TOP | Profile | These Days | Works | Child | Books


「wired」 1997.2

公開された覇者のアルゴリズム


孫正義ロングインタビュー



 ソフト流通、インターネット、デジタル多チャンネル放送……「デジタル情報社会において、インフラを提供する世界一の企業になること」を旗印に、事業分野を拡大し、急成長を続けるソフトバンク。だが、それ以上に”デジタル時代の寵児”として人々の注目を集めるのが、同社社長、孫正義だ。コムデックス、ジフ・デービスの買収、ビル・ゲイツ、ルパート・マードックなど大物事業家との提携、テレビ朝日株取得など、業界のみならず交換にまでインパクトを与えてきた事業家の次なる一手は何なのだろうか。そして、彼がその先に描いている「未来図」の輪郭とはどのようなものなのか。それらを推し量るのに、「買収」「デジタル」「野望」という、彼とその事業を直線的に結びつけてきた単語を用いることは必要ない。必要なのは、源泉である「人間・孫正義」を語る言葉だ。気鋭のジャーナリストが、ソフトバンク発展のアルゴリズム、孫正義の本質に迫ったロングインタビュー。そこに行き交う言葉の数々から導き出された、孫正義を解読するためのキーワードとは?




 コンピュータ業界という枠に留まらず、広く経済界全体の中から96年マン・オブ・ザ・イヤーを選ぶとしたら、孫正義は間違いなく筆頭候補として名前が挙がるに違いない。ついこの間まで「日本のビル・ゲイツ」と呼ばれていた彼は、唐突に「世界のメディア王」ルパート・マードックとの共同事業で、デジタル衛星放送「JスカイB」を開局すると発表、同時にテレビ朝日の株主となり、いよいよメディアの世界での覇権獲得に乗り出したのかと、大きな波紋を呼び起こした。遠くない将来「日本のマードック」と呼ばれる日がくるのか、逆にM&Aによる無謀なまでの拡大戦略が、壮大な破綻をきたすことになりはしないか、今は孫氏の一挙手一投足を、誰もが固唾を飲んで注視しているといっても過言ではない。鍵はすべて孫正義自身が握っている。その鍵とは、彼の思考、パトス、戦略、そして、彼の「哲学」である。
 11月12日、東京、箱崎の東京エアシティターミナルに隣接するソフトバンク本社の応接室。超多忙の中、異例のロングインタビューに応じてくれた孫氏は、「斯界の風雲児」「ドライな合理主義者」といった世評からは想像のつかない、ナイーブな一面をのぞかせながら語った。



寝ているときまで仕事の夢を見るような生活をしている。何でそこまで
一生懸命やっているのかといえば、自己満足を得たいからにほかならない



岩上(以下I) 孫さんは、常々、「経営者は『哲学、ビジョン、戦略』の3つが大事だ」と公言されていますが、「戦略」や「ビジョン」については多く語られていても、「哲学」について語る機会は今まで意外に少なかったように思います。孫さんの「哲学」とは何か、まずはそれを聞かせて下さい。

孫(以下S) 僕の「哲学」とは結局のところ、何のために僕という人間の人生があって、何のために仕事をしているのか、またソフトバンクは何のために存在しており、デジタル情報革命がすすむことで、その結果、人々は幸せになれるのかといった問いかけであり、そういう問いに答えていくことだと思うんです。僕は自分の人生についてつきつめて考えたとき、ただ単に自分が食べていければいいという人生はつまらない、というふうに思うんですね。やっぱり自分がこの世に生まれてきて、何か志したものがあったならば、それをトコトンつきつめていって、完全燃焼できるような人生を送りたい。僕が事業のポリシーとして掲げているナンバーワン主義というものも、そうした自分の人生に対する姿勢、価値観、哲学から生じているわけです。
 何事もトコトン全力でやり抜いていくときに、喜びや充実感、達成感といったものが手に入るんじゃないか。言葉を換えていえば、要するにそれは自己満足なんです。人間として、もっとも根本的なところでは、僕は自己満足したいという欲求のかたまりなんだと思うんですよ。ゴルフでいえばコントロールショットではなくて、フルショット。僕は20代の終わりに肝臓を患って、3年半、入退院を繰り返していたんですが、そのとき医者に「もってあと5年」と宣告されたわけです。会社はようやく軌道に乗ったばかり、結婚して小さな子供もいるというときに、死を宣告されたわけですから、本当に目の前が真っ暗になりました。でもそれが同時に、人生というものをいろいろ見つめ直すきっかけともなったわけです。健康なときには、人生とはなんぞやなんてことをゆっくり考えている暇はなかなかない。とりあえずお金を稼がないと会社は潰れちゃうわけですから目先の仕事に追われてしまうんですよ。しかし病気をして、あと何年かしか生きられないのかな、と思ったときに、本質的なことを否応なく考えさせられたんです。
 死んでしまえば、自分が食っていくとか、家族や社員を食わせようとか、もう関係ないわけですよね。仮に会社が潰れちゃったって、自分が死んでしまえばね、直接は関係ないという状況になってしまうわけです。にもかかわらず、僕はどうしていたかというと、現実には病院を抜け出してまで、仕事を一生懸命やっていたわけです。何のためにこんなことをしているんだろうかと、ずいぶん自問自答した。結局、行き着いたのは、やはり、これは自己満足なんだな、という答えだったんです。人間は究極のところ、自己満足のために生きているんだな、と。
 では自分にとっての自己満足っていったい何なんだと、自分自身に問いかけたときに、まず思ったのは、物欲じゃないなと。贅沢したいとか、うまい物を食べたいという欲望には限りがある。あるいはお金そのものを求めているわけでもない。ざっくばらんな話、現在僕の資産はもう4000億円ぐらいはある。年間1億円ずつ使ったって4000年かかるわけですよ(笑)。僕にとって自分が使い切れる以上のお金っていうのは、もはや単なる記号にすぎないわけです。それなのに、当時も今もそうですが、寝ているときまで仕事の夢を見るような生活をしている。何でそこまで一生懸命やっているのかといえば、自己満足を得たいからにほかならない。それではいったいどんな満足なのかといえば、象徴的な言い方をすると、自分の仕事によって、どこか遠くの地の果てにいる小さな女の子がニコッと笑ってくれること、僕の自己満足ってそういうイメージなんです。偽善めいて聞こえるかもしれないが、仮に世の中のほとんどの人が認めなくても、たったひとりの女の子が僕らのやった仕事の結果として、満面の笑みを浮かべて喜んでくれれば、僕はそれだけで何ものにも代えがたいぐらい喜びを感じるだろうなと。人から何と思われようと、それが僕にとっての自己満足なんです。これは死に直面したときに感じた、掛け値なしの偽らざる僕の本音です。


