断命拳『昼星』 (上)
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プロローグ
「もう私は姫でもなんでもありません。私達二人で不器用に愛して不器用に結ばれましょう」
かつて彼女の住まいだった鬼源城に背を向けて叢雲桜花は言った。
「だからまず……温めて下さい、暁様」
頬を紅潮させて彼女が呟く。
「……」
言葉が見つからない。
冷気が降り注ぐような静かな雪の中で、俺、暁ノ鴉は無言で彼女を押し倒し、泥水掬いとりながら目の前の乳房を乱暴に揉んだ。
「ッ痛っ!?」
まだ乙女の叢雲桜花姫が喘ぐ。
喘ぎ声は雨風の音に掻き消された。
桜花姫の体は冷え切っていた。当然だ。こんな雨の中で裸だったのだ。
だから俺は強く俺の肌と姫の肌を少しでも密着するように抱きしめた。
「暁様の体、温かい」
「桜花も温かい、それに……凄く、……綺麗だ」
俺は長い髪を掻き分け、耳元で囁く。彼女から甘ったるい匂いがする。雄の頭を悪くする、雄を虜にする意地の悪い匂い。
お仕置きと言わんばかりにうなじを甘く噛む。
「く、……くすぐったいです……」
「だめ。逃がさない」
「お、狼さん……」
狼さん……リアルにそんなこと言われるとすげえ恥ずかしい。
仕返しと言わんばかりに桜花姫は手を俺の背中に廻し、優しく撫でる。
「暁様、逞しいです……」
そう言ってくれるのはありがたいが、残念なことに俺の体はゴツゴツしているし、傷だらけであまり見せ物にはならない。
「……」
「お世辞だと思っていませんか?」
桜花姫に上目づかいで顔を見られる。
「えっいやいやいやいや……いあう!」
桜花姫が俺の腹部にある切り傷に沿って舌を這わす。こそばゆい。変な声あげてしまった。
「女の子みたいな声でましたね」
穴があったらいれたい……じゃなくて入りたい。
「やめッ、俺の体、汚いだけだぞ。あんまり見るな……」
「全部見ないと気がすみません」
そう言うと姫は顔を上げ俺の右瞼を優しく舐めた。
その右目は俺が幼少の時に失ったものだ。
普段は眼帯で隠しているが、いつの間にか外されてしまった。
「ん……ん、暁様の傷は私の傷です」
右瞼が桜花姫の小さな唇で吸われた時、暁ノ鴉の中で何かが壊れた。決定的に、まさに取り返しのつかない壊れ方。
俺は桜花姫の耳をそれぞれの手で塞ぐと、思い切り唇を吸った。強く接吻した。それだけでは済まなかった。桜花姫の口内を俺の舌を持って蹂躙し続けた。桜花姫の頭を地面に押し付ける。長く綺麗に手入れされた髪が泥に浸かるが気にしない。
桜花姫はまるで深海にいるように息が苦しいと拙い舌使いで懸命に主張した。
ならば底まで墜ちようじゃないか、二人で奈落の底まで墜ちようと俺は口内を犯し続けた。まるで暴力のように。
知らなかった。性交が、こんな甘く、愛おしく、心が締め付けられるようなものだとは知らなかった。
ずっと続けば良い。
だがこんなに醜い性交も最初で最後だろう。自分と姫の終わりは近い。
第一章 暁ノ鴉
この大蛇の国には『神倒れ・死救い』という儀式がある。
神力の強い鬼源城の姫は成人前に『神倒れ』と呼ばれる強いトランス状態に陥る。
そこで姫が『神倒れ』から復活するように願って、『死救い』と呼ばれる儀式で人間の生贄を殺し、神の下に捧げ、神の加護を持って姫を助けるのだ。
この二つを合わせて『神倒れ・死救い』と言う。この儀式が成功すれば国は安泰で、あらゆる幸福が大蛇の国の民に授けられるとされている。
俺、暁ノ鴉はその『死救い』の生贄に選ばれた。
最初にそんな話を聞いた時、俺は獄中で腹が捩れるくらい笑った。
俺は権力の前でなす術もなく一方的に惨殺されて、民衆の前に晒され、俺の死体の上で祝い、祭りの始まりを宣言するのだ。
人を殺しといて祭り、他人の命で祝うなんてことは畜生の所業だと思っていたが、そうではなかったらしい。
しかし、この下らない儀式がなければ、俺は生涯地を這うように生きることになると思う。
これはチャンスなのだ。
この『死救い』の選別者は鬼姫に仕える。俺のような身分の者が、馬鹿みたいに金のかかった美味い飯にあり着くようなことはこの『死救い』以外ではありえない。
「こいつはとんだ大役に選ばれたなあ! その『死救い』とかいう死刑の執行日はいつになるんだ?」
口を慎め、伝令役の武士からそんな言葉が出てきそうになったが、その言葉は四十前くらいの中年でやや筋肉質で三白眼のおっさんに止められた。
「わしは王威伏龍と申す。暁ノ鴉、これからぬしはわしの下で動いて貰う。わかったか?」
「俺の質問の答えになってねえよ」
そう言い放った瞬間に腹部に鈍い衝撃。王威伏龍の中段蹴りが俺に突き刺さる。激痛に膝を折る。
「『神倒れ』がいつ来るかは誰にも予測ができぬ、故にぬしの言う死刑執行日についてもわからぬ…………と言う所だがな、そのうち分かる時が来る」
「いててて……」
地面を這う俺を尻目に、王威伏龍と名乗る男は座敷牢から去っていった。
「なんでだろ?」
俺、暁ノ鴉は格子から見える秋咲きの桜を見ながら迷う。
俺は拳闘で生計を立てる最下層民の人モドキだった。
いつだって汚れ役。
拳闘で肉体を見せ物にし、罪人が出れば首を刎ね、いらぬ詮索をする人間がいれば背後から殺したりするのが日常。
歩いていれば石を投げつけられたり、道に落ちている馬糞を始末したり、動物から毛皮を剥いだり、とにかく公に認められたこの国の最下層民、それが人モドキである。人ですらない者という意味がこめられている。
蔑まれるのが当然の人モドキ、そんな俺が新しい鬼姫の『死救い』に選ばれる理由がわからない。
表向きの選考基準として、一つ目に十代の男性であること。二つ目に武術の才があること。三つ目に神力が備わっていることが挙げられる。俺はそれらの条件を確かに満たしている。
生贄には最下層の人モドキが選ばれるのではないかと、事情を知らない人なら考えるだろう。けれど実際は違う。阿呆らしい儀式ではあるが、『死救い』も立派な神事なのだ。大体訳ありの名家から選ばれる。
それが今回に限り、人モドキである俺に特例名族という謎の新しい身分を与えた上で、わざわざ一般の座敷牢へ移送し、評定所にてまた人モドキの地位に落とされ、『死救い』の選抜者にされた。
「めんどくせ」
その一言に尽きる。
というかこの前の評定所で出た判決も良くわからない。俺は俺が一体なんの罪を裁かれたのかも知らないのだ。
俺悪いことしたっけ?
この世に生まれて十七年、後ろ指をさされる真似は散々してきたが、全部言われたことをやっただけだ。法で裁かれるような罪は犯していない。一応、潔白である。
学がないもんだから判決を下した老中の言っていることもさっぱり理解できなかった。
だから寝た。
後で俺に対して罵声を浴びせてくる奴もいたが、俺にはさっぱり何のことかわからない。
まあ良いさ。ただどうせ『死救い』に選ばれたってすぐには殺されやしない。
精一杯、鬼姫に『神倒れ』が起きるまで『死救い』の身分を堪能した後、適当に逃げ回ってやるというところで俺の思考は落ち着いた。
鬼姫と呼ばれる不吉なお嬢さんを利用してやりたいところだが、どんな奴なのかも気になる。
全て明日からだ。
「俺の腐ったような人生もこれでおさらばだあああああ!」
俺は超御機嫌でいつもより広い寝床を悠々と堪能した。
朝方、自分の鼻の上に蝶が止まっていた。
一般座敷牢の風通しのよさに驚いた。
そして蝶をどうしようか悩んでいたら飛んでいってしまった。
足を天井へと高く上げ、思い切り足を振り下ろした。
その反動で上半身を起こす。
両肩を何周か回すと、今度は地面に拳を立て二つの拳のみで逆立ちをする。
そのまま姿勢を数分続けた後、上部の鉄格子に足の指を挟む。
今度は足の指のみで垂れ下がるように体を脱力させ、丹田に力を込めて上半身を起こし腹筋運動を繰り返す。
俺、暁ノ鴉の朝の日課である。
座敷牢は人モドキに与えられるタコ部屋よりも広いため、運動が行いやすい。
そして起床時間の十分前、つまり六時五十分になると布団を畳み、外へ出る支度を整える。
「暁様」
若い女の声である。
番号じゃないのにびっくり、「様」付けにびっくり、しかしこの座敷牢は犯罪者のためのものではなく『死救い』の者に与えられるので良く考えればVIP扱いで当然である。
「あいよっ」
ちょっと嬉しいので元気良く返事をする。
そして求めに応じて扉の入り口で立つ。
開錠され木造の扉を出た先には顔を白い布で覆っているおかっぱの女が一人。見える範囲ではそれだけである。
両手を前に縛られているとはいえ、不用心ではなかろうか?
