最終更新日:2005年01月15日

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表紙 > NHK・ETV特集から消された戦場の証言


2000年12月に行なわれた女性国際戦犯法廷で、中国帰還者連絡会に属する元兵士2人が、「裁きがあって和解がある」という同法廷の趣旨に賛同し、戦場における性暴力の証言を行ないました。

2001年1月に放映されたNHKのETV特集では、この元兵士の証言が伝えられるはずでした。しかし、放映された番組からは何故か元兵士の証言は消えていました。被害者の証言や、判決文の読み上げも消えていたのです。この改竄の背景に政治的圧力があることは以前から関係者のあいだで囁かれていましたが、朝日新聞のスクープによって、これが安倍晋三・中川昭一という自民党の極右議員による圧力であったことが明らかとなりました。憲法の精神にもとる放送の自由への干渉へ断固として抗議し、彼らが人々の目から隠そうとした戦場の証言を掲載します。

●元陸軍伍長・金子安次さんの証言

検事  金子安次さんは1920年1月28日生まれ、80歳ですね。あなたは1940年11月に北支那方面軍に入隊されたのですね。

金子  はい。

 

検事  それ以後、中国山東省などを転戦されて終戦を迎えられたのですね。

金子  はい。

検事  あなたの軍隊における最後の地位は何でしたか。

金子  伍長です。

検事  それでは、これからあなたが中国大陸で体験されたことについてうかがいます。あなたが軍隊に所属されていた間に、自分で体験した「慰安所」というのはどういうものでしたか。

金子  私は、昭和17年に山東省の東昌というところにいました。その時に中隊の命令で、巡回慰安婦の移動を警備をしろという命令を受けました。そして機関銃中隊から少尉以下9名、機関銃を持って大隊本部にまいりました。その時にすでに小銃隊が15名ほどおりまして、2台のトラックに乗りました。私たちが2番目のトラックに乗ったときに、そこには絣の着物を着た従軍「慰安婦」の方が3人おりました。しかしながら、敵地区をまわるので八路軍に襲撃される恐れがあるからまずいということで、携帯用の外套を上から着せました。そして軍帽をかぶせました。その車中の中で、古い兵隊が「おれはおまえたちのために警備して送るんだが、もしも途中で八路軍に敵襲を受けて戦死したらこんなに恥ずかしい話はないよ」と「慰安婦」の人に言ったんです。そうすると「慰安婦」の一人の方が「だったらやめたらいいでしょう」、こういいました。「馬鹿野郎。おれは勝手に来てるんじゃないんだ。命令で来ているんだ。そんな勝手なことができるか」。そうすると、「慰安婦」の方が、「あたしだって何も好きこのんでこんな危ないところに来ませんよ。軍隊の偉い人のお陰でここに来ているんですよ」と言いました。

検事  今のは、あなたが軍隊に入って「慰安婦」の輸送にかかわったときの出来事ですね。それでは、次にあなた自身が「慰安所」に行くようになったときの体験をお話し下さい。

金子  私が一番最初に「慰安所」に入ったのは、昭和18年のことでした。それは、臨清県というところにいたときです。当時私たちは「慰安所」とは呼びませんでした。「ピー屋」と呼んでいたんです。そこにまいりました。女の方が4人いました。すべて朝鮮人の方だという話でした。女の方が「いらっしゃい」といいました。ところが日本語がたいへんうまいのです。「おまえ朝鮮人か」、私は聞きました。「違うわよ。私は日本人よ」。「なに日本人? 大和撫子がこんなところにいるなんて、日本人の恥さらしだ」。そういうようなことで、そこで口論になりました。そして払いましたお金をふいにしてしまったんです。このようないきさつがありました。その時に彼女はこういいました。「兵隊さん、私は好きこのんでこんなところにいるんじゃないですよ。私の夫は上海事変で戦死しました。ふたりの子どもと母親をかかえて、どうやって生きていけばいいんですか」。彼女はこういったんです。私は二の句も告げずに立ち去りました。こういういきさつがありました。

検事  あなたが見た「慰安所」というのは、女性たちは自分たちの意志できていた人たちですか。

金子  違います。日本には公娼制度というのがあり、それは営業であり金儲けです。しかし、そこで働いている人は、みんな苦しいから働いているんです。金で縛られているから自由に行動できない。そこに「慰安婦」の「慰安婦」らしいところがあるんです。

検事  自由がないということですね。
 こうした「慰安所」があることは、強姦の防止に役立ったと思いますか。

金子  役立っていません。

検事  それは何故でしょうか。

金子  「慰安所」にいって1円50銭払うんだったら、強姦だったらただです。我々の月給というのは、だいたい一等兵で8円80銭くらい、上等兵で11円くらい。その中から強制的に貯金をとられるんです。ですから金があまりありませんから、1円50銭払うくらいだったら、作戦にいって強姦をした方がただだというような考えがありました。

