2007-10-05
中国方面の開拓
恩師の命を受けた「山口作戦」から半世紀。
池田会長が展望した時代が到来し、中国五県で学会は揺るぎない信頼を得た。
◆ソ連の中枢を動かした池田会長の直言。
床の間を背にした佐藤栄作は、なみなみと注がれた酒杯を目の高さに上げた。
「乾杯!」
飲み干すと次々に酒を勧めにくる。「こんな嬉しいことは、ありゃせん」「郷土の誇りじゃ」。山口県の政財界の重鎮との献酬が引きもきらない。
一九七五年(昭和五十年) 二月十九日。
佐藤はノーベル平和賞受賞を記念する祝宴に出席した。会場は山口市の料亭「菜香亭」。明治の昔から日本のリーダーたちが足しげく通った老舗である。
昨年十二月に受賞してから何かと忙しく、ようやく故郷で祝杯を上げることができた。
鴨居には扁額が所狭しと掲げられている。この料亭を愛した明治の元勲、歴代首相らが残した書の数々である。
木戸孝允(維新三傑のひとり)。三条実美(最後の太政大臣)。伊藤博文(初代首相)。井上馨(長州藩の中心者、菜香享の名付け親)。山県有朋(元首相)。松岡洋右(元外相、満鉄総裁)。岸信介(元首相、佐藤の実兄)……。
佐藤本人の額もある。ロッキード事件で失脚した田中角栄(元首相)は自民党幹事長時代に書き残している。
ここに扁額を残している誰よりも長く、佐藤は連続して宰相の座にあった。在任七年八カ月。
宴が終わると二階の北客間で一服した。最近では通称「佐藤部屋」と呼ばれるほど、この一室が気に入っている。
縁側のソファに深く身を沈めると、この数カ月を振り返る余裕も生まれてきた。
▼クレムリンの変貌
佐藤の受賞には波紋も大きかった。
マスコミや国民から大喝采で迎えられたわけではない。
海外も西側諸国はともかく、ソ連をはじめ東側からは何の声も聞こえてこなかった。
一九七四年十二月十日。
ノーベル賞の受賞式は、ノルウェーの首都オスロで挙行された。
式典後、南仏経由の帰国を望んでいた妻の寛子を説き伏せ、ソ連行きを希望した。
冷え込んでいた日ソ関係。なんとか打開の糸口を見つければ、さらに受賞の意義が深まるというものだ。
たっての願いを、ソ連は意外なまでにスムーズに受け入れてくれた。
十二月十七日。クレムリン。
さすがに対応が気になる。「親米派」のレッテルが大きく貼られている。東側に人気がないことは百も承知である。
クレムリンの一室で首相のコスイギンを待っていると、一人のソ連要人が近づいてきた。
おや……?
