ソードアート・オンライン 外伝1 『黒の剣士』
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「お願いだよ……あたしをひとりに…… しないでよ……ピナ……」 シリカの頬を伝うふたすじの涙は雫となって滴り、地面の上の大きな一枚の羽根に当たって光の粒を散らした。 その淡い水色の羽根は、長い間彼女の唯一の友達でありパートナーでもあった使い魔・ピナの遺品だった。ほんの数分前、ピナはシリカを守るために死んでしまった。モンスターの武器によって致命傷を与えられ、一声悲しげに鳴いて氷のように砕け散った。トレードマークだった長い尾羽いちまいだけを残して――。
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シリカは、アインクラッドでは珍しいビーストテイマーだ。だった――と言うべきか。テイマーの証である使い魔はもういないのだから。 ビーストテイマーとは、システム上規定されたクラスやスキルの名前ではなく、通称である。ごくごくまれに、通常はプレイヤーに対して敵対的(アクティブ)なモンスターが、「こちらに興味を示して」くるというイベントが起きることがある。その機を逃さず餌を与えるなどして飼い馴らすことに成功すると、そのモンスターはプレイヤーの「使い魔」としていろいろ冒険の手助けをしてくれる貴重な存在となる。その幸運なプレイヤーを、賞賛とやっかみをこめてビーストテイマーと呼ぶ。 無論すべてのモンスターが使い魔となってくれるわけではない。可能性があるのは、ごく一部の小動物型モンスターだけだ。イベント発生条件は完全には判明していないが、唯一、「同種族のモンスターを殺しすぎていると絶対に発生しない」のは確実と言われている。 よく考えるとこれはかなり厳しい条件である。つまり、使い魔となりうるモンスターを狙って数多く遭遇を繰り返そうとしても、通常それらのモンスターはアクティブであり、戦闘になってしまうのは避けられないからだ。狙ってビーストテイマーになろうと思ったら、対象モンスターと数多くエンカウントし、イベントが発生しなかった場合は全て逃亡しなくてはならない。その作業の辛さは想像に難くない。 その点、シリカは途方もなく幸運だったと言える。 何の予備知識もなく、気まぐれで降り立った層の気まぐれで立ち寄った森の中で、初めて遭遇したモンスターが攻撃せずに近寄ってきて、前日に気まぐれで買った袋入りのナッツを上げたところそれがたまたまそのモンスターの好物だったというわけだ。 種族名「フェザーリドラ」、全身をふわふわしたペールブルーの綿毛で包み、尻尾のかわりに二本の大きな尾羽を伸ばしたその小さなドラゴンは、そもそもが滅多に現れないレアモンスターだった。テイムに成功したのはどうやらシリカがはじめてだったらしく、彼女がそのドラゴンを肩に乗せてホームタウンの8層主街区・フリーベン市に戻ると大きな話題を呼んだ。翌日から大勢のプレイヤーがシリカのもたらした情報をもとにテイムに挑んだらしいが、成功したという話はほとんど聞かなかった。 シリカは、その小竜にピナという名前をつけた。現実世界で飼っていた猫と同じ名だ。使い魔モンスターは直接戦闘力はそう高くないのが常であり、ピナもその例に漏れなかったが、そのかわりにいくつかの特殊能力を持っていた。モンスターの接近を知らせる索敵能力、少量ながら主人のHPを回復させるヒール能力など、そのどれもが貴重なものでありシリカの冒険は飛躍的に楽になったのだが、何より彼女が嬉しかったのは、ピナの存在がもたらす安らぎと暖かさだった。 使い魔のもつAIはそれほど高級なものではない。言葉はもちろん使えないし、命令も十種ほどを解するにすぎない。しかし、わずか12歳でこのゲーム、閉鎖世界SAOに囚われて、不安と寂しさに押しつぶされそうになっていたシリカにとってピナが与えてくれた救いは筆舌に尽くしがたいものだった。ピナというパートナーを得て、ようやくシリカの「冒険」――それは即ちこの世界で「生きる」ことそのものなわけだが――が始まったと言ってもよい。 それから一年、シリカとピナは順調に経験を積み、短剣使いとしての腕も上がって、中層クラスのプレイヤーの間ではそこそこ名前が通るまでになった。無論、最前線で戦うトップ剣士達にはレベル的に及ぶべくもなかったが、実際のところ四万数千のプレイヤー中わずか数百人しかいない「攻略組」というのはある種伝説的な存在であって、その姿を目にすることすらほとんど無いため、主ボリュームゾーンを形成する中層級プレイヤーの中で名前が通るということがすなわちアイドルプレイヤーの仲間入りをするということでもあった。 そもそもが絶対的に少ない女性プレイヤー、さらにはその年齢のせいもあって、「竜使いシリカ」が多くのファンを持つ人気者になるのにそう時間はかからなかった。パーティーやギルドへの勧誘は引きも切らず、その状況で、13歳の彼女が多少舞い上がってしまっても責めることはできまい。だが、結局はその慢心が、シリカに悔やんでも悔やみきれない間違いを犯させることになった。 きっかけはささいな口論だった。 シリカは二週間前に誘われたパーティーに加わって、35層北部にひろがる広大な森林地帯、通称「迷いの森」での冒険に参加していた。もちろん、現在の最前線ははるか上の58層で、フロアそのものはすでに攻略されている。だがトップ剣士たちは基本的に迷宮区の踏破にしか興味を示さないため、「迷いの森」のようなサブダンジョンは手付かずのまま残されており、中層プレイヤーの格好のターゲットとなっている。 シリカの参加した6人パーティーは手練れ揃いで、朝から存分に戦闘をこなし、多くのトレジャーボックスを発見して、かなりのコルとアイテムの稼ぎを上げた。周囲が夕刻の色彩を帯びはじめ、皆の回復ポーションがあらかた尽きたので冒険を切り上げることにして、主街区へ戻ろうと歩き始めた時だった。早くもアイテム分配に色気を出したもうひとりの女性プレイヤーが、牽制のつもりか、シリカに言った。 ――あんたはそのトカゲが回復してくれるんだから、ヒール結晶はいらないわよね。 カチンと来たシリカは、痛烈に言い返した。 ――そういうあなたこそ、ろくに前面に出ないで後ろをちょろちょろしてるんだから、クリスタルなんか必要ないんじゃないですか。 