで、日食……まだ早いだろ……」
 桜花……桜花!
 気が付けば足が前に出ていた。走り出していた。腕を掴まれた。
 殺女も不吉そうに空を見上げていた。
「鴉、あんた前に言ってたわよね? 『一緒に逃げねえ?』って、…………あたし凄く嫌な予感がするの、これから悪いことが起こりそうな気がするの……今が逃げる時だと思うの」
「だめだ。桜花を残して行けない」
「鴉ッ! なんで?」
「すまん!」
 腕を振り払って俺は走った。

町は燃えていた。風上の方から激しい炎が吹き荒れている。計画的な放火だ。
そして城へ向かうごとに、瘴気が濃くなっていることを実感する。何か悪いものの中心に近づいていると確信する。
俺は逃げ惑う人々の群れの中を逆方向に、ただ走った。
『拳法・早駆け』
拳法は拳の法と書く戦場格闘術である。
戦場格闘術は戦場で必要であると考えられる技術を兵士に与えるために作られたものである。
兵士の役割とは何か?
数日かけて戦場に赴き、僅か数分で殺されることである。
兵士の主要な仕事は殺人ではない。
兵士の主要な仕事はただ走ることである。
そのために『拳法』では足を使った攻撃技がない。
足は力の起点として用いる場合を除いては走るために使うのだ。
足を失った兵士は使えない。
死んだも同然である。
「故に『拳法』である!」
俺は壁を蹴り、人の肩を踏み台にして、屋根を翔けた。
町の住人に似合わない、完全武装した者達がいる。
王威の配下だ。
こちらに気付いた。向かって来る。
「糞がッ」
 民家の薄い木の壁を体当たりでぶち破って道を作った。
 中には誰もいない。避難したのだろう。都合がいい。
「弁償しろとか言われずに済む!」
 手に触れた物、鍋、包丁、畳、竿、片っぱしから全部後ろの連中に投げつけながら突っ走る。
「良いもん見ッけた!」
 札束を無造作に掴んで懐に押し入れる。民家を出る。路地を抜ける。
行き止まり。
目の前には高い壁。ざっと五メートル。
後ろからは武装した者がしつこく追って来る。
俺は壁に向かって跳び蹴りを放った。
壁を壊すためではない。
反作用で戻るためである。
『拳法・三角跳び』
 壁を蹴った後に体を一回転させて、追手の肩に着地する。そして再び跳躍。
 三メートルの壁を登った。
 誰も俺に追いつけない。
 ただ走る。
 遂に辿り着いた。
 俺が桜花と初めて会った鬼源城の城門前。
 『飛瀧権現』
「吹き飛べええええええええええええええええ!」
 肉体に激しい加速が生まれる。軽く脳震盪を起こしそうになる。重力に逆らい、龍が滝を昇るように、飛翔する。
 ざっと六十メートルは上がっただろうか? 落ちたら助からない高さである。札は既に燃え尽きており、着地間際に減速することはできない。
 だが、関係ない。
 このまま一気に焼け落ちた天守閣まで行くのだ。
「桜花ぁああああああああああああああああああ!」
――――――ドスン――――――――
「はあー…………」
 不時着。
目の前には気を失っている桜花、背後には瘴気と呪いに塗れた人外と化した王威がいた。
「鴉」
「応」