 インタビューの開始早々、虚をつかれてつまずいた。
 たったひとりの女の子の笑顔のために----あの孫正義の口からこんな大甘のおセンチな言葉が発せられるとは。これはいったいどう解したらいいのだろうか。フルコースを平らげたあとに、お茶漬けがやっぱりいちばんと言ってみるありきたりのスノッブと同様の、空前のサクセスを手に入れた”4000億円男”の「優雅」で「贅沢」な気取りか? しかし、目の前にいる孫氏からはそんな嫌味な気配はまったくかぎとれない。そうすると、「ドライで計算高い(それもスパコン並みの!)戦略家」という世評を気にしての、イメージチェンジ戦術のひとつなのだろうか。だとすれば、あまりにも稚拙で間が抜けすぎている。いくら何でもそれはないだろう。第一、彼の語り口はごく自然で、あざとい作意を見いだすことは難しかった。
 ということは、本気なのだろうか? 本気でこういうセンスのセリフをぬけぬけと口にしてしまえる、そんな底が抜けた人物なのか? 困惑を覚えながら、そういえば、このセンスに近い人物がいないわけでもないなと思い直した。たとえば、スピルバーグだ。



志、ロマン、人生観



I 「小さな女の子の笑顔」とはひどくロマンティックな表現ですけど、お話をうかがっているうちに、『シンドラーのリスト』の中のワンシーンを思い出しました。『シンドラーのリスト』はご覧になりましたか?

 いえ、見てないです。話には聞いてますが。

I ユダヤ系であるスピルバーグ監督がアウシュヴィッツをテーマとして、虐殺された同胞への鎮魂のために撮ったといわれる作品ですが、全編モノクロなんですけれども、殺されていくユダヤ人の群れの中にちっちゃな女の子がひとりいて、その小さな女の子の服だけ赤く着色されているんです。モノクロの暗い画面の中に、小さな赤い服が鮮明に浮かび上がる。スピルバーグは小さな女の子の愛らしさを強調することで、ナチの犯罪の巨大さを表現したわけですが、孫さんは「女の子の笑顔」という言葉で何を表現しようとしているのか、もう少しかみ砕いてお話ください。