満面に笑みを浮かべているではないか。
「今回、ある方からの進言にしたがって、あなたを受け入れました」
握手にも力がこもっている。
「ソ連は変わらなければならない。ソ連ロビーの政治家だけでなく、最も会いたくない人に会ってこそ、道は開けると忠告されました」
初耳だった。
「その方は、創価学会の池田大作先生です。帰国されたら、くれぐれも宜しくお伝えください」
▼日米中の民間外交
クレムリンでは、かつてない歓待を受けた。
ソ連中枢に直言できる池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長。日本の政治家が、どれだけ外交努力を重ねても立ちふさがっていた壁を乗り越えている。
すでに会長とは、鎌倉の別邸などで幾度も会っている。「帰国したら、真っ先にノーベル賞をお見せしなければならない」。
東京に戻り、創価学会本部へ電話を入れた。しかし佐藤の帰国とすれ違うように、会長はアメリカに出発していた。
一刻も早く謝意を伝えたい。ようやく現地と連絡がつながった。
「池田先生、よくぞソ連に言ってくださった。民間交流が大事です」
そのころ、池田会長はニューヨークで米国務長官キッシンジャーと会っていた。佐藤の前年のノーベル平和賞受賞者である。
一九七五年二月十二日。佐藤は東京都内で池田会長と再会した。
席上、会長の日中国交正常化への尽力に感謝した。キッシンジャーの電撃外交によって米中が急速に接近していた。日本にとっては頭越しである。もし会長と中国とのパイプがなければ、日本は危うく米中に置き去りにされる危険性があった。
会長は、キッシンジャーから日本側に託されたメッセージを明らかにした。
「外交上の秘密のため、結果的に日本の頭越しということになってしまった。非礼をわびたい」
佐藤は胸をなでおろした。その一言があれば、日本政府の面目も立つ。
*
佐藤が築地の料亭「新喜楽」で会食中に意識が遠のいたのは、同年五月十九日である。
脳溢血で昏睡状態。病院への搬送は危険と判断された。同所で安静にしたまま治療が続いたが、五日目に大学病院へ移送。六月三日に永眠した。
長くファーストレディーとして佐藤を支えた夫人の寛子は、池田会長に手紙を送った。
「『池田会長がひと回りもふた回りも大きくなって、日本のために頑張ってくださっているのがうれしい』と夫は言っていました」
▼鳥取県知事の疑問
学会にとっては、教義や主張を異にする宗派の一つと聞く。しかし曹洞宗の教えを生かして地域づくりに汗を流し、貢献してきた自負もある。
鳥取県庁の職員出身。仕事柄、県内をくまなく歩く。豊かな自然。人の心も穏やかである。
そんな鳥取でも学会は威勢がいい。布教も力強い。古い秩序を打ち破る苛烈さがあった。
どうしようもない違和感があった。学会は鳥取の風土になじむ団体なのか。そのエネルギーは、どこへ向かっているのか。見極めがつかなかった。
県知事に就任して二年目。
西尾は大きなプロジェクトに挑んでいた。鳥取県で初となる「わかとり国体」を一年後に控えていた。
国体は、その地方自治体の実力が試されるイベントである。
いかに全国の青年を迎えるか。どう郷土色を出すか。鳥取という小さな県が、どれだけの力を出せるのか。
思案している時、一通の招待状が届いた。創価学会からである。倉吉市で鳥取青年平和文化祭を開催するという。
学会のマスゲームは何かで見た記憶がある。スケールが大きい。その学会が鳥取で文化祭を開く。あの池田会長に、じかに接するチャンスがあるかもしれない。
一九八四年(昭和五十九年)五月二十日、西尾は倉吉体育文化会館に向かった。
*
開会直前。
拍手が満場に広がっていく。すべての視線がロイヤル席に集まっている。池田会長は実に折り目正しい人だった。
深々と頭を下げてくれる。自分だけではない。市長、地銀頭取、商工会議所会頭などと名刺を交わしていく。丁寧だ。親しみやすい。独裁的なカリスマではない。
照明が落ち、演目が始まった。
目がくぎ付けになった。鳥取のことなら、なんでも知っているつもりだったが、まだまだ奥があった。
どの農協、漁協も後継者不足で悩んでいたが、学会ではこんなに青年が育っているのか。壮年婦人の演技には、郷土愛が満ちていた。ほほ笑ましい子どもたちの熱演には、自然と頬が緩んだ。
我が県民には、こんな素晴らしい力が秘められていたのか……。