「ハハ……見ろこの肉体を……ほどばしる力を」
「ふくりゅうううううううううううううううう!」
王威は、王威伏龍らしきものは笑った。
「そうだ食う、この体だ。腹が減ったな。お前を」
 支離滅裂。
不気味。
不可思議。
王威の肉体は異常なまでの変貌を遂げていた。
 身長は三メートルにも達し、体は赤黒く変色している。四肢は日本刀のように研ぎ澄まされた骨が剥き出しになっていた。
「ああぁぁ……すまんな、落ち着かない。ふん? 腹が減ったな。人間が食いたい。鴉。貴様は人間を食ったことがあるか?」
「お前……桜花に何した?」
「会話が成り立たないな。おかしいな。ふん? ふん……まあ良い。教えてやろう。人間は美味いぞ。赤子は柔らかくて良い。女も柔らかくて良い。それに人間には人間が生きるために必要な栄養が満点だ。残さず食べると良い。凄く体に良い」
 気分が悪い。
 胸糞が悪い。
 気持ち悪い。
「桜花はどうしたら戻る」
「ん? 何を言ってる? 彼女はそのままで良い。美味しそうじゃないか。彼女を食べればもっと高いところまで行けそうだ。今とても空腹なんだ」
『拳法・発勁』
 王威の体を薙ぎ倒す。
 体は変異しても体重は変わらないらしい。骨が剥き出しになっている四肢なんか簡単に折れてしまいそうだ。
「てめえ……ぶっ殺すぞ」
 王威は背筋を反らせ、跳ねるように体を起こした。
 空を飛ぶ燕が翼を散らした。
 王威の前蹴りが燕を正確に捉えた。
「『風神蹴り』……クハハ、素晴らしいな、この体は……」
 胸部を圧迫するように放った発勁はすぐに起き上がれるほど柔な技ではない。
「お前は……なんだ?」
「百鬼夜行の慣れの果て、鬼だ。鬼は人間だ。通常の形態を基底状態として、今の私は一つ上の状態に励起した形態だ。人の思念は、人の呪いの力は素晴らしい。怒りや憎しみほど爆発的な感情の高ぶりはない。鴉、お前は感じたことはないのか? 煮え滾る怒りを、救い難い邪悪を。見ろ、私の肉体を。これが人間の持つ可能性だ」
 鬼……。
 馬鹿な。
 御伽噺だろ?
「百鬼夜行の完成にはまだ至らない。桜花姫が必要だ。力が必要だ。私は彼女を食らい尽くし百の鬼を生み出す。彼女には人柱になって貰う。安心しろ、鴉、桜花は、私が、美味しく、髪の毛の一本に至るまで、残さずに食ってやる」
 最善は桜花を連れて逃げることだが、それはかなり難しそうだ。
 さっきの風神蹴りを見る限り足はかなり速い。気を失っている桜花を連れて逃げるのは無謀だ。かといって瘴気の噴出源であるここに止まるのも良くない。おそらく、ものの数十分で人間は動けなくなる。
 だとしたらやることは一つだ。
 潰す。
 瘴気を元から断つ。
「殺す」
「そうだな、今が約束の時だ。貴様が無限大の鍛錬を重ねても辿り着けぬ境地に私は辿り着いた。来い、鴉、塵に還してやる」
 向こうもやる気満々だし、都合が良い。
『拳法・九字切り』
『十字秘打』
「妙」「念」
「法」「波」
「蓮」「妙」
「華」「法」
「経」「力」
「呪」「環」
「詛」「著」
「毒」「於」
「薬」「本」
「人」
 俺の左肩に王威の足刀蹴りが刺さり、振り回されて跳ぶ。激しく出血するが、喉を切られるよりはマシである。
「笑えねえなあ……」
 鬼人と化した王威の体は足刀部も刃のように研ぎ澄まされていた。
 だが、それは大して驚くに値しない。
 重要なことは二つ。
 俺の魔を断つ「九字切り」を同種であり上位の「十字の秘法」を持って返したこと。王威が鬼になりながら、肉体を魔に染めながら、何かを救済する意思を持っていること。
 そして、もう一つは肉体が変異しても、まるで餓鬼を彷彿させるような細い哀れな体になってしまっても、染み付いたムエタイをまだ覚えているということだ。
「悲しいな、それは確かに凄い力だが、……正しい力じゃない」
「下らん、魔を持って魔を制すだけのことだ」
「後悔しろ」
 王威、俺はお前とは違って救済者になろうとか、そんな大それた思想は持っていない。もしお前が何かを救済したいと思うなら手を貸してやっても良いとも考えた。
でも、それでも……守りたいものはあるのだ。
桜花は渡せない。
「滅」
 王威が前蹴りを放つ、剣術の突きにも似た斬撃を回避した。
「ここ」
 放たれて真っ直ぐに伸びた細足を脇と腕で挟みこみ、横から膝のあたりを拳で打ち、折りにかかる。
「は!?」
 折れない。
こんな細足が折れない。
確かに刃のように研ぎ澄まされてはいるが、所詮は骨だ。脆い筈だ。
王威が股関節を横に回転させ、足を横から回すように引き抜く。
洗練されたムエタイの動きだ。
「絶」
 拳、
 膝、
 頭、
 肘、
 踵、
 脛、
 腕、
 ……。