 ひとりの女の子を幸せにするっていうのは、ひとつの象徴的な例として挙げただけで、もちろんひとりではなく、多くの人々が少しでも幸せになってほしいと願っているわけです。あえてそれを、「小さな女の子」と言ったのは、大人とは違って利害関係も打算もない無垢な存在という意味で挙げた例なんです。年端のいかない小さな女の子の喜びって、お客さんがよりたくさんお金を出して、商品を買ってくれれば、こっちもありがとうございますと頭を下げる、そういう等価交換的な関係というか、物理的、経済的な価値とは、違う次元のものだと思うんですよ。
 もちろん一方で僕は、デジタル情報産業のインフラを提供するという事業で、世界一になりたいと思っているわけで、これはこれで本気なわけです。そうした、力や規模を追求する熾烈な競争世界に生きている僕と、ちっちゃな女の子の幸せを喜ぶなんてことを言う僕と、どこでどう結びつくんだ、相矛盾してやしないかと思うかもしれませんけども、僕の中ではそれが完全に一致している訳なんです。
 たとえば、交通事故に遭った人がいて、一刻を争うとき、医学の発展とは別の次元の、情報のスムーズな伝達というレベルで人の命が左右されることがあり得るわけです。アナログ情報では一瞬にして情報処理をするのは不可能ですから、どこの病院がいいのか、片っ端から電話をかけまくらなきゃならない。ところがデジタル情報のインフラが整備されていたら、救急車が移動している間にどこの病院にどんな血液や薬品があり、どんな先生がいるのかという情報を、瞬時にして、処理することができる。
 そこまで深刻な話じゃなくたってね、24時間いつでも、ビデオ・オン・デマンドで楽しい映画なり、楽しいドラマなりが見れれば、それはそれで人に喜びや幸せをもたらすわけですね。デジタル情報インフラを構築することは、人命の問題から、エンタテイメントの提供まで含めて、人々の幸福に役立つことのできる素晴らしい仕事じゃないかなと思うわけです。
 今でもときどき「ソフトバンクは、単に人がつくった知恵とかテクノロジーを右から左に動かしているだけではないか」というふうに中傷する人がいますけど、僕の志、僕の正義感、僕のロマン、僕の人生観はそんな小さなものではない。もっと大きな仕組み、つまり社会基盤を作って、あらゆる情報サービスを提供したいと考えているんです。

I 志とか、正義感とか、ロマンとおっしゃいましたけれども、こうした考えなり、思いなりは、いつ孫さんの中に芽生えたものなのでしょうか?

 やはり、中学校の2,3年くらいのときでしょうね。誰でもこの時期、人生をどういう形で過ごしていこうかなと考え始めるでしょう。僕も自分なりに考え始めた。ちょうどそのころに、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』とか『国盗り物語』といった歴史物を読んだんです。血湧き肉躍るわけですよね。ああいいな、やはり志をもって生きていく姿っていいな、と思いましたね。
 司馬さんの作品から僕は非常に大きな影響を受けましたが、いちばん影響を受けた本は、『竜馬がゆく』でしょうね。明治維新の頃には、ほかにもいろいろな偉人がいますけど、西郷にしろ、高杉にしろ、桂にしろ、どうしてもやっぱり藩という枠から逃れきれない。ところが坂本竜馬という人は、藩単位の次元じゃなくて、もっともっと大きな次元でものを考えていた。

I 当時の武士にとって藩の拘束は非常に大きかった。それを超えて国家のことを考えなきゃいけないと、竜馬は考えたわけですよね。孫さんにとって現代における「藩」は何であり、どう乗り越えて、どこに向かうべきだとお考えですか?

 現代における藩は、やっぱり国家でしょうね。交通機関や通信テクノロジーの発達によって、生活の守備範囲が非常に広くなった。現代では国という単位も、幕末と同様、非常に狭くなっている。しかし、価値観が国家の次元で止まっている人が、まだまだいっぱいいますよね。昔ながらの日本の古い価値観や慣習にとらわれている人たちが大勢いる。政治家なんか、特にそういう意識の人がまだまだたくさんいると思います。
 政治に比べると、ビジネスの世界では、本社が商法上どこにあろうと、事業は世界中どこでも自由にやれる。のびのびと世界中にどんどん出ていくことができる。これは幸せなことだと思いますよ。
 僕は日本の商慣行や不文律のルールを無視しているとか言われて、ときどき批判を浴びたりするんですけれども、僕にしてみれば、日本国内だけで通用する価値観の中で、自分の評判が最高のレベルまで高まらなくたって別にかまわないと思ってる。だって社員の比率は、今や日本人以外の方が多いんだから。
 わが社の非日本人社員は、もう7,000人になったんですよ。全体の80数%を占めている。それに対して、日本人の社員は10数%、1,000人ぐらいです。その80数%を占めるわが社の社員は、年功序列だの系列取引だのといった日本独自の「文化」とは関係のない世界の住人なんですよ。
 ときどき「海外の会社は単なるM&Aの投資先でしょ」なんて言う人がいますけど、それはとんでもない勘違いであって、僕にとってはジフ・デービスの社員も、コムデックスの社員も、日本国内のソフトバンクの社員も100%同じ、かわいい社員であり、大切な社員なんですよ。要するに僕は、フェアでありたいわけです、すべての社員に対して。だとすると、従来からの、日本の古い伝統的価値観や、日本だけで通じる「常識」を、必ずしも全面的によしとするわけにはいかないんですよ。



非日本、脱日本



I 「フェア」という言葉が孫さんの口から出ましたが、これは大事な言葉だと思います。先ほど志とか夢とかロマンとかおっしゃいましたが、これらは新しく事業を起こそうとするような人なら、誰でも必ず口にする言葉でしょう。ところが、そのとき同時に「正義感」という言葉を口にされた。これは事業家としてはちょっと異質な言葉ですよね。その「正義感」と「フェアネス」という言葉は、無関係ではないように思います。「国の枠を超える」というお話をされましたけど、それに関連してちょっとデリケートな問題かもしれませんが、あえてストレートにお聞きしますけれども、今までお話しされてきたご自身の価値観の形成に、在日韓国人3世として生まれ育ったこととは、どのように影響していると思いますか?

