仏教の考え方の難しいところ
「仏教と大量殺人」というタイトルにしようかと思ったが、不用意に刺激的なのでいい加減なタイトルに変えた。たぶん普通の日本人は仏教は不殺生の宗教なので、大量殺人を教義的に許容することなどありえないと考えるのではないか。実際夏安居などはジャイナ教かと思えるほどだ。あるいは多少日本史を知っている人なら僧兵や本願寺戦なども連想するかもしれないが、それでも仏教の教理において殺生を是とする考えがあるとは思わないだろう。しかし、子細に仏教を検討していくとそうとばかりもいえない。
歴史的に興味深いのは北魏における大乗の乱だろう。なぜかウィキペディアに項目がある(参照)。
大乗の乱(だいじょうのらん)とは、中国北魏の宗教反乱であるが、人を殺せば殺す程、教団内での位が上がるという教説に従った殺人集団であり、その背景には弥勒下生信仰があるとされる。
515年(延昌4年)6月、沙門の法慶が冀州(山東省)で反乱を起こし、渤海郡を破り、阜城県の県令を殺し、官吏を殺害した。法慶は自らを「大乗」と称した。 それより先に、法慶は幻術をよくし、渤海郡の人であった李帰伯の一族を信徒とし、法慶が李帰伯に対して「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」という称号を与えた。その教えでは、一人を殺すものは一住菩薩、十人を殺すものは十住菩薩であるという。また狂薬を調合し、肉親も認知できない状態にして、ただ殺害のみに当たるようにさせた。
殺人者をもって菩薩とするなど日本人の仏教観からすればありえないだろうし、そのような観点からこの宗教はそもそも仏教なのかという疑念すら持つだろう。確かにその疑念の余地はあるのだが、この事件は必ずしも後の仏教徒にとって忘れ去られたわけでもなさそうだ。
性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの 闇と光 正木晃 |
呪殺とはいえ、殺人技法を含んだチベット密教、つまり、チベット仏教とは、どういう仏教なのだろうか。
チベット仏教とは何かというストレートな問いも立てられるだろうが、その前にそれがいくつかの派に分かれていることを確認しておきたい。「チベット密教の神秘 快楽の空・智慧の海 世界初公開!!謎の寺「コンカルドルジェデン」が語る(正木晃、立川 武蔵)」(参照)などを読むとわかるように大きく四大宗派に分かれている。
現在チベットには四つの大宗派が存在している。ニンマ派、カギュー派、サキャ派、そしてゲルク派である。
チベット仏教の歴史は、古代チベット(吐蕃)王国による仏教庇護の中断および王国滅亡を境に、前後二期に分かれて考えるのが常識となってきた。九世紀中頃以前を「前伝期」、十世紀後半以降を「後伝期」と呼んでいる。
前伝期にインドの公式言語であったサンスクリット語からチベット語に翻訳された密教経典を「古訳」、後伝期になって翻訳された密教経典を「新訳」と分ける。「古訳」を奉ずる宗派をニンマ派(古派)、「新訳」を奉ずる宗派をサルマは(新派)と称して区別している。したがって、四大宗派は、まずニンマ派とそれ以外のサルマ派とにわけることができる。
チベット密教の神秘 快楽の空・智慧の海 世界初公開!!謎の寺 「コンカルドルジェデン」 が語る 正木 晃、立川 武蔵 |
- 庶民支持が強いニンマ派(派としての統一性はあまりなく、一人一派ないし一寺院一派的な傾向が強い。
- 密教色の強いカギュー派。(カギュー派の修行法は多岐にわたる。その中心にすえられているのは「大印契(マハームドラ)と呼ばれる観相法。しかし、これもまたその内容については諸説ある。
- 戒律の厳しいゲルク派(全チベットの代表者として有名なダライラマは、このゲルク派の法主であり、ゲルク派が現在チベット最大の宗派なのである。
- 中世チベットに君臨 サキャ派(現在でもインドの首都ニューデリーの北に位置するデラドゥンに、コン氏本家の末裔がチベットから亡命し、サキャ派を率いている。
ここで「極東ブログ: [書評]中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて(島田裕巳)」(参照)を連想する。同エントリで扱った同書で、著者島田は「虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(ケツン・サンポ、中沢新一)」(参照)がオウム真理教からアレフ、さらにその後の継承集団に影響を与えていると見ているが、この中沢の言うチベット密教はそこに描かれる彼のチベットで修行からニンマ派を指しているとしてもよいだろう。中沢がどの程度ニンマ派の教説を習得したかについて、島田は興味深い、中沢からの私信を明かし、こう述べている。