ここで役に立った技術は意外にも戦場格闘術である『拳法』よりも銭を稼ぐための見せ物の『拳闘』の技術だった。
回避術においてスウェーバックに勝る技はない。
相手の全力をこちらの最小限のエネルギーでひたすら受け流す。
疲労の差は歴然となる筈であった。あったが…
「止まらねえ……」
 全く止まる様子のない攻撃の嵐。
 人間なら乳酸が溜まり切って動けない筈だ。
 失敗した。
 つまらない経験則で戦局を見てしまった。
 こいつは鬼だ。
 骨が折れるとか疲れるとか人間と同じ物差しで測ってはいけない。
 御伽噺に出てくる伝説の怪物なのだ。
「化け物がッ」
 人間が勝てる相手ではないのか……?
「弱肉強食」
 そう王威が言う。攻撃の手を緩めずに言う。
 馬鹿な、桜花は何もしていない。
弱さは罪か?
悪意の塊、瘴気を撒き散らし土地を殺す鬼は肯定される存在なのか?
 ありえない。
認めない。
許さない。
「適者生存」
 残る。残す。
 どんな手を使っても殺す。
「真」
 空を叩きつけ続けていた王威の攻撃が、拳が、遂に俺の下腹部を捉えた。
「グフ」
 地面を転がされ、吐血する。
懐にしまった札束が羽毛のように空中に散らばった。
「カハッ……カハッカハッ……」
 咳き込みながら食道に詰まった血を吐き切る。
「もう……良い加減楽にしてやろうか?」
 人差し指を出し、「チッチッチ」と呟きながら指をメトロノームのように左へ右へと揺らす。
つまらねえ。
 本当につまらねえことを言いやがる。
「ハァア……鬼について理解したこと二つ。骨は無意味に細い訳ではなく敷き詰められて結果細くなっているということ。異常なスタミナは馬鹿みたいに大きい心臓によって支えられているということ」
 先入観を亡くせ。
 そんな事を言われたな。
 そうだ。無敵などはありえない。
目に映らないだけなのだ。
 今も空には無限の星がある。
「人間の骨は表面を触ってみるとかなり固い。だがその固さとは裏腹に、容易に折れてしまうことが多々ある。これには理由がある。骨は負荷がかかることで鍛えられていくが、負荷がかかるのは骨の外側だけだ。どう頑張っても人間は骨の内側まで負荷を与えて鍛えることはできない。故に、骨っつうのは竹みたいに中がスカスカなんだな。まさにハリボテの骨格。だが鬼の骨は非常に密度が高く作られているらしい。だから見た目以上に鬼は丈夫だ」
「ふむ、なるほど」
 はあ……息が段々回復してきた。
「それと、スタミナの話だな。俺の普段の心拍数は一分間に六十回。そして今の心拍数は百三十回程度だ。だが鬼の心臓は運動をする前も後も変わらず一分間二十回程度だ。一回で押しだす血液の量が半端なく多いんだろう。それを裏付けるようにお前の胸部は鼓動が目で確認できるほど大きいし、振動が床を通して俺の足で感知できるくらい大きい。それだけ心臓のパワーが大きいってことだ。それが激しい運動量を持続できる基盤になってる」
「お前は素晴らしい眼を持っているらしい。眼が二つあれば、もっと強くなれただろう……。いや一つだからこそ、観察眼が鋭くなったのか?」
 余裕だな。
 お前の生態が物理的に説明できてしまうということは、裏を返せば物理的に殺すこともできるってことなんだぜ?
