入間史誌、第六章 近代 ―政治的なめざめと産業社会―
<引用開始>
品川県が成立したのは明治2年2月9日である。品川県知事には武蔵知県事の古賀一平がそのまま就任した。品川県は品川宿の一番組より内藤新宿(新宿駅辺)の24番組まで407宿村の支配組合で成り立っており、第14番組から台19番組までが埼玉県域にあたっていた。現在の入間市、狭山市、所沢市、和光市、朝霞市、富士見市などが当時の品川県に所属したのである。
入間市はまず品川県に属したが、すぐに韮山県に転属された。新しく設置された県は旧幕府時代の相給支配を受け継いでいたため、新政府がこれを解消しようとしたのである。明治2年(1869)2月22日、品川県が支配していた多摩郡4万8千石は韮山県に、5月には韮山県支配地のうち多摩郡5万6千石が品川県に、品川県支配地のうち入間・高麗・比企郡の5万1千石と大宮県支配地のうち比企郡6千石が韮山県に移管されたのである。このように、各県の支配地は相互に移管したが、これは支配地の一円化を促すことになった。
市域は品川県から韮山県に転属されたが、これにともない行政事務も引き継がれた。二本木村では、明治2年8月に「御請書連印帳」を韮山県に提出した。これは品川県から韮山県に支配が変わったが、五人組帳の掟を堅く厳守し、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類が相親しくし、また下人を憐れみ、農業を怠らず、全ての面で分限を守り、年貢も滞りなく納付することを誓約したもので韮山県の支配に忠誠を誓うものであった。<続く>
下段記載の五人組帳
庶民の隣保組織として江戸時代に組織された五人組が遵守すべき法規を記載し、追判帳簿。御法度書あるいは御請書ともいう。五人組帳は前書と請書とからなる。全書に町村役人と五人組が連名連判を加え、一つは領主に提出し、もう一つは町村に保管した。
<続き>
税体制の整備
新政府は戊辰戦争が沈静化するにともない、財政基盤たる税体系の整備に着手した。市域でも支配権移動するなかで、数々の税源に関する調査が行われた。
とくに、入間市域は製茶生産地域に位置していることから製茶焙炉数調査が実施され、これにもとづいて運上金が課せられた。明治2年1月、二本木村では製茶焙炉調査が行われ、各戸ごとの反数、人数、焙炉数が調査された。この調査はかなり詳細に実施されており、ある製茶生産者の坦書きには「右 所持畑 蒔付有之候茶並十五間、青茶三貫目、其外買入手製仕、自分遣之外其除売払 申候」と製茶生産者や販売量についても正確な数量が書き上げられた。こうした焙炉すう調査によって各生産者の運上金が決定されたが、生産者自身の負担も大きいところから、運上金の延納届けや反対の議定書を出す村もみられた。
また木蓮寺村では明治2年7月に奉公人調査が実施された。この調査によれば、同村では当時35人の奉公人が存在し、うち18歳以下の奉公人が19人を占めていた。これも人口数の正確な把握に基づく税体系整備の一環であった。なお、明治3年(1870)3月には品川県第14番組(入間市域)の村々の戸口田畑調査も実施された。
以上のように新政府は税体系整備の目的のために財源調査を行ったが、明治2年は慶応3年から明治元年の不作につづく凶作であったため、納税者たる農民にとっては負担が重かった。関東地方を中心に租税負担の軽減を求める一揆が起こったのもこの頃である。
一揆
幕末から維新期にかけて、全国各地に百姓一揆、都市騒動、村方騒動がかなりおこった。青木虹二「百姓一揆総合年表」によれば、慶応2年の185件を最高に、明治元年141件、同2年151件と明治初期に集中して一揆が発生した。この時期は物価上昇や課税強化などによって庶民の生活は困窮を極めており、これが一揆の引き金になったのである。
<引用終了>
入間市のように、一揆は「庶民の生活の困窮」により発生したとの「大本営発表」を鵜呑みにするのも自由である。しかし、歴史とは常に時の支配者が自分たちの成果でこんなに暮らしぶりが良くなったと宣伝するために、過去を悪く言ったり、証拠を隠滅したり、書き直したり、証人を暗殺したりするのは当たり前のことと認識しなくてはならない。つまり、歴史を知る勇気とは疑ってみる勇気なのである。
坂本龍馬はグラバーの指令で暗殺された!?