検事  あなた自身も、そういう考えの中で強姦に加わったことがありますか。

金子  あります。昭和18年、作戦にまいりました。その時にある部落で若い兵隊が一人の若い女性を連れてきました。21、2歳でしょうか。それを、6人の兵隊でくじ引きをひいて順番を決めて、ひとりひとりその女を輪姦しました。こういう事実がございます。

検事  そういった強姦をすることについて、あなたの所属していた軍隊は、どのような指示が出ていたのでしょうか。

金子  昭和14年から15年、当時日本では「生めよ増やせよ」というスローガンがありました。男の子がうまれたなら、労働力にも戦力にもなる。女の子だったら、将来のいわゆる再生産になる。だから子どもをどんどん産みなさい。そうすれば日本はどんどん栄える、こういうスローガンがありました。だからそのつもりで戦地に行きました。そうしますと命令がくるっと変わりました。女は殺せ。子どもを産むから殺せ。子どもが大きくなったら我々に反抗するから子どもも殺せ、というように上官の命令がくるりと変わったんです。そういうことですから、私たちたちはどうせ殺すのならどんどん強姦してもいい、そういう考えで私たちは強姦しました。

検事  くり返しますが、上官は女を見たら殺せという指示が出ており、どうせ殺すのなら強姦してもよい、このような考えでいたわけですね。

金子  そうです。

検事  このような証言をするのは楽なことではないと思いますが、あなたはなぜこのような場で証言をする気になったのですか。

金子  はい。これは正直なことをいいますと、私も自分の妻や娘にこういうことはいっさい話しておりません。実際できないんです。しかしながら、私たちがやったことについてどれだけ中国人民が泣いていたのかということを、私たちは撫順の戦犯管理所でしみじみとわかったんです。これは二度とこういうことを起こしてはならない。これを止めるのは、現在残されている私たちしかないんだ、こういうことからこの問題を皆さんに聞いてもらいたい。こういう気持ちです。(拍手)

金子  先ほど強姦の問題がありましたが、陸軍刑法では強姦をすると7年以上、現場にいただけでも4年以上という刑罰があります。しかしながらなぜ私たちが強姦したかというと、確かに金の問題もありますが、現在では私たちは中国人といっていますが、しかし当時は支那人、あるいは差別的に「チャンコロ」といっていました。「チャンコロ」の女を強姦して何が悪いんだ、どっちみち殺すんじゃないか、こういうような気持ちをもって強姦したわけです。従いまして、中隊長あるいは大隊長でも自分の部下がたとえ強姦罪を犯しても陸軍刑法を出さない。自分の功績に関係するんです。そしてもう一つは、チャンコロだという劣等視があるんです。だから、われわれ兵隊は強姦をしたんです。以上です。

検事 これで質問を終わります。



●証言を終えて(聞き手:熊谷伸一郎)●

 時間の制限があって、きちんと話すことができなかったのが残念でした。しかし、こうした「法廷」を準備した女性たちの力は凄いですね。たいしたもんですよ。

――金子さんがその移送を警備していた「慰安婦」の方はその後、どうなったのですか。

 陽殻県というところに駐屯していた中隊に運んでいきました。その中隊につくと、兵舎が天井から吊るした毛布で三つに仕切ってあり、そこに一人ずつ、「慰安婦」の方が入れられたんです。一日目は中隊長以下の将校が独占し、二日目は午前が下士官、午後は百人を越える兵隊が三人の「慰安婦」に殺到しました。兵隊たちが脚半を巻いたままズボンをおろして「早くしろ!」と怒鳴っていました。

――こうした証言をするには勇気が必要ですね。

 撫順でもこの強姦の問題は深く告白をしたわけではなかったんです。というのは、強姦というのは表面に出にくい問題で、管理所側は証拠がない問題は追及をしませんでしたから、強姦の問題は黙って済まそうと思えば済ますことができたからなんです。もちろん、その時には人間としての良心が芽生え始めていましたから、ある程度は告白したんですけれども、それはただ「強姦をした」という内容で、具体的なことは私は書きませんでした。…強姦というのは、これはちょっともう…。本当に残酷な問題なんですよ。

――戦場では強姦は頻繁に行われていたのですか。

 作戦中はね、それはもう毎日のようにやっていました。私もそうです。当時、中国の女性は纏足をしていて逃げられず、家にいることが多かったので…。

――こうした証言をするようになったきっかけはなんですか。

「慰安婦」だった人が名乗りをあげて、この問題が出てきたとき、これは言わなければいかんかなと思い始めたんです。その後、「慰安婦」問題で、戦争の実態を何にも知らない人間がこの問題でもウソを言い出してきて、これは言わなければいけないと、そう思ったんです。戦友会の連中は言わないでしょう、黙りこくっちゃって。年もとって体面もあるしね。

 しかし、事実は事実として伝えなければならない。そしてそれは戦争を行った我々にしかできないこと、我々の責任なんです。生きている限り、ありのままの事実を語りつづけていきます。

表紙 > NHK・ETV特集から消された戦場の証言

 

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