俺もそうだが、『死救い』の選別者は最終的には逃げたいと思っていることが多いんじゃないか? それなのに顔を隠しただけの若い女が一人……。不可思議である。
「御支度を」
一つ賭けに出る。大きく息を吸い込む。
「良い尻してるなぁおい、顔見してみろよ」
女の尻を撫でる。
最下層民である人モドキの男に暴言を吐かれたのだ。『死救い』など関係がない。怒りが収まらない筈だ。通常ならば俺はこの女から仕返しをうけることになる筈なのだが……。
「あ、バカッ!」
帰ってきた台詞はそれである。
「????」
女の予想と違う反応に面食らってしまった。
――え――
そして俺に訪れる看守からの制裁。
まず後頭部に一撃、膝を崩して床に倒れてからは分からない。
虫の死骸に群がる蟻のように集まってきた複数の男に首を絞められ、顔を踏まれ、腹を蹴られた。何度も、何度も。
「大丈夫ですから! 大丈夫ですからやめて下さい!」
覆い被さるようにして俺を守る女の感触。やめてくれ、お願いだからやめてくれ、昔の姉ちゃんを思い出す。
人ですらない、人モドキがッ。
呪われて死ね。
男の声が聴こえた気がする。
人モドキならこんな殺意の籠った悪意も日常だ、慣れているからやめてくれ。俺を庇うのはやめてくれ、優しくされたら惨めな気持ちになる。
同じ日に二度目の朝を迎えた。
どうも先ほどの私刑で半殺しにされたようだ。
左眼前に見知らぬ天井が映る。
「あ、ようやく起きたみたいね」
側には先ほどの女、今は室内ということもあって顔を隠していない。
しかし先ほどの散々な暴力のため左目尻に傷を負い、左瞼にガーゼがあてられている、そして俺は幼少の時に右目を失明している。そのため視界が塞がっていて女の顔が見えない。
「ああ、……どなたかは存じ上げませんが、先ほどは大変失礼なことをしました」
事故でもなんでもない正真正銘のセクハラなので今さら何を言っても無駄な気はするし、開き直ってしまった方が男らしい気もするが、身を挺して救ってくれた恩人に何か言わないと気がすまなかった。
「…………あんたさあ、気付かないの? あたしよあたし」
ん? 声に聞き覚えがある。
「? ……あぁ? ……虎ノ眼殺女?」
「そうそう」
虎ノ眼殺女は俺と同じ人モドキのくの一で、幼い頃から寝食を共にしてきた間柄である。
昔は姉ちゃんと俺と殺女で良く遊んだ。あの頃は楽しかった。
最近はどうもすれ違いが多くて会うことが少なくなってきたが、久しぶりに合った印象としてはどうも疲れているような気がする。目にクマもできている。
「ああ……気付かなかった」
「いつもと違うしね」
「うん、その、なんだ、……なんというか……似合ってるよ、その格好」
殺女は日頃のくの一らしい身軽な格好ではなく、白い清楚な花嫁が着るような着物を着ていた。
「やめてよ」
頬を赤らめておかっぱの前髪をいじりながらそんなことを言う。
嬉しそうだ。良かった。こいつにもやっぱり女の子らしい、おしゃれがしたいという願望があったんだな。
「で、あんたさあ」
「ん?」
「何あたしにセクハラしてくれちゃってる訳?」
「新しい身分になったけど、どのくらい許されるのかなあとか……な?」
殺女の尻は柔らかかったなあ、そういうふうに男が好みそうな体を作るために訓練しているんだろう。
「呆れた。調子に乗りすぎ、あんたその冒険のために全治三カ月よ」
そう言われて自分の体を良く視てみる。見れば手も足も顔も腹もどこもかしこも包帯だらけだった。
「うわあ俺の体ボロボロじゃねえか」
本当に俺が死んでも良いと思って殴ったんだなあと実感する。『死救い』の者とか関係なしに人モドキというだけで周りが見えなくなっちゃうんだから怖い。
「身分が変わって人であることを認められてもあたし達を見る目はそのままだよ。迫害されて当然な人種、『元』人モドキってね。頭に『元』が付くだけ。期待するだけ無駄だと思うよ? あたしもあんたも」
「あたしも? どういうことだ?」
「あんたの巻き添え、『死救い』の者の付き人に選ばれたのよ。あたしって身軽だし監視も兼ねてだけど」
なるほど『死救い』はその宿命から逃げようと思ったらくの一と鬼ごっこしなきゃいけない訳か。大抵の人間なら逃げきれないな。
「俺まだ若いしまだ死にたくないんだけど、一緒に逃げねえ?」
できるだけ冗談のように、感情を込めずに殺女に問いてみる。
「うーん、考えとく」
殺女も冗談のように返した。
脈ありだな。これからは殺女の御機嫌をどんどん取っておこう。
「それで、俺はいつ会えるんだ? 可憐で聡明で美しい御姫様に」
「明日よ」
「冗談でしょ?」
俺の体はボロボロで全治三カ月。外見もミイラ男のようになっている。
「マジマジ」
他人の不幸を嬉しそうにする殺女。この時の彼女は凄く可愛い。だから憎めないし今でも関係が続いている。
俗に言う悪友というやつだろう。
「お前は姫様の顔みた?」
「みたみた♪ 感想聴きたい?」
「是非聞かせてくれ!」
俺は女がどうも苦手なのだが、それでも美人に越したことはない。
「教えなーい、ていうか御姫様の容姿についてあたしなんかが言える訳ないじゃない。あんたバカじゃないの?」
俺の左手に装着している石膏で軽く後頭部を叩いた。
「あーそんなことするんだあ……どうしよっかなあ」
「『どうしようかなあ』……って何をどうするんだよ」
「んふふ……あんたさあ、そろそろ催してきたんじゃない?」
そう言われてみると膀胱がムズムズする。
「おい、まさか」
「ピンポーンピンポーン大正解!」
殺女は本当に良い笑顔をしている。
「御姫様の前でお漏らししたら首が吹っ飛ぶだけじゃすまないよね。どんな拷問が暁君には待っているのかな? あたし今から凄く楽しみ!」
「ば、ばか、自分でできるっつの!」
ベッドから降りようと足を下の床に置こうとすると見事にバランスを崩して、全身を地面に打ちつけた。しかも石膏で間接も固められているため、立ち上がることもできない。唯一の移動手段は四つん這いでのハイハイくらいだ。
「わー良い格好。首輪つけてあげようか?」
「お前……一応今は俺の方が身分は高いんだぞ、敬意を示せ敬意を!」
「うわあ、身分で人の心を動かそうなんて……しょうもない男」
それしか方法がなかったのだ。もう許して欲しい。
「わかったよ、どうすりゃトイレまで連れて行ってくれるんだ」
「そうね、まずあたしを様付けでしょ、……他にはね……自分の事を豚と宣言することでしょさらには……
「この豚めに小便をさせてやって下さい、殺女様!」
土下座しながら言ってやった。どんどん要求が増える前に全部やりきった。プライド? 俺のプライドは俺を捨ててどこか遠くに行っちまったよ……。
「うわ! あんたそんなんで生きてて恥ずかしくないの?」
「もう勘弁して下さい!」
「ふぅ…………はいはい。じゃああんた……さっさと、だしなさいよ」
「えっ? お金要求すんの?」
この女、鬼畜すぎやしないだろうか? 地獄に落ちるぞ。
「バカ! 違うわよ、ほら、……その、なに? 蛇口?」
殺女の右手に握られている箸がパクパクと開閉している。殺女の左手に握られている尿瓶の口がこちらを向いている。
本気か、本気なのか?
「俺、なにか殺女に悪いことしたかな……ごめん、すまなかった、こんな筈じゃなかった、俺が全部悪かった、今まで殺女の憎しみに気付いてやれなくて申し訳なかった。今さら謝っても許されないだろうけど俺の気持ちだけは受け取って欲しい」
俺はただただ土下座の姿勢を維持して謝罪の言葉を重ねる。
「わかったから早くぶつを出しなさい」
ダメだった。
「もうだめだ。お婿に行けない」
「大丈夫。全部任せて、あたしの可愛い子猫ちゃん」
俺はそっぽを向いて頬を赤く染めながらゆっくり股を開いた。
「ぬしらは何をしとるんだ」
昨夜、俺を蹴り倒した王威伏龍の一声である。
結局、俺の尿は王威伏龍が処理をした。
俺と殺女はバカをやっていたが、王威は終始真面目に……真剣に……というか黙って淡々と作業を終わらせた。嫌味の一つもなかった。それどころか優しさと誠意のようなものさえ感じた。俺を蹴り倒した男が、あの王威がである。
殺女の話によると、王威は今回の『死救い』の選別の責任者であるらしい。先ほどの俺への私刑を最後に止めてくれたのも王威だそうだ。
何か思う所があるのかもしれない。俺は王威を気に入らないとすぐ手や足が出るタイプだと思っていたが改める必要がありそうだ。
「殺女。鴉は今日使えるか?」
「はいもう大丈夫です。移動だけならできると思います」
トイレもできないのに平然と言い放つ殺女。
「いやいや、できねえよ。見りゃわかんだろ、全身に包帯を巻かれてミイラ男みたいになってんじゃん」
そんな俺の抗議に対して小さく、俺にだけ聞こえるように殺女が囁く。
「駕籠が来るのよ、駕籠まではあたしがなんとかするから! 籠に乗った後ならあんたすることもないし構わないでしょ?」
駕籠、……駕籠っていうと殿様が乗るあの籠か?
すげえ。
「わしの手が必要か?」
「いえいえ、大丈夫です。あたしにお任せ下さい」
「わしは先に行く。何かあればお前がどうにかしろ」
「はい。どうかお気をつけて!」
殺女は王威の背中を見送った。
「なあ殺女、お前、……王威って言ったかな? あいつのこと知ってんの?」
「勿論! あのお方は身分で人を差別しない! あたしのような人モドキにも優しくして下さる。平等に仕事も振ってくれる。今だってあたしに責任をくれた。本当に……本当に立派なお人よ」
殺女は目を輝かせながら俺に告げた。
「ああ……そう言えば殺女は昔からおっさん好きだったな」
「そうなの! そうなのよ! ああいう感じの渋くて鋭い目がたまらない! 視姦されただけで昇りつめてしまいそうなの! あの引き締まった筋肉に抱かれたい!」
殺女は恍惚した表情で俺を見つめる。
いや俺を見られても困るぞ。
「そうだなあ……、確かに一つしか機能していない俺の目から見ても王威はモテそうだ……。でも」
でも、それでもと俺は続ける。
「あいつはやめとけよ。あいつは」
王威伏龍は
「呪われている」
これは殺女も知っている俺の秘密だが、俺は右目を失明した時から人の強烈な思念や感情を視ることができた。
どういう理屈かはわからないが、激しい怒りなら赤、深い悲しみなら青、無上の喜びなら黄と言った具合だ。
人なんて感情の塊みたいなものだから困るだろうと殺女に言われたことがあるが、視えるのは本当に強烈な感情のみである。はっきりとした色は中々御目には掛かれない。
例えば、今朝俺を私刑にした連中の色は靄のかかったような、気にしていないとわからない程度の薄い赤だった。
その程度である。とても悪だくみには使えそうにないしょぼい能力である。
しかしそんなしょぼい能力でも、王威伏龍に背に憑いている真っ黒な七つのシルエットがはっきりと視えた。
「危険だ」
俺は一言、殺女にそう話した。
不思議なことに殺女はそれほど驚かずに、ただわかったとだけ返した。
その後俺は、殺女と駕籠者の助けを借りて駕籠に乗り込んだ。
駕籠の乗り心地は思っていたよりは悪くない。
プロとはいえ、人間が担ぐのだから駕籠は揺れに揺れて中の人間は酔うじゃないかと心配していたがそんなことはなかった。
それは駕籠の速度がゆっくりだったからである。
正直言って自分で歩いた方が速いのだが、人生で一度くらい偉そうに座りながら運ばれるのも悪くはないだろうと考えた。
駕籠の周りには踊り子が沢山いて綺麗な鈴の音を立てながらゆっくり進んで行った。凄く気持ちが良い。眠くなってくる。
それでのんびり外を眺めている間に見つけてしまった。
獄舎、俺の前の職場である。
その獄門台に並べられた七つの晒し首。
その首全てに見覚えがあった。
「俺を私刑にした奴ら……」
王威の背後に視えた黒の色の正体もあの首だ。
俺は駕籠から跳び出して、側にいた虎ノ眼殺女に掴みかかった。殺女の抵抗はほとんどなかった。
「今朝の奴! 全員殺されてるぞ、殺女は知ってたのか!」
「今朝? 昨日でしょ?」
ここで気付いた、自分の勘違いに。俺が再び目を開けた時は二日目の朝だったのだ。殺女が疲れて見えたのも、殺女がずっと看病していたからだ。
「なんで怒ってるのか理解できないのだけれど、あいつらあんたが気を失ってもずっと蹴り続けてたのよ? あんな屑、死んで当然じゃない」
人が死んだんだぞ、昨日まで普通に生きていた奴がたった一日で晒し首だなんて、そんなのが当然だなんてやめてくれよ。
「一日で晒し首ってのは随分手際が良いな、やったのは王威か?」
「そうよ」
だから呪いのことを話しても驚かなかったのか……。
「お前、王威に何言われたんだよ……人が死んで当たり前とか、そんなこと言う奴じゃなかっただろ?」
「あの屑共はあんたが死んでも構わないと思ってたわよ? そんな奴らが死んでくれてあんたは嬉しくないの?」
「……」
俺は何も言えなかった。そんな殺女に何も言えなかった。そりゃ腹は立つけど死んでほしいとまでは思っていない。そこまでを要求していない。
「……掴みかかったりして悪かったよ、あと一日中看病してくれたことも感謝する」
「あたしは仕事をしただけよ。納得したんなら駕籠に戻りなさい」
仕事ではない。王威への忠誠心が殺女をここまで動かした。俺を庇ったのも看病してくれたのも王威の指示だ。あいつは俺を使って何をする気なんだ?