あとはもう売り言葉に買い言葉で、リーダーの盾剣士の仲裁も焼け石に水、頭に血が上ったシリカはとうとう言い放った。 ――アイテムなんかいらないわよ。あなたと組むのは金輪際ごめんだわ。あたしを欲しいっていうパーティーは山ほどあるんですからね! せめて森を脱出して街に着くまでは一緒に行こうと引き止めるリーダーの言葉にも耳を貸さず、シリカは5人と別れて枝道に飛び込んだ。ムシャクシャした気分のままにずんずん歩き続ける。 たとえソロでも、短剣スキルを七割近くマスターし、ピナのアシストもあるシリカにとっては、35層のモンスターはそれほどの強敵ではなかった。労せず撃破し、主街区まで到着できる――はずだったのだ。道にさえ迷わなければ。 「迷いの森」というその森林ダンジョンの名前はダテではなかった。 巨大な樹々がうっそうと立ち並ぶ森は数百のエリアに分割され、ひとつのエリアに踏み込んでから一分経つと東西南北のエリアへの連結がランダムに入れ替わってしまうという設定になっていた。森を抜けるには、一分以内に次々とエリアを突破していくか、35層主街区の道具屋で販売している高価な「森の地図」というアイテムによってエリアの連結を確認しながら歩くしかない。 地図を持っているのはリーダーの盾剣士だけだったし、迷いの森では転移結晶を使っても街には飛べず、ランダムで森のどこかに飛ばされる仕様になっているので、シリカはやむなくダッシュでの突破を試みなければならなくなった。だが、曲がりくねった森の小道を、巨木をかわしながら走り抜けるのは予想以上に困難だった。 まっすぐ北へ向かっているはずが、エリアの端に達する直前で一分が経過してしまい、どこともしれぬ場所に転送されることを繰り返しているうち、だんだんシリカは疲労困憊してきてしまった。夕陽の色はどんどん濃くなり、近寄る夕闇に焦るほどエリア脱出はうまくいかなくなる。 やがて彼女は走ることを諦め、偶然森の端のエリアに飛ぶことを期待して歩きはじめた。だが、なかなか幸運には見舞われず――。とぼとぼ進むうちにも、容赦なくモンスターは襲いかかってくる。レベル的には余裕があるとは言え、周囲が暗くなるにつれて足場もよく見えなくなる。無傷で全ての戦闘を切り抜けるというわけにも行かず、ついに残りのポーションから非常用の回復結晶までも使い果たしてしまった。 シリカの不安を感じ取ったように、肩に乗ったピナがくるるる、と鳴きながら頬に頭をすり寄せてくる。相棒をなだめるように撫でながら、シリカは自分の短気と増長から窮地を招いてしまったことを悔やんでいた。 神さま――。彼女は歩きながら心のなかでつぶやいた。反省します。二度と自分が特別だなんて思いません。だから、次のワープで森の外に出してください。お願いします―― 祈りながら、かげろうのように揺らいでいる転送ゾーンに足を踏み入れた。一瞬のめまいに似た感覚のあと、目前に広がったのは――当然のように、今までと何ら変わらぬ深い森だった。木立の奥は夕闇に溶け去り、森を包んでいるはずの草原はかけらも見えない。 げんなりしつつ、再び歩き出そうとしたとき――。肩の上でピナがさっと頭をもたげ、一声するどく、きゅるっ! と鳴いた。警戒音だ。シリカはすばやく腰から愛用の短剣を抜き、ピナの見据える方向へ身構えた。 数秒後、苔むした巨木の陰から、低い唸り声が聞こえてきた。視線を集中すると、黄色いカーソルが表示される。複数だ。二……、いや、三匹。モンスターの名前は「ドランクエイプ」、迷いの森で出現する中では最強クラスの猿人だ。シリカは唇を噛んだ。 とは言え――。 レベル的には、それほどの窮地というわけでもなかった。 シリカ達中層クラスのプレイヤーがフィールドに出る場合、出現モンスターに対して十分すぎるほどの安全マージンを取るのが通例である。目安的には、ソロで5匹のモンスターに囲まれた場合でも、回復手段無しで勝てる程度以上、ということになる。 なぜなら、最前線でゲームクリア目指して戦うトップ剣士たちとは違い、中層プレイヤーが冒険を行う理由は、一つには日々の生活に必要なコルを稼ぐため、二つ目は中層クラスに留まるための最低限の経験値稼ぎ、三つ目にぶっちゃけ退屈しのぎ、といったところだからだ。どれも、現実の死を賭けるほどの目的とは到底言い難い。実際はじまりの街には死の可能性をわずかでも増やすことを忌避したプレイヤー達が数千人の規模で残っている。 とは言え、そこそこの食事をし、宿屋のベッドで寝るためには定期的な稼ぎが必要だし、何よりプレイヤーの平均的レベル圏内におさまり続けていないと不安になってしまうのがMMOプレイヤーの宿命ということもあって――ゲーム開始から一年半近くが経過した現在では、ボリュームゾーンを形成するプレイヤーたちは十分以上のマージンを取った上でダンジョンに出かけ、それなりに冒険を楽しむようになってきていた。 それゆえ――。35層最強クラスのドランクエイプ三匹と言えども、竜使いシリカの敵ではない、はずだった。 疲労した精神に鞭を入れて、シリカは短剣を構えた。肩からピナがふわりと飛び上がり、こちらも臨戦態勢を取る。 木立の奥から現れたのは、全身を暗赤色の毛皮に包んだ巨大な猿たちだった。右手に粗末な根棒を握り、左手には瓢箪にヒモをつけたような壷を下げている。 猿人たちが根棒を振り上げ、犬歯をむき出して雄叫びを上げている最中に、先手必勝とばかりにシリカは先頭の一匹に向かって地を蹴った。短剣スキルの中級突撃技『ホワイトファング』を命中させて大きくHPを削り、そのまま短剣の身上である高速連続技に持ち込んで圧倒する。 ドランクエイプが使用するのは低レベルのメイススキルで、一撃の威力はそこそこ大きいものの攻撃スピードも連続技の回数も大したことはない。シリカは連撃を的確に浴びせては素早く飛び退って敵の反撃をかわし、また踏み込むというヒットアンドアウェイを繰り返してたちまち一匹目のHPバーを減らしていった。ピナも時折しゃぼん玉のようなブレスを吐き、猿の目を幻惑する。 四度目のアタックで連続技『ラピッドバイト』を放ち、一匹目のドランクエイプにとどめを刺そうとした時――。一瞬の間をついて、目標の右後方から新たな敵が強引にスイッチしてきた。シリカはやむなく標的を変更。最初の猿は後方に退き、何やら左手の壷をあおっている――。 と、視界の端で一匹目のドランクエイプのHPバーをチェックしていたシリカを驚愕させることが起こった。