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焦点 道の駅、震災時に奮闘 観光拠点の枠超え機動力

震災後、警察や自衛隊の前線基地となった道の駅「南相馬」の駐車場。防護服を着替えたり休憩したりする場になった=2011年4月27日

 東北の「道の駅」には、東日本大震災時に被災者支援に奮闘した例がある。備蓄した食料を生かして避難所の役目を果たしたり、スーパーに代わって日用品を調達したり…。原発事故の前線基地となった駅もある。観光拠点などの本来の機能を超えて柔軟に対応し、万が一の際に地域に役立つことを実証した。

◎柔軟な対応で行政補完

<大崎・2週間避難所に>
 昨年3月11日の夜、東北の広範囲で停電する中、大崎市の国道4号沿いにある道の駅「三本木」は明るい光を放っていた。住民や長距離トラックの運転手ら約100人が暖房の効いた施設で、毛布に身を包んで一夜を明かした。
 道の駅に登録した1995年以降、同駅は非常用電源やテント式簡易トイレの整備、食料・飲料水の備蓄を進め、防災拠点として整備してきた。それが奏功し、約2週間にわたって避難所としての役目を果たした。周辺住民は、自宅で作った食事を持ち寄って避難者を支えた。
 課題も残った。通信手段がなく、関係機関と連絡が取れなかった。「国道は通行できるのか」「電気はいつ復旧するのか」。必要な情報が収集できず、途方に暮れた。遠藤栄悦駅長(67)は「どんなに備えても、完璧ということは絶対ない」と語る。

<山田・日用品など販売>
 岩手県山田町の高台にある道の駅「やまだ」は震災後、食料や日用品の販売拠点になった。
 町にあったスーパーは軒並み津波にのまれた。「営業できる唯一の施設が道の駅。地域住民のためにも、物資の確保に全力を挙げようと思った」と、豊間根仁副支配人(41)が振り返る。
 従業員は震災直後から、交代で120キロ離れた盛岡市まで物資の調達に走った。往復4時間。カップ麺やトイレットペーパー、ろうそく、乾電池…。店に並べたことのない肌着や防寒具なども仕入れた。
 電気も復旧していない昨年3月18日、営業を再開。開店前から200人以上が列をなした。南隣の大槌町から歩いて来た人もいたという。

<南相馬・自衛隊の前線>
 福島第1原発から25キロ北にある国道6号沿いの道の駅「南相馬」(南相馬市)は、全国から大型バスで駆け付けた自衛隊や警察官の前線基地に代わった。
 当時設定されていた原発から半径20キロ圏の警戒区域の北限に近く、自衛隊員らは駐車場で防護服に着替え、区域内での不明者捜索やがれき撤去に当たっていた。
 「利用する人がいる限り、きちんとしないといけない」。大竹健次駅長(56)は1人で毎日、泥だらけになって戻る自衛隊員や警察官のためにトイレを清掃。高圧洗浄機も購入し、長靴や制服についた泥を落とすのに利用してもらった。
 大竹さんは東北「道の駅」連絡会を通じ、2008年の岩手・宮城内陸地震の際も、一関市や栗原市の道の駅が救助の活動拠点になったことを聞いていた。「街に人影がない時期だったが、果たせる役割があると考えた。行政と違い、柔軟に機動力を発揮できるのが道の駅の強み」と話す。


2012年07月09日月曜日


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