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今回は、私のエッセイに対する次の感想に対する反論です(本文後書きにに原文を全文複写しておきます)。

「投稿者:通りすがり [2011年 10月 10日 (月) 18時 15分 41秒] 」

幸か不幸か非登録者の書き込みなので、思う存分反論します。

穏やかな雰囲気は欠片も無いので、その手の論争が嫌いな方は今回は読み飛ばして下さい。

勝手な物言いですが、何卒よろしくお願いいたします。

何時如何なる時でも私は作者の敵の敵だ!!!【10月23日書直し】
先ず、

>ただ自分の思ったことをぶちまけたい自己満足主義者とは違うのかな、と。

には感謝いたします。
批判をしているのですから、今回のような批判はもとより覚悟の上です。
批判の門戸を開放する。これが文才の無い私が唯一誇れるところなので……



それでは反論に移ります。

>他の意見を排斥するような書き方はいただけない。
貴殿の意見は明らかに矛盾しています。

私の意見は排斥なのだからという理由で貴殿自身が私の意見を排斥しています。
何故、貴殿が私の意見を排斥することは正当で、「私の排斥」は排斥されなければならないのか?

ということです。

これは貴殿が論理的に間違っているから生じる矛盾です。
自由という概念を理解できていないことによって生じる論理矛盾です。

私は貴殿のような方とトコトン討議してみたいので、以下に解説します。

先ず、自由ということは、好き勝手(傍若無人)に振舞ってよいと言う事では無いのです。
其処には、原則として「相手の自由を侵さない限りにおいて」という前提条件があるのです。学校では教えないようなので解らない人が多いようですが、そうなのです。

すると次の問題が生じます。甲の自由と乙の自由が同時に成立しない場合です。
多くの場合この自由の衝突も解決する手順があります。

「自由と自由の衝突」これは実社会において政治や宗教上で深刻な社会問題となっています。
自由と言う概念が誤用されると如何に社会を危うくするかということをこの際解って頂きたいのです。

また、実社会では対処を間違えて更に事態が拗れていく訳ですが、ここで当事者が存在する実例を挙げると面倒なことが起きかねないので、現実には社会問題となっていない例で説明します。




(以降尾篭な例を用います。食事中の方は一服されることをお勧めします)








 ◆  ◇  ◆  ◇  ◆ 








例題として、ここでは おなら(屁)をする自由、「おなら権」というものを考えてみましょう。

さて、これは何処でも行使してよいものでしょうか?
先ずは、我慢出来ずに、思わず出てしまったと言うケースを除外して考えて下さい。


人の顔がそばにあるとき「おなら権」の行使は出来ません(出来ますか?)。
多くの人が食事をしているところでは通常「おなら権」の行使は出来ません(出来ますか?)。

そういった処で「おなら権」を徒に行使すれば相応の評価が、一定の制裁(食事に誘われなくなるとか、着席と同時に周囲が離席するとか)が待っています。これはおならを嫌がる自由が認められていて、おならを嫌がる自由が優勢だからです。

では、トイレでは如何でしょうか?
誰憚らずおなら権を行使する事が出来るし、もしそれを「排斥」しようとすれば逆に「おなら権」の侵害として非難されることでしょう。

先ずは、自由にもTPOがあるということを理解して下さい。



次により厳密に自由と自由の衝突を考えて見ます。

ここに二つの信仰があります。

一つは「処嫌わず教(以降「嫌わず教」とします)」です。何時如何なる時にも「おなら権を行使してよい」と言う教義です。
もう一つは「おなら嫌い教(以降「嫌い教」とします)」です。何時如何なる時も定められた場所以外でおならをしてはいけないと言う教義です。

<今の日本ではマナーとしては「嫌い教」に近いですね>


さて、「嫌い教」の教徒が「嫌わず教」教会内の食堂で食事をしていました。
「嫌わず教」の教徒は教義に従いおならをしています。「嫌い教」の教徒はそれを非難できるでしょうか?

無理ですね。「嫌い教」の聖地(テリトリー)においてその教義を否定する事は出来ません。

言論(行動)の自由?そんなものはありません!!