 まあ、当然ね、そういうナショナリティのバックグラウンドをもっているために社会的公正というテーマは、いわゆる普通の、平凡なバックグラウンドの人たちに比べれば、より身近に考えさせられるテーマであったんだろうとは思いますね。
 僕はアメリカに16歳で渡り、そこで世界中のいろんな民族の人々が集まっていて、おおらかにのびのびと人生を過ごしているのを見た。正直、素晴らしいなあと思いましたよ。ですから、やはり、閉ざされた小さな集団の中で、同種的なものにのみ共感するとか、何か、同一的価値観の中にのみ心地よさを見いだして、異質のものに対しては拒絶するというのは、やっぱり正義とかフェアネスという観点からすれば反するんだろうなと思うんですね。その点、アメリカっていうのは、異質なものが混じり合ってひとつの国家を形成しており、異民族に対してだけでなく、さまざまなマイノリティ、たとえば女性や身体障害者の人に対しても、常にフェアであろうとする、これはとても素晴らしいことだと思うんですよね。
 他方、日本的な価値観と風習の中には、素晴らしいものもあるけれど、理不尽で不合理なものもある。企業内の硬直した年功序列もそうだし、また、企業対企業や企業対金融機関の関係にも理不尽なところがあります。にもかかわらず、長いものに巻かれなかったら、それはもう異分子で、反逆児で、世の秩序を尊重しない、とんでもない輩であるとして排除される場合があるわけです。けれども、僕に言わせればそれはやはりおかしい。たとえば年功序列。年齢が若い社員でも、能力もあり、一生懸命にやって業績を上げている人もいる。そうであれば、その業績に応じた報酬を受け取るのは当たり前じゃないかと思うんですよ。なぜただ単に年齢が上というだけで偉いの? どうしてそれが正義なの? と僕は思っちゃいますね。

I 日本社会の伝統的な慣行とか不文律に対して、反発しているから、「反逆児」であるとか「反日的」であるなどと批判されがちのようですが、お話をうかがっていると、「反日本的」というのではなく、「非日本的」あるいは「脱日本的」ということなのですね。たとえば、年功序列に異を唱えるというのは、「脱日本的」であると同時に「脱コリアン的」でもある。韓国・朝鮮の文化では、長幼の序を日本よりもはるかに重んじますよね。在日韓国人という出自を背負われているため、偏見の目で見られ、反日的=コリア的と一方的にみなされたこともあるのではないかと推察するんですが、これは誤解だとよくわかります。

 どういう記号を背中に背負っていようが、僕という中身は僕でしかないですから。どこの集合体に属しているかで人を判断するのは、おかしいと思うんですよ。個別の人間を、個別の人間として尊重するのが、本来の、人と人とのあるべき関係だろうと思うんですね。ところが、大体人間というのは、往々にして所属する集合体によって人間を規定したがるんですよね。それが差別につながり、多くの悲劇を生んだりもするんですけどね。

I 孫さんは現在帰化され「日本人」になられたと聞いております。失礼ながら帰化されたのはいつか、また、なぜ、どのような理由で帰化を決意されたのか、それは事業のグローバルな展開と関係あるのかどうか、お話しいただけますか。

 帰化した時期ですか、えーと、7,8年前かなあ。はっきりと覚えていないんですけど……。理由はただ単にパスポートの手続きが面倒くさいと。その程度です。僕は、国籍は何でもよかったんですよ。事業展開とは関係ないです。ただ面倒くさい、というだけです。