手紙のなかで中沢は、はじまったばかりのチベット密教の修行について嬉々として語っていた。もちろん、文面からもわかるように、この段階では、師から教えられた説明をそのままくり返しているだけで、中沢自身も括弧のなかに記しているように、自らの体験にもとづいて修行の体験をつづっているわけではなかった。ただそこには、新しい世界を敬虔していることからくる喜びが素直につづられていた。
ところが、次の第四信が、最後の手紙となってしまった。そこでは、ニンマ派チベット仏教の最高段階である「ゾクチェン」の戸口に立つまでには少なくとも十数年はかかるということが記されていた。
「ゾクチェン」の戸口に立つまでに十数年かかるというのはただの事実だろうし、そこに中沢が立つことがなかったことも事実だろう。碩学山口瑞鳳が中沢新一について「実践できたのは、内容的にも掛け出しのニンマの坊さんがやる程度のことだったのではないでしょうか」とコメントしているがそのたりのコメントも妥当のように思われる。
では、「虹の階梯」とはどのように書かれたのだろうか。島田は考察している。
ケツン・サンポの講義は、すべてチベット語でなされたという。けれども、チベット語を学びはじめてそれほど年月が経っていない中沢に『虹の階梯』に記されたかなり複雑な事柄がそのまま理解できたのだろうか。実際、彼は、本の「まえがき」で、自らのことを「チベット語の初学者」と呼んでいる。しかも彼は、その間、ずっとネパールにいたわけではなく、日本に戻ったりしていた。そう考えると「弟子の日本語に移しかえたものである」という言い方が気になる。チベット語からの翻訳に携わったのは、実は中沢本人ではないのではないか。当然、そうした疑問がわいてくる。
Tantric Practice in Nying-Ma Khetsun Sangpo Rinbochay |
いずれにせよ島田の指摘を追っていくと中沢からオウム真理教への文脈におけるチベット仏教はニンマ派、ゾクチェンを指すようにも思える。「終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か(ロバート・J.リフトン)」(参照)を著したリフトンもオウム真理教にニンマ派の影響を見ている。
終末と救済の幻想 オウム真理教とは何か ロバート・J.リフトン |
以上実は前振りであって、エントリで触れたかったのは、オウム真理教に影響したかもしれないニンマ派やカギュー派と、現在世界でチベット仏教の権威的な代弁者とされるダライ・ラマのゲルク派の分明である。私の理解が至らないかもしれないが、ゲルク派は、カギュー派から活仏思想を継いでいるものの、ニンマ派やカギュー派的なタントリスムを整理し(事実上棄却し)、より呪術性少なくかつ倫理性の高いチベット仏教となっている。このことは、欧米や日本でも有名な「死者の書」(参照)のニンマ派版とゲルク派「ゲルク派版 チベット死者の書」(参照)の差異にも現れていると言えるだろう。
心ひとつで人生は 変えられる ダニエル・ゴールマン編 |
ロバート・リビングストン 日本への原爆投下のケースはどうなんですか。あの行為をした人たちは、それで一〇〇万人の命が救えるからっていわれてやったんですよ。
ダニエル・ゴールマン あれは菩薩の行為と言えるのですか。
ダライ・ラマ むずかしい判断だが、理論的にはありうる。もしそれが大勢の人の命を救うための行為だったとすればだがね。
ダライ・ラマは仏教の理論からして、原爆投下が菩薩行たり得ることを可能性として認めている。
では、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマは原爆を肯定しているのだろうか。そうではないのだが、その説明が非常に理解しづらい。
ダライ・ラマ(中略)ボブ、あなたの提起した長崎と広島の原爆投下の問題に戻ると、その行為の善し悪しは、歴史上の一時期ではなく、長期的な結果をみて判断すべきでしょうね。今日世界じゅうに核兵器が拡散している事態をみれば、原爆投下は反倫理的な行為だったと断言できるんじゃないかな。そのときにはよい動機があったかもしれないが、それ以来、さまざまな悪い結果が生まれたことはまちがいないし、恐怖も増大しましたから。
私はここで困惑する。恐らく日本人の大半も、また仏教徒と呼ばれている日本人も困惑するのではないだろうか。原爆の是非は、その投下時にはわからないというのだ。
ここには微妙な形で大量殺人の肯定が含まれていると理解せざるをえない、あるいは命の尊厳を算数的に比較する考えがある。
ダライ・ラマは突然の問い掛けでその場しのぎにそう答えたのではない。彼は、原則をこう説く。強調は本文ママ。