バーがかなりの速度で回復していくのだ。どうやら壷には、何らかの回復剤が入っているらしい。 ドランクエイプとは以前にもこの35層で戦闘したことがあり、その時は2匹を労せずに蹴散らした。スイッチさせる余裕すら与えなかったので、よもやこんな特殊能力を持っているとは気付かなかった。シリカは歯噛みをしつつ、二匹目を確実に仕留めることに全力を傾ける。 だが。猛攻の末にバーをレッド領域にまで減少させ、とどめの強攻撃を見舞うべく距離を取った瞬間、またしても横合いから無理やり割り込まれた。三匹目のドランクエイプだ。見ると、最初の猿はもうほとんどHPをフル回復させてしまっている。 これではキリがない。シリカの心の中に、焦りの色がじわじわと広がっていく。 彼女は、そもそもソロでモンスターと戦った経験がほとんど無かった。レベル的な安全マージンというのはあくまで数値の話であって、プレイヤーのスキルはまた別の問題だ。想定外の事態に際して、シリカの中に生まれた焦りは徐々にパニックの色彩を帯びていく。攻撃のミスが目立ち始め、それは同時に敵の反撃も呼ぶ。 三匹目のドランクエイプのHPバーを、どうにか半分ほど減らした時。連続技に連続技を繋げようと深追いしすぎたシリカの硬直時間を逃さず、とうとう猿人の一撃が彼女の体を捉えた。 棍棒は木を削っただけの粗末なものだったが、重量ゆえの基本ダメージとドランクエイプの筋力補正によって、シリカのHPバーは思いもよらぬ量、三割ちかくも減少した。背中に冷たいものが疾る。 回復ポーションの手持ちが尽きていることも、シリカの動揺を大きくした。ピナがヒール・ブレスで回復させてくれるHPは一割程度、しかもそう頻繁に使えるものではない。それを計算にいれても、あと三回ダメージを受けると――死んでしまう。 死。その可能性が脳裏をよぎったとたん、シリカは竦んでしまった。声が出ない。脚が動かない。 今まで、彼女にとって戦闘というのは、スリルはあってもリアルな危険とは遠いものだった。その延長線上に、本当の「死」が待っているなんて思いもしなかった――。 雄叫びを上げ、再び棍棒を高く振り上げるドランクエイプの前で目を見開いて硬直しながら、シリカは初めてSAOにおける対モンスター戦の何たるかを悟っていた。ゲームであっても遊びではない、その矛盾した真実を。 唸りを上げて降ってきた棍棒が、棒立ちになったシリカを襲った。強烈な衝撃に耐え切れず、地面に倒れてしまう。HPバーがぐいっと減少し、黄色い注意域へと突入する。 もう、何も考えられなかった。走って逃げる。転移結晶を使う。取り得る選択肢はまだあったのに、シリカは呆然と三たび振り上げられる棍棒を見つめることしかできなかった。 ドランクエイプの攻撃は――しかし、シリカには当たらなかった。 空中で、棍棒の前に飛び込んだ小さな影があった。衝撃音。エフェクト光とともに水色の羽毛がぱっと散った。 地面に叩きつけられたピナは、首を上げ、つぶらな青い瞳でシリカを見つめた。一声、小さく「きゅる……」と鳴いて――直後、きらきらした欠片を振りまきながら砕け散った。長い尾羽が一枚ふわりと宙を舞い、かすかな音を立てて地面に落ちた。 シリカの中で、音を立てて何かが切れた。全身を縛っていた見えない糸が消滅した。悲しみより先に、怒りを感じた。たかが一撃食らっただけでパニックを起こし、動けなくなってしまった自分への怒りだ。そしてそれ以前に、ささいなケンカでへそを曲げ、ひとりで森を突破できると思い上がった、愚かな自分への怒り。 シリカは俊敏な動きで飛び退り、モンスターの追撃をかわすと、叫び声を上げながら敵に猛然と襲い掛かった。右手の短剣を閃かせ、猿人の体に次々と叩き込む。 仲間のHPが減ったと見るや、ふたたびスイッチで割り込もうと横合いから攻撃してきた最初のドランクエイプの棍棒を、シリカは避けずに左手で受けた。直撃ほどではないがHPバーが減少する。しかしそれを無視し、あくまで三匹目、ピナを殺した敵を追う。 小さな体を活かして懐に飛び込み、全身の力を込めて短剣を猿人の胸に撃ち込んだ。クリティカルヒットの派手なエフェクトと同時に、敵のHPバーが消滅した。悲鳴。直後に破砕音。 爆散するオブジェクトの破片の中、シリカは振り返ると、無言で新たな目標へと突撃した。HPバーはすでに赤い危険域に突入していたが、それすらももう意識しなかった。 振り下ろされる棍棒の真下に、無謀な突撃を強行しようとしたとき。 二匹並んだドランクエイプを、その背後から横一文字に強烈な白光が薙いだ。一瞬で、猿たちの体が上下に分断され、次々と絶叫と破壊音を振りまきながら砕け散った。 呆然と立ち尽くしたシリカは、オブジェクト片が蒸発していくその後ろに、一人の男が立っているのを見た。黒髪に黒いコート。背はそれほど高くないが、男の全身からは強烈な威圧感が放出されているように思えた。本能的な恐怖を覚え、シリカはわずかに後ずさった。二人の目が合った。 男の瞳は、しかし穏やかで、夜の闇のように深かった。男は右手に握った片手剣を背中の鞘にチン、と音を立てて収め、口を開いた。 「すまなかった。君の友達、助けられなかった……」 その声を聴いたとたん、シリカの全身から力が抜けた。こらえようもなく、次々と涙が溢れてきた。短剣が手から滑り落ち、地面に落ちるのも気づかず、シリカは視線を地面の上の水色の羽根に移すと、その前にがくりと跪いた。 熱く渦巻いていた怒りが消え去ると同時に、とてつもなく深い悲しみと喪失感が胸の奥に湧き上がってきた。それは涙に形を変え、とめどなく流れ落ちていく。 使い魔のAIには、自らモンスターに襲い掛かるという既存行動パターンは存在しない。だからあの時、振り下ろされる棍棒の前に飛び込んだのはピナ自身の意思、一年間に渡って共に暮らしてきたシリカとの友情の証であると言えた。 嗚咽を洩らしながら、両手を地面につき、シリカは言葉を絞り出した。 「お願いだよ……あたしをひとりに……しないでよ……ピナ……」 水色の羽根は、しかし、何のいらえも返さなかった。
