日本辞典より
武蔵野
明治22年、吉祥寺村、西窪村、関前村、境村の四村が合併して武蔵野村が誕生→町→市。「武蔵国の野原」の意。「万葉集」に「牟射志」とある。古くは「无邪志」(むざし)の国か。語源は不明。一説には、古代の「牟佐国」を上下二つに分け、「牟佐上(むさがみ)→さがみ」、「牟佐下(むさしも)→むさし」となった説がある。また、アイヌ語の「モ・チャシ」(静かな砦)や古代朝鮮語の「マル・チャチ」(大領地)が転じた説もあるという。
http://www.nihonjiten.com/data/115152.html
ウィキペディアより
万葉集
『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。
日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
「万葉集」に「牟射志」とある。古くは「无邪志」(むざし)の国か。語源は不明。一説には、古代の「牟佐国」を上下二つに分け、「牟佐上(むさがみ)→さがみ」、「牟佐下(むさしも)→むさし」となった説がある。」
712年に献上された古事記と700年代後半から800年代後半に詠まれた和歌集万葉集に「むさし」の地名が並んでいます。古事記の時代は「无邪志」であり、万葉集では「牟射志」と記録されています。そしてこのことから、「牟佐上(むさがみ)→さがみ」(相模)」と「牟佐下(むさしも)→むさし(牟佐志)」と類推されています。
少なくても分かっていることは、鎌倉時代から江戸時代、明治初期まで、鎌倉、小田原から元狭山村、入間市の半分くらいは伊豆韮山県の支配下にあったということです。牟佐上国(相模国)と牟佐下国(牟佐志国)に分かれてはいましたが、同じ歴史と文化を持つ仲間たちの大地だったのです。
繰り返しますが、私は宮崎駿監督の「最近の歴史学、民俗学、考古学によって一般に流布されているイメージより、この国はずっと豊かで多様な歴史を持っていたことが判っている。」「武士と百姓の区別は定かでなく、女達も職人尽くしの絵にあるように、より大らかに自由であった。」という言葉は、絶対に正しい、なんとか実証したいと考えています。
万葉集の一つひとつの和歌には、この国を想う人たちの気持ちがこめられているのでしょう。他の国にはあり得ない、美しく優しい日本文化です。
牟佐志国造御社の石碑が建造された年次は分からないかもしれません。あるいは、神社を守って来た家が何か証拠となるものを保管しているかもしれません。この歴史的発見が話題になれば、さらに調査は進むことでしょう。