教会は「(その当該教会の)信仰の自由」が最優先される場所であり、その他の自由は「信仰の自由に反しない限り」という前提条件が適用されるのです。もし、この前提条件が認められないとなると、「何時如何なる時も信仰の自由を踏み躙って良い」という事になってしまいます。こんな事をを認めたら即流血の事態です。社会秩序は崩壊してしまいます。ですから自由を守るためには自ずと他の自由は制約されるのです。通常複数の自由は同時には成立しないのです。自由とはそれを守るために他の自由を我慢するという制約の下で初めて成立し得るのです。

言論の自由は少なくともその教会内では停止されます。言論の自由を行使したければ、その教会の敷地から退くことが求められると言うのが自由ということの成立条件になっているのです。


ここで、脱線して無難な例を挙げます。

葬儀の場において、故人に対して(言論の自由の行使として)罵詈雑言を浴びせれば袋叩きに遭うことでしょう。加害者には傷害罪が適用される可能性がありますが、同時に説教等妨害罪も適用されることでしょう。そして、余程(親の仇だったとか)の理由がない限り世間は袋叩きにされた方を非難することでしょう。



さて、話を戻して、「嫌わず教」教会内の食堂です。
「嫌い教」の教徒は食堂でおならをする事に抵抗があります。

では「おならをしたいのでトイレを使わせて下さい」と申し出たとき「嫌わず教」の教徒は如何対応するのでしょうか?

素直にトイレを案内するもよし、どうぞこの場で!と促すのも良いでしょう。それは「嫌わず教」の教義が「異教徒」と如何付き合うように説いているか?と言うことに尽きるのです(「嫌わず教」の裁量ということです)。

ですが、「おなら」を理由とせず単に「トイレ」に行きたいと告げた場合は如何でしょう?
本当に用を足すのかもしれないし、おならの方便かもしれません。ですが、事前の取り決めがない限りこれは案内するしかありません。何故ならその理由は内面(心の中)の問題であり、外部からは計り様が無い事なのです。そして「嫌い教」の教徒を教会に入れた以上、教徒の内面には教会の敷地であっても立ち入れないからです。内面に干渉するのであれば事前に棄教を求めなければ行けません。

つまり、「嫌わず教」教会内で「嫌い教」教徒は「おなら」に対して文句を言えないが、自らが教義の逸脱を強いられる事も無い

という事になります。


次に「嫌い教」教会で考えてみましょう。
教会内において「嫌わず教」の教徒は教義を実践出来るでしょうか?当然出来ません。
「嫌い教」の教義が最優先される聖地だからです。これは前述の事例と同じです。

ところが「おなら」は意図せずとも出てしまう事があります。
この場合は如何したらよいのでしょうか?

きっと「嫌い教」にはその様な場合に対する対処法が用意されているはずです。
それが適用されると言うのが常識的なところです。
ですが、その適用を拒絶した場合どうなるのでしょうか?
信仰を踏み躙られるのですから、結構危ない事になります。

こういう場合は事前の取り決めが必要です。
「教義に抵触した場合は教徒と同様の処罰に同意します」と約束するのです。
この取り決めは暗黙のうちに交わされることに留意してください。
外国に出かけてその国の法律を知らなければ守らなくて良いと言う理屈が通用しないことからも明らかですネ。

日本には「郷に入りては郷に従え」という解りやすい言葉があります。
先人に感謝感謝です。

複数の自由が同時に成立しない場合常に優先する自由の下、他の自由は制約されると言うことが、「自由」を担保する前提条件であることを理解頂けたものと思います。その場その場で自由には優劣があるのです。


 ◆  ◇  ◆  ◇  ◆ 



さて、それでは貴殿の意見に対する反論です。

>確かに、貴方の理論は貴方の生活しているある一定のコミュニティ……『自分の作品の質を向上しようとも思わないアマチュア中のアマチュアしかいないきわめて閉鎖的な』環境では通用する理論なのでしょう。

このサイト「小説家になろう」では「アマチュア中のアマチュアしかいないきわめて閉鎖的な」あり方を禁止していますか?