ダライ・ラマ 二つのことを天秤にかけて考えるのです。いっぽうには殺人のようなよくない行為、もういっぽうには状況をのせます。つまり、その状況ではどっちが重要なのをつねに考えるということですね。状況によっては、たとえよくない行為でも、その行為をすれば大きな利益が得られ、行為を避ければ害が生じる場合があります。このバランスの原理は、もっとも基本的な仏教の倫理を解いている律蔵にも説かれているし、菩薩の倫理にも貫かれている。一般原理と状況の二つを天秤にかけて、特定の状況を判断するわけです。(後略)
そして次の教えは私にはある意味で驚きだったし、仏教を深く考えさせる契機になった。強調は本文ママ。
ダライ・ラマ あなたのみつけた悪い性質や悪徳が、さらにもっと大きな害をもたらす恐れがあるときは、それを抹殺してもいいのです。しかし、ここが重要な点なんですが、それには、大きな害を避けたいという慈悲心が動機になっていなければならないということです。悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。
日本の仏教者はダライ・ラマの教説を否定するだろうか。そしてその否定のしかたは、「それは仏教ではない」という否定になるのだろうか。もしそうなら、では、ダライ・ラマの仏教を否定する日本人の仏教とは何に依拠しているのだろうか。
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コメント
日本の仏教ということで言えば、親鸞の造悪論を思い出しますが、ということで検索したらすでにエントリーを書かれていますね。
あと、日蓮系の井上日召なども想起します。
ということで血盟団で検索したら、今度は重信房子が出てきました。
これは驚き
投稿: かつ | 2007.04.22 16:28
「地下鉄サリン事件」の後、オウム真理教を擁護するともとれる言及によって、轟々たる非難を浴びた思想家の一人に吉本隆明が挙げられると思うが、その吉本は、比較的近年(2005年)著した「13歳は二度あるか:大和書房」の中で、オウム問題について次のように触れている。
「多くの人を殺傷したのですから、その罪は重いものです。法律に照らし合わせてきちんと裁かれるべきです。しかし、彼らが法律よりも優先した教義、つまり彼らの行動のもとになった考え方を知ろうとしないままで事件を終わらせてしまってはいけないのではないかと考えるのです。
こうした事件がなぜ起こったのか。教団の中にいる人を「人を殺してもかまわない」と思わせた教義とはどんなものだったのか。彼らが人間の生命よりも大切だと考えた宗教の中身について検討せずに、罰だけを与えて終わってしまっては、この事件の本当の意味がわからないままになってしまうと思うのです。」
この本は、前思春期という微妙な時期にさしかかる中学生を対象に書かれているわけで、吉本は、難解な表現を避ける配慮をしながら、しかし後世に伝えておきたいことをかなり端的に述べているように思う。
投稿: Phenaphen | 2007.04.22 21:09
小説ですが、野火迅さんの『仏鬼』は、仏教の殺生を主題にした時代劇?ですね。
投稿: 金さん | 2007.04.22 21:45
無宗教でたいしたことも言っていない細木氏とか江原氏とかああいうものに指針をおくスピリチュアルとかでとどめおく日本人の感覚でいいのかもしれませんね。
でもそのうち スピリチュアルも カルトに走っていかないか?と危惧はしております。
宗教に関してちゃんと教育することも必要でしょうね・・・わが国では避けられていますが、歴史にはきちんと宗教はでてきているわけですし。
投稿: りん! | 2007.04.22 22:50
チベット仏教に限らず近代以前の宗教、とくに古代宗教というものには、現代的な意味での宗教思想に限定されない政治思想などとしての側面もあるのではないですか。
とくにチベットの場合は祭政一致の体制ですから、治者としての視点がそこに含まれていても不思議ではないと思います。
そのような視点から見れば、ダライラマが言っていることにそれほど違和感は感じないのですが。ただ、そのような論理を個々の修行者が独善的に行使するようになれば、いろいろな問題が生じてくることは確かですね。
投稿: かつ | 2007.04.23 00:23
ダライラマといってもチベット仏教の一宗派であって仏教そのものではない。ましてや泡沫分派というか仏教を騙ったエセ宗派の言動を持ち出して仏教を語るのはいかがなものかと。世界的に広がっているものなので日本でいう「仏教」とは異なるものも多い。宗派が違えば考え方が違うのは当然のこと。ダライラマをブッダや観音の化身だと信じている日本の仏教家などいるだろうか? 根が同じというならユダヤ教とキリスト教とイスラム教は同じもの。「いろいろ分派があって一括りにするのは難しいね」という話なら そんなのは当たり前であっていまさら議論するようなことではない。
投稿: en | 2007.04.23 01:37