駕籠の中で考えるが、材料が少なすぎる。何もわからなかった。
最初から何かあるとは考えていたが、この陰謀は思っていたよりもずっと深いということだけがわかった。人なんかを簡単に潰してしまうほどに。
約十二時間かけて、俺は駕籠で町中の大通りを回され、城壁内への唯一の出入り口である羅生門と呼ばれる門を通り鬼源城下町に着いた。
「今日はここまでね、御苦労様。足とか大丈夫?」
殺女が駕籠の中に顔を入れてそう言った。
「お、おう、思ったより長かったな。長時間寝転んだままだと以外とつらいな、太股が凄くイライラする」
「そう、わかった」
殺女は駕籠から俺の体を慎重に降ろすと、太股を指圧した。
「おひょひょひょ!」
ちょっと痛いけど、気持ち良いから困る。くの一っていうのはマッサージとかも上手いんだよね。
「歩ける?」
「歩ける歩ける。凄いな足の指先まで暖かくなってきた。やっぱ才能あるよ、殺女」
「才能って? 床上の? うわーいやらしい」
「褒め言葉をそのままの意味で受け取れよ、捻くれてるな」
軽く屈伸して、自分の怪我の状態を確認する。ゆっくり、松葉杖を使いながらなら本当に歩けそうだ。
「でー……今日泊まる宿は? まさかここ?」
俺は眼前に広がる。花町を指差した。
「イエス! イエス! 宴じゃ宴じゃあ! テンション上げてこうぜ!」
へいへーいと言わんばかりの表情で殺女が笑う。
「『死救い』って神聖な儀式な筈だろ! どいうことだよ、おい!」
「何? あんたは性交が不純だとでも言いたい訳? あんた自分がどうやってできるか知らない訳?」
「俺は桃から生まれました!」
「……十九年生きてきたあたしも衝撃な事実……、まあ驚くのはしょうがないわよね。あたしも知らなかったしね。ここ一帯は神様の家という扱いで、ここの女の人達は皆巫女様なの。で、明日の儀式のため、ここの巫女様と遊んで、お酒飲んで……あんたの神力を上げて貰いたい訳さ」
なんにも知らなかった……というか聞かされていない。
「明日の儀式? 俺は何かしなきゃいけないのか?」
「明日、あんたには武術の演武をして貰いたいの、ほらあんたは死後の世界での神様の兵士になるんだからね。強くないと」
戦士になるのか、知らなかったぜ! 神様なら自分で自分の身くらい守れそうなもんだが……。いるのか戦士? 神様も神様同士の戦争とかするんだろうか?
「でも俺、今こんな状態だけど?」
自分の体に巻きついている包帯を殺女に見せる。
「そうねえ、もし、本当に難しいなら延期するけど……パンチ二回だけでも無理? 右と左一回ずつ、あんたならそれで十分な証明になるから」
「拳なら問題ない」
俺はいつだってこの二つの拳で道を切り開いて生きてきた。どんな状況でも拳は使えるようにしてある。
「うん。そう……そうよね! 良かった! じゃあ今日は巫女様と酒池肉林を堪能してちょう! 今宵の羅生門には雄のロマンが溢れているわ!」
殺女は両手を上げてぴょんぴょんと跳ねて喜びを表現した。
でも、そんな殺女に伝えなきゃいけないことがある。
「巫女さんは要らないよ、それより一人でゆっくり寝られる所を用意して欲しい、今からじゃ無理か?」
殺女から笑顔が消える。
「あんた、まだそんなこと言ってるの? これだから童貞はめんどくさい。聖人ぶったって良いことなんてないわよ」
殺女は俺を勘違いしている。俺は別に何かを我慢している訳ではないのだ。ただ、どうしてもダメなのだ。恐怖に近い。他人との距離が近すぎるのが怖い。
「要らない。疲れたし、少しゆっくりしたい」
「…………今夜集まった女の子達は四十八人、今日貴方のために、貴方に尽くすために用意された女の子よ。皆、貴方に選ばれることを望んでいるし、名誉なことだと考えているわ。彼女達の考えもわかってあげて」
厳しく殺女が言う。
俺もわかってはいるのだ。俺の行動によって彼女達の将来がかわる。
その感情が色となって俺の目に映る。情熱。覚悟。期待が合わさった色が俺を包む。正直重たい。
「彼女達は貴方を差別しないわ。そもそも元人モドキということも知らないと思う。彼女達のために貴方ができることをしてあげて」
同じ女だからだろうか、殺女は巫女の肩を持つ。
「やっぱりダメだ。正直言って怖い、他人が怖い」
右目を失ってから見える色。
今までは俺を人モドキとして蔑む青紫色が多かった。神職や巫女、または教師、そういう職業の人間ですら表向きには出さなかったが、嫌悪の色が体中から滲み出ていた。一見優しいそうな人間でもこの様なのだ。俺はいつも怯えていた。弱かったからだ。
このような環境では人間不信になって当然だろうと言ってしまったら自分に甘い人間なのだろうか?
「……わかったわ、どうせ全員とは遊べないんだしねぇ。そういう選択もあるさ。あんたの自由。ただ、巫女様の助けなしに明日の演武で貴方の神力、術式を行使することはできる?」
「できるよ、俺にだって簡単な術くらいはできる。今までだって自分だけの力で出来てただろ?」
「……わかったわ。直ぐに宿を手配する。心当たりはあるの。たぶん大丈夫だからあたしに着いて来て」
そう言われて歩く殺女の手を取った。驚いたように殺女がこちらを見る。夜の寒気か少し頬が赤く染まっているように思えた。
「ちょっと待ってくれ。俺の宿だが、できれば誰も知らない所で誰にも知られないようにしてほしいんだが……できるか?」
「えっ……あ、ああ、あーあーあーあ……大丈夫よ、でもなんで?」
殺女が動揺している。
桃色というかエッチな感じの色が殺女から見える。花町に影響を受けたのだろう、この女は意外とむっつりスケベなのかもしれない。
「その……、巫女に夜這いに来られても困るから」
嘘である。今回の不可解な『死救い』の選抜や、七つの晒し首。今の自分の置かれている立場がよくわからない。それにこの花町は不穏な色で覆われている。なんとなく、俺自身が殺されかねない予感がする。
「そ、そうね、そこまでは考えてなかったなあ……あぁはいはい、なんとかします。あんまり良い所はなさそうだけど、それでも構わないかしら?」
「構わんよ、一日で贅沢慣れするほど俺に適応能力はないよ」
「そう、良かった。じゃあそこの適当な犬小屋に入って」
「……」(俺の冷めた視線)
「あっはい。あたしが入ります。……犬小屋」
虎ノ眼殺女、彼女は今日も正常運転だった。
一日経って、俺の体も大分動くようになってきた。
俺は悪意や言われなき暴力には慣れているのだ。全身フルボッコにされても次の日には澄まし顔で歩くことが最下層民たる俺ができる最大限の復讐だ。この程度、へっちゃらである。
早朝から駕籠に乗り込み、最後の舞台へと向かう。
いよいよ御姫様との対面である。
鬼源城の城門前に用意されている鐘を肉体で打ち鳴らし、音が大きく鳴ったと認められれば門から御姫様が出てくるらしい。そういう演武。
「俺を試そうっていうことか」
ずっと拳で明日を切り開いて来た、拳一つで修羅場を駆け抜けたこの俺様を試そうなどとは……腹が立つ。
「いや、まあ形式的なもんだしね。普通にやってよ」
駕籠の外から殺女が申し訳なさそうに両手を合わせてお願いのポーズをする。結構可愛いじゃねえか。俄然やる気が出た。
「今日は二発って話だったよな? つまり鳴らすのは二回ってことだよな?」
「そうね、貴方が怪我してることは伝えてあるわ。安心して」
「普通は何発ぐらいやるもんなんだ?」
「えっ……百八回……くらい」
「はっ! 百八回も全力で叩いたら鐘なんて粉になっちまうよ」
「そりゃないでしょ」
殺女が呆れ顔で呟く。
あっ殺女が疑っている。長年付き合っているくせに、わかってねえな。
「三回だ」
「はい?」
「二回じゃなくて三回、三っていうのは良い数字だぜ? 三匹のこぶた、三枚のお札、三つの願い。演出する上では外せない数字だ。この演武にちょうど良い」
「はあ、まあ……じゃあ……どうぞ」
「あいよ、ちなみに神力も使わせて貰うぜ」
俺はそう宣言して六枚の札を取り出し、足の裏に三枚ずつ札を張り付ける。
「札を足蹴にすることをお許し下さい」
俺は誰にも聴こえないくらい小さな声で呟き、祈る。
札を足蹴にしたからといって、効力が落ちる訳ではない。重要なのは心の在り方だ。仏様への尊敬の念を忘れないこと。
……前座の巫女達の踊りが終わり、駕籠が降ろされる。
いよいよ出番である。
「じゃあ行って来るぜ」
そう殺女に声をかけて駕籠を出た。
人、人、人、三百六十度何処を見ても人だらけの広場である。広場の真ん中に鐘がポツンと置かれている。
人間はこんなに密集できるものなのかと思うくらいの空間である。
俺も拳闘では多くの人間を集めるが、ここまでではない。
外国にはコロッセオという巨大な円形闘技場があるらしいが、それに匹敵するのではないかというくらい大きい。
歓声が上がる。俺への歓声。俺を望む声。
黄色、オレンジ、赤の感情が俺へと流れ込むのを感じる。
悪くない。
「はは!」
場に静寂が訪れ、殺女が合図を出すと同時に俺は跳び出した。
両足に付けてある一枚目の札、『金剛夜叉明王』の札を爆発させる。
両腕両足が帯電し、肉体が稲妻のように動く。
鐘の直前まで駆け抜けると、軽く跳躍し、着地の瞬間に大地を踏み潰した。その反作用を上半身から左拳へと伝達し鐘を上空へと打ちあげる。
大地を踏み潰す様を表現してこの技は『虎法・土竜潰し』と名付けられている。
対象を上空へ撃ちあげる様を表現してこの技は『拳法・翔竜拳』とも名付けられている。
どちらも同じ技だが、流派が違ければ名前も変わる。個人的には『翔竜拳』の方が好きだ。派手だからな!
鐘が天へ昇る龍の如く高く、高く、高く跳ねあがる。
遥か遠くまで打ち跳ばした鐘を一目確認すると二枚目の札、『千手観音』の札を爆発させ、再び前方の城門を目指して走った。
千の腕を持つ者という原意の『千手観音』は衆生を一切漏れなく救うという。
その恩恵を受けた俺が鐘を落とす訳がない。
確信を持って走りぬけ、両手足を大地に突き刺す。
空から鐘の落ちる気配を察知すると、両腕と両足に渾身の力を込め跳び上がり、空中で真上に向けた跳び後ろ回し蹴りを放つ。
『虎法・流星落とし』
真上の敵を攻撃対象とするこの攻撃は実戦で使用されることはほとんどない。ただの演武用の技である。不要な技に思えるが、武術にはこのような他人に見せる魅せ技が存在するのだ。武術を広めるためである。
地面に着地した後、城門へ一礼して、体を百八十度回転させる。
そして最後となる『大黒天』の札を爆発させ、体を弓のように反らせて渾身の力を捻り出す。
戦闘神として『大黒天』の札をしたが、良く知られているように神道においては七福神の一柱という側面も持つ。左手で大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持っておられる福の神である。その加護を受けた俺が鳴らす鐘の音色は福をもたらすに違いない(確信はないけどね!)。これはファンサービスだ。
鐘が落ちるタイミングに合わせて、大きく振りかぶり右腕を遥か遠くに投げ出すように放つ。
『拳法・大鉄槌』
正拳の右側面(小指側の面)、で金槌を打つように当てる技である。
勢い良く落下している鐘が地面に着く瞬間に俺の鉄槌が突き刺さる。地面を削り、亀裂を生成しながら正面へ、俺と殺女の駕籠に向かっていく。
鐘は駕籠の寸前で停止し、やがて二つに割れた。
茫然とした殺女と目が合う。そしてドヤ顔を決める俺。
わーわーわーと再び沸き起こる歓声。
爽快である。
そして歓声が「わー」から「オー」に変わる。
俺の背後で門が開いたのだ。
姫様の顔をで拝んでやろうと、俺は自分の腰に手をあててドヤ顔で門が開き切るのを待った。
「――――――――――――――――――ッ」
全身を雷に打たれたような衝撃が走る。
似ていた。本当に似ていた。その姫様の顔は俺を愛してくれたあの人に、不気味なほどそっくりだったのだ。
「…………あ、……え、姉ちゃん?」
「バカなのですか? アホなのですか? 死にたいのですか?」
ウジ虫でも見るような視線を俺に浴びせながら、お姫様はそう言った。確かに、まじでそう言った。
頭を鈍器で殴られたような衝撃。ショックが大きすぎて目の前が真っ暗になる。
俺の明日はどこへ向かうのだろうか…………?
