瓢箪から駒がでた
瓢箪(ひょうたん)と関わり合いをもって、早、20年近くになる。
湖北の街、長浜に赴任し、間もなく公舎の庭から青い若葉が芽を出してきた。
これが瓢箪であるこに気付くまで、少し時間がかかったが、それまで瓢箪とは無縁であったから余計である。
前任者が、瓢箪栽培に凝っていて、収穫した瓢箪の種をこぼしていたところ、生命力の強い瓢箪が、石ころだらけの庭に自然に成長してきたのである。
長浜は、その後天下人となった豊臣秀吉が、若かりし頃に築城(今浜城)して住んでいたところで、この秀吉が美濃(岐阜県)攻めに際して、馬印としたのが千成瓢箪である。
こうした縁から、長浜市の市章は瓢箪が使われ、全日本愛瓢会の本部があり、瓢箪を愛する人が多くいる。
前任者は、当時の長浜市長(愛瓢会員)と親しくして瓢箪栽培を教わり、それにはまるようになった。
ところで、新芽は日毎に大きくなり、何の手入れもしない状態で放っておくことができなくなり、支柱を立て肥料を施すなどして手入れすることにした。
この矢先に警友会(警察OB)の先輩が公舎に訪れてきた。
この先輩は、長浜愛瓢会の会員で、瓢箪作りの名人であったことから、先輩の手解きを受けて、見よう見まねで瓢箪を育てたのである。
以来、瓢箪に魅せられて、瓢箪栽培を続けているが、思い通りの形のよい瓢箪は栽培できないでいる。
この最初に栽培した瓢箪は、種別としては「長瓢箪」であったが、他の種類と勾配して、独特の美しい形、しかも虫がつかなかったことから無傷で、その年の愛瓢会の作品展で優秀賞を受賞した。
これは、家宝として我が家の床の間に鎮座している。
また、幼少のころから絵心が少しだけあったことから、瓢箪に絵を描く試みをした。
瓢箪は、成長過程で虫がつくと、それが傷となってしまう場合が多くあるが、この傷を隠す意味で邪道であるが絵を描くことにした。
絵の素材は、浮世絵と並んで日本民画の代表とされている「大津絵」にし、これまで描いた大津絵や瓢箪の数は100個を超えている。
自宅にあるものもあるが、その多くは頼まれて描いたことから、多くの人の手元に私が描いた大津絵の瓢箪が散らばっている。
中には、イギリスに行っているものもあるが、この瓢箪は、警友会の先輩で、師匠と仰ぐ名人の作ったものに、不肖、私が大津絵を描いたのである。
岩彩を用いて、細い筆で円形の瓢箪の面に絵を描くのは苦労であるが、完成した時の喜び、受け取ってくれた人の嬉しそうな顔を拝見すると、すべてが吹き飛んでいく。
長浜では、金融機関などのフロアーを借りて、個展を開かせていただいたし、その後、大津絵は、画仙紙や板(銘木)へと飛躍し、彦根で勤務した時は、多賀町の大工さんなど多くの人にご協力をいただいた。
自宅には、銘木や瓢箪、画仙紙に「藤娘」、「鬼の念仏」、「七福神」などをモチーフにした大津絵を所狭しと飾っているが、その中には、彦根で勤務した縁から「彦根屏風絵」描いた瓢箪もある。
古来から、瓢箪は「末広がりの形」をしていることもあって縁起の良いものとされている。
瓢箪が6個そろえば、「六瓢箪」、これが「無病息災」のお守りとされている。
自宅トイレは、1階、2階とも6個の瓢箪を結束して飾り、病気しないように、またトイレで倒れないように縁起担ぎをしている。
瓢箪のキーワードは、水、生命、健康と言われている。
このブログで、「ういたかひょうたん」というペンネームを用いているが、名古屋弁で「うかうかしている様子」をさすが、他に、なまけもの、のんきもの、道楽者を意味するようである。
また、「瓢箪から駒が出た。」という格言?があるが、ここで言う駒は馬のこと。
意外な場所に意外なものが出てくること、起こることのないことが起こること、冗談で言ったことが現実になったことの意である。
「サマージャンボ宝くじの一等が当選するかもしれませんよ。」ひょうたんから駒が出ればよいですね。(笑)