「それと……これは鬼の生態とは関係ないことだが、お前は闘士として重大な欠陥がある」
「それはなんだ?」
「王威、あんた人殺すの怖いだろ?」
 さっきまであった余裕が王威の中から消えた。
 図星か。
「貴様、死にたいらしいな」
「殺女の話を聞いた時、変だと思ったんだよ。最悪を考えれば、あんた殺女を殺しておくべきだった。交渉して殺女から予言を聞き出そうなんてヌル過ぎる。それに町のこともそうだ。お前の腹を見ている限り、空腹そうだ。それなのに放火して食糧である人間を遠ざけようなんて理解に苦しむ」
 王威の拳が震える。王威から怒気が視える。怒れ怒れ、もっと怒れ。
「今だってそうだ。二度も機会があったのにも関わらず、俺を殺し切れていない。何が『楽にしてやろうか?』だ。そんなつまらねえことわざわざ聞いてんじゃねえよ。人の長話聞いてんじゃねえよ。結局お前は何もかもが中途半端で、何一つ手に入れることができない。そういう人間なんだよ」
 どう足掻いても人間。
「ほざけッッ」
 王威が俺の顔面を蹴り潰そうとする。
 遅い。
 既に体は回復している。
跳び起きて攻撃を回避し、王威から距離を取る。
 そして先ほど散らかしておいた札束には全て俺の念が染み付いている。
 盗みという悪行で得た札束とは言え、今は非常時、何の問題があるだろうか?
 使える筈だ。
『烏枢沙摩明王』
 燃える。
 札、数百枚で作られた灼熱の炎が王威を包み込む。
「この程度で私を殺せると思ったかッ!?」
 王威が炎を纏いながら、接近してくる。
清めの炎だが、鬼を焼き祓うには及ばないだろう……。
狙いは王威ではない。
「ッ!?」
 王威が不意に倒れこんだ。
 狙いは酸素。
「き……さま、何を?」
「酸欠」
 短く答えた。 
この炎の中で酸素は減少した。
 鬼はスタミナを支えるために酸素を大量に消費する。
 僅かな酸素を摂取するために、大きく呼吸しても一酸化炭素が邪魔をする。
 一酸化炭素は酸素よりも二百五十倍もヘモグロビンと結合しやすい。
 王威がどれだけ頑張って呼吸しても酸素を取り入れることはできない。
「殺す」
 俺はお人好しのあんたとは違う。
 俺は獄舎の処刑人だ。職業柄人を殺すのには慣れている。
「できる……わけが…」
 できる訳がない?
 貧弱な人間が鬼を殺すことなんぞ不可能?
 いや、できる。
 『拳法』にはその術がある。
 門外不出の秘拳、必殺の最終奥義、漫画じゃあるまいしそんな都合の良い技などある筈がない。
 人間が殺人術を研究し始めて何千年になる?
 そんな都合の良い技があれば既に世間に広まり切っている。
 だが、便利な兵士を作るために作られた戦場格闘術である『拳法』には、絶大な効果を上げながら都合により伝えられなくなった技が存在するのだ。
 圧倒的な殺傷力を持ちながら、使用されなくなった理由。
 それは使用者への負担が大きいからである。
 肉体の負担ではない。精神への負担である。
 あまりに強力すぎて、人を殺しすぎて、使用者をも破壊してしまった、戦闘神経症(PTSD)の患者を量産してしまった悪しき技が実在する。
「俺はあんたのことが嫌いで、あんたも俺のことが嫌いらしいが……もっと時間が経てば嫌いから好きになったかも知れない。俺はそう感じてた」
 できれば使いたくなかった。