第二章 叢雲桜花
「あ……え……」
頭がぼんやりする。
「……んた」
呼ばれた気がするのだが、意識がはっきりしない。
「……ぁ……めだこりゃ。みずちょうだい」
バシャーッと俺に水をぶっかける殺女。
「ぉぉお――――なんすじゃあああああこらあああああああああ!」
「はい、はい、テストね。あんたの名前は? あたしの名前は? あんたはさっきまで何していたか覚えている?」
拳闘で審判が選手の意識確認をする時と同じ要領で殺女は俺にそう聴いた。
「えーえーえー……暁ノ鴉、虎ノ眼殺女……えと、鐘、そうだ鐘を鳴らした。で、その後にぃ……あああ! 姫さんを見た。なんかどんでもないこと言われて倒れた」
俺、暁ノ鴉は言葉だけで人をノックアウトできる、とんでも少女がいることを知った。まさに言葉の暴力である。
「そうね、あんた体が棒になったみたいに、そのまま斜めに傾いて受け身もなにもなく、倒れたからね。顔痛くない?」
「鼻が凄く痛い。ジンジンする」
「それなら大丈夫、骨折はしていないわ。鼻血は沢山出たけど……しかしお姫様凄かったわねぇ、あれも言霊の力なのかしら? あんた何言われたの?」
「あー『死ねカスボケ』みたいなこと言われた」
殺女は肩を竦めた。
「あんたバカ? 仮にもお姫様なのよ? そんなこと言う訳ないじゃない」
「いやいや! 本当だって、開口一番に人を罵りやがったんだよ! ああ、あの女超怖ぇえええ……俺このまま帰って良いかなあ?」
頭を抱える俺、なんかもうあのお姫様と会いたくないんですけど……。
「それは大変失礼なことをしました。申し訳ありません。暁ノ鴉様。」
バっと顔を上げる俺、びっくりして振り返る殺女。
お姫さんが涼しい顔しながら本を読んで座っていた。
「うわああああああああ! 出たあああああああああ!」
絶叫しながら寝台からズッコけた。
「姫様ッ……申し訳ありません!」
慌てて平伏する殺女。そして「あんたもッ」と言いながら袖をぐいぐい引っ張る。絶対に嫌だ。顔を背けた瞬間に刺される。そんな殺気とオーラを出してる。お姫さんは素知らぬ顔をしているが、俺にはわかる。感情の色が真っ赤だもん。
「いっ! いっ! いつからいたんだ!」
「暁ノ鴉様が私の悪口を言ったあたりからです」
本のページをわざとらしく捲りながら淡々と答える姫。というか絶対本読んでないだろ……本が逆さまだぞ。しかも本のタイトルが『隠し剣 猫の爪』ってなんだよそれ……。
「確かに本が逆さまですね。わざわざご指摘頂き、誠にありがとうございます」
「うわああああああああ! 心読まれたああああ! ごめんなさい、もうおいしい酒も可愛いねえちゃん達も山のような大判小判もいりません! 家に帰して!」
「私は心なんて読めませんよ、貴方の顔にそう書いてあるんです。浅ましい、そして人間が小さい……」
「ご、ご、ご無礼の数々……この命で償わせて頂きますッ」
顔面真っ青な殺女が短刀を取り出して自分の喉元に当てる。先に逝こうだなんてずるい!
ゆらゆらと殺気を纏いながら、長い髪を右へ左へと揺らしながら、姫がこちらに接近する。
そして姫は殺女の両手を優しく包んだ。
「殺女様、命をそのように粗末に扱ってはいけません。それに私は殺女様から何も無礼な行為をされてはいません」
「姫様……恐れ入りますが、お名前をお聞かせ頂けますか?」
「私の名前は桜花、叢雲桜花と言います。虎ノ眼殺女様」
「桜花様……」
「桜花とお呼び下さい。私の友達になって頂けませんか?」
「あ、あたしのような下賤な者で良ければ……」
「嬉しいです。これから仲よくして下さいね」
「俺も俺もッ! 俺も友達!」
二人が織り成す女の子空間に俺もなんとか参加してみる。
「あんたまだ居たんだっけ?」
「……(無視)」
「ごめん俺、用事思い出したから帰る」
居た堪れなくなって逃げようとした俺の手を殺女が掴んだ。
「あんたはね、これから桜花姫と一緒に生活するの。一緒に起きて、一緒に歯磨きして、一緒に食べて、一緒に排泄して、一緒に入浴して、一緒に寝るの! やー若いって良いわね!」
「「えっぇぇえ……」」
俺と姫が困惑した表情で見つめ合う。
「まあね、その……『神倒れ』はいつ起こるか、わからないから……」
殺女は申し訳なさそうに呟いた。
ああそうだ……姫さんは『神倒れ』から命懸けで立ち直らなければならないし、俺も『神倒れ』が起きれば『死救い』で殺される。
「ああ……そうだった……それじゃ、これからよろしく、お姫様」
「……………………………………」
お姫さんは一瞬だけ俺を憐れむような……申し訳なさそうな表情をしたが、最終的には無視することに決めたらしい。
変に同情されるよりはマシなのでありがたいと言えばありがたかった。
そこから姫様に連れられて殺女と一緒に鬼源城をぐるぐると案内された。
お城と縁のなかった俺や殺女はただただ圧倒されるばかりだった。
お姫さんは殺女と仲良く話していたが、最低限の事務的なことだけは俺にも話した。それだけで安心してしまう俺。
空気扱いはなんだかんだでつらかったのだ。
そして鬼源城の最上階のお姫さんの部屋を案内される。ここで最後だ。
「以上でお城の案内は終わりです。何か気になることがありましたら私に聞いて下さい。ここでの生活も長いので、大体のことは知っているつもりです」
「桜花ちゃんありがとう。わーここから見る景色って壮観ねえ、良いなあ私もここに住みたい住みたい住みたい!」
「私は構いませんよ? 私から王威に言っておきましょうか? 殺女さんもここに住めるよう手配させますよ?」
「アハハハ、冗談。あたし高い所苦手だから遠慮しとく」
殺女は王威の名前に委縮してしまったらしい。お姫さんの申し出をやんわり断った。しかし断ったとはいえ、姫と一緒にいなければならない俺の監視役である以上は近くで待機していなければならない。
ここでの待遇は確かに悪くない。悪くないが……結局のところ俺も姫も全て駒にすぎない。儀式のための道具だ。
「………………暁様も……よろしく、お願いします」
「…………」
なんとなく、不満が残る。誰かのための、誰かの都合で生かせれている人間なんて、愛玩動物じゃあるまいし納得がいかない。
――どかっ――
誰かに尻を蹴られた。後ろを振り返る。
「?」
「…………」
プイっとそっぽを向くお姫さん。
「えっ何? 何?」
「せっかくのチャンスを……」
殺女がそんなことを呟いていた。
「えと、俺何かした……?」
「………………チッ」
ギロリと睨むお姫さん。
「ごめんなさい」
おもわず謝る俺。
既に主従関係が確立しつつあったのだった。
……機嫌が悪いだけだよね? 別に嫌われている訳ではないよね? お姫様とは会ったばかりだしまだまだ挽回できるよね?
「あーそうだな……えーっと、うん綺麗な部屋だね! 女の子って感じかな! えへへ!」
話題を探そうと慌てて部屋をぐるりと見回してみたが、何もない。本当に何もなかった。普通は可愛いかんざしとか流行の衣装とかが置いてありそうなもんだが全くなかった。不自然なほどに何もない。
「お姫様、その、御趣味は?」
「蟻の観察」
お姫様は俺を指差しながらそのように告げた。
「「……………………」」
俺と殺女は絶句した。会話が強制的に打ち切られる。
俺は蟻か?
「こほん、……趣味は……やはり読書ですね。私は幼い頃から体が弱かったのでいつも絵本を読んできました。ピーターキャットや熊のぷう太郎が大好きでした。殺女さんはピーターキャットやぷう太郎はお好きですか?」
お姫様は殺女の目を見ながらそう話した。
何で、俺と話している時と殺女と話している時で答えが違うのだ?
というかこのお姫さん、殺女に対しては答えの後に疑問形で問いを投げ返しやがった。疑問形で話返すということは当然相手からの返事が期待できる。会話を長引かせるための重要なテクニックだ。
俺への会話は一言で打ち切り、殺女への会話はキャッチボール……。
やはり俺は本格的に嫌われているらしい……。
心が折れそうだ。
「桜花ちゃん可愛い! あたしもピーターキャットとか熊のぷう太郎大好きだよ! ぬいぐるみ持ってる! ただ本は読んだことないなあ」
「あ! それならちょうど良い機会だと思います。殺女さんに私の本をお貸しします。ビジュアルだけでは見えてこない特徴が見えて楽しいと思いますよ?」
「あーでも、あたし、学がなくて……難しい字は読めないんだ……」
殺女はお姫さんに恥ずかしそうに囁いた。
それに対してお姫さんも小さな声で殺女に話しかける。
「大丈夫です。全部ひらがなです」
実はお姫さんも最近お城に来たばかりで教養はあまりないらしい。
お城に入る前は孤児であったとも耳に挟んだ。
完全にお姫さんと殺女の世界である。
デジャブである。
「寂しい」
会話に混ざれない俺は不貞腐れて、部屋の隅でゴロゴロしていた。
「ごろごろごろごろごろごろ!」
今の俺の仕草と言ったら中国に生息しているパンダ顔負けの可愛さだと思うのだが、誰も見ていなかった。こんな俺のこんな可愛い仕草は滅多に見られない貴重な光景な筈だ。見ろよ。俺を見ろ。
「蟻が!」
「ぎゃふん!」
言霊の力で軽く吹っ飛ぶ俺。
一応は見ていてくれていたのね。少し嬉しい。
…………………………涙が床に落ちる。
…………………………床に紙切れが落ちていることに気が付いた。
なんだろ? 手に取って読んでみた。
「アカツキノカラス、ほせめんどーい。あ行九列。えすえすえす席」
ん? 『暁ノ鴉VSホセ・メンドーイ ア行九列のSSS席』って書いてある。
つまりは俺の拳闘の試合のチケットだ。しかもめっちゃ良い席。
なぜこんな所に? 俺は持ちこんだ覚えはない。というかこの試合のチケットを持っておく理由もない。負け試合だったしね!
「の……のんののののおおおおおおぉぉぉぉおおおおおおおおおおお! ああああああああああああああああああああああ」
突然、お姫さんが叫んだ。絶叫した。
絶叫したと同時に凄い形相でこちらに向かって走ってくる。
ちなみに部屋はそんなに広くないので、もし全力疾走なんてしたら減速が間に合わずに壁に激突することは避けられない。
しかしお姫さんは全力全開で走り込んできた。
着物でも速く走れるもんなんだなと俺は驚いた。
「ぐふぅううううううううううううううう」
頭突き、である。
お姫様の全体重、全運動量が俺に炸裂する。
例えるなら彼女自身の体重、約四十キログラムに相当する鉄球が俺の腹部に高速でクリーンヒットしたような状態である。
剛体術と同じ発想だ。今度機会があったら真似しようと思う。とても耐えられない。
「なんばすっとね!」
お姫さんが凄い近い距離で、ドスの効いた声で言う。
「ぅッッ! ッ ぁッッぅ! ぃい?」
息が出ないため、顔で理解不能と訴える。皆は忘れているかも知れないが、俺は重傷患者である。もっと労わって欲しい。
「『なにすんのよ!』だってさ」
殺女が共通語に訳してくれた。
「いや、ゴミ拾って遊んでただけです」
「これはゴミじゃないいいいいいいいいいいい! 隠してたの!」
胸倉を掴んでぶんぶんと揺する姫。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「桜花ちゃん、格闘技とか……好きなの?」
殺女が突拍子もないことを言う。お姫さんは読書好きな可憐な乙女な筈だ。たぶん。
「なんのことですか?」
お姫さんもしれっとした顔で言い返す。
「でもこれ……」
殺女が部屋の隅にあった大量のチケットをお姫さんに見せる。
『暁ノ鴉VS幕の内二歩』『暁ノ鴉VSセガールオ』『暁ノ鴉VSマクリーン刑事』『暁ノ鴉VS T‐八百万』『暁ノ鴉VSエイリアンキング』
「全部俺の試合だ……」
俺と殺女が沈黙する。
それでもお姫さんは……しれっとした顔を貫いたが、二十秒後にぶわっと泣き出した。
その泣き顔は今まで見た顔の中では一番お姫さんらしかったと思う。
「あっあたし仕事だ」
殺女は逃げだした!