これを教えを乞う、問うという我が身のありかたに思うひとも居る。
天災におそわれるように死生の淵に立たざるをえなかったひともおおいにいるけれど、そしてそのことは忘れられないけれど、これから淵に立つことを想ってあらかじめそのたち方を問うてしまうと、教えられた答えにのっとられてしまうと思うひともいます。
それを繰り返してうんざりしながら、仏教をおさめた仏教学者というのは言葉のあやであって、学者の衒いにすぎない気づくひともいます。
いわんや宗教家においてをやと思いながら、ひとのために生きるむづかしさに我をわすれることもあり、少しだけありがたく思うのですが。
投稿: 都市に棲む山姥 | 2007.04.23 04:17
現ダライ・ラマの依頼を受けて,ゴルゴ13がダライ・ラマ後継者をチベットから脱出させるはなしを思い出してしまいますね.
投稿: | 2007.04.23 09:02
戸塚ヨットのおっさんも仏教を勉強してたんじゃなかったか。
実際に行うことと述べることの落差というのがあって、ダライラマの発言は殺人者に対する許しのような要素になっているのでは。原爆を落としたことの責任、みたいな。
つーか、捉え方でもどうにでも。
投稿: cyberbob:-) | 2007.04.23 10:04
なんというか、仏教の「ある種の冷徹さ」を感じさせますね。
日本でのイメージと異なり、現実の感情を突き放す厳しさがあると思います。
投稿: インド哲学科 | 2007.04.23 14:41
松永英明は今何やってるんですかね。
えらく忙しいらしいですが、佐々木氏の肝いりでオーマイのリニューアルでもしたか?w
投稿: Amazon | 2007.04.23 15:50
>ゴルゴ13がダライ・ラマ後継者をチベットから脱出させるはなし
どうでもいいのですが、あの話はダライ・ラマ後継者じゃありません。
投稿: Hiro | 2007.04.24 00:08
悪徳に対しては慈悲心をもって暴力を用いるべきであるというのは、法治国家においては法律に基づいて刑を執行すべきである(私刑は認めない)という感覚に近いかもしれませんね。
投稿: | 2007.04.24 13:13
ダライ・ラマが言ってることは経済原理に則った(?)選択方法と思います。
それが即殺人教唆(?)に繋がるとは思えません。
なので、これは教義ではなく、多数決ではないでしょうか?
また中沢新一を宗教者と見るか民俗学者と見るかで、言論受容の解釈が異なります。
私個人はオーム事件が公になることで宗教的パッションを世間や公権力から与えられることで不滅化したなぁと感じたのを覚えてます。
吉本隆明が指摘している様に事件を解明する努力をすることなく廃人となるに任せた検察と国家責任は思いのほか大きいと思います。
非難することのみで背景となった教義を明らかに出来なかったため、第二波の到来を招くのではないか、そんな風に思ってます。
投稿: katute | 2007.04.24 16:45
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E-%E3%82%BE%E3%82%AF%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E5%85%A5%E9%96%80-%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E14%E4%B8%96%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%84%E3%82%A9/dp/4393133404/ref=sr_1_4/250-2422461-0213812?ie=UTF8&s=books&qid=1177404604&sr=1-4
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ダライラマはゲルク派ですが、ゾクチェンの修行もしてますよ。為念。
投稿: ttt | 2007.04.24 17:52
私の中で仏陀の言葉で一番重いと思うのは、
サイの角のようにひとりで歩めという言葉です。
暴力なども、ひとりの人が、自分の名においてやるのなら、
ありうるのかもしれないと思います。
それが団体の名をかりてもしくは神、仏の名をかりて行われるなら、
それは間違いだと私は思います。
投稿: かめこ | 2007.04.25 11:13
ダライ・ラマが仏教の文脈で語っていることを前提にすると、相手に対する「慈悲心」を満足することを条件にすること自体、暴力を言外に否定しているように読み取れますが。
投稿: すなお | 2007.04.26 01:57
些末な事ですが、ダライ・ラマは観音菩薩の生まれ変わりでは…?