あるいは「アマチュア中のアマチュアしかいないきわめて閉鎖的な」存在を否定する事を推奨していますか?

どこかにその様な規約があるのであれば是非提示下さい。

また、夫々の作者が何故「アマチュア中のアマチュア」との貴殿の評価に従わなければ成らないのでしょうか?

感想書き込み時の注意書きを見ると貴殿の主張の反対方向に軸足があると思いますが……私に認識が誤りである証拠を、或は貴殿の考えがご自身の個人的な見解ではなく、相応の説得力を伴うものである証拠を提示下さい。

貴殿は自身の思い込みで行動を正当化しようとしているように見受けられます。


> ですが、このサイトにあるのはそんな作品だけではありません。

その通りです。それを否定したことは一度もありません。


> あくまで『読み物』なのですから、それを読んでもらう読者に分かりやすい形式でなければならないのは当然のことですし、作品をよりよいものにする為に批判はとても大事な意見です。


それは貴殿が決めたことです。「小説家になろう」、「なろう」であって「小説家です」ではありませんが…、実際に読者に楽しみを提供していない貴殿が一方的に断じる事が何故出来るのでしょうか?

貴殿のルールは貴殿のテリトリーで存分に主張して下さい、貴殿のサイトなり、ユーザIDを取得され、貴殿がその主張を小説として綴れば良いでしょう。将に勝手にして下さいです。

ですが、此処は私のテリトリーです。このサイトの運営者や敬愛し、感謝してて止まない作家の方々以外の干渉は余計なお世話です。意見は意見として歓迎しますが、唯々諾々と受け入れるつもりは毛頭ありません。私がルールです。



>その批判を『作者の創作意欲を削ぐものでしかない』と断じているのは、非常に『歪んでいる』と言わざるを得ません。

歪んでいるのは貴殿です。単に自分勝手な行動を正当化したいだけでしょう。
私は、「空気を読め」と主張しているのです。作者作者毎に考え方は千差万別です。
貴殿や貴殿と同じ考えの作者に対しては「どうぞご存分に」であります。

しかし、「そうでない作者の処に正義漢面で土足のまま上がりこみ、狼藉の限りを尽くすような事をするな!!」と主張しているに過ぎません。

ここで重要なことは、「何が土足で、何が狼藉であるか」ということは、「押入った貴殿」ではなく「押入られた先の作者」が「その主観に基づき決める」ことです。人の嫌がる身勝手な行動を偽りの善意で装飾し、押売りされたのでは堪りません。

外国旅行を考えてみれば解ることです。
その国の法律を遵守する事が無条件で求められます。
そのとき、訪問先の国が貴殿の価値観を受け入れ自国の法規を違えるでしょうか?

当たり前のことです。
上から目線で物事を決め付けた主張をするのであれば最低限この程度の道理は踏まえて頂きたいものです。


>この感想欄にもそんな考えに同意している作者さんがおられるようですが、私から言わせれば『そんな考えで書いてるならチラシの裏に書きなぐっていればいいのに』といったところです。

少なくとも、私はそんな作者の味方です。

そして、貴殿はどれだけ多くの読者を挑発しているか自覚できていますか?

無知と不明がタッグを組むとある意味無敵であると言う見本を示していただきました。


貴殿は私に今回の反論を用意させる以外何の意味を成さない存在です。正直、私の処で作者を侮辱する行為をしなければ、此処まで反論する事(価値)も無かったでしょう。



「ここがチラシの裏でない」と決めるのは貴殿では在りません。
サイトの運営者であり、次に夫々の作者です。


何故、この様な身勝手な思い込みを主張できるのか?
理解に苦しみます。

因みに、此処、私「シレン」のテリトリーは「チラシの裏」です。
このテリトリーの主たる私がそう決めました。
通りすがりに過ぎない貴殿にこの決定を覆す手立てがあれば是非お示し下さい。


> 大多数の人に見られる場所なのですから、見苦しい文章を晒さないように努力するのは当然の義務ですよね?