 素っ気ない答えだった。どんな質問にも淀みなく、しかも丁寧に応じる孫氏が、まるで気のないような答え方をしたのはこのときだけである。
 「国籍なんてどうでもいい」という言葉の背後に、その素っ気なさとは裏腹の複雑な屈折や重いこだわりがある----そう甘受するのは決して無礼な深読みではないと思う。
 過去に、米国経済誌「Business Week」の取材を受けて、「幼稚園のときなんか、頭を友達に石でぶたれたんですよ。これは衝撃で、以来自分の出自を隠すようになった」と幼少時の「差別体験」を語ったことがある。しかし、他方、今まで日本のメディア相手には、ナショナリティの問題に関してはほとんど語ろうとしてこなかった。事業家としては軽々と国境を越えてしまった孫氏であっても、内なるボーダーの桎梏からはたやすくは自由になれないということなのかもしれない。もっともそれは無理からぬことで、表層はともかく、目に見えぬ陰湿な差別を内包している日本の社会の方に責任がある。彼が差別を受けていたのは、幼少期だけの話ではない。成人し、事業に乗り出してからも「見えない壁」にぶつかってきた。同じく「Business Week」によれば、ソフトバンク創業直後、某銀行に融資の依頼に行った際、応対した銀行マンからあからさまに「名前がねえ」と、孫氏が在日韓国人であることを理由に融資を断られたという。ナショナリティについての彼の沈黙と憂鬱は、日本の暗部の投影にすぎない。
 自分自身を「前向きな人間」と自己分析する孫氏は、ルサンチマンをストレートに表出することはせず、高度に昇華させてビジネスの世界で結実させてきた。当然のことながら、その間、鍵をかけて胸の中にしまい込んできた思いがあったに違いない。それが珍しく表に奔出したのは、96年2月、毎日新聞が主催する「毎日経済人賞」を受賞した折のことだ。贈呈式の模様を、ジャーナリストの立石泰則は「文藝春秋」96年11月号でこう書いている。
 「今年の2月、孫正義は毎日新聞が主催する『毎日経済人賞』を受賞した。その贈呈式での挨拶の途中で、孫は辛かった幼少の頃を思い出し、思わず涙で言葉を詰まらせた。
 『24歳で自分の事業を起こして14年。いろんな場面がありました。嬉しいこともたくさんありましたが、私のしてきたことがひとつの公の場で認められたのは初めてです。非常に感謝しています。子供の頃、家は貧しかった。近所から残飯を集め家畜のえさにしていた。今は亡き祖母がリヤカーを引っ張って貰いに行った。ときどき、自分をリアカーに乗せてくれるのだけども、残飯が残っていて、ぬるぬるして気持ちが悪かった。それが自分の家の貧しさと重なって、そういう生活から抜け出したいと思っていた。それがいま、経済人として社会に認められて……』」
 この授賞式のとき、何が胸に去来したのかと、実に無粋きわまりない質問を孫氏にさし向けると、彼は「あの時はついうっかりとして……」と口ごもりながらこう語った。



「300年計画」というのは、本当に真剣に考えています。それは計画という
より、ぼくがいなくても自動的に組織が発展していくシステムのことです。



 まあ、そのう……、僕が小学校2、3年の頃まででしょうか、やっぱり暮らしぶりは貧しかったですよね。それでもそのころには、親父やお袋に言わせれば、それ以前の極貧のときに比べれば、はるかに良くなっていたというんですけれどね。親父とかお袋が若い頃はほんとに貧しくて、食っていけるかどうかという状態が続いていたようですから。しかも単なる貧しさだけではなくて、それ以外のいろいろな精神的な苦労がまだまだいっぱいあった、そういうのを子供心にも感じていて、いつか何とか、もっと良くしていかなきゃとずっと思っていた。で、この間、授賞式があって、ふっとこう、振り返ってみてね、考えてみればだいぶ遠くまで歩いてきたなと、そういう思いが湧いてきたんですよね。
 でも、まあ、僕にいわせれば、若いときに苦労をすることは悪いことばかりではない。困難を乗り越える、経験を積めば積むほど、人はやっぱりたくましくなる。深みや味わいも出てくるし、ある面における優しさも出てくると思うんです。2代目とか3代目の人たちが、あまりにもボンボンで、苦労を知らずに人の上に立ったために、下の人間が困るというケースはよくありますよね。それはやっぱり、創業者が味わってきたような困難を体験しないままに、トコロテン式に上に立ってしまったがゆえの不幸なんでしょう。逆にかわいそうという気もしますけど。



魅力、結合、進化



I お子さんがいらっしゃいますよね。

 娘2人ですけどね。

I お子さんに事業を継がせるということは……

 僕は、継がせる気はほとんどありません。

I そうですか。後継者問題を語るには、まだまだ早いですけれども、孫さんはかつて「人生50年計画」を立てられた【別年表1975年参照】。その中で最後の段階に来る「事業の継承」がいちばん難しいと言われていますよね。一方でソフトバンクの将来のために、「300年計画」を立てているという。300年先を見越して計画を立てるというのは、途方もない話ですが、いったいその計画の中身はどのようなものなのですか?

 僕はね、「300年計画」というのは、本当に真剣に考えています。それは計画というより、僕がいなくても自動的に組織が発展していうシステムのことです。要するに、進化のDNAをプログラミングしておくことなんですよ。いろいろと今、実際にプログラムを作っている最中なんです。

I 古今東西の、あらゆる組織や指導者は、自分が作り上げた国家や組織が永続することを切望し、そのあげく、かならず盛者必衰の歴史を繰り返してきたわけですね。その運命を逃れたものは、ひとつもなかったわけですが……。