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「……すまなかった」 再び、黒衣の男の声がした。シリカは必死に涙をおさめ、首をふった。 「……いいえ……あたしが……バカだったんです……。ありがとうございます……助けてくれて……」 嗚咽をこらえながら、どうにかそれだけを口にする。 男はゆっくり歩み寄ってくると、シリカの前に跪いた。再び遠慮がちに声をかけてくる。 「……その羽根だけどな。アイテム名、設定されてるか?」 予想外の男の言葉に戸惑い、シリカは顔を上げた。涙をぬぐい、改めて水色の羽根に視線を落とす。 そういえば、一枚だけ羽根が残っているのは不思議ではあった。プレイヤーにせよモンスターにせよ、死亡して四散するときは装備から何から全てが消滅するのが普通だ。シリカはおそるおそる手を伸ばし、右手の人差し指で羽根の表面をぽんとシングルクリックした。半透明のウインドウが出現する。重量とアイテム名が表示されている。「ピナのこころ」――。 それを見て、ふたたびシリカが泣き出しそうになる寸前、あわてたように男の声が割り込んだ。 「心アイテムが残っていれば、まだ蘇生の可能性がある」 「え!?」 シリカは慌てて顔を上げた。ぽかんと男の顔を見つめる。 「最近わかったことだから、まだ知ってる奴は少ないんだ。47層の南に、『思い出の丘』っていうダンジョンがある。名前のわりに難易度が高いんだけどな……。そこのてっぺんに咲く花が、使い魔蘇生用のアイテムらし――」 「ほ、ほんとですか!?」 男の言葉が終わらないうちに、シリカは腰を浮かせ、叫んでいた。悲しみが詰まった胸の奥に、希望の光がぱっと差し込んでくる。だが――。 「47層……」 シリカは再び肩を落とした。今いる35層からは、はるかに12も上のフロアだ。とても安全圏とは言えない。マージンを考えず、回復アイテムを大量に携行すればダンジョン攻略もまったく不可能とは言えないが、しかし……。 「うーん」 目の前の男が、困ったような声を出して頭をかいた。 「実費とちょこっと報酬を貰えれば俺が行ってきてもいいんだけどなあ。使い魔を亡くしたビーストテイマー本人が行かないと、肝心の花が咲かないらしいんだよな……」 意外に人の良さそうな剣士の言葉に、シリカはちょっとだけ微笑むと、言った。 「いえ……。情報だけでも、とってもありがたいです。がんばってレベル上げすれば、いつかは……」 「それがそうも行かないんだ。使い魔を蘇生できるのは、死んでから3日だけらしい。それを過ぎると、アイテム名の『こころ』が『形見』に変化して……」 「そんな……!」 シリカは思わず叫んでしまう。 彼女のレベルは現在44。仮にこのSAOが通常のRPGだった場合、適正レベルは各層の数字と同じというわかりやすい設定なのだが、異常なデスゲームとなってしまった現在、安全マージンを考えるとおよそ10の上積みが必要となる。 つまり、47層に行こうと思ったら、最低でもレベル55に達さなくてはならないのだが、たった三日、いや実際の攻略を考えると二日でレベルを10以上も上げるなんてどう考えても無理な話だ。かなり勤勉に冒険を繰り返してきたシリカでも、一年半かかって今の数字なのだ。 再び絶望に捕らわれて、シリカはうなだれた。地面からピナの羽根を摘み上げ、両手でそっと胸に抱く。自分の愚かさ、無力さ、全てが悔しくて、自然と涙がにじんでくる。 男が立ち上がる気配がした。立ち去るのだろうと思い、もう一度お礼を言わなければと考えるが、口を開く気力も残っていない――。 と、不意に、目の前に半透明に光るシステム窓が表示された。トレードウインドウだ。見上げると、男が手許で同じウインドウを操作している。トレード欄に次々とアイテム名が表示されていく。『シルバースレッド・アーマー』、『シャドウ・ダガー』……。どれ一つとして見た事のあるものは無い。 「あの……」 戸惑いつつ口を開くと、男がぶっきらぼうな口調で言った。 「この装備で5、6レベルぶん程度底上げできる。俺も一緒に行けば、多分なんとかなるだろう」 「……」 口をつぐんだまま、シリカも立ち上がった。男の真意をはかりかね、じっとその顔をみつめる。 年齢の察しにくい男だった。黒尽くめの全身から発散する圧力と落ち着いた物腰はかなり年上のようにも思えるが、長めの前髪にかくれた目はナイーブそうで、どこか女性的な線の細さのある顔立ちからは少年めいた印象も受ける。シリカはおずおずと言った。 「なんで……そこまでしてくれるんですか……?」 正直、警戒心が先に立った。 今まで、自分よりはるかに年上の男性プレイヤーに言い寄られたことが何度かあったし、一度は求婚さえされた。13歳のシリカにとってはそれらの体験は恐怖でしかなかった。現実世界では、同級生に告白されたことすらなかったのだ。 いきおいシリカは、下心のありそうな男プレイヤーは事前に避けるようになっていたし、そもそもアインクラッドでは「甘い話にはウラがある」のが常識だ。 男は返答に困ったようにまた頭をかいた。何かを言いかけるように口を開くが、すぐに閉じてしまう。視線を逸らし、小声でつぶやく。 「……マンガじゃあるまいしなぁ。……笑わないって約束するなら、言う」 「笑いません」 「君が……妹に、似てるから」 あまりにもベタベタなその答えに、シリカは思わず吹きだしてしまった。慌てて片手で口を押さえるが、込み上げてくる笑いを堪えることができない。 「わ、笑わないって言ったのに……」 男は傷ついた表情で肩を落とし、うつむいてしまった。その姿がさらに笑いを呼ぶ。 悪い人じゃないんだ……。必死に笑いを飲み込みながら、シリカは男の善意を信じてみよう、と思っていた。一度は死も覚悟したのだ。ピナを生き返らせるためなら、惜しむものなんてもう何もない。 ぺこりと頭を下げ、シリカは言った。 「よろしくお願いします。助けてもらったのに、その上こんなことまで……」 トレードウインドウに目をやり、自分のトレード欄に所持しているコルの全額を入力する。男が提示してきた装備アイテムは十種以上に及び、その全てが非売品のレアアイテムらしい。 「あの……こんなんじゃ、ぜんぜん足らないと思うんですけど……」 「いや、お金はいいよ。どうせ余ってたものだし、俺がここに来た目的とも、多少被らないでもないから……」 謎めいたことを言いながら、男は金を受け取らずにOKボタンを押してしまった。 「すみません、何からなにまで……。あの、あたし、シリカっていいます」 名乗りながら、少しだけ、男が『知ってるよ』と驚く反応を期待したのだが、どうやらシリカの名は知らないようだった。残念に思い、すぐに、自分のそういう思い上がりが今回の事態を招いたんだと反省する。 男は軽くうなずくと、右手を差し出してきた。 「俺はキリト。しばらくの間、よろしくな」 握手を交わす。 シリカは、左手に握ったピナの羽根をそっと頬にあて、胸の中でつぶやいた。 待っててね、ピナ……。絶対、生き返らせてあげるからね――。