<引用開始>
長崎に居を構えるグラバーは、フリーメーソンの人脈に取りこまれていた坂本龍馬を使役して、薩長盟約に誘導した。問題は、薩摩である。薩摩もまた、徳川を討って島津の幕府を立てる藩代々の政治的意志をもっている。グラバーは、龍馬を使って薩長倒幕密約に持ちこむことに成功したのである。
ユダヤ・フリーメーソンは薩摩をおだて、長州をおだて、ロンドンに留学生を招き、洋式兵器を供給し、両藩の私的利権の欲望をあおり立てた。大久保利通は、そのメカニズムを了解し受け入れた。ここに、ユダヤ悪魔教の手先となって、薩長が日本の国権を簒奪する。そして孝明天皇を弑逆し、幼帝をおのれの手中の「玉(ぎょく)」として奪うために、岩倉具視が共同謀議に参画する、という極秘の筋書きができあがったのである。
伊藤博文は、この三者密約に合流した。西郷隆盛は、この桂小五郎・大久保利通・岩倉具視の謀略に乗せられ、踊らされ、利用された、と筆者は見る。
<引用終了>
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library408.html坂本龍馬は岩倉具視により暗殺されたとする本「ユダヤの日本侵略450年の秘密」の紹介文であるが、この情報と筆者の得た史実を組み合わせると、戊辰戦争や西南の役とはなんだったのか、なぜ日本が日露戦争で勝利したのか、なぜ第二次世界大戦に突入したのかなど、歴史に隠された何者かの謀略が見えてくる。7月4日はアメリカの建国記念日であるが、アメリカ人に対し、このブログを使ってあるプレゼントをしたいと思う。それを見れば全てが読めてくる。
さて、入間史誌に明記された二本木の「五人組」について記す。入間史に記録として残っているのだとすれば公開も要求できるが、「五人組」を特定することは現在の子孫の「個人情報」に関与するということにつながり、役所は公開を拒否する可能性もある。個人情報保護法とは実に役人にとって便利な法律である。
鎌倉時代、幕府は【中村家】に「二本木村付近で禅宗寺、曹洞宗寺用の茶をつくれ」「二本木宿を運営しろ」という天命を課した。さらに、「五人組」に「親子兄弟夫婦をはじめ諸親類が相親しくし、また下人を憐れみ、農業を怠らず、全ての面で分限を守り、年貢も滞りなく納付すること」という掟を守るよう指導した。
【中村家】を含め「五人組」はもともと侍である。「天領の民として気高く生きなさい」と指導されていたに違いない。源頼朝亡き後、北条家が実権を握ったが北条家はこの狭山の地を大切にした記録が残っている。
出雲伊波比神社
由緒
延喜式内社で人皇第十二代景行天皇の御代(筆者註71年〜130年)創建 大宝二年(筆者註703年)九月二十九日再建す その後幾度かの乱世にあいながらも御神のゆるくことなく一般から寄木様と親しまれてきた 弘治三年(筆者註1557年)小田原城主北条家より社領を賜り 尚徳川家康将軍はじめ代々の将軍より朱印十石をいただく 明治になり有栖川宮一品鐡仁親王により御染筆を賜る
社領(しゃりょう)
神社の領地。神領ともいう。時代によって変遷はあるが、神社はその社領について維持、管理し租税を徴し、司法、行政権を有した。
http://www.weblio.jp/content/%E7%A4%BE%E9%A0%98茶碑もこの神社にある。裏面には茶碑を建立するための費用を出した人たちの名が刻まれているが、数多くの「中村」名が記されている。当時は何と呼んでいたのかは分からないが、この神社には「牟佐志国造御社」の石碑が残っているため、「大狭山地域」を今後「牟佐志の地」と呼ぶことにする。
茶碑
牟佐志国造御社
鎌倉幕府の「支配地づくり」には法則があるようである。それは八幡神社あたりと八幡神社あたりで囲んだ地が「支配地」という至極分かりやすい法則である。そして鎌倉幕府が送り込んだ公家や武家が支配している地域には臨済宗の寺を、平民の地には曹洞宗の寺を配置するのである。
元狭山村同様の天領であった秩父市には14の臨済宗寺院がある。千葉県全体で5寺院であるから、その多さに驚かされる。秩父市では、栄西が茶と共に上品(じょうばん)の薬草とした桑をつくらせたり、山で武器の元となる砂金を取らせたりしたようである。(その砂金は伊豆韮山に運ばれ釜や農具、武器に加工されたものと考えられる)
その天領の地で高利貸し焼き討ち一揆「秩父事件」が起きるのであるが、筆者は秩父事件の本質も当時の強権岩倉具視などによる「大本営発表」で曲解報道され本日に至っていると確信する。
秩父事件を複雑化してはいけない。単純化するとこういうことだ。
鎌倉時代より天領(幕府領)として栄えた秩父地方(もちろん中心は「中村町」)は、江戸時代まで幕府の管理下で誇り高く豊かに暮らしてきたが、明治維新というユダヤ金銭経済の始まりにより、「五人組」などの組織はバラバラにされ、絹の値段を制御されたことにより農家は借金経営に陥った。高利貸しの棒若無人ぶりに我慢できなくなったかつての「天領の民」は、元の生活を取り戻すために立ち上がった。
これだけのことである。戊辰戦争の多くも本質は同様と考える。
軍律の第二条に「女色ヲ犯ス者ハ斬」とある。これは何を意味するのか。筆者には高利貸しが「借金返せないなら娘を差し出せ」と迫っていたとしか考えられない。秩父事件では、「売り手よし、買い手よし、地域よし」の「三方よし」をモットーとする気高き近江商人は狙われていないという。
冒頭に記した入間史誌で元狭山村を含む「牟佐志の地」は、品川県に編入させられたが、すぐさま韮山県に戻したのである。誰がどのような力を使って戻したのか。その答えは【中村家】を含めた鷹の羽家紋の「五人組」である。彼らの菩提寺臨済宗「寿昌寺」にその証拠はしっかりと残っている。
彼らは、江戸幕府や親王家に狭山茶を献上していたのである。であるから、先に記したように、出雲伊波比神社の由緒にある「明治になり有栖川宮一品鐡仁親王により御染筆を賜る 」ことになるのである。
筆者は【中村家】を中核とした「五人組」は、この君主天皇の「親王家」ルートを使って品川県から取り戻し、「牟佐志の地」を守り抜いたものと確信する。
秩父のように「五人組」を失った地は荒れた。しかしながら、二本木の「五人組」を中心とする「牟佐志の地」は荒れることはなかった。そして、明治に入っても二本木の「五人組」は結束を崩さず、明治22年に新しい村元狭山村を誕生させた。
元狭山村では、以後も天領の民として築き上げた文化や家例が伝えられた。ある家は昭和10年代になっても「とうもろこしはつくってはならない」という家例が残っていた。村の結束が固く、他の家で獲れたとうもろこしが「おすそ分け」され、つくる必要もなかったそうである。