…………俺はこの城から逃げ出そうとしたのだが、お姫さんから五十メートルは離れないでくれと殺女に言われてしまった。
とは言ったものの、なんだか広い部屋に二人でいるのも気まずかったので、お姫さんの部屋の上の鬼源城天守閣で時間を潰していた。
ここからだと城下町全体を見降ろすことができる。もう夜明けが近い真夜中であるが町は所々明るかった。提灯を持って歩いている人がはっきりと見える。
彼らは眠らないのだろうか?
「……ここから見降ろすと、人が豆粒みたいだなあ」
人間が小さく見える。格子状に整備された町を動く人の様子はまるで将棋の駒のようだ。それがなんとなく嫌だ。
「バカと煙は高いところが好きって良く言うけど、今のあんたは後者かね」
殺女が後ろから声をかけてくる。
「いや、前者だ。……色んなこと忘れて浮かれてた」
「ここから見える景色は嫌い? 何か不満でもあるの?」
「待遇は最高だな。飯もすげえ美味かった。ここも地平線まで見えて気持ち良いよ。そろそろ綺麗な日の出も見られる」
「…………眠らないの?」
「ああ」
人目がないことを確認した上で殺女に問う。
「この前、晒し首にされた七人はなんなんだ。お前はどう思っているんだ? 本当のところを教えてくれよ」
「その話……。別になんとも思っていないわ。貴方は大事な『死救い』なのよ。そんな人間に、いえそんな人間じゃなくてもよ? 寄って集って殴りつけるなんて異常よ」
「でも殺意はなかった。俺にはわかる。晒し首にするようなことか?」
奴らに殺意の感情、殺意の色はなかった。
「それはあたしにはわからない……。でも国をあげての儀式だから……」
俺の変わりはいくらでもいる筈だ。俺に政治的な価値はない。おそらく殺女は王威に何か言われたのだろう……。
「はっきり言うと俺は王威が怖い。不気味だ」
表情の変化を見逃さないように俺は殺女を見詰めた。
「あの人のことを悪く言わないで……」
今の言葉が殺女の本心だろう。俺だって人の恋路を邪魔するつもりはない。そんなつもりはないが、俺もリスクを背負う分、忠告くらいは許されるだろう。
「死人は増えるぞ」
そう言って俺は天守閣から跳び降りた。
殺女は目を、その虎の眼を剥いた。
俺は天守閣から一つ下の階の階段まで跳び降りた。最上階にある、お姫さんの部屋の手前の階段下である。
そこで上への階段に足をかける女中の姿の女と目が合った。
「そのままゆっくり蝋燭を床に置いて顔見せろ」
俺がそう宣言したと同時に殺女が上の階からゆっくり降りてきていた。
女中の姿の女を挟むような形となった。
女中は状況が飲みこめないといったような振りをするが、俺にはその嘘がわかってしまう。女からドス黒い色が見える。殺意だ。
「なぜ……?」
「いいから黙っ――
俺が言い終える前に女は蝋燭を吹き消した。
辺りが暗闇に覆われる。俺と殺女は暗闇に目が慣れていない。
だが既に手は打ってある。俺は自分の足の裏に貼った『阿弥陀如来』の札を爆発させ起動した。
『阿弥陀如来』は無限の光を持つ。
暗闇が掻き消され強い光が一帯を包みこみ、女がひるんだ。
女は重い着物を既に脱ぎ捨てており、黒装束を身に纏っていた。この光の中では黒が際立って見えた。
眩しい光の中を女が闇雲に動き、俺に中段回し蹴りを放つ。
足の先には刃。暗器が仕込まれている。俺は左腕に付けている鋼鉄の籠手で受け流し、右拳で股の間を強く撃った。
俺の右拳が女の恥骨を砕いた。
その場に崩れ落ちる女を殺女が押さえ付ける。俺は急いで女の口に指を突っ込んだが遅かった。間に合わなかった。
女が口から血を流す。
「どういうこと?」
殺女が俺を視る。
「………………………………………………自殺した。毒だ」
俺の打撃は悶絶するほど痛かった筈だ。それでも躊躇せずに自殺した。…………後味が悪い。
持ち物を確認する。
誰かの長い頭髪、大量の爪、それに動物の血痕、呪いの類だろうか?
なんにしろ悪意があることは間違いない。
「…………そう、彼女一人だけ?」
「俺が天守閣で視た殺意は一人分だけだった。一応警戒しておいて」
「わかった」
殺女はそういうとあっという間に駆け出した。
王威に知らせに行くのだろう。
俺は静かに階段を上がりお姫さんの部屋にある自分の布団に入った。
もう夜が明ける。姫が起きる頃には布団に入っていないと不審に思うかもしれない。
そう思っての配慮だったが不必要だった。
「起こした? ……ごめん」
「………………………………」
姫さんは無言だが、酷く怯えていることがわかった。色でもわかるし、何より震えて泣いている。
「息、苦しいか?」
「…………大丈夫で、ず」
絞るような声が漏れる。暗闇で良く見えないが、少し吐いているようだ。
「全部出して」
お姫さんの体を無理やり起こして、背中を叩く。
布団に吐瀉物を出す。
お姫さんの荒い息が部屋に響く。
「あんまり息を吸いすぎないで」
俺はそう言って袖をお姫さん口に当てて、背中をさすった。荒い息から嗚咽が漏れた。
「…………あんまり、子供扱い、しないで、……下さい」
袖が涙で僅かに濡れる。
その弱音も、その吐瀉物も、その涙も、その熱い吐息も、その乱れた長い髪も、全てが不快ではなかった。愛おしくさえ感じられた。なんて純粋なのだろう。
「…………死んだのですか?」
唐突に、そんな言葉が漏れる。死んだというのはさっきの女のことだろう。彼女の力をもってすれば、わかるのだろう。
「ああ」
そっと、後ろから姫を抱き締める。
「私を殺しにきたのですか?」
「ああ」
「…………私は……」
私は、何もしていない。憎まれるようなことはしていない。
小さな声だが、確かにそう聴こえた。
恐ろしいのだろう、自分に向けられた殺意が。
俺は何人もの人間の首を刎ねてきたから知っている。
どんな悪人も最後は惨めなもので、向けられた殺意を全身に受け、失禁して、脱糞して、涎と涙を垂れ流し、許しを請うのだ。
気が狂う者も珍しくはない。
それほどまでに殺意という思念は力を持つ。
ただの少女であり、悪意とは無縁の人生を過ごしてきた姫に対して、その殺意は耐えがたいものだろう。
彼女の反応は当然のものだ。
良く頑張っているとさえ思う。
「俺が、守るから」
「……………………『死救い』ですか?」
「関係ないよ、姫さん」
「……桜花」
「ん?」
「桜花とお呼び下さい……暁様」
「良いのか?」
「はい」
夜が明けた。
朝焼けに照らされた桜花の微笑みは生涯忘れることはないだろう。
次に目が覚めた時は昼だった。
小便をしに立ち上がろうとしたら右腕に桜花が絡まっていた。正確には俺の右腕にしがみ付いていた。
「桜花……もうお昼だ」
「…………」
「桜花さーん」
桜花の頬を人差し指でフニフニと突く。
「むにゃむにゃ…………もう食べられないよ」
絶対起きている。狸寝入りである。完全に起きている寝言である。
「こらーたぬきー」
「アハハハ」
桜花の足の裏をこちょこちょして力が抜けた隙に桜花を振りほどいて厠に向かった。
部屋を出ると殺女がいた。
「見つかった?」
「ええ、城の濠で一人、女中が見つかったわ。死体で」
桜花へ向けられた刺客が着ていた着物の本来の持ち主である。
死体ということは、その女中が内通者か被害者かは不明ということである。死体は喋らない。いや正確には死体に喋らせる秘術は存在するが、邪術である。
「そっか……別に伝えなくて大丈夫?」
勿論、桜花に伝えなくても良いか? という意味である。
「構わないわ、気遣ってあげて」
「あいよ」
厠で用事をすませた後、俺は吉日の日課通りに体を水で清め札作りを始める。
「うんうん。どうやるの?」
桜花さんも俺の背中に張り付いて興味津津の様子である。
ちなみに桜花は俺よりも遥かに強い神力を持っているが、肝心の術式は行えない。桜花ぐらいの年齢の少女は精神的に不安定な場合が多いのだ。だから『神倒れ』から復活し、成人してからでないと術は習わない。
「見せて良いのかな……」
「見ても良いと殺女さんがおっしゃっていました」
まあ殺女が言うんなら良いのだろう。大体見ただけで模倣できるものではない。尊ぶ心が必要なのだ。彼女と僕とでは信仰する対象が違う。
彼女は神の道に行き、俺は仏の道に生きるのだ。
「うん。そうだな。まずは……一万円! 一万円札を用意しろ!」
「ええぇ……お金なんて……そんなの納得いかないっ! 仏様に謝れー切腹して詫びろー」
桜花さん超ブーイングである。なんだなんだ、お金がなんだって言うんだ!
「金銭で加護を買おうなんて間違ってる間違ってる間違ってる!」
布団を巻き込みながらグルグル回りだす桜花さん。
「はっ! これだからお子様は! 世の中金なんだよ!」
そう言って俺は懐から一万円札を出す。
「はい、桜花さんに問題です。一万円札は何でできているでしょうか!?」
「神! じゃなくて……紙!」
「正解」
続けて俺は短刀で指先を切り、傷口から出る血で一万円札に絵を描く。
「なッ! …………何してるんですか!?」
桜花が俺の手を取り、指を押さえる。傷口を止血してくれているのだ。
「大丈夫だ。桜花もさっき言ってただろ? 『切腹しろー』ってさ。そういうことなんだよ。一万円札の本質はただの紙だけど、それ以外にも強い概念を持つ。お金はある意味では権力的なもので、人にとってはただの紙とはとても言えないくらい強い力を持ってる。だからこそ一万円分自腹を切って、自分の血を使えば札を作れる。身を切ってるからこそ御利益があるんだよ」
桜花は不安そうに俺を見詰めたまま手を離した。
出血が激しいため、ここからは一発勝負で気合いを込めて描き上げなければならない。俺は一心不乱に祈祷を行いながら一万円札に日光で清めた指を押しあてて丁寧に、大胆に描いた。
世の救済者『観音菩薩』の札が完成した。
久々の傑作だ。
「これ、なんだかわかる?」
「仏様っぽい感じですけど……私はあまり詳しくないのでわかりません……」
俺は少し悩んだが、あえて教えない方が良いかなと思った。
想いが重いって思われそうだし。宗教の勧誘と勘違いされても面倒だ。
「これはただのお守りだ。俺からのプレゼント」
「そんな貴重な物、頂けません……」
おちゃらけた雰囲気はなくなり桜花は真面目な顔でそう答えた。
「あーー勧誘とかじゃ全然ないから」
「そういう訳ではなく……」
「うーん。桜花のために作った物だけど、桜花が受け取らないなら燃やすだけだ。迷惑ならこっちで処分するけど?」
桜花は黙って立ち上がると、引き出しから何か小さな袋を取り出し、俺に差し出した。
「ん? なにこれ?」
「あの……私は世間知らずなので、八万円がどれくらいの価値があるのか……わかりません。でも、私にはこれくらいしかないので……受け取って下さい」
桜花が袋を開けると金色の粒があった。おそらく本物の金であろう。俺は生まれて初めて金を見た。しかしそれよりも気になったことがある。
「桜花、八万円っていうのは?」
「演武で六枚、明け方に一枚、今の一枚で合計八万円では?」
桜花は今の分を除く七枚分は直接視ていない筈だ。札を使ったことを知っていても、鳴らした鐘の回数は三回、合計は五万円と予想される筈である。
……あっさり見破った訳だ。怖いなあ。
「さっきも言ったけど自腹を切ることに意味があるんだ。見返りは貰えない」
桜花は残念そうに袋を引っ込めたが、すぐに悪い事を思いついた子供のように、にやついた顔で俺に問いかけた。
「おいしい酒や可愛いねえちゃん達や山のような大判小判が欲しいのでは?」
そう言えば慌ててそんなことを言った覚えがある。
嫌なこと覚えてるなあ……。
「それはそれだ。言っただろ? 俺は桜花を守るよ」
「…………………………………………」
桜花の顔が林檎のように丸く、赤くなった。こそばゆい感情が色となって俺にも伝わってくる。
「可愛いねえちゃんはダメ……」
桜花が小さな声で何か呟いた。
「え? ごめん。ちょっと聴こえない」
「傷……」
「あぁ、まあこの程度は別に何ともない。ほら拳闘とかやってると怪我してない時の方が少ないくらいだし、今だって重傷だしねー」
「痛くないのですか?」
「痛くても我慢するかな」
「男の子なんですね。じゃあせめて、これくらいはさせて下さい」
桜花は出血している俺の指を掴むと、ゆっくり口に含んだ。
「お、お婆ちゃんが、死んだお婆ちゃんが言ってました。…………舐めると治るって、だから、その……舐めます」
お婆ちゃんが言うのならしょうがない。
「お、おう……」
桜花はずっと、殺女が遊びにくるまで、ずっと俺の指を舐め続けた。
第三章 王威伏龍
俺と桜花が共同生活を始めて一週間経った。
全治三カ月と言われた俺の怪我は僅か一週間で完治した。
桜花が俺の指をしゃぶってから異常な早さで快復した。
桜花の神力によるものである。
「全快おめでとうございます。案外早かったですね」
俺は桜花の力に恐れ戦いていたが、本人は気付いていないのか呑気なのか良くわからない反応を示す。
この力が悪用されないかが心配である。
「……なんですか? 私の顔に何かついてますか?」
「いや、ただ桜花が世間知らずで心配だなあと」
「ああ、また子供扱い」
しかしこの一週間で良い事もあって、このくらいの軽口を言い合える仲にはなったのだ。それと桜花が俺のファンだってことも問い詰めたら白状してくれた。『鴉』っと俺の名前の入った色紙を殺女が見つけたのだ。
白状した時、桜花はまた大泣きしちゃったんですけどね。
「暁様はなんで私に優しくしてくれるのですか?」
「ん? 自分のファンは大切にしないと」
適当に答える。
誤魔化す。
…………………………実際のとこ、俺はどうなんだ?