3
ありがたく受け取った数々のアイテムを早速装備してみることにして、シリカは左手を振ってメインウインドウを開いた。まず、手にもったピナの羽根をそっとウインドウの表面に置く。水色の羽根は自動で所持アイテムに格納され、姿を消す。次いで右側に並んだメニューからアイテムリストを選択し、さらに装備アイテム階層へと降りる。所持アイテムの一覧を新規入手順にソートすると、先程の武器防具がずらりと並んだ。 シリカのメイン武器である短剣から、軽量級のアーマー、グローブ、ブーツ、鎧の下に着けるボディスーツまである。これらの装備アイテムに、サイズの違いは存在しない。一度アイテム欄に格納して、装備フィギュアに移動させれば、どんな体格のプレイヤーであろうともぴたりとフィットしたサイズで実体化される。 アイテムを確認したあと、まずは自分がいま装備している防具を解除しようとして――シリカの指がぴたりと止まった。目の前に立つ、キリトと名乗る男の顔を見上げ、かすかに頬を赤くしながら口を開く。 「あ、あの……」 「? ……あ……」 それだけで、キリトはシリカの言わんとする所を察したようだった。 「ご、ごめん」 慌てたように後ろを向き、手近な巨木の陰に姿を消す。 今着けているレザーアーマーや布のグローブなどを解除するのはともかく、ダークブルーのボディスーツまで着替えると、その下はもう簡単な下着を身に付けているだけだ。操作している間はあくまで状況に忠実な下着姿になってしまう。いくら架空世界の擬似的な体とは言え、恥ずかしいものは恥ずかしい。 シリカは、キリトの姿が完全に見えなくなったのを確認すると、急いでウインドウ左側の装備フィギュアに指を走らせた。各所に表示されている装備アイテム名にタッチし、次々と解除していく。細い指がひらめくたびに、彼女が身にまとう武装が音も無く消滅していく。 SAOにおけるシリカの肉体は、はるか一年半前のあの日、最初で最後のログインをしたときにナーヴギアが大雑把にスキャンして生成したその時のままだ。小学校のクラスでは、整列するとかなり後ろの方に位置した彼女だが、SAOプレイヤーの平均からすればその体格は群を抜いて小さい。 敏捷力を活かしたヒットアンドアウェイが身上の短剣使いには、体の小ささは利点なのだが、シリカにとっては、本当ならもっと背が伸びているはずなのに、という不満のほうが大きい。全武装を解除し、シンプルなコットンの下着姿に――せめてゲームの中ではもっとお洒落なシルクの下着を着けてみたいと思うのだが、腹の立つことにそういうモノは高性能防具なみの値段がして手が出ない――なったシリカの体は、人形のように華奢で、細い。 それが羨ましいと言った年上の女性プレイヤーもいたし、そこがいいんだと面と向かって力説した男性プレイヤーもいたが(鳥肌が立った)、せめてもう少しあるべき場所にボリュームが欲しいというのがシリカの秘めたる願いである。 春とは言え夕暮れの森の中はまだまだ寒く、シリカは体を縮めながら急いでウインドウを操作した。 右側のアイテムリストから、新しいボディスーツを選んでドラッグし、装備フィギュアの所定の欄にドロップする。鈴の音のような効果音、淡いライトエフェクトと同時に、肩口から腿の半ばまでを覆うぴったりとした薄手のスーツが実体化される。色は、以前のものとよく似た深いブルーだ。 次に、ライトアーマーをドロップ。胸部に、細い銀糸を編んで作った小さな鎧が装着される。以前のレザーアーマーよりもはるかに軽いが、防御力の数値は驚くほど高い。さらに、ブーツ、グローブ、バンダナ等を身につけていく。どれもがステータス補正値のついた強力なアイテムだ。 短剣を腰に装備し、最後にこれだけは以前から持っていた、ゆったりしたキュロットスカートを身に着けると、自分の体を一通り見回して、シリカはウインドウを消去した。 「もう、いいですよー」 巨木の向こうに声をかける。恐る恐るといった気配で姿を現したキリトの前で、シリカは両手を広げてくるりと一回転してみせた。 「なかなか似合ってるよ」 キリトがにこりと微笑すると、シリカは自分でも驚くほど嬉しくなって、笑みがこぼれてしまう。照れ隠しに、腰の短剣を抜くと、二、三度振ってみた。深い艶消し黒の刀身を持つその短剣は、それほど軽くはないがバランスのいい逸品で、空気を切り裂く音が心地いい。 キリトは腕組みをすると、口を開いた。 「ちょっと連続技を出してみてくれないか」 頷き返して、シリカは腰を落とし、右手の短剣を構えた。現在マスターしている中で最上位の五連撃技『ファルコン・クロウ』、その初動となる上段突き下ろし攻撃を放った瞬間――シリカは自分の体が予想以上の早さで動いたことに驚き、二撃目のタイミングをミスって見事にすっ転んでしまった。 「ふにゃ!」 ふかふかした苔のテーブルでしこたま鼻を打つ。 笑いをかみ殺しながら右手を差し伸べるキリトの顔を軽く睨み、シリカはすました表情でその手を取った。立ち上がり、首を捻る。 「あれー……。タイミングが、ぜんぜん違う」 「うん」 キリトは頷くと、言った。 「装備重量が軽くなったり、敏捷度にマジックアイテムの補正がついたりすると、連続技のスピード自体が上がって撃ち込みタイミングがずれていくんだ。今までは徐々に装備を買い換えてきたわけだけど、今回は急に装備が全部入れ替わったから、よく使う連続技はタイミングを練習しておいたほうがいいね」 今まで、有力プレイヤーとして人に助言をすることはあってもその逆はあまり記憶になかったシリカだが、キリトの言葉には素直に頷いてしまう何かがあった。 「はい。今夜中に直しておきます」 再び微笑して、キリトは空を振り仰いだ。つられてシリカも上空を見上げる。木々の梢を透かして届く西陽はほとんど消え去り、紫色の夕闇がゆっくりと世界を包もうとしていた。 「さて……そろそろ街に戻らないとな」 キリトの言葉に、急に現実にかえった気分で、シリカは剣士の顔を見上げた。そう言えば、ここの脱出に散々手間取っていたのだということを今更のように思い出す。 「そうですね……。あの、地図、お持ちですか……?」 「ああ、一応あるけどな……。走ったほうが早いかな」 そう言われて、シリカはしゅんとして下を向く。 