投稿: | 2007.04.27 23:30
ご指摘ありがとうございます。「化身」と修正しました。
投稿: finalvent | 2007.04.28 08:33
オウム真理教、大量殺人をいかに批判するか、ということに捉われすぎているように思います。
私はダライ・ラマの教説に賛成します。
一般的にも正当防衛は認められるし、それが殺人や、大量殺人になっても理論的には同じ。
足を切断すれば命が助かる場合には、足を切断するものでしょう?
100人殺して、200人が死なずにすむならそのほうがお得。
現実には判断しなければならない状況もあるから、みんな助ける、というのは青臭い理想論に思えます。
投稿: | 2007.08.28 17:18
はじめまして。
チベットの言い伝えで こんな話があります。
外にある仏像が 大雨で濡れていました。
通りかかった 一人の信心深い 男が その仏像を見て
雨に濡れていらっしゃる、だけど私には 傘のようなものが何もありまん、これで雨をしのいでください。
といい 自分の靴底を 仏像に のせました。
次に また ほかの男が とおりかかり その仏像を見て
なんてことだ。仏像に靴がのっている、これはすぐに はずさなければ
といい 仏像から靴をとりました。
どちらもやさしい気持ちに基づいています。
結果とうよりもどうして 原爆が落ち 何百万の人の命が失われたか、原因こそ 人々が学ばないといけないことだと感じています。
それは私たち一人、一人の生活にも関係していることです。
オウム信者が正義と信じ 大量殺人を起こすところまで になっていまったか、それにも原因があり、
真の愛と慈悲があれば あんな方法をとることはなかったんだと思います、人々の信心とは自由だけれど、本当に良識あるもの、良き心を育てる事は大切なことです。
それは個人から社会に反映すると私は思っています。
投稿: こんにちは。 | 2007.09.04 15:25
>オウム真理教はカギュー派の教義からもっとも影響を受けていたと推測できる
正しいです。
麻原は前生の一つが、カギュー派の開祖チベット人マルパの師匠、ナーローパだったと言っています。また、著書「生死を超える」の内容はナーローパの6ヨーガに非常によく似ています。私のオウム時代、ニンマ派の教えというのはあまり聞きませんでした。
>悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。
これは、顕教で説く内容では無いと思います。密教の領域ですから、日本には伝わっていないのではないでしょうか。日本にも密教はありますが、独特だと思います。
投稿: 元信者 | 2008.04.12 20:07
この記事が書かれてからもう3年が経ちました
ちょうどその頃から宗教的なことを学びはじめた私には日に日に世の中がスピリチュアルに寄っていっているような気がしています
縁あってこの記事に辿り着いた記念に、2007年以降は誰もコメントをしていないこのコメント欄に私見を入れてみたいと思います
仏教の中の宗派だけでなく他の宗教もすべて含めたものを鳥の目で上から大きく見た時、そのほとんどに共通している部分があることには誰もが気づくでしょう
宗派宗派で違う部分はいくらでもあるにせよそういう部分がある以上、本当に真理を追求するのであればまず一番はじめにそこの部分で他の宗教ともちゃんと繋がるべきではないでしょうか
人はなぜ、宗教を、信仰を欲っするのでしょうか
仏陀とキリストがもし同時代の同地域に生きていたとしたら彼らはお互いを批判しあい険悪な仲だったでしょうか
愛に生きることを悪とする宗教でないかぎり、問題は愛とは何かという定義の部分だけです
そして愛の定義は難しい
しかし、愛の定義の中であなたにも明確にわかっている部分が必ずあるはずです
自分が悪いと思うことはしない
とか
人に優しくする
とか
そんなたわいもない、子供にすらわかるような部分だけでもすべての宗教宗派の人たちが繋がることができたら…
きっとほかのうまく繋がれない部分なんか些細なことじゃないかと思えるのではないでしょうか
宗教だけでなくすべてのことについて、せっかく繋がれる部分がたくさんあるのに、つまらないプライドや独占欲や、所属している団体の制約を理由に繋がれていないということがあまりに多いことが残念でなりません
せめて、屈託なく私の意見をわかってくれるアナタとだけは私は繋がりたいと思っているのです
投稿: 平野壮 | 2010.02.19 23:04