適当に遊んで逃げるつもりだった。
死ぬのはごめんだ。
それは今でも変わらない。
『死救い』なんてあほらしい……。
俺が逃げたら桜花はどうなるんだ?
桜花は自分自身の力に、『神倒れ』に耐えられるのか?
俺ならば、俺自身を使って彼女を救ってやることもできるのではないか?
傲慢だ。俺の代わりなんかいくらでもいる。
それにまだ知りあって間もない彼女を命懸けで守る必要もあるのか?
所詮は他人じゃないか。
「あの、あまり考えこまないで下さい。……そうですね、全快記念に一緒に外へ出ませんか? 今日はキックボクシングみたいな……えと、その……ム……ムエタイだ! その珍しいムエタイの大会があるんですよ! ちなみにムエタイの大会は三十年振りくらいだと伺いました! ちょっと雲行きは怪しくて暗いのが残念ですが、絶対楽しいと思いますよ?」
桜花を見ていると乱されてしまう。容姿が姉ちゃんに似ていたせいで桜花をただの他人とは思えないのだ。
「ああああああ!」
頭を抱えて叫ぶ俺。
「もうずっと引き籠ってるとダメだな。久々に外の空気を堪能するか!」
「はい!」
元気になってくれて良かったっと呟く桜花。
やめてくれ、今俺はお前を見捨てて逃げることを考えているんだぞ?
やめてくれ、そんな純粋な笑顔を俺に見せないでくれ。
お前は俺のような他人にも、俺のような下らない人間にも、誰にでもそんな笑顔を振りまくのか? 桜花。
部屋の密室がやたら息苦しくて、逃げるように外へ出た。
空は桜花が言っていた通り、曇天だった。今にも雨が降りそうである。
お城を出る前に殺女が庶民的な着物を用意してくれた。鬼源城内で着る着物は重い上に派手で良いところがない。
久しぶりに軽い格好で外を歩くと心まで軽くなった気がした。
「ワン! ツー スリー! いえーい♪」
左ジャブ、右ストレート、右ハイキックを軽快に放つ。うん、ムエタイっぽい。そしてバック転で桜花の横に着地した。
「わー間近で見ると迫力がありますね! 今度絵師に描いて貰いたいな」
好評でした。ファンは僕の宝です。だからファンサービスしないとね!
「で、大会まで時間あるよね? 桜花はどこか行きたいところある?」
桜花は俯きながら
「いえ、私も城の外へ出る機会があまりないので……よかったら暁様が案内して下さいませんか?」
と言う。
こういう桜花の無計画で知り合ってすぐの人間にほいほい付いて行ってしまうところが心配なのだ。
しかし、外へ出ようと言ってくれたのは俺を気遣っての発言なのだ。その桜花の優しさはありがたい。
「じゃああ、そうだな。格闘技の舞台裏とか覗いてみたくない?」
「見たいです見たいです見たいです見たいです! 是非見せて下さい!」
「俺の権力じゃ、あんまり深くは入れないかもよ? それでも良い?」
「そしたら私の名前使って下さい」
よほど見たい場なのか、桜花が必死でズレたことを言う。
「ああ、なるほど、それ良いな! よしやろう」
「まさか本当にやるとは……」
「構わないだろ? 信頼できる人を選んで口止めするから大丈夫! 俺結構顔も広いし、若い女の子連れなら交渉次第で大体入れるでしょう!」
「どうして若い女の子連れなら交渉しやすいんですか?」
「ふふん、大体こういう裏舞台で働いてる中年のおっさんは女の子に弱いのだよ! 職場では偉くて賢いおっさんも家では粗大ゴミ扱いなのが父親の悲しいところよねえ。娘には嫌われて妻からはめんどくさがられる……」
「可哀想…………愛は時間と共になくなっていく物なのですか……」
「どうだろ……一目惚れっていうのもあるし、俺は憧れるけどね、時間を超越した絆とか」
「……そうですか……私も……絆が欲しい」
桜花は自分の親も知らない孤児だった。
兄弟もいなかったそうだ。
「俺には姉ちゃんがいたから」
「はい?」
「なんでもないよ」
地雷だったな……桜花ではなく俺にとってだが。
以後気をつけよう。
「という訳で、桜花さん、ここが脱衣所だ! 奥にはシャワーがある」
まんまと侵入に成功した俺と桜花。
ちなみにここは女人禁制の領域で、入る時の交渉には思いのほか手間取った。
伝統は俺の想像以上に大事なものらしい。
しかし最後には門番も折れてくれた。
桜花も大喜びしてくれた。
「おお、細マッチョ!」
脱衣所の前の扉には俺がファイティングポーズをとっているポスターが貼ってあった。
「この時の俺、完全に体作りに失敗してんだろ……鎖骨見えすぎでやばいな」
そこがエロいんすよ! っと桜花が男のフェロモンについて熱く語った。お前は本当にお姫様なのかと問いたい。桜花は格闘技関連の話になると人が変わりやがる。
「やはり減量は厳しいですか? 針金で水道を縛ったりするのですか?」
このお姫様は漫画も愛読することが判明しました。
「いや、俺の場合は増量だ。下の階級は制覇してるから、体重増やさないといけない。でも体重を増やす手段がないんだ」
「? 食べるだけじゃいけないんですか?」
出たよ! お姫様めっ! すっかり御馳走になれてやがる!
「はっ! 俺は山奥のお寺住まいだぞ! 精進料理で腹がふくれるか! 『ご飯が無ければお肉を食べれば良いじゃない?』っていうズレた常識の持ち主のことを、外国では『まりーあんとわねと』って言うんだぞ!」
「なッ! なッッ! なななッ! なによ! 鬼の首を取ったように怒っちゃって! 貴方以外の人は皆減量して闘ってるじゃない! 間違って当然でしょ! 大体マリーアントワネットは個人名ですぅぅううううう! ばーか! ばーかばーか!」
マジか『まりーあんとわねと』って人の名前だったのか!? これが最近話題の『キラキラネーム』か!? 『麻里杏永久音斗』さんすげえ!
「はっ! お姫様のくせに格闘技通ぶってこの様だよ!」
「ああぁ!? あんま舐めてっとしばくぞコラッ」
――ガラッ――
脱衣所が開いて全裸の男が出てきた。
「王威……」
「……鴉か?」
「えっ?」
桜花が振り返る。
俺が「不味い」と言う頃には遅かった。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッッッッッ!」
桜花の叫び声が施設全体に響き渡った。
桜花が叫んでから三時間になるが王威はまだ平伏していた。
ちなみに王威はパンツ一丁である。
「王威、もう良いです。元々部外者の私がいたことが原因です。それにここは女人禁制です。私がいることなんて想定できないと思います」
桜花もずっと王威に対して自分が悪かったと言い続けているのだが、王威はどうも頑固で中々非を譲らない。
「いえ、そのようなことは決してありません。配慮が欠けていた自分に非があります。桜花姫の反応は女性として当然のものかと」
王威は大きな体を地面に貼り付けたままの姿勢で淡々と答える。
「ああもう長ぇよ! 終わり終わり!」
どんどん気分が落ち込むだけなので、俺は強制的に終わらせた。
「もうこの話はここで終わり、んで王威はここで何してたんだ?」
「……ぬしには関係ないことじゃ」
「王威、ここは関係者以外立ち入り禁止だそうですが、何かしていたのですか?」
「これからムエタイの試合があります故、集中しておりました」
イラッ! こいつ本当に腹立つな。
助け舟出すのが遅かったから根に持ってんのか?
「試合……審判か何かですか?」
「いえ選手です」
俺と桜花が固まった。
「私、そんな話は聞いてません……」
「はい、桜花姫は格闘技がお好きなようなのでサプライズと思って黙っておりました」
「試合はいつですか!? もう随分と時間が経っていますが間に合うんですか!?」
「いえ、間に合いませんな」
「不戦敗……」
俺が不戦敗と言って桜花は顔を青くした。
「些細なことです」
王威が眉一つ動かさずに言う。
些細なことじゃないだろ! 負けても悔しくなくなったらファイターとして終わってんだろうが!
「しかし王威……、あの……本当に申し訳ないと思っています。私、次の試合は必ず応援しにいきます」
「次はありません」
「「え?」」
「本日をもって引退です」
引退試合を不戦敗ってなんだ!?
「三十年に一回の大会に、しかも引退試合に欠場なんて……」
三十年……そうだった。
三十年は重い……。
俺の人生以上だ。
人によっては生まれてから死ぬまでの時間にも匹敵する。
それを俺は…………。
「姉ちゃん……」
俺がそう呟くと桜花の顔が激しく歪んだ。桜花から青い色が溢れ出す。罪悪感だ。
俺が調子に乗って桜花を立ち入り禁止区域に入れたからこうなったのか?
どうしたらいいか全然わっかんねえええええ!
「あ、暁様……」
桜花がこちらを見るが……どうしようもない。俺にどうしろと?
俺ときたら不貞腐れていれば誰かが勝手に解決してくれるとか甘いこと考えてやがる。
「王威、今日はなんだ? ワンマッチか? それともトーナメントか?」
「トーナメントじゃが……?」
「糞ッ」
後悔しろ!
どうなっても知らねえかんな!