「すみません……。一分で一エリア、走りきれなくて……」 「あ、悪い。うーん」 キリトはぼりぼりと頭をかいた。 「歩いてもいいけど、夜型のモンスターが出ると厄介だな……」 シリカをちらりと見下ろしてくる。 「えーと……。これはあくまで実際的な、ゲーム攻略上の提案であって、君のことを子供扱いしてるわけじゃないということと、俺に良からぬ意図があるわけではないということを理解してほしい。その上で聞くんだが……おんぶとだっこ、どっちがいい?」 「なっ……」 予想だにしないことを言われ、シリカは真っ赤になって俯いた。どっちもとてつもなく恥ずかしいが、しかし確かに、このまま夜に突入して、昼間より強力な夜行性モンスターに遭遇してしまうのは無視できない危険がある。キリトのレベルは自分よりは高いだろうが、はっきりしたことを聞いていない以上それを過信することはできない。 散々もじもじしたあと、シリカは消え入るような声で言った。 「だ、だっこで」 「了解」 ひょい、という感じで、キリトは無造作にシリカの体を横抱きに持ち上げた。まるで危なげのないその様子は、かなりの筋力パラメータ値を想像させる。 「ちょっと飛ばすから、しっかり掴まってて」 「は、はい」 不意に早鐘のように鳴り始めた鼓動をいっしょうけんめい落ち着かせようと苦労しつつ、シリカはおそるおそるキリトの首に手を回した。と、その途端―― 「ひゃっ……」 息もできないほどの突風が、シリカの顔を叩いた。どうにか目を開け、前方を見ると、落下しているかのような速さで次々と木々が視界を流れていく。 とてつもないスピードだった。飛んでいるとしか思えない。夢中でキリトの首にしがみつくうち、前方に転送ゾーンのゆらぎが見えてきた。速度を落とさず、そこに飛び込む。 一瞬の転移感覚のあと、即座に加速し、森を駆け抜けていく。曲がりくねった小道を走るのは面倒とばかりに、岩や樹の幹さえも足場に、一直線に突き進む。 「うわあ……すごいっ……」 無意識のうちに、シリカははしゃぎ声を上げていた。アインクラッドに来て以来味わったことのないスピードだった。驚いたことに、早くも次の転送ゾーンが視界に入ってくる。一分だなんてとんでもない。二十秒も経っていないのではないか。 「もっと……もっと速く……!」 シリカの声に応えるように、キリトはさらに速度を上げた。もう完全に宙を飛翔している。時々視界の端にモンスターが現れ、こちらをターゲットした証の黄色いカーソルが表示されるが、次の瞬間にはもうはるか後方へと吹っ飛んでいってしまう。たとえ飛行型モンスターでもこの速度に追随するのは不可能だろう。 次々とエリアを突破して、とうとう前方にあれほど脱出したかった草原が見えてきたとき、シリカは少しだけ残念に思った。いつまでも、こうして抱かれたまま世界の果てまでも飛びつづけていたかった。
4
35層主街区は、白壁に赤い屋根の建物が並ぶ牧歌的な農村のたたずまいだった。それほど大きい街ではないが、現在は中層プレイヤーの主戦場となっていることもあって、行き交う人の数はかなり多い。 シリカのホームタウンは8層にあるフリーベンの街だ。とは言え、もちろんマイルームを購入しているわけではないので、基本的にはどこの街の宿屋に泊まろうとそれほど大した違いはない。最重要ポイントは供される夕食の味なのだが、その点シリカはここの宿屋のNPCコックが作るチーズケーキがかなり気に入ったので、迷いの森の攻略を始めた二週間前からずっと逗留を続けている。 物珍しそうに周囲を見回すキリトを引き連れて、大通りから転移門広場に入ると、早速顔見知りのプレイヤー達が声を掛けてきた。シリカがフリーになった話を早くも聞きつけ、パーティーに勧誘しようというのだ。 「あ、あの……お話はありがたいんですけど……」 受け答えが嫌味にならないよう一生懸命頭を下げてそれらの話を断り、シリカは傍らに立つキリトに視線を送って、言葉を続けた。 「……しばらくこの人とパーティーを組むことになったので……」 ええー、そりゃないよ、と口々に不満の声を上げながら、シリカを取り囲む数人のプレイヤー達は、キリトにうさんくさそうな視線を投げかけた。 シリカは既にキリトの腕前の一端を見ていたが、所在無さそうに立つ黒衣の剣士は、その外見からはとてもじゃないが強そうには思えない。 特に高級そうな防具を装備しているわけでもないし――鎧のたぐいは一切無し、シャツの上は古ぼけた黒革のロングコートだけ――、背負うのはシンプルな片手剣一本きりだ。そのくせ盾も持っていない。 「おい、あんた――」 最も熱心に勧誘していた背の高いカタナ使いが、キリトの前に進み出て、見下ろす格好で口を開いた。 「見ない顔だけど、抜けがけはやめてもらいたいな。俺らはずっと前からこの子に声かけてるんだぜ」 「そう言われても……なりゆきで……」 困ったような顔で、キリトは頭をかく。 もう少し何か言い返してくれてもいいのに、とちょっとだけ不満に思いながら、シリカはカタナ使いに言った。 「あの、あたしから頼んだんです。すみませんっ」 最後にもう一度深々と頭を下げ、キリトのコートの袖を引っ張って歩き出す。今度Mes送るよー、と未練がましく手を振る男たちから一刻も早く遠ざかりたくて、シリカは早足に歩いた。転移門広場を横切り、北へ伸びるメインストリートへと足を踏み入れる。 ようやくプレイヤー達の姿が見えなくなると、シリカはほっと息をついて、キリトの顔を見上げて言った。 「……す、すみません、迷惑かけちゃって」 「いやいや」 キリトはまるで気にしていないふうで、かすかに笑みを滲ませている。 「すごいな。人気者なんだ、シリカさん」 「シリカでいいですよ。――そんな事ないです。マスコット代わりに誘われてるだけなんです、きっと。それなのに……あたしいい気になっちゃって……一人で森を歩いて……あんなことに……」 ピナのことを考えると、自然と涙が浮かんでくる。 「だいじょうぶ」 あくまで落ち着いた声で、キリトが言った。 「絶対生き返らせられるさ。心配ないよ」 シリカは涙をぬぐい、キリトに微笑みかけた。この人の言う事なら信じられると思いながら――。 やがて、道の右側に、一際大きな二階建ての建物が見えてきた。シリカの定宿、『風見鶏亭』だ。そこで、自分が何も聞かずにキリトをここに連れてきてしまったことに気付く。 「あ、キリトさん。