 そう、ですからこの「300年計画」が完成すれば、本当にノーベル賞もんだろうと思っていますよ。大きくなった組織っていうのは、例外なく大企業病にかかるわけです。それは、国家でもそうですよ。必ず官僚主義がはびこる。なぜそうなるのかということを考えるヒントは、自然界にあると思っているんですよ。自然界において各生物は、DNAの進化によって環境の変化に適応するわけですね。では、DNAが進化するのはなぜかというと、2つ大きな要素があると思うんです。ひとつは存続したい、死にたくないという意志ですね。あらゆる生き物は敵に追っかけられたときには、一生懸命走って逃げたり、気に化けたりね、環境が変化したら、DNAが突然変異を含め変化してゆくわけですね。その根底にあるのは、要するに生きたいという本能的な意志ですよ。これがひとつですね。
 もうひとつはセックスアピールです。要するに、美しいたてがみの雄ライオンに雌ライオンが惹かれてゆくとか、何らかの形で異性を惹きつける魅力を、あらゆる生き物は発散しようとしている。魅力のない者は、いい相手を見つけられず、子孫を残せない。逆に、魅力のある者同士が結びつくと、結局その種は栄えるわけです。こうしたメカニズムを、会社という組織の中にも組み込もうと考えているわけです。
 あらゆる組織は何万人、何十万人という規模になると、さっき言った「生き延びたい」という欲望というか、センシティビティが構成員の中からだんだん消え失せていってしまう。つまり、俺ぐらいさぼったって大丈夫、会社は倒産しないと皆が考え、のんびりしてしまう。だから僕はバーチャル倒産という仕組みを考えたんです。会社の中を10人以下の単位に全部分ける。この小さなユニットごとに、損益計算書とバランスシート(賃借対照表)とキャッシュフロー・ステートメント(資金繰表)をもたせる。要するに、「バーチャルカンパニー」を作るんです。それぞれに資本金ももたせて、借入金の限度額を作って、その限度額を超えたら、自動的にバーチャル倒産となるんです。何万人、何十万人の規模の会社になったって、自分が属している一つ一つのユニットは、10人以下の小企業と同じ規模で、資金繰りまで自ら運営するから、油断すると、いつ倒産してもおかしくない状況になる。そうすると誰でも自然と必死で考えるわけですよ。借入金の枠がなくなってお金がなくなり、このままだと危ないとなると、どうやって業績を上げようかとか、どうやってコスト削減して生き延びようかと、知恵を働かすわけですよ。ベンチャーカンパニーの活力というのは、そうした緊張感にあるわけですよね。それを会社の中にメカニズムとして持ち込むわけです。

I バーチャルカンパニーと真の小企業の違いというのはどこにあるんですか?

 商法上の法人組織にまでしちゃうと、税務会計をやらなきゃいけないでしょう。そうすると社員の保険の制度だとか年金だとか、全部含めて手続きのための手続きが増えすぎるんですよ。だから本当に中小企業に分散してしまうと、大きい会社の良さが活用できなくなるわけです。商法上の別会社にしなくても、ベンチャービジネスの長所を導入することは、バーチャルカンパニーで十分可能です。本物の企業との違いは、バーチャル倒産の場合はペナルティがないことです。僕は性善説でかつ基本的には明るい性格だから、ペナルティで人を動かすというのは、あんまり好きじゃないんです。より建設的に前向きにやればいいんじゃないか、バーチャル倒産したら、罰金取っていくぞっていうたらあまりにも酷やと。だから僕はペナルティを課さない。その代わりバーチャルカンパニー・プレジデント、つまり社長であった人も、解散後は平社員に戻って、別のバーチャルカンパニーの平構成要員として採用されることになる。
 ですからバーチャルカンパニーのプレジデントは、バーチャル倒産したときには自分のプライドが傷つくわけだけど、逆に成功させればそのバーチャルカンパニーが1年間に増やした利益分は丸ごともっていけと、そういう仕組みになっている。青天井だから、場合によっては1億、2億もらう社員もいるわけですよ。だからウチでは社員の地位も、給料の多い少ないも、実力本位で決まる。年功序列とは関係ないんです。
 もうひとつはさっき言った通り、セックスアピールです。生物界では魅力のあるものが魅力のあるものを惹き寄せていって、その種が繁栄していく。それが自然界のごく正しい掟であり、それがDNAを進化させると、僕は信じているわけです。ところが人間界では一般的には、平均化させたがわるわけですよ。あっちにばっかり有能な人材が集まるのはおかしい、不公平だ、俺のところにももうちょっとよこせとかね、満遍なく平均化したがる。それを良しとする日本的風土があるわけですけども、それは僕は間違いだろうと思います。自然界にはどこにもそんなことは起こらない。やっぱり魅力のあるものが魅力のあるものを惹きつけていくわけです。
 我々が志向していることを具体的にいえば、自分がどのバーチャルカンパニーに所属するのかを決めるに際して、社員が自分の意思をある程度反映させられるというシステムなんです。同時に、構成員を迎える方も複数の希望者の中から選択ができる。通常の会社の場合には、人事部が上の方から勝手に割り振るわけですね。それぞれの意向を無視して。そうではなくて、私としては、より自然界に近い形で、各人が、ある程度自由に意思決定ができるようにしたいんです。お互いに魅力を感じないと、受け入れる方も受け入れないし、新たに入っていく方も入らない。この場合、魅力とはインセンティブのスキームであり、ひとつはチームワークであり、あるいは仕事のテーマや各人の能力なんです。各人、各チームがそれぞれ魅力を高めようと努力をし、またそれぞれの魅力が正当に評価されるようなシステムを作り上げたいと思っているわけです。
 魅力のあるバーチャルカンパニーはより多くの有能な人間が応募してくるし、競争率が高まる。そうするとその強いバーチャルカンパニーはさらに強くなっていく。魅力のないバーチャルカンパニーには誰も応募してこない。自然にそういうのは滅んでいく。それが正しいんです。魅力のない奴は滅びろ、ということですね。魅力のないのが滅びず、赤字を垂れ流したままはびこったりするから、それが全体を弱くするんです。
 もちろん、すべてスムーズに事が運んでいるわけではない。我々がインセンティブとして日本で初めて事実上のストックオプションを導入したというときでも、あるいはバーチャルカンパニー制度を実施するというときも、社内外から懸念の声が随分上がりました。でも、プラスとマイナスとどっちが大きいのか比べてみて、プラスが7割だと判断した場合は、僕はとりあえずやって、残りの3割はやりながら改善していけばいいじゃないかと考えるんですよ。もちろん、大ざっぱに「やってから考える」というのではなく、やる前から徹底的にコンピュータを使ってシミュレーションします。そこは他の企業とは違うところでしょうね。