明年に「わかとり国体」を控え、これに勝るヒントはない。
終了後の来賓あいさつ。マイクの前で背筋を伸ばした。この感動を自分の生の言葉で伝えたい。会長が後ろで聞いている。胸ポケットに用意した原稿は、とうとう取り出さずじまいだった。
県知事を退いてからも、学会との交流を大切にしてきた。行事に招かれれば顔を出す。
二〇〇七年の一月二日。
鳥取市の鳥取文化会館では創価学会の新年の勤行会が開かれた。
来賓の西尾は、じっとしていられなかった。思わず立ち上がって両手を振り上げた。
「創価学会、万歳!」
思いがけないゲストの音頭に、唱和する声も一段と高まった。
「万歳! 万歳!」
宗旨替えしたわけではない。同じ鳥取を愛する仲間だ。高々と上げた西尾の手には、曹洞宗の数珠が巻かれたままである。
◆地域に根を張る人への敬意がある。
西尾の二代前の県知事が、石破二朗である。
一九七一年(昭和四十六年)二月十四日に岡山で開かれた「中国文化祭」に招かれた。
鳥取を発つ前、後援会の知人が釘を刺してきた。「学会には近づかんほうがいいけん」
その制止を振り切って、岡山に向かった。
「まじめな鳥取でも、あそこまでの有権者はおらん。なんでだ?」
六九年十二月の衆院選。鳥取の公明党候補は二五一三票の僅差で涙をのんだ。しかし、それは保守王国を根底から揺るがす大事件だった。
学会員の熱心な政治参加に驚いた。手弁当。真面目。裏表のない姿勢。
その一方、同時期に表面化した言論問題では、池田会長がバッシングを浴びている。
どちらを信じればいいのか。学会員の日ごろの姿か、マスコミの情報か。それを自分の目で確かめたい。
会場の岡山武道館。
「本日はご多忙のところ、ありがとうございます」。池田会長が来賓控室に現れた。
パイプイスがぶつかる音が響く。たばこを急いで消す者。上着に袖を通す者。手を拭く者……。石破も慌てて起立した。
会長は、次々と握手を求めてくる。わざわざ控室まで回ってくるトップはいない。首都から遠く離れた鳥取。だからこそ見える人間の実像がある。
多くの要人が東京から来る。どこか地方を目下に見ている。あからさまに「鳥取なんか早く出て東京に来い」と誘われたこともある。
池田会長は違った。分け隔てがない。鳥取に根を張って生きる人への敬意がある。
石破は己の目を信じた。
▼出雲大社の蕎麦屋
島根県の出雲大社。
日本で最も古い神社である。古事記、日本書紀の神話に、創建の歴史はさかのぼる。
緩やかな上り坂の参道。白いコンクリート造りの「一の鳥居」をくぐると、古い巨木でできた鳥居が見えてくる。
「二の鳥居」。この手前で出雲そばの老舗「くまがい」と団体用レストランを手伝う青木寿朗が創価学会に入会したのは一九六一年(昭和三十六年)である。
「俺の顔をつぶす気か! 恩を仇で返しよって」。出雲大社の奉賛会の理事を務める義父は激怒した。
協会から孤立。「神さんや仏さんをないがしろにしちゃいけん。参拝客を、くまがいに回すな」
修学旅行や集団参拝など、大口の客足がばったりと絶えた。満員の店を避ける客だけが、たまに暖簾をくぐる。
辛抱せんといけん。ここで生き抜くしかないんやけん。
夫婦で神門通りの交通整理をした。頼まれ事は断らなかった。無視する相手にも、礼儀を尽くした。なにより、そばの味に工夫を怠らなかった。
ある日、参道の有力者が、ぶらりと暖簾をくぐった。「そば、もらおうか」。黙って、そばをたぐっている。
箸を置いて、ぽつりともらした。
「やっぱり、くまがいのそばは、うまいけん」。風向きは変わり、団体客も戻った。
しかし、それでも学会員は肩身が狭い。味方のはずの東京の幹部から嫌みを言われたこともある。「参道で商売しているのか。謗法だよ。すぐに店を畳みなさい」
俺は謗法なのか。鳥居をくぐるのも謗法のように思われ、脇をすり抜けた。
*
参道に水を撒いていた従業員の手が止まった。
「どっかで見たことある顔やけん」
店主が目をむいた。
「ありゃあ、創価学会の会長さんじゃありやせんか」
手ぶらで歩いている。少人数。よく見る政治家や大企業トップの大名行列とは、ほど遠い。
すれ違う参拝者も、驚いて振り返る。「こげんとこ、あんな無防備では、こんじゃろ。人違いじゃ」
七三年(昭和四十八年)九月十七日の朝である。「二の鳥居」の手前で、その人影は店に吸い込まれた。
「どなたかいらっしゃいますか」、
こんな時間に誰じゃろう?