泊まりはどこで……」 「ああ、ホームは50層なんだけど……。面倒だし、俺もここに泊まろうかな」 「そうですか!」 嬉しくなって、シリカは両手をぱんと叩いた。 「ここのチーズケーキがけっこういけるんですよ」 言いながらキリトのコートの袖を引っ張って宿屋に入ろうと――したところで、ちょうどその時隣りに建つ道具屋から出てきた一人の女性プレイヤーと目が合った。 「……!」 今一番会いたくない顔だった。迷いの森でパーティーとケンカ別れする原因になった槍使いだ。 目を伏せ、無言で宿屋に入ろうとしたのだが。 「あら、シリカじゃない」 向こうから声を掛けられ、仕方なく立ち止まる。 「……どうも」 「へぇーえ、森から脱出できたんだ。よかったわね」 真っ赤な髪を派手にカールさせ、やや過剰気味な化粧を乗せた、確か名前をロザリアと言ったその女性プレイヤーは、口許をゆがめるように笑うと言った。 「でも、今更帰ってきても遅いわよ。ついさっきアイテムの分配は終わっちゃったわ」 「要らないって言ったはずです! ――急ぎますから」 会話を切り上げようとしたが、ロザリアはまだシリカを解放する気は無いようだった。目ざとくシリカの肩が空いているのに気付き、嫌な笑いを浮かべる。 「あら? あのトカゲ、どうしちゃったの?」 シリカは唇を噛んだ。使い魔は、アイテム欄に格納することも、どこかに預けることもできない。つまり身の回りから姿が消えていれば、その理由は一つしかないのだ。そんな事はロザリアも当然知っているはずなのに、あくまでシリカの答えを待つようににやにや笑っている。 「死にました……。でも!」 キッとロザリアを睨みつける。 「ピナは、絶対に生き返らせます!」 いかにも痛快という風に笑っていたロザリアの目が、わずかに見開かれた。小さく口笛を吹く。 「へえ、『思い出の丘』に行く気なんだ。でも、あんたのレベルで攻略できるの?」 「できるさ」 シリカが答える前に、キリトが進み出てきた。シリカをかばうようにコートの陰に隠す。 「そんなに難易度の高いダンジョンじゃない」 ロザリアはあからさまに値踏む視線でキリトを眺め回し、その赤い唇に、再び嘲るような笑みを浮かべた。 「アンタもその子にたらしこまれた口? 見たトコそんなに強そうじゃないけど」 悔しさのあまり、シリカは体が震えるのを感じた。うつむいて、必死に涙を堪える。 「行こう」 肩に手が乗せられた。キリトに促され、シリカは宿屋へと足を向けた。 「ま、せいぜい頑張ってね」 ロザリアの笑いを含んだ声が背中を叩いたが、もう振り返ることはしなかった。
『風見鶏亭』の一階は広いレストランになっている。その奥まった席にシリカを座らせ、キリトはNPCの立つフロントに歩いていった。手早くチェックインを済ませ、ウェイターに話し掛けてから戻ってくる。 向かいに腰掛けたキリトに、自分のせいで不愉快な思いをさせてしまったことを謝ろうと、シリカは口を開いた。 だが、キリトは手を上げてそれを制すると、軽く笑った。 「まずは乾杯しよう」 ちょうどそのとき、NPCが湯気の立つマグカップを二つ持ってきた。大ぶりの陶器のカップに、不思議な香りの立つ赤い液体が満たされている。 パーティー結成を祝して、というキリトの声にこちんとカップを合わせ、シリカは熱い液体を一口すすった。 「……おいしい……」 スパイスの香りと、甘酸っぱい味わいは、遠い昔に父親が飲ませてくれたホットワインに似ていた。しかし、シリカは二週間の滞在でこのレストランのメニューにある飲み物は一通り試したのだが、この味は記憶にない。 「あの、これは……?」 キリトはにやりと笑うと、言った。 「NPCレストランはボトルの持ち込みもできるんだよ。俺が持ってた『ルビー・ネクタール』っていうアイテムさ。カップ一杯で敏捷力の最大値が1上がるんだぜ」 「そ、そんな貴重なもの……」 「何、酒をアイテム欄に寝かせてても味が良くなるわけじゃないしな。俺、知り合い少ないから、開ける機会もなかなかないし……」 おどけたように肩をすくめる。シリカは笑いながら、もう一口ごくんと飲んだ。どこか懐かしいその味は、悲しいことの多かった一日のせいで硬く縮んだ心をゆっくり解きほぐしていくようだった。 やがてカップが空になっても、その暖かさを惜しむようにシリカはしばらくそれを胸に抱いていた。視線をテーブルの上に落とし、ぽつりとつぶやく。 「……なんで……あんな意地悪言うのかな……」 キリトは真顔になると、カップを置き、口を開いた。 「君は……オンラインRPGは、SAOが……?」 「初めてです」 「そうか。――どんなMMOでも、キャラクターに身をやつすと人格が変わるプレイヤーは多い。善人になる奴、悪人になる奴……。それをロールプレイと、従来は言ってたんだろうけどな。でも俺はSAOの場合は違うと思う」 一瞬、キリトの目が鋭くなった。 「今はこんな、異常な状況なのにな……。攻略組なんて数はろくにいなくて、それもボス戦でどんどん死んじまう。誰だって死にたかないさ、全員が一致協力してクリアを目指すなんて不可能だってことはわかってる。でもな、他人の不幸を喜ぶ奴、アイテムを奪う奴、――殺しまでする奴が多すぎる」 キリトは、シリカの目をまっすぐみつめてきた。怒りの中に、どこか深い悲しみの見える目の色だった。 「俺は、ここで悪事を働く奴は、そのプレイヤー本人が腹の底から腐った奴なんだと思ってる」 吐き捨てるように言う。直後、気圧されたようなシリカの表情に気付き、すまない、と軽く笑った。 「……俺だって、とても人のことは言えた義理じゃないんだ。人助けなんてろくにしたことないしな。仲間を――見殺しにしたことだって……」 「キリトさん……」 シリカは、目の前の黒衣の剣士が、何か深い懊悩を抱えているのだと、なんとなく悟っていた。いたわる言葉を掛けたかったが、言いたい事を形にできない貧弱な語彙がうらめしい。その代わりに、テーブルの上で握り締められたキリトの右手を、両手でぎゅっと包み込んだ。 「キリトさんは、いい人です。あたしを、助けてくれたもん」 キリトの拳から、力が抜けた。穏やかな微笑が浮かぶ。 「……俺が慰められちゃったな。ありがとう、シリカ」 その途端、シリカは、胸の奥のほうがずきん、と激しく痛むのを感じた。わけもなく心臓の鼓動が速くなる。顔が熱くなる。 あわててキリトの手を放し、両手で胸をぎゅっと抑えた。でも、深い疼きは一向に消えない。 「ど、どうかしたのか……?」 慌てたように身を乗り出してくるキリトに向かってぶんぶん首を振り、どうにか笑顔を浮かべ、言った。 「な、なんでもないです! あたし、おなか空いちゃった」
