市の人権センター発行NO324(11月15日)発行の中にある朝日新聞(11月1日)の記事が掲載されています。内容は
中曽根康弘元首相が旧海軍の主計中尉のころ、ボルネオのバリクパパン(現インドネシア)で慰安所の設置に関与したことを示す旧海軍の資料を市民団体「平和資料館・草の家」(高知市)が入手し、発表した。中曽根氏は回顧録で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と記していることがすでに明らかになっている。
資料は「海軍航空基地第2設営班資料」。同館が防衛省防衛研究所の史料閲覧室で見つけた。「第二設営班 矢部部隊」の活動状況が25ページにわたり記されている。隊長、工営長、軍区長と並び、主計長として中曽根氏の氏名があった。
資料によると、部隊はダバオに上陸した翌1942年にバリクパパンで飛行場の整備などに従事。その際、「(隊員の)気荒くなり、日本人同志けんか等起る様になる」などとして、「主計長の取計(とりはからい)で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」と書かれている。慰安所の場所を示す地図もあった。
27日に記者会見した同館は「中曽根氏が現地の女性を集めて慰安所を設置するよう計らったことは明らか。軍の関与を示す重要な資料」と主張している。
中曽根氏は「終りなき海軍 若い世代へ伝えたい残したい」(文化放送開発センター出版部、1978年刊)に回顧録を寄稿。設営隊の主計長としてバリクパパンに上陸した当時を振り返り、「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と記していた。
中曽根氏の回顧録をめぐっては、辻元清美衆院議員(当時社民党)が2007年3月に質問主意書で取りあげたところ、政府は答弁書で「回顧録の中に(慰安所の)記述があることは承知しているが、関係者からの聞き取り調査については答弁を差し控えたい」と回答していた。
朝日新聞は記者会見があった27日、中曽根康弘事務所にコメントを求めたが、31日までに回答はなかった。(中島嘉克)
当時の女性がこのような立場に置かれてきたことは、許しがたいことと言えます。慰安所に連れて行かれた方々が先のご案内にもありますように、ご高齢になっておられ考え学習の機会にしたいと思いました。