要するに自分は他人に期待することが、そしてその裏返しとして他人に期待されることが苦手なのではないだろうか。思い返してみると今まで過ごしてきて人に何かを頼んだことがかなり少ないような気がする。特に「おつかい」レベルよりも複雑で任された側の裁量が大きいものになると全く記憶になくて、今これを書きながらかなり困惑している。元々記憶力に乏しいので忘れているだけという可能性が高いけれど、小中高と人並みに人の中で生活していてある程度以上の複雑さをもったお願いをした覚えがないというのはどうなのか…。
そんなわけで人にものを頼んだことがほとんど無いので、他者はみな自分と同じようなやり方で振る舞うと思い込んでしまって(この言い分は一見馬鹿げているが程度問題である)勝手に失望することになるし、逆に自分が他人から何か頼まれた場合、「おつかい」のように1人で淡々とこなせるだろうという期待を勝手に読みとって爆発することになるのではないか、というのはパスタを茹でながら考えた思いつきにしては説得力があるように感じる。というかこの説明が妥当かどうかはさておくとしても、人に何かを頼んだ記憶が無いというのは、単に忘れているだけにしても、実際の自分の行動や考えはその不完全な記憶の影響しか受けないので明らかに由々しき問題である…。
結局「コミュニケーションは人並み程度出来るにしても社会性が欠如している」という自己認識は、「複雑な期待(が存在するという期待)を伴わないレベルでしか他者と関われない」という果てしなく終わってる文への言い換えが可能なのではないか。マジで小学生からやり直した方がいい気がしてきた。
今日の耳コピ.mp3
オリジナルはこれ。4月に行ったクラブで掛けられてて印象的だったので。単曲販売はもう少し先らしい。
http://soundcloud.com/jaxxdafishworks/tomorrowland-instrumental-mix
ゆるめの社会学の本を読むのがだれてきたので遠藤薫『メタ複製技術時代の文化と政治』(2008)を読み始めた。ネット民好きがしそうな本(?)なのだけどなぜかネットに書評や要約の類が見当たらないのが不思議。
まず序章で筆者は本書のキーワードであろう「メタ複製技術」について、デジカメを例にあげてデジタル信号として変換された〈画像〉が〈現実〉と切り離されている点でそれまでのカメラ=複製技術とは根本的に異なるのだ、と言っている(としか言っていない)のだけどよくわからない。デジカメが写すのは〈現実〉だろうし、その画像もシリコンに記録されるのでは…。アナログとデジタル、とか、無限に複製可能かどうか(もっともフィルムでも可能である)、とかの印象でぽわっと読み飛ばすことも可能なのだけど、筆者自ら「複製技術をそのまま延長したものではない」と言っているものをそこまで簡単に済ませてよいものか。読み進めていけばわかるのだろうか…。
だが、ここで改めて問いたい。文化的作物は「コンテンツ」という量的に測られる商品としてしか存在し得ないのか?文化的作物の質は、それがどれだけの利潤を生み出すか、という形でしか問題とならないのか?「芸術」という概念は不可避的に死滅すべき過去の遺物なのか? (p.20)
だが、果たしてすべての「お金で買えない価値」は「お金(あるいは地位)で変えるモノ」に還元しえるのだろうか?いいかえれば、「お金で買えるモノ」の集積は必然的に「お金で買えない価値」を生み出すのだろうか? (p.22)
これはいわゆる偽の問題というやつでは…。先に軽く読んだMUNEOHOUSEとかを取り上げた音楽論の方もインターネット持ち上げすぎな感あったし割と先行き不安である。
月が変わったのでログを分割した。最初にnotepad.exeで開いたせいで変な位置で改行されてちょっと面倒だった。過去ログは右のメニューから。
前回に書いてから日が開いてしまった。まあ日記というわけでもないので。
前巻を読んでくださった方はおわかりだと思いますが、この物語はSFでもファンタジーでもありません。普通の少年と、普通の少女の、普通の話です。派手なアクションさえも出てきません。この話の文庫版を手直ししてるころ、いろんな方から「大丈夫なの?」と聞かれました。ちょっとくらいSFっぽい要素を入れたほうがアピールしやすいんじゃないの、と。
(橋本紡『半分の月がのぼる空』2巻あとがき[2004])
隔世の感がある。当時とは異なり今ではラノベはもっぱら「普通の話」を描くことに注力しているようだ。しかしそういった作品をちょっと読んで思ったのは、ラノベはベタな日常を描くのには向いていないのではないかということだった。『半月』は「命」や「自分が手にできるもの」といった、その後の橋本作品にも繰り返し登場する大きなテーマが作品全体を満たしているために、ただの会話のやり取りですら「濃い」のだけれど、それをしない/できない場合にスカスカにならない形で日常をラノベで描くのは中々難しいのではないか。
ところでここに先々月のまんがタイムきららフォワードがある。この中から最近単行本買って萌死する人がTwitterでも散見されるカザマアヤミ『せなかぐらし』を見てみることにする。この作品の1話23ページ(+表紙1ページ)で使われる活字の量(台詞+心内文等)をかなり大雑把にラノベのページ数へと換算すると6ページ分にも満たない(1ページ=17行×40文字ちょっとくらいで計算)。もちろん絵で説明した部分を文字に直すとさらに量は増えるだろう。しかし単行本が基本的に1話24ページ×7話で構成されラノベと同価格帯の600円前後で売られることを考えると、この作品はラノベのラブコメに比べ明らかに「薄い」。
問題はそれだけではなく、むしろ今のきららフォワードに「『学園』以外の設定をほとんど欠き2~5人程度のキャラクターで回され結局ひたすらいちゃいちゃするだけのラブコメ」がこの他に何作品も掲載されており、それぞれそれなりに面白いことのほうがより深刻である(『はじおつ。』『7時間目の音符』『となりの柏木さん』等)。これらの作品では、先日挙げた現代ラノベの4ニーズ――「楽しい」「ネタになる」「刺さる」「差別化要因」――のうちパロネタで調達されがちな「ネタになる」は全くと言っていいほど含まれておらず、他の要素に関してもそれほど深く追求されているとはいえない。他方でキャラクターの可愛さがひたすらひたすら純粋に追求されており、結果一種の異空間を形成している。死ぬ。
この違いは絵があるかどうかによるものが大きいのだろうと思う。ライトノベルは絵があるといっても結局ほとんどのページは文字であるから、きららフォワードでやっているようなラブコメを書いたとしても希薄な印象は免れ得ないだろう。そこへ行くとノベルゲーの「立ち絵」システムは優秀
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