『冥王拳・心砕き』

 俺を失明させ、俺から色を奪った技である。
 俺に感情の爆発を引き起こし、感情を視る能力を与えた技である。
 ……簡単な技である。眼球に指を入れるだけ。
 俺は倒れた王威に跨ると、王威の顔面を固定し、ゆっくりと親指を王威の眼球に入れた。
『目潰し』とは大きく異なる。
『目潰し』は眼球を軽く叩き、怯んだ相手を一気に制圧する技である。
『心砕き』は眼球を攻撃する技ではない。眼球を押し込んで脳を破壊する技である。
「やめ……っろ」
 王威が最後の力を振り絞り、俺の腕を押さえつける。
 弱い。王威が怯えている。王威の感情が爆発する。吐きそうだ。気が狂いそうだ。
 かつての師の言葉を思い出す。
「人間が挫折から這い上がれる回数は有限だ。いつかは折れる。私には無理だった。折れてしまった。お前なら、私を超えるお前なら見事に完成させることができると信じている」
 そう言われた。
 そうして俺は獄舎で処刑した人間の亡骸を使って『冥王拳・心砕き』の練習をした。
 仏教を信じる師は「悪行を行わないだけでは駄目、悪行を知らなければならない」と言ってこの殺人術を教え、死体を使って練習するようにと言った。師の言うことは正直屁理屈だと思ったが、師は必ず習得するようにときつく俺に言った。
「姉ちゃんの差し金か……?」
 姉ちゃんはかつて『拳法』が俺を守ると言った。
「こういう、ことか……」
 俺が理解する頃には、俺の腕を押さえる王威のささやかな抵抗はなくなっていた。
 俺は限界まで眼球を奥まで押し込み、指を鉤型に曲げて頭蓋内の脳や組織をぐちゃぐちゃに引っ掻き廻した。
「あああああぁあああああああああああ」
 突っ込んだ指を切り落としたくなる。
殺して殺して殺して殺して
吐いて吐いて吐いて吐いて
ようやく辿り着いた。
理解した命の重さ。
亡骸を実験台にする悪魔の所業。禁じられた遊び。
 それを経て完成した。
「殺した、俺が俺の意志で、俺の殺意で、誰に命令されるでもなく、殺した。殺した殺した殺した。気が狂う。狂う。おええええぇぇがああああああああああ!」
 城の中で戦争を指揮する将軍は何万もの人間を殺すが、ここまでの精神的負荷を背負わないだろう……現場を直接みない。所詮は遊戯感覚。
 弓で遠く離れた人間を殺す射手もここまでの負担を感じないだろう。顔もわからない相手を殺すことなど狩りのようなものだ。
 背後から敵を突き刺す暗殺者もここまでの負担を感じないだろう。相手の苦しみ歪んだ顔をみなくて済む。
 目は心の窓という。相手の目を見ながら。苦痛を観察しながら殺す『冥王拳・心砕き』は想像以上の衝撃だった。
「お、桜花、桜花は……」
 桜花はまだ意識が戻っていないようだ。
 見られずに済んだ。
「帰ろう、ここをッ離れよう」
 這いつくばりながら桜花の手を取る。
 桜花の目は虚ろだ。
「桜花、桜花、桜花、もう大丈夫だ。行こう」
 日食ももう終わる。
 もう終わったんだ。桜花の胸の中で眠ろう。忘れよう。
「また幸せの日々を続けよう」
 桜花の目の色が……変わった。
――――え? ――――
――――あぁ――――
視界が揺らいだ。
 そう思った時には既にぶっ飛ばされていた。
横殴りの……あぁこれは蹴りだ。
脇から胸部にかけて深く斬られている。
血で直線を描きながら転がる。
「あー……」
「はあ、はあ、はあ」
 目の前には眼を押さえて仁王立ちしている王威伏龍がいた。
「黄泉から舞い戻って来たぞ……鴉」
「再生したのか……」
予言と違うんじゃねえか?
 まあ運命とか信じてないから構わないけど……。
 運命なんてものは黙って自分の後ろを歩かせれば良い。
「やってくれたな……」
 王威の体を観察すると目だけではなく、焼けた皮膚も元に戻っている。
 そして王威から殺意の黒が視える。
 この殺意は本物だ。
 俺は運が良い。
 運良くただの致命傷で済んだ。
 危うく即死する所だった。
「……ん……よい……しょ」
 立ち上がる。
 斬られた脇が熱い。
 そして視界がほとんど消えている。
 いよいよお迎えが近いらしい。
「立つな……」
「は?」
「ただ絶望して死ねば良い。その方が楽だろう! なぜそれができない?」
 こいつまたつまらねえことを……。
「怯えるなよ」
 一度殺した俺が言うのもなんだが……。
「怯えるとも……貴様の力にではない! 貴様の歪んだ精神にだ!」
「ブッ……」
 頭を横から殴られる。コマのように回り、再び地面転がり、這う。
「はあ――」
 耳がいかれた。目も見えない。失明した。
それでも立ち上がらなければならない理由がある。
王威はどこだ?
奴の臭いはしない。
人差し指を舐める。
血の味がする。
人差し指を天に向かって差し向ける。
風を濡れた肌で感じる、風下に奴がいる。
人指し指を風下に向けて、強く、言い放つ。
「一ラウンドじゃねえ、一分でもねえ、一撃だ」
「っ」
 王威が何か言っているが聴こえない。
 ただ死線をひしひしと感じる。
 迎撃を試みるつもりらしい。
 関係ない。お前は一つ勘違いをしている。
 お前が作った死線など、赤子でも切り抜けられるのだ。
 許容してしまえば良い。先入観を捨てて見てみろ。
 昼でも空には無限の星があり……、
 そして俺とお前との間に障壁など何もない。
 


