high-gentlemanさん活動家の学会員の方でした。
2012-05-26 19:09~2012-02-23 20:45にかけて、38コメントの対話が行われました。
内容は、骨にまで厳が転移している友人に、確信をもって「絶対に治る」と言えないことに迷われ、コメントをくださった方でした。
冒頭、high-gentleman は、次のように語られました。
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Commented by high-gentleman at 2012-02-14 09:44
病気と闘っている人を折伏する時に、『この信心をすれば、病気は必ず治る。「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病、障りをなすべきや」と日蓮大聖人も信徒を激励されています。』と言い切れれば、どれほどスッキリするでしょう。
でも、現実はそうではない。
私は福子なので、祈った末に出た結果なら、それがどんな結果でも、先ずは受け止めることが出来ます。でも、「病気が治ると言われて信心を始めた人が、結果的に治らずに死んだら」と思うとどうしても二の足を踏んでしまいます。
これが「壁」と言われるものなのでしょうか?
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とても重大なテーマでした。
いくつかのやり取りの中で、私も同様の経験をしたことを話しました。
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Commented by knight-1 at 2012-02-16 06:50
私も1つ経験があります。
職場の同僚が交通事故で重大な後遺症を持ってしまった。
会いに行ったとき、あまりの状態に絶句したんです。
とても、信心を勧める気持ちになれなかった。ある意味、絶望の状態でした。
その人は、事故から10年後になくなられましたが、眼前の悲惨に私自身が引いてしまいました。
今の私でも、言い出せませんね。
そういうことがありました。 ★月下
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対話の中で、私は、とどのつまり、真剣な祈りしかないと申し上げました。
「現実に、治るか治らないか、それは約束できないこと。入信したとしても、当の本人の信力、行力にかかっていることです。ですから、「治る」と言い切れなくてもよいというのが私の考えです」と。
high-gentlemanさんは、最後言われました。
「とにかく唱題を続けることから始めたいと思います。折伏はその場限りのものではなく、実っても実らなくても、相手との付き合いは続きます。実った場合にどこまで面倒を見ることが出来るか、その覚悟は自分にあるのか?はっきり言って、今の自分にはその覚悟がありませんが、祈る中で「何か」を得たいと思います」
シビアな対話でした。
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