5
シチューとパンにチーズケーキの食事を終え、ウインドウを開いて時計を見ると、時刻はすでに八時を回っていた。明日の47層攻略に備えて早目に休むことにして、二人は風見鶏亭の二階に上がった。広い廊下の両脇にずらりと客室のドアが並んでいる。 キリトが取った部屋は、偶然にもシリカの部屋の隣りだった。顔を見合わせて、笑いながらおやすみを言う。 部屋に入ると、シリカは着替える前に連続技の復習をすることにして、新しい短剣を構えた。意識を集中しようとするが、胸の奥にずきずきするものが居座り続けて、なかなか上手くいかない。 それでもどうにか失敗なく五連撃を出せるようになったので、シリカはウインドウを出して武装解除すると、下着姿になってベッドに倒れこんだ。壁を叩いてポップアップメニューを出し、部屋の明かりを消す。 全身に重い疲労を感じていたので、すぐに寝付けると思っていたのだが、何故かいつまでたっても眠りは訪れなかった。 ピナと友達になってからは、ずっと毎晩暖かく、柔らかいピナの体を抱いて寝ていたので、広いベッドが心細い。それに、胸の芯に残る疼きの余韻……。 散々ごろごろしてから寝ることを諦め、シリカは上体を起こした。左の――キリトの部屋に繋がる壁をじっと見つめる。 (キリトさん、起きてるかな……。もう寝ちゃったかな……。お話、したいな……) 時計を表示すると、十時半になっていた。窓の下の大通りを行きかうプレイヤー達の姿もいつしか途絶え、かすかに犬の遠吠えだけが聞こえてくる。 この時間に、知り合って間もない男性プレイヤーの部屋を訪ねることの是非を数分間真剣に悩み、やがてノックだけしてみようと決意してシリカは立ち上がった。装備アイテム欄を開いて、持っている中で一番かわいいチュニックを身にまとう。 柔らかい蝋燭の光が落ちる廊下に出て数歩進み、ドアの前で数十秒躊躇したあと、シリカは右手を上げて控えめに二度叩いた。 通常、全てのドアは音声完全遮蔽圏であって、話し声が漏れることはない。しかしノックの後三十秒だけはその限りではなく、すぐにキリトの声でいらえがあり、ドアが開いた。 武装――と言ってもコートとグローブに剣帯だけだが――を解除してシャツ姿になったキリトは、シリカの姿を見るとわずかに目を丸くして言った。 「やあ、どうかしたの?」 「あの――」 ここに来て何も上手い理由を考えてこなかったことに気付き、シリカは慌てた。『おはなししたい』では余りにも子供っぽすぎる。 「ええと、その、あの――よ、47層のこと、聞いておきたいと思って!」 幸いキリトはいぶかしむ様子もなく頷いた。 「ああ、いいよ。階下に行く?」 「いえ、あの――よかったら、お部屋で……」 「え……いや……それは……その」 キリトは困ったように頭をかいていたが、やがて「まあ、いいか」と呟き、ドアを大きく開けて腰をかがめた。 「どうぞ、お姫様」 部屋は、シリカの所とまったく同じ構造だった。右手にベッド。その奥にティーテーブルと、椅子が一脚。調度品はそれだけだ。左の壁に据え付けられたランタンが、オレンジ色の光を放っている。 シリカを椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛けると、キリトはウインドウを開いた。手早く操作し、小さな小箱を実体化させる。 テーブルの上に置いた箱を開くと、中には小さな水晶球が収めてあった。ランタンの光を受けて輝いている。 「きれい……。それはなんですか?」 「水晶の地図、っていうアイテムだよ」 キリトが水晶を指先でクリックすると、メニューウインドウが出現した。手早く操作し、OKボタンに触れる。 と、水晶が青く発光し、その上に大きな円形のホログラムが出現した。どうやらアインクラッドの層ひとつを丸ごと表示しているらしい。街や森が、木の一本に至るまで微細な立体画像で描写されている。通常の、システムメニューから表示できる簡素なマップとはえらい違いだ。 「うわあ……!」 シリカは夢中で青い半透明の地図を覗き込んだ。目を凝らせば道を行き交う人の姿まで見えるような気がする。 「ここが主街区だよ。で、こっちが思い出の丘。この道を通るんだけど……この辺にはちょっと厄介なモンスターが……」 キリトは指先を使い、淀みない口調で47層の地理を説明していった。その、柔らかい声を聞いているだけで、ほんわりと温かい気分になってくる。 「この橋を渡ると、もう丘が見え……」 不意にキリトの声が途切れた。 「……?」 「しっ……」 顔を上げると、キリトは厳しい表情で指を唇に当てた。鋭い視線でドアを睨んでいる。 突然、その体が動いた。稲妻のようなスピードでベッドから飛び出し、ドアを引き開ける。 「誰だっ……!」 シリカの耳に、どたどたと駆け去る足音が聞こえた。慌てて走りより、キリトの体の下から首を出すと、ちょうど廊下の突き当たりの階段を駆け下りていく人影が見えた。 「な、何……!?」 「……話を聞かれていたな……」 「え……で、でも、ドア越しじゃあ声は聞こえないんじゃ……」 「聞き耳スキルが高いとその限りじゃないんだ。そんなの上げてる奴は……なかなかいないけど……」 キリトはドアを閉め、部屋に戻った。ベッドに腰を下ろし、考え込む表情を見せる。その隣りに座り、シリカは両腕を自分の体に回した。言い知れない不安が沸き起こってくる。 「でも、なんで立ち聞きなんか……」 「――多分、すぐにわかるさ。ちょっと何件かメッセージを打つから、待っててくれ」 かすかに笑顔を見せると、キリトは水晶地図を片付けてウインドウを開いた。ホロキーボードを表示させ、指を走らせはじめる。 シリカはその背後で、ベッドにまるくなった。遠い記憶が蘇って来る。シリカの父親はフリーのルポライターだった。いつも旧式のパソコンに向かい、気難しい顔でキーを叩いていた。彼女は、そんな父親の後ろ姿を見ているのが好きだった。 不安はもう感じなかった。斜め後ろからキリトの横顔を眺めていると、忘れていたぬくもりに包まれるような気がして、シリカはいつしか目を閉じていた。
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