 その拳はあまりに小さくて、空の星に届かない。
 千年樹は健在である。
 だが、この拳が、千年不殺のこの拳が、魔を救済する。
『大悲観音、地獄の三章を破る者なり』
 第一加速
『大慈観音、餓鬼の三章を破る者なり』
 第二加速
『獅子無畏観音、畜生の三章を破る者なり』
 第三加速
『大光普照観音、修羅の三章を破る者なり』
 第四加速
『天人丈夫観音、人間の三章を破る者なり』
 第五加速
『大梵深音観音、天道を能化する者なり』
 最終加速
『断命拳・昼ぼ――――――――――



暁ノ鴉、頭部喪失ニヨル即死
暁ノ鴉、生涯ヲモッテモ完成ニ及バズ。
未完ノ必殺拳
未完ノ最終奥義
『昼星』



私は何を見ているのだ?
百鬼夜行の儀式を経て、史上最強の力を手にした私が怯えている。
「一ラウンドじゃねえ、一分でもねえ、一撃だ」
 そうだ、この白眼を剥いて血涙を流し、足を小鹿のように震えさせながらそう宣言する目の前の男、暁ノ鴉に怯えているのだ。
一度殺されたからか?
そうではない。この男の異常な精神に怯えているのだ。
「なぜだ? なぜ……貴様は何のために戦うのだ?」
 返事はない。反応もない。
 既に聞こえていないらしい。
 それでも言わずにはいられない。
「お前は愛のために拳を振るうのか? 幸せな夢のために拳を振るうのか? 幻だ。愛も夢も幻に過ぎない。人が愛を語るのは繁殖したいからだ。人が夢を語るのは死を忘れられる時間を作りたいからだ。もう十分だろう? 鴉ッ!?」
 鴉は、暁ノ鴉はもう構えている。
 崩拳だ。
 何万回も振るった技なのだろう、だが私には届かない。
 自分の左腕を引き千切り、右手で持つ。
 私の左腕はまさに日本刀のような鋭さを持つ。
 それを左半身で覆い隠し、敵の崩拳に備える。
『龍隠しの剣』
 踏み込みを含めて、リーチは四メートルだ。
 一方鴉のリーチは数十センチメートル。
 鴉が死線の前で急停止しても、急加速しても、確実に仕留められる。
 無駄だ。お前に勝利はない。