俺は怒声を張り上げて脱衣所を跳び出した。
全力で廊下を駆け抜け、三角跳びで角を曲がる。
着いた先は選手控え室。
中に入るとウォーミングアップ中の選手達の汗でやや湿気ている。
嫌いじゃないぜ、この雰囲気。
俺は息を切らしながら、隅に貼り付けてあるトーナメント表の第四試合の二人の名前を確認した。
「ふー……えーブアカーイさん! ガオグレイさん!」
名前に若干の反応を示す二人を確認。覚えたぜ。
「あの……サイン下さい……」
「今ハ困リマス!」
満面の笑みで近寄るが、マネージャーに静止される。
「少しだけ! 少しだけ!」
そう言ってマネージャーを振り切って無理やり押し通る。
すると凄く不満そうに、面倒臭そうに選手が右手を出してきた。
「ペンヲ貸シテ下サイ」
「ごめんな、三十年後、頑張れ」
差し出されて右手首を俺の右手で固定し、こちらへ引っ張る。
相手の体を引き寄せながら、俺は左から回り込むように背後に移動し、左手で相手の右肘を固定。そのまま回転するように相手の腕を巻きこみながら床へ倒れこんだ。
メキ
メキ
『拳法・脇固め』
重心が肩の一点に集中しやすく、いともたやすく骨折させることができる技である。試合においては禁止されていることも少ないが、これは試合ではない。
……通り魔による不幸な事故なら王威は出られるかもしれない。そういう魂胆である。
まず一人、試合に出場できなくした。
補欠選手が控えている筈なので、王威の枠を無理やり作るにはもう一人出場出来なくする必要がある。
呻く怪我人を尻目に前方を確認する。
既にこの室内にいる人間全てが敵意を剥き出しにしている。
「ハハ、」
何回も言っているが俺は悪意や敵意には慣れている。
今回悪いのは俺なんだけどね!
――鏡を覗くと人相の悪い人間がいた。
勿論俺だ。俺でもこんな悪い顔になっちゃうんだなあと感心する。
そして俺は鏡を叩き割った。
鏡の破片がバラバラと落ちる。俺はその内の大きい破片を一枚選んで手に取った。
拳に握り締めるのは凶器。纏うのは狂気である。
自分の気がその他大勢の人間を圧倒するのがわかる。
最高に気分が良い。戦闘行為に興奮し、アドレナリンが分泌されるのがわかる。コンバット・ハイと呼ばれる現象だ。
「動機は知りませんが、これは大きな問題になりますよ、鴉さん」
俺と面識のない関係者が俺に言う。
俺も有名人だなあ! 知らない人にも顔を覚えて貰えて光栄です!
「ハっ! どういう問題にすんだよ。暴漢一人に対しプロのムエタイ戦士諸君は何もできませんでしたって宣伝するのか? そうしたらムエタイを最強と信じて疑わないファンはさぞがっかりするだろうなあ……可哀想だなあ……悪いことは言わないから黙っておいた方が良いと思うぞ?」
室内の敵意が一段と強くなり、俺への包囲網も狭まる。
しかし、誰も跳び込んでこない。
そりゃそうだ。関係者はまるで戦力にならないし、体を暖めて準備万端な選手達は怪我を恐れて跳び込めない。
怪我したら出場できないもんね!
それは嫌だよねえ?
「ムエタイ戦士諸君はこれが怖い訳だ!」
俺は鏡の破片をチラつかせ、近くに設置されていたサンドバックを縦に勢いよく切り裂いた。
そしてサンドバックを放り投げ、切り裂いた部位の後ろ側を強く叩いく。
サンドバックから細かく刻まれた布地が大量に吹き出し、何人か怯んだ。僅かに包囲網が緩んだ。
標的を目掛けて突進する。
拳は縦に、貫くように中段を放つ。
『拳法・崩拳』
この技の強みは前進する運動量を使用できる点にある。
正拳のように静止した安定状態から腰の回転による、慣性質量を使うのではなく。間合いを詰めながら、跳躍時に発生した肉体の前方向への全運動量を拳に込めるのがこの技の特徴である。
その威力は絶大であった。
もう一人の標的のムエタイ選手は前方に跳ばされ、壁に撃ちつけられた。
「それじゃあ失礼しましたあぁぁぁぁ……とはいかないんですよねぇ」
「………………………………貴様ァ」
「おー兄ちゃん。おんどれは拳闘やっとるそうだが、ムエタイあんま舐めんなや。もうちょっと遊んでけや」
「……」
殺気だった人間三人に囲まれる。
その鍛えられた肉体からは怒りの赤のオーラが出ている。
一人だけボコっただけなら私怨かもしれないし、降りかかる火の粉は振り払おう程度の軽い防衛準備のみであった。
しかし俺が関連の強い訳でもない二人を傷つけ、さらに挑発するような言動もしたので、室内の戦士達は防衛モードから悪漢殲滅モードに移行したらしい。
彼らにとって今は非常事態である。ここで身に付けた武力を行使しなかったら、なんのために武術やっているのかわからないくらいの事態。
今所持しているお札を確認しようとしたが、無駄だった。
こういう時は仏様の駕籠は受けられない。
今俺が行っていることが混じりっけ無し、純度百パーセントの悪行だからである。
仏様は悪を祓い、悪を断ち、悪を赦し、悪を流すことはあっても悪の手助けをすることは決してない。
頼る相手がいなくなってしまった!
まあ全部俺が悪いんだからしょうがないよね!
しょうがないから肩を竦めて
「少しだけだぞ(はーと)」
って言ってみた。
罪は償わないとね。
「少しですむかよッ!」
そうだよな、三十年に一度の晴れ舞台をぶっ壊したんだ。
そんなに甘くねえよな。
三人から、三方向から一斉に鞭のような蹴りや大砲のような拳が当たる。
「きっつううぅぅぐふッ!」
脇腹と顔面に容赦ない拳が当たった。
めちゃくちゃ痛い、苦しい、逃げたい。
一流の戦士を三人同時なんて無謀過ぎた。
いつぞやの私刑もずっと痛い。
囲まれながらでは殴られる効率が良すぎるので、腹部を抑えながら部屋の隅に避難し、背を向けて丸くなる。
冷静な誰かが止めてくれるのを待つ。
待つ。
待つ。
待つ。
……………………………………。
………………。
……。
まだか。
容赦がない。
殺されるかもしれん。
なんでこんなことしたんだ俺は。
誰が得すんだ?
なんでこうなったんだ?
糞ッ!
激しく後悔する。
そして粘り強く待つ。
何分経った?
待つ。
待つ。
「そこまでッ!」
遅ぇよ…………。
完全に心は折れた。
そして床に、仰向けに倒れこんだ。
「暁様、これは一体……」
腫れた目を無理やり開いてみると、王威と桜花がいた。
なんでもないよ? っと返そうと思ったが止めた。
室内はサンドバックの中身が散乱しているうえに、ぶっ倒れて呻いている奴が俺を含めて三人。
これは言い逃れ不可能だ。
「いや、つぃ、カッとなって……」
「ふん、下らん」
王威は俺から聞いても無駄だと悟ったようで、他の怪我人に事情を聴きに行った。
室内にいる桜花以外の人間は皆王威の周りに集まって話し合っていた。
「暁様」
桜花が俺にだけ聞こえるような声量で囁く。
「ん?」
「今、外は凄い嵐なんですよ。だから今日のトーナメントは雨天延期だそうです。だから王威のことは心配しないで下さい」
嬉しそうに桜花が語る。
「そう、か」
なるほど、なるほど……確かに朗報だわ。
「しかし、この惨状は……何があったのですか?」
しんどいな……。
「腹立ったから喧嘩した。見事に返り討ち」
かっこ悪いだろ? と俺は言ったが、桜花は腑に落ちない様子だった。
「私はてっきり王威が出れるように運営者に掛け合っているものだと」
「はっ! 面倒臭ぇ。誰がそんなことするかよ、お前には言ってなかったな。だから今言っておくが、俺は王威が嫌いなんだよ。それに運営に掛け合ったってルールなんだから不戦敗が取り消せる訳ないだろうが」
「でも……」
「でもじゃねえよ。そうやってすぐ人を良い風に見ようとしたり、誰にでも愛想良く笑顔をばら撒いたりするお前の態度も嫌いだ。反吐が出る」
全部自分が悪いことは頭のどこかではわかってる。
でも俺はバカだから認めきれないんだよ。
誰かに八つ当たりしたくなる。
「そんな……ふうに思っていたんですか……?」
俺の暴言に対し桜花は、……桜花は俺の隻眼を、その奥の脳まで貫くように見詰めた。
「ああ、大嫌いだ」
後悔が後悔を呼ぶように言葉が溢れ出てくる。
「ッ」
桜花が部屋から出て行った。
桜花は泣いていなかった。
それがまた……なんとなく怖くて、うんざりする。
「今回のことに関してお前を咎めはしない。桜花姫が施設内に入ってきたことは公に知られてしまったからの。桜花姫が責任を被った。姫の意向じゃ。姫に感謝しろ」
王威が吐き捨てるように言った。
「大会は?」
腫れた瞼に氷を当てながら俺は問う。
「四カ月後だ。これも姫の意向じゃ。」
四カ月か……。俺が殴ってしまった方の奴は大丈夫だろうが、骨折させてしまった方の奴はコンディションに影響が出るな。
もしかしたら欠場となるかもしれない。
「…………」
どの面下げて謝って良いかもわからないから、ただ黙る。
黙ることが最も最低な選択だと理解しつつも黙る。
結局俺は臆病者なのだ。
「何か喋れ」
王威が見下す。
「……」
「ガオグレイとブアカーイとは面識がないらしいのう?」
「……」
黙秘。
「いきなり襲われたと向こうは言っていたが、無差別に狙った訳じゃなさそうだ……」
黙秘。
「二人共、四戦目の選手じゃな。四試合あるトーナメントの第一回戦で、二試合もなくなれば大会としては失敗したも同然じゃな。新しいムエタイという競技のお披露目の第一歩でそんなつまらん事故は防ぎたいものじゃな」
黙秘。
「…………前に、契約で揉めた末に選手が試合をボイコットしたことがあったのう?」
うるせえ。
「大蛇祭拳闘のメインイベントが台無しになるかもしれない。ざっと大蛇の国でざっと二百年の歴史がある大会じゃ。とても止められん。止めれば誰かの首が跳ぶかもしれんしの、文字通りの意味でじゃが」
「王威さんは案外お喋りなんすね」
嫌な時に限ってよく喋りやがる。
「その時窮地を救ったのは、たまたま客として居合わせただけの階級違いの王者。万全とはいえないコンディションの中、一回り小さい体で良く戦った」
「物知りだなあ」
あの時のことはあまり公では語られていない。俺が人モドキだからだ。人モドキは英雄にはなれない。人モドキがメインを飾ることは好ましくないと反感も買った。脅迫状も沢山頂きました。
「七ラウンド目のクロスカウンターは惜しかったの、よくやりよる」
「……観てたんすか?」
「あの時、パンツを貸したのはわしだ」
そういやあホカホカのパンツ渡されて気持ち悪かったな……。
「余計な真似をしおって……わしに恩を作りたかったのか?」
「中年は話が長くて困る」
「ぬしは人の感情が目に視えるそうじゃな」
「…………」
「さすがは逢魔ガ時の餓鬼じゃな」
あ? 何言ってやがる?
「鴉、既にわかっていると思うが、わしはぬしが憎い」
「ああ知ってたぜ、初対面の時からバリバリ敵意剥き出しだったからな」
俺が王威を好きになれなかった一番の理由は王威が俺のことを好んでいなかったからだ。敵意には敵意で返すのが普通の対応ってもんだろ。
「鴉、表に出ろ」
「応」
第四章 逢魔ガ時
雨風が吹き荒れる土のリングの上で俺と王威は各々体を動かしウォームアップする。
環境としては最悪だ。体の隅々まで通り抜ける激しい気流によって体温がどんどん奪われていく。
だが、感情の高まりのよって体の芯から発生する熱量が奪われる熱量を遥かに凌駕する。
「鴉、怪我の具合はどうじゃ?」
俺と王威がリングの中央に歩みよる。王威の方が若干背が高く、肩幅も大きい。
「おっさんに心配されるほどじゃねえ。この程度の逆境には慣れてる」
俺は腕を組んで王威を見上げた。
「後でつまらん良い訳をされても困るのでのう……。それと、わしは見かけほど年食ってないぞ」
「いくつだ?」
「三十七ッッ」
王威は言い終えたと同時に蹴り上げた。
綺麗な左三日月蹴りだった。
「はッ!」
それを左肘で受ける。
「十分おっさんじゃねえか」
奇襲を仕掛けるならいくらでもタイミングはあった。
話している最中でも良かったし、ウォームアップ中に仕掛けても良かった。
いやそれよりも外に出る前の方が気持ちの緩みもあって効果的だろう。
だがこいつは、王威はあえて言いたいことを言い終えてから、俺にもわかるように蹴った。
フェアだ。審判も誰もいない二人だけのリングでのゴング代わりだ。
喧嘩を仕掛けた割には綺麗すぎる。
「ジジイが、後悔すんぞ……」
不思議なもので、口をきかなくても相手の思考がわかってしまう。
「後悔なぞせん」
王威が右手に握りこんでいた小石を投げ付け、距離を詰めての頭突き。
これも王威の明確な意思が込められている。
リングの上とはいえ、ただの喧嘩。競技で反則とされている頭突きも卑怯とされている飛礫もありということだ。
そういうルールだと王威は宣言したのだ。そういう攻撃は有効なタイミングがあるというのに……潔癖症なのかこいつは?