 インタビュー時間の制約がタイトだったため(実際、本社応接室でのインタビューはこのあたりで時間切れとなり、続きは次の約束の会合へ向かう孫氏の車に同乗させてもらって聞いた)、その場でさしはさむことができなかった懸念を書きとどめておきたい。
 現実にはバーチャルカンパニーにおける人事システムがどのようなものになり、どう機能するかまではあずかり知らない。しかし、それを性的結合のアナロジーで語ることには疑問を覚えざるを得ない。聞きようによってはこれはナチの優生学思想を彷彿とさせてしまう。倫理的に問題であるとか、危険であるという以前に、それは間違いである。たとえば、「三高」とか「四高」同士のカップルが子供をつくらず、逆に、表現は悪いが「貧乏人の子だくさん」という現象が現実には起こり得る。また発展途上国はどこも人口増大が著しいのに対し、先進国は例外なく少子化に悩まされている。「種としての衰弱」はむしろ「成功者」の集団で顕著な現象なのだ。もちろん、バーチャルカンパニー内で後輩と出産が行われるわけではないのであり(オフィスラブや社内結婚は別の話)、こんな対比は本来あまり意味がない。要するに性的結合のアナロジーにそもそも無理があるのだ。むしろ近いのはプロ野球のドラフトやトレード、FAといった人的資源配分システムなのだろうが、これとても、最も魅力的な球団であるはずの巨人が、最も優れた選手をFAでかき集めてきても、必ずしも優勝できるわけではない現状を見れば分かる通り、「優れた個体の集合=優れた集団=優れた成績」という一元的な公式は必ずしも成立しないのである。もし仮にこの公式が絶対に正しいとしたら、最初のゲームの勝敗ですべてが決定され、2回目以降はゲームが成立しないことになる。しかし、現実にはFA立地の巨人をドラフト3位で入団したイチロー率いるオリックスが破ることが起こり得る。だからこそ、無限にゲームは連続し、新たなドラマは絶えることなく誕生するのだ。
 いまだ未完成のシステムについて、これ以上文句をつけるのは控えておこう。ここではただ、ゲームの敗者となった者たちが、何度でも立ち上がって再挑戦することができ、しかもそれが実を結びうる環境をシステムの中に組み入れるべき、とだけ提言するにとどめたい。



正義、公正、双方向



I 話は変わりますが、デジタル情報革命なるものの進展によって、社会はどのように変容するのか、多くの人がいろいろなことを言ってますが、孫さんはどういう未来図を描いているんですか。

 変化という言葉と、進化という言葉は似て非なるものですよね。僕はやっぱり進化していってると思います。コンピュータの場合、機能がどんどん上がっていっているわけです。情報処理のスピードもメモリ容量もそうだし、表現能力もどんどん高度になっている。たとえば、ビデオ・オン・デマンドを実現したくたって、コンピュータの能力が足りなかったから、採算が取れる見込みもなかった。それが、技術革新によって、コストパフォーマンスがどんどん上がってきており、ビデオ・オン・デマンドも可能になってきている。従来はマスメディアというのは一方向で、かつ、お仕着せのものが多かったわけですけれども、将来はそれがブロードキャストからナローキャストへ、さらにポイントキャストへというふうに進化していき、完全にオン・デマンド型で、完全に個別で、より人々のニーズにフィットした形になっていくことでしょう。マスプロダクションから個別の”個プロダクション”という形へ、しかもより美しく表現できるという方向に変わっていくでしょうね。