『大悲観音、地獄の三章を破る者なり』
『大慈観音、餓鬼の三章を破る者なり』
『獅子無畏観音、畜生の三章を破る者なり』
『大光普照観音、修羅の三章を破る者なり』
『天人丈夫観音、人間の三章を破る者なり』
『大梵深音観音、天道を能化する者なり』

 鴉が死線を越えた。
『龍爪』

 刃と化した私の左腕が鴉の頭部を刎ねた。
「ッッ!」
 だが、鴉は止まらない。頭部がなくても歩みを止めなかった。
「バカなッッ」
 夢でも見ているのか?
鴉の崩拳が私の心の臓を深く貫いた。
「なぜ…………?」
 脳死した蛙の足に硫酸を垂らすと痙攣を起こすという。
 食用のために首を刎ねられた鶏が十八カ月も生存していたという報告もある。
 頭部を破壊された侍が執念で敵の首を切り落としたという話も聞いたことがある。
「……」
 鴉の腕を引き抜かなければ……。
 そう思ったが腕はあまりに深く食い込んでいて、引き抜くことができなかった。
 貫いたままでは再生も望めないだろう。
 私は今度こそ、このまま死ぬだろう。
 何が敗因だ?
 …………
己の死は敗北でしかない闘士と己の死も許容する兵士との考え方の違いだろうか……。
もう考えても仕方のないことだが……
……………………。
…………。
……。
「逢魔ガ時め、預言者のくせに虚言を吐くとは……」
愛した女に騙されるのも、悪くない。

「三千世界の鴉を殺し、主と添い寝がしてみたい」

日食が終わった。




エピローグ




私は、叢雲桜花は見ていた。
私の意識が回復したのは……あの人が半泣きで桜花、桜花と言ってくれた時だ。
その後ろには王威がいて、……あの人は致命傷を負った。
私は何もできなかった。
指の一本も動かすことができず、叫ぶこともできなかった。
貴方が死んだ時も、王威が死と蘇生を繰り返して、やがて死に向かって収束していった時も何もできなかった。
悔やんで、悔やんで、泣いた。
私の力は言霊ではないらしい。
もっと大きな、世界を変革できる可能性を秘めた物だとわかりました。
でも、関係ない。
あの人を救えなかったこの力なんて、どうでも良い。
そう思いました。
死にたかった。
…………
本当に死にたかった。
殺女様に怒られました。
でも死にたくて。
そんな日々が続いていたら生きる理由ができちゃいました。
「鴉……、今日、赤ちゃんが生まれました。私より泣き虫で、沢山泣いて、困っちゃいます。私はすっかり体も弱くなってしまって、この先が不安だったのですが、殺女様も一緒にこの子の面倒を見て下さるそうです。知っていましたか? 殺女さんも鴉のこと……大好きだったんですよ? 本当に貴方は勝手な人で多くの人を不幸にしますね」
 また悪口を言ってしまった。
「貴方と話すとどうしても愚痴が零れてしまいます……」
 私、頑張ったよね……。
 痛かった……。
でも泣きつく相手もいない。
「あんなに死にたがっていたくせに……今は凄く幸せです」
 今は貴方の後を追いません。
「『死救い』しないなんて嘘ばっかり。恨んでいるんですよ? でも拾った命で何かできると思うので、適当にだらだらやっていこうと思います」
 次ここに来る時は私が死ぬ時です。
 あの人から貰って、あの日食の時に燃えてしまった『観音菩薩』のお札の灰を撒く。



じゃあね。私の愛した鴉。


朝日があの人のお墓を優しく照らした。
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