(本)鴻上 尚史『「世間」と「空気」』—現代社会の本質を捉えた名著

2012/07/10


これは久しぶりに大ヒット。素晴らしい内容でした。ちょっと長めになりますが、気に入ったセンテンスをメモしていきます。


席取りするおばさんの「世間」と「社会」

・電車で、たまにおばさんたちの団体さんに遭遇します。おばさんのうち、すごく元気な人が、まず社内に飛び込み座席を人数分、確保します。そして、後からやってくる人に「ほら、ここ!取ったわよ!」と叫びます。(中略)おばさんは、決して、マナーが悪いのではないのです。それどころか、仲間想いのとても親切な人のはずです。困っている仲間がいれば、きっと親身になって相談に応じたりしているのでしょう。おばさんは、自分に関係ある世界と関係のない世界を、きっぱりと分けているだけです。それも、たぶん、無意識に。

・おばさんは、自分に関係のある世界では、親切でおせっかいな人のはずです。そして、自分とは関係のない世界に対しては、存在していないかのように関心がないのです。この、自分に関係のある世界のことを「世間」と呼ぶのだと思います。そして、自分に関係のない世界のことを「社会」と呼ぶのです。

・「それは理屈だ」というのは、「人間というものは、そんなに簡単に理屈で割り切れるものではない。論理的には、お前の言っていることは正しい。けれど、それでは世間は納得しないだろう。もっと人間の事情や感情を考えろ」ということです。これは西洋的な「個人」の概念からは出てこない言葉でしょう。


世間の5つのルール

・①贈与・互酬の関係。「お互い様、もちつもたれる、もらったら必ず返す」という関係。一番分かりやすいのは、お中元やお歳暮、内祝いと呼ばれる祝儀に対するお返し。

・②長幼の序。年上か年下か、ということがものすごく大切。英語では「先輩」「後輩」のニュアンスが絶対に伝えることができない。なぜ年上というだけで尊敬しなくてはならない?と驚かれる。

・③共通の時間意識。「先日はありがとうございました」は共通の過去を生きた確認であり、「今後ともよろしくお願いします」は、おなじみ来を生きるという宣言。同じ時間を生きているとは思えない相手は、同じ「世間」のメンバーとは認められない。

・④差別的で排他的。日本で欧米にないいじめが「何もしないいじめ」。クラス全体が特定の一人を徹底的に無視する。何もしないことで「世間」を成立させている。

・⑤神秘性。論理的な根拠はない「しきたり」「迷信」「伝統」など。


キリスト教が「世間」をつぶした

・「十世紀から十三世紀にかけて書かれた「アイスランド・サガ」を見ると、人々が我が国の「世間」と同じような絆のもとで暮らしていたことが分かる。サガには約7000名の個人名が出てくるにもかかわらず、それらの人にはほとんど内面の描写が無い。彼らは集団で暮らし、集団の掟のもとにあった(阿部謹也『学問と「世間」』)」(中略)キリスト教というシステムがなければ、西洋もまた「世間」が続いていただろうという大胆な研究。

・カトリック教会は、「世間」の存在を許していると、キリスト教だけを信じるようにはならないと徹底的に「世間」を攻撃した。ルカ伝14章には「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも読んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」という記述がある。ユダヤ社会の贈与慣行を打破するため。


「世間」が流動したものが「空気」

・世間の定義。『「世間」という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の全体の総称なのである。「(阿部謹也『「世間」への旅』)』

・「空気」とは「世間」を構成するルールのいくつかが欠けたものである。「世間の判断として、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」「全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」という言葉を比較すると、「世間」の文章の方が、決定が不動で確固たる印象を持つ。「世間の判断」を「世間の思い」にかえると、文章のニュアンスはもっと「空気」に近づく。「思い」は変わる可能性があるから「空気」と似たニュアンスが生まれる。

・日本人は、席を譲った後、ほとんどの場合、譲った人は、その場から離れようとします。声をかけ、どうぞ座ってくださいとお年寄りの方に話しかけた後、立ち上がった人はその譲った場所から移動しようとするのです。(中略)日本人のあなたなら、この感覚が理解できると思います。軽いバツの悪さというか、恥ずかしさというか、居心地の悪さ。

・(前略)日本人は、そんな多数決原理さえ、人々の真意を表すようには使っていない、と山本(七平)さんは書きます。会議であることが決定して、散会した後、各人は飲み屋などに行き、そして、「職場の空気」がなくなって「飲み屋の空気」になったとたん「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー…」といったことが「飲み屋の空気」で言われることになり、そこで出る結論はまったく別のものになる、ということです。

これからの時代の向き合い方

・アメリカ人は「神に強烈に支えられた個人主義者」でしかないのです。それは、強い個人でもなんでもありません。(中略)「自己責任」なんて言葉を、何も支えるものがない日本で、政治的意図だけで簡単に言い出す政治家や、それに乗ったマスコミに対して、本気なんだろうかと僕は思ってしまいました。

・不安はますます増大します。都市化と経済的・精神的グローバル化と格差社会で、伝統的な「世間」は崩壊し、不安はどんどん増大するのです。不安に負けないように自分を支えたい。支えなければ、生きていけない。けれど「世間」は支えてくれない。その結果が、ここ数年の「空気」という言葉の乱発ではないかと僕は思っているのです。

・インターネットの一番の肯定面は、自分で「共同体」を選ぶきっかけを見つけられるということです。「世間」の特徴は「所与性」だと書きました。自分で選ぶのではなく、与えられるものです。けれどインターネットは、自分の所属する共同体を選び取る可能性を。私たちに与えたのです。

・それは「複数の「共同体」にゆるやかに所属すること」ということです。


というわけで、印象的な箇所を厳選してピックアップしました。気がついたらページ全体の半分くらい折り目が付いてしまいました。これは売らずに取っておきたい名著。

インターネットに対する考察も非常に面白いです。批判をすることで「世間」を構築しようとする人たちは多いですが、その危うさについても言及されています。

世界の見え方を変えてくれる一冊です。激しくおすすめ。今後、時折記事の中でも文章を引用させて頂こうと思います。