I 言葉の上だけではない、コミュニケーションの真の双方向性の実現へ向かっている、ということですね。ただ、その将来に一抹の懸念もないではない。たとえば、電子ネットの発達によって、従来のように、特定の発言権を持っている人だけがメディアを通じて発言するのではなく、普通の人が自分の声を社会に響かせることが可能になってきた。しかし、それは同時に、非常にネガティブな声も響かせることができるということでもある。個人的中傷やプライバシーの暴露はもとより、人種差別プロパガンダなども無制限に可能となる。現に、サイバー空間上でのヘイトクライムは野放しの状態です。人種差別の問題については、孫さん自身無関心ではないと思うのですけれど、たとえば、ドイツではネオナチがネット上で、反ユダヤ主義の差別的プロパガンダを繰り広げているわけです。こうした動きに対して、今、包括的にレギュレーションをかけようという動きと、逆に一切の規制に反対して、原理主義的なまでにサイバー空間の言論の自由を主張する動きと、極端に2分されています。こうしたジレンマに対して、ご意見を伺わせてください。

 自然界の掟に従って考えれば、規制をかけようと思ったって、現実にはやっぱり嵐が来たり、火事になったりすることはあるわけですから、そういうことにも耐えられるような免疫とか、抵抗力とかをつけていくということも必要かもしれません。いくらインターネットを規制しても、相変わらず、街頭の壁にネオナチがビラを貼ることは止められないでしょう。もしそうしようとしたら別の意味で危険です。むしろ、それを見たときに、アホな人間がアホなこと言っているわいと判断する健全な能力とか、免疫みたいなものが人々の中につくられていかないといかんのだろうなと思いますね。
 一方、あまりにも目に余るものに対してある程度自主的に規制していくための秩序作りは、やっていかなければならないと思いますよ。たとえば出版物にしても言論の自由といいながらも、名誉毀損があった場合は民事訴訟できるじゃないですか。そういう一般的なルールを定めていくことはあってもいいと思うし、必要だと思います。しかし、国家なり特定の機関なりが内容を一方的に検閲して規制するということになると、それはちょっと行き過ぎかなという気がしますね。
 そもそもインターネットは、国家が包括的なレギュレーションをしようにも、世界中からフリーアクセスできるわけですからね。その国によってやっぱり、物差しが少しずつ違うわけでしょう。現実的には、なかなか難しいですよね。あるいは事前にチェックするなんていったら、それこそインターネットの特性とか、活力がなくなっちゃうわけですしね。

I 具体的な例を挙げれば、96年に入ってから、カナダ在住の極右活動家のエルンスト・ツンデルが流しているネオナチ情報のドイツ国内への流入を阻止するため、ドイツ連邦検察庁は、ドイツ・テレコムに働きかけて強制的にサイトへのアクセスを遮断させました。その是非をめぐって、ドイツではずっと論議が続いているわけですが、こうした問題に関して、孫さんはどうお考えですか。

 そこは僕もまだ十分、分からないですね。ただ、これから検討していかなければいけない、重要なテーマだろうとは思います。ただ、原則的にいえば、インターネットの自由な発展と拡大という、ビジネス上の利益が、フェアネスとか、正義という問題にぶつかる場合、優先するべきは当然フェアネスであり、正義の方です。ビジネス上のメリットなんてどっちみちたかが知れているわけですから、どっちに転んだってね、やっぱりフェアであること、正義であることを絶対優先すべきだと僕は思います。


 「孫正義は分かりにくい」という風評は、まったく見当違いな論評か、単なる理解力不足にすぎない----これが私のひとまずの結論である。むしろ、孫氏のようにわかりやすい人物はめったにいない、と言ってもいい。確かに、マードックと組んで、電撃的にテレビ朝日株を取得したように、戦術の一局面だけ捉えれば、人を驚かせる奇策あり速攻ありで、予測のつかない奇弁を好むかに見えるが、戦略は首尾一貫しており、それを語る言葉も極めてロジカルで非常に分かりやすい。理解のためのキーワードは、インタビュー中にも頻出した「フェアネス」と「イコール・パートナーシップ」および「双方向性」ということになるだろうか。とにかく孫氏は、一方通行の関係性を嫌う。紙数の都合で本文では割愛したが、多くの企業が株主総会をNTTの総会と同じ日に開催し、株主からの質問を可能な限り封じ込め”シャンシャン総会”で終わらせようとする風潮を孫氏はひどく批判しており、実際にソフトバンクでは集中日を避けて、株主からの質問も広く受け付ける開かれた総会を実施しているが、これも株主と経営サイドの関係を正常化し、フェアで2ウェイなものにしようとする試みにほかならない。企業に対して優位に立つ銀行が、一方的に企業に評点をつける「日本的慣行システム」を嫌い、反対にソフトバンクが各取引銀行に対し、評点をつけて、それに基づき取引枠も変更する「コアバンク制」を始めたことも、対等の、フェアな関係を築くというポリシーに基づいている。「フェアネス」は、孫氏にとって「哲学」であるだけでなく、実践のための「武器」でもあるのだ。そして言うまでもなく、それは孫氏個人のみならず、万人にとっての「武器」であり得る。



TOP | Profile | These Days | Works | Child | Books