――ムン――
飛礫は避けず、頭突きはより強い頭突きで返す。
ダメージが強かったのは王威の方だ。
王威の額から血が流れ、怯む。
「悪いな、俺が生まれてから十七年。石投げられるのは慣れてるんだよ」
人モドキだからなッ!
より強く踏み込むと俺は喉仏に向かって右肘を打ち出した。
『拳法・震脚』
『拳法・仏殺の肘』
王威が吐血する。俺の右肘に唾液と血液がミックスした液体が大量に纏わりつくが、全く気にならない。どうせすぐに雨で流される。
顔面に左拳が来る。喰らう。
顔面に右拳が来る。受ける。
首に右足が来る。流す。
顔面に左拳を放つ。当たる。
顎に右肘が来る。擦れる。
首を掴まれ、腹部に左膝が来る。振り切る。
顔面に頭突きを放つ。受けられる。
王威が後退する。王威の右足が後ろへ消える。
「ここだ」
好機、そう思って体ごと当てにいくような左のボディブローを放った瞬間に、右後頭部に強い衝撃が俺を襲った。
「えっ?」
気がつけば地面を這っている。
何が起きたかさっぱりわからない。
倒れた俺の顔面に容赦なく下段回し蹴りが放たれる。
鎖骨付近に激痛が走り、吹っ飛ばされる。
背後から迫り来る気配を感じ、四足のまま慌てて前方へ走り抜ける。そしてロープまで避難した後にロープを掴んで振り返った。
「生憎と獣を追っかける体力はないんでの……」
王威が喉を押さえながらそう呟いた。
先ほどの喉への一撃が効いているようだ。
「…………」
攻めにいくならまだ王威にダメージが残っている今だ。
だが、さっきの視えない一撃が気になってしょうがない。
誰かもう一人いるのか? そんな気配はなかった。
遠くから石を投げられた? それほど大きな石はなかった。
「なんじゃ? 来んのか?」
王威が一歩接近し、俺は迂回するように逃げる。
「…………」
全てが許されている喧嘩だ。何があってもおかしくはない。全力で警戒する必要がある。
「存外、臆病な奴じゃのう」
「……」
調子に乗りやがって……。
手についた泥をパンツで拭い、雨水を両手に溜めて顔を洗う。
「これでは逢魔ガ時が浮かばれん」
その名を口にするな。
「後悔しろッ!」
「ほざけ」
大きくステップして接近を試みるが、王威の右前蹴りが牽制する。
俺は右足を掴み脇に抱え込むと、王威の左軸足を刈った。
崩れた王威に向かい下段の拳を仕掛ける。
しかし届かない。
王威は崩れ落ちると同時に左手を地面に叩き付け、左手のみで身体を支え、右踵で俺の膝を蹴り潰した。
―ミシー
骨伝導で自分の左膝が破壊される音が聴こえる。
より高くから拳を落とそうとして欲をかいた。
膝を伸ばした瞬間を、その一瞬を狙われた。
「ガァッ」
訪れる激痛に耐えかね、王威に向かって倒れ込んだ。
ただでは転ばない。
そんな執念で王威の左肩に俺の両腕をまわし、王威が身体を支えている左手首を俺の左手で掴む。そして自分の左手首を自分の右手で掴んで全力で引き込む。
王威の手が王威の背中を回るように引き込きこまれる。
『拳法・腕がらみ』
別名をアームロックと言うこの技を極めた。この喧嘩を止める者はいない。当然審判もいない。俺は間髪いれず、王威の左肩を脱臼させた。
「ッッッッッゥうううううううアアアアア!」
痛みによる反射か、横四方固の状態から脱出するためかはわからないが、王威の体がとんでもなく大きく跳んだ。俺を跳ね飛ばすように王威が下からブリッジを行った。
「まわる……?」
予感は的中した。ブリッジで作られた隙間と下半身の慣性力を存分に使い、王威の上半身は大きく回転した。
自分が潰される気配を察知して王威を潰すように力をかけながら、反作用で起き上がる。
王威も一つテンポをずらして起き上がった。
互いに肩で息を吸う。
一呼吸置いた後に、互いに拳を顔面に放ち合う。
大きく仰け反り鼻血を口から吐き出す。
見れば王威も鼻から激しく出血していた、
「終わってねえぞ」
左足を引きずりながら俺は言う。
「まだまだ」
左肩を落としながら王威が言う。
「隙があればお前の首を食い千切ってやろうかと思ったが残念だったよ」
「ほぅ、わしも同じことを考えておったよ」
「…………お前は姉ちゃんの何を知ってる?」
「はて?」
「とぼけんな! 逢魔ガ時って言ってたろ!」
王威が距離を詰める。俺はその分下がる。
嫌な間合いだ。さきほどの見えない一撃が頭から離れない。
「なるほどなるほど、そうか、これは傑作じゃわい」
王威が腹を抱えて笑い出す。敵意剥き出しで構えている俺を目の前にして笑っている。
「何がおかしい?」
「ぬしは随分愛されておったようじゃのう」
「…………」
まあ別に仲は悪くなかったけど……。
「もし黄泉の国があったとして、わしがおぬしを殺したら逢魔ガ時はどんな顔をするかのう…………?」
王威の怒気が増大した。今の王威から視える赤の色は血を連想させる。
「口先だけならなんとでも言えるよなあ?」
決着は近い。
丹田に気を込め、拳を硬く、硬く握りしめる。
「逢魔ガ時はわしの片恋相手じゃ」
王威が更に一歩距離を詰める。俺は既にロープ際で距離を取ることができない。迂回しようにも膝が破壊されていて素早く立ち回れない。
「わしはのう……逢魔ガ時が愛しくて愛しくてしょうがなかった。逢魔ガ時さえ笑ってくれれば他のことなぞどうでも良かった。逢魔ガ時のためなら死ねるとも考えておった。我ながら純粋だった」
王威は壊れている左腕を前に垂れ流し、残った右拳を高く構えた。
「はっ! そんでピュアなお前は姉ちゃんに振られちまった訳か」
「そんなバカな話があるか、あってたまるか……」
そう王威は呟いた。
「彼女は鬼源城の主だった人間だぞ? そんな彼女を、逢魔ガ時姫を! このわしごときが所有するなど絶対にありえん! 絶対にだッッ!」
「鬼源城の主? それは桜花だろ? 叢雲桜花だ」
激怒した王威が右拳を放つ。
合わせて左拳を放つ。
脳ではなく脊髄が反応したような一撃。
『拳法・交錯拳』
放たれた拳に対して同じ箇所、同じ方向の逆ベクトルの拳を放つ。言わずと知れたクロスカウンターである。俺の最も得意とする技である。
今の王威のように興奮し、感情を露わにしている相手は感情の色の揺らめきによって攻撃のタイミングがわかるのだ。そこを狙い撃つのは容易い。
「のうのうと何も知らずに生きてきた貴様が憎い」
王威は倒れない。
どこから供給されるのか、枯渇してしまわないのか、それがわからないほどの量の感情の色を垂れ流し、俺を睨む。
「ある女の話をしよう。……鬼源城の主である女は偉大な予言者であり預言者だった」
「は? ヨゲンシャであり……ヨゲンシャである? お前が何を言ってるのかさっぱりわからねえよ」
「女は可能性という幾重にも重ねられた世界を予言し、より良い未来を導く預言をする者じゃった」
「…………」
「色んな輩が女を食い物にした。女を無限の力を持つ神のように崇拝して預言を乞うた。じゃが女はどう足掻いても人間だ。決して神ではないし神にはなれぬ。女の力は有限だ。そんなことは誰にでもわかっていたことじゃ。だが連中は乞食のようにより都合の良い未来を、そのための預言をしつこく乞うた」
「……」
正直言って王威の言っていることはわからない。それでも、わかるよう努力する必要があると感じた。
「女は疲弊していった……。能力が衰えていった。当たり前じゃ。女は『神倒れ』も済ませていない、完成していない十代半ばの娘じゃ。しかし預言を当然のものとして受け入れていた連中は、女を理解しようとしなかった。預言者は神が与えるべき預言を不正に独占しているとまで言われた。彼女はどんどん迫害されていった」
『死救い』とかいう生贄制度を作って、死体の上で笑いながら祭りをするような連中だからな……。桜花のような人間を潰すような行為は平気でやりそうだ。
「そしてある時、彼女の力が完全に失われた。なぜだかわかるか?」
「…………わから、ねえよ」
嫌な予感がする。
「貴様を…………
聞きたくない。
その一心で王威が喋り終える前に、俺はと前へ、王威に懐に入っていった。
『拳法・直突き』
呼び動作はほぼないと言って良い技である。拳を立てたまま捻らず放たれる直突き。
その拳はただ真っ直ぐ、最短距離で王威へと向かう……筈だった。
躱された。
史上最速の攻撃が躱された。
王威は体を捻るようして、俺の攻撃を躱した。動作は俺が動き出す前から始まっていた。俺の攻撃が完全に読まれた。
そして先ほどの視えない一撃が俺の右顎に炸裂した。
「サソリ蹴りか……」
後ろ回し蹴りと同じような軌道を描く蹴りである。
ただ後ろ回し蹴りと違い、体は正面を向いている。蹴りを放った後はそのまま打ち抜くのではなく元の姿勢に戻る。
予備動作の大きな蹴りであるが、王威の体が柔らかかったこととタイミングが良かったこと、俺の目玉が一個しかないため視野が狭くなっていることで俺は見逃してしまった。
良く考えれば見破れた蹴りだった。あの見えない一撃を受けた時、右足以外の四肢は確認できた。つまりは右足なのだ。そしてその右足を使った蹴りで俺の右頬を打つような可能性のある技は、後ろ回し蹴りを除けばこの技くらいなものだ。
卑怯でも反則でもなんでもない。全く通常の蹴りだった。
自分の未熟さを痛感する。
なんでもありの喧嘩ということで、逆に見えるものが見えなくなってしまった。
逆に王威は良く俺を見ているなと感心する。視界がない右から的確に攻撃を仕掛けてくるあたり戦い慣れていると感じる。
脳震盪を起こして俺の体が崩れ落ちる。
ゆっくりゆっくり落ちる。
その落ちる顔面を拾い上げるように王威の膝蹴りが刺さる。
天を裂くような強烈な膝だった。
視界が地面から空に変わる。雨の軌跡が一つ一つ見えた。
敗北した。
リングに接吻をするかのように俺は倒れこんだ。
「女、逢魔ガ時の力がなくなったのは貴様を孕んだからじゃ」
そんな話があるかよ。
ずっと姉だと思っていた人が母だったなんてありえないだろ……。
信じられる訳ねえ。
「貴様が奪った。彼女から全て奪った」
信じねえ。
「貴様は寄生虫のように彼女から力を、そして命をも奪った」
聞きたくねえ。
「わしは逢魔ガ時を食い物にした連中を、逢魔ガ時を食い殺した貴様を赦さん」
「はっ!」
「殺してやる」
「今が絶好の機会だぜ?」
「残念じゃが今はその時ではない」
「口先だけだなあ、てめえは」
「人は神にはなれなくても鬼にはなれる」
最後にそう言い残して王威は消えた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!」
泥水を撒き散らしながら誰もいないリングで思い切り叫んだ。
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