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3・11後 愛郷の念再び2012年06月06日
■ ミュージシャン デーモン閣下さん ミュージシャンで相撲評論家、コメンテーターとしても知られるデーモン閣下さんは、小学3〜5年生時代を広島で過ごした。自らを10万49歳の悪魔と称するデーモンさんに、「人間界のふるさと」と公言する広島への思いを聞いた。 ―――紀元前9万8038年生まれとのことですが、「世を忍ぶ仮(以下「世仮(よ・かり)」と略)の小学生時代」を広島で過ごしたのですね 1971年から3年間は現在の広島市西区にいた。ほとんどの友達が被爆2世でね。吾輩は世仮の幼稚園から小1の途中までは米ニューヨーク、小2までと小6以降は東京。まだ戦後を引きずる時代に、戦勝国と敗戦国の象徴である都市で育った。 ―――広島の3年間は、その後の生活に影響しましたか 多感な時代に広島にいたことは、今思えば表現者として、発言者として良かった。八丁堀や紙屋町を日本一の繁華街だと思っていた同級生に、東京やニューヨークはもっとすごいと言っても信じてもらえなかった。逆に吾輩が広島時代に当然だと思っていた平和教育は、関東に行くと随分違った。人は実際に見聞きするのと、しないのとでは全く違うんだと知った。 ―――音楽活動にも広島の経験は生きていますか エノラ・ゲイや広島を盛り込んだ歌詞を書いた。元広島市民として使命感みたいなものもあるのだと思うのだが、核廃絶や原爆をテーマにした曲は商業音楽としては成立しにくいよね。レコード会社も快い反応ではなかったが、たとえアルバムの1曲だとしても、そういう作品を作らずにはいられなかった。夏に広島でステージがあるときには、必ず言及している。 ―――広島での思い出は 自然だよね。温暖な気候と穏やかな海。近所には裏山、竹やぶ、池、沼。世仮の友達と秘密基地をいくつも作った。虫を追いかけ、自宅でオタマジャクシを飼った。イチジクやビワ、夏ミカンの畑を駆け抜けた。もちろん、当時はバリバリの広島弁だった。10万60歳とか10万70歳になったら、また広島にも住んでみたい。 ―――相撲評論家のルーツも広島ですか そう言われるとそうだな。とにかく広島では、いつも外で遊んでいた。年がら年中、友だちと砂場で相撲を取っていたんだ。 ―――福島第一原発事故の後、広島のことは考えましたか 被爆と被曝(ひ・ばく)、という漢字は違っても、同じじゃないかなと。放射線に関する報道が多くて、自然と広島のことを思い出した。 ―――5月に発売されたアルバムでも震災や原発事故をテーマにしている曲が多いですね ほとんどを3・11以降に作った。震災や原発事故は、この1年いつも頭の隅にあった。日本の置かれている状況をきれいな言葉でくくる人が多いが、それはそういうことが得意な人がすれば良いこと。吾輩は天災よりも人災の部分を、できるだけ直接的ではなく、自分らしく、それでも説教くさくならないよう表現することを心がけた。(聞き手・後藤洋平) アーティスト。「悪魔」。27年前に聖飢魔つ(せい・き・ま・つ)を主宰し、「現世に侵寇(しん・こう)」。5月16日にアルバム「MYTHOLOGY」を発表。 ◇ 広島にゆかりの著名人や、各界で活躍し、広島を訪れた人に、広島への思いや活動ぶりを聞く「ひろしまEYE」。随時掲載します。
マイタウン広島
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