母から聞いた話です。同僚女性教員が終戦後駐留したアメリカ兵に強姦され、その後自殺した、と。そして、それを知った母の父は以後母を幽閉し、一歩も外に出さなかったそうです。他人で良かったとは思いませんが、母が強姦されていたとすれば・・私は生まれてこなかったと思います。
もう一つ母の同僚と戦争の話を。
皆さんは、「私は貝になりたい」という映画をご存知でしょうか。
私は貝になりたいウィキペディアより
<引用開始>内地の日高中隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカ軍B-29の搭乗員が大北山山中に降下。軍司令官の矢野中将による「搭乗員を確保、適当(2008年の映画版では「適切」)な処分をせよ!」という命令が、尾上大隊を経て大北山の最寄にいた日高中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。そこで豊松は、小隊長から滝田二等兵とともに銃剣でその米兵を刺すよう命じられた。
終戦後、豊松は無事に復職するも戦犯として特殊警察に逮捕され理不尽な裁判に人生を翻弄されるのであった
<引用終了>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%B2%9D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84
関谷和著 「子どものころ聞いたことば 話していたことば」より
<引用開始>
H先生の想い出
H先生に教わったのは昭和18年、4年生の時だった。先生は実業学校を卒業したばかりの18歳で学校の宿直室に寝泊まりされていた。何もかもが軍国調一色に染まっていく学校の中で、この先生は今考えてみると他の先生とはすこしちがったところがあった。
<中略>
2学期のある日、先生は大学の予科への入学が決まり学校をやめた。でも、その直後に軍隊への入隊が決まった。私たち10数人は、となり村のその向こうの村にある先生の家まで歩いて会いに行った。そのとき、当時はもうめずらしくなっていた白米のごはんをごちそうになった。
<中略>
その後私は、ひとりだけで先生に会う機会があった。そのとき先生はなんだか淋しそうで、「俺は捕虜を殺した。」と云った。塹壕の中に集められた新兵たちに、隊長は柱に縛り付けられている捕虜を銃剣で殺すよう命令したのだ。「かかれ!」の号令に誰も身動きできない。不気味な沈黙のつづく中で先生はとび出していってしまったと云うことだった。
先生は大学に復学されて通学していたがその2年後に心臓麻痺で急逝された。私たちは誰も葬式に参列できなかった。申し訳ないことだが、その後墓参りにも行く機会もないままになっている。
<引用終了>
私も「私は貝になりたい」とブログに書いたことがあります。
こちらの方が引用してくれ、当時の私の状況をかなり的確に表現してくれています。
にゅーすななめよみ
http://renuranus.blog25.fc2.com/blog-entry-329.html
「私は貝になりたい」とは、海底の奥深くに暮らす貝なら人間にいじめられなくて済む、という本物の「苦し紛れ」の言葉であり、接点もない、盗用の証拠も持たない新聞社や日本テレビにより取材も受けずに「悪者」と全国報道され苦しんでいる時、私も本当に「今度生まれてくるとしたら貝になりたい」思いました。
今から思えば、東日本大震災ですべてを失った被害者の精神状態と同じくらいの「自分自身では回復できないほどの精神的ショック」を受けたのですから、私が病気にされ、自分をセルフコントロールできない状態に陥らされたことを疑う人間は数少ないと思います。
H先生も同じでしょう。人を殺したことで、自分で自分を傷つけ、病気にさせ、限りなく自死に近い「心臓麻痺」で亡くなったに違いありません。
会えない老母にもうこのことを尋ねることはありませんが、後世に伝えていかなくてはならないことだと思っています。