そんな義務はありません。何時誰が決めたのですか?その決定が有効に適用される範囲を含め明示して下さい。勝手な思い込みで同意を求められても、常識が肯うことを拒否しています。


見苦しい文章と云う意味では貴殿の感想こそが最低です。
私が最低と決めました。貴殿の主張に則り直して下さい!!
その義務があると主張したのは他ならぬ貴殿です。

貴殿は自説で、「アマチュア中のアマチュア」でない限り批判に応じ作品を高める義務があるとの主旨の主張をしています。

私の批判に対して、応じる事が出来ますか?
「自身で主張していることを自身が守らない」と言うことであれば、その人に他者を批判する資格があるのでしょうか?

また、その様な人の批判に価値があるのでしょうか?
私には理解できません。


「小説家になろう」において拙さを制限するルールはありません。
幼い子供がこのサイトを利用しているかもしれないのです。
この場で子供が成長して行くのは素晴らしい事ではないですか!?
そして、子供が頑張っているのだろうなぁ~と文字の向こうの見えぬ作者の存在を思いながら見守る事を楽しみとしている読者がいるかも知れないのです。

その作者と読者の楽しみを奪う、その世界を踏み躙る権利が誰にあるのですか?一体誰に人の楽しみを奪い去る権利があるのか説明して下さい。

貴殿の主張には「個人的な思い込みで無く相応の根拠があるものだ」と言うことが全く見えません。

この様な主張は「アマチュア中のアマチュア」と何処が違うのですか?



【作者の方へ】から抜粋
こんな方でも大丈夫です
■小学生なんですけど
■今年、定年なんですが……
■80歳になるのですが……
■主婦だけど大丈夫?

これ見て書込みをしたのでしょうか?
漸く自作を始めた幼き子供(かも知れない)相手に貴殿の主張通りの行動を取ったら如何なりますか?

それは正しい行為と言えると主張できますか?


貴殿は屁理屈を並べているが、「人の嫌がる行為を正当化したいだけ」としか読み取れません。


貴殿の様な社会性が欠落し相手を労わり、思いやる心の無い人間こそが私の敵なのです。



最後に貴殿が「通りすがり」である事に感謝していることを申し添えておきます。

万一、敬愛する作者の方から同様のお叱りを頂戴したら、おそらく我が身が引き裂かれていたでしょうから



「何時如何なる時でも私は作者の敵の敵だ!!!」

と繰り返しておきます。




【もう少し穏やかな反論】SF小説:星界の紋章内の独白「積極的な善人」から
http://www.satani.org/sur/sur064.html


【10月23日大幅に変更】
変更前の内容は「チラシの裏を丸めて○○箱へ」内の同タイトルに保存しました。
以下原文のまま、

投稿者:通りすがり [2011年 10月 10日 (月) 18時 15分 41秒]

▼良い点
 思ったことをきちんと文章にできている点。
 私のようなユーザ登録していない読者にも感想の門戸を開いているあたり、ただ自分の思ったことをぶちまけたい自己満足主義者とは違うのかな、と。

▼悪い点
 だからといって、他の意見を排斥するような書き方はいただけない。貴方の意見は、貴方やごく少数の人にしか受け入れられない独りよがりな考え方なのですから。

▼一言
 確かに、貴方の理論は貴方の生活しているある一定のコミュニティ……『自分の作品の質を向上しようとも思わないアマチュア中のアマチュアしかいないきわめて閉鎖的な』環境では通用する理論なのでしょう。
 ですが、このサイトにあるのはそんな作品だけではありません。
 あくまで『読み物』なのですから、それを読んでもらう読者に分かりやすい形式でなければならないのは当然のことですし、作品をよりよいものにする為に批判はとても大事な意見です。
 その批判を『作者の創作意欲を削ぐものでしかない』と断じているのは、非常に『歪んでいる』と言わざるを得ません。
 この感想欄にもそんな考えに同意している作者さんがおられるようですが、私から言わせれば『そんな考えで書いてるならチラシの裏に書きなぐっていればいいのに』といったところです。
 大多数の人に見られる場所なのですから、見苦しい文章を晒さないように努力するのは当然の義務ですよね?


原文以上

再反論があれば感想にどうぞ、
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