「くまがい」の青木は、調理場の暖簾を手で分けた。いぶかしげな顔に、衝撃が走る。
池田会長が立っていた。
「ご商売の調子はいかがですか?」
あわてて厨房を出て、店が持ち直したことを伝えた。会長は満足そうにうなずくと、参道に出ていった。
呆気にとられる青木。蕎麦を食べんのかな。せっかく来ていただいたのに、このままでは……。
後を追う。会長は「二の鳥居」を平然とくぐっていく。
背中が大きく見えた。
鳥居を避けてきたが、ちっぽけな迷信にこだわってきたような気がする。青木も追いかけながら「二の鳥居」を通り抜けた。
「三の鳥居」が見える。あの東京の幹部の言葉が引っかかっていた。どうしても聞きたい。
「先生、参道での商売は謗法でしょうか」
会長は黙っている。歩みをとめない。巨大な本殿と拝殿が見えたころ、ぱっと振り返った。
「信心していない人のご飯を作って謗法なら、料理人は皆、謗法だよ。信心は信心。商売は商売」
前を向き直った会長は、また松並木を歩き始めた。
◆平和都市のリーダーが寄せる信頼。
▼被爆三〇年のヒロシマ
広島の財界人・田中好一には、原点がある。
被爆後の廃墟に立ち、荒涼とした光景を目に焼きつけた。自分の会社もさることながら、広島の復興にかけた財界の先達に続こうと走り続けてきた。
山陽木材防腐の社長。電信柱や枕木など、インフラ整備のため木材の確保に全力を挙げた。
市民の声にも耳を傾けた。「反核、反戦アピールだけじゃ食っていけん」。ヒロシマを食い物にしている“平和屋”に怒りをぶちまける者もいた。
流行のように、広島、広島と口走る人もいたが、その数も減った。口先だけの平和論。何の足しにもならない。
一九五三年(昭和二十八年)の正月、ラジオ中国(現・中国放送)の番組で、自身の夢を語っている。
広島の財界が反応した。中国電力、広島銀行、東洋工業(現・マツダ)など主力企業で、財界グループ「二葉会」が結成された。
公会堂、バスセンター、市民球場など、主要な施設の建設資金を寄付し、復興を支えてきた。
七五年(昭和五十年)十月。「わしらの市民球団が大企業の球団に勝ったんじゃけん」。広島の街は“赤ヘルブーム”にわいていた。
セ・リーグのお荷物球団だった広島東洋カープが、山本浩二や衣笠祥雄らの活躍によって初優勝。スタンドにコンバットマーチが響き、シンボルカラーの赤で染まった。
市民球場をバックアップしてきた田中は感無量だった。原爆ドームに近い薬研堀の繁華街も活況を呈している。
ここが、あの廃墟だったとは。被爆三〇年。深い感慨を覚え、本社に戻った。
秘書が一通の書状をたずさえている。広島で開かれる創価学会本部総会の招待状だった。
池田会長とは面識がある。広島出身の首相・池田勇人との会談で、顔を合わせている。会長の話にぐいぐい引き込まれた。具体性に富み、観念論がない。現実主義者である。
十一月九日。会場の県立体育館周辺では、街宣車がボリュームをあげて叫んでいる。学会への攻撃、批判。広島には右から左まで、あらゆる思想団体がアピールに来る。
案内された来賓席。各国の駐日大使らが席を並べている。ローマクラブのぺッチェイ会長、ニューヨーク市長もメッセージを寄せていた。
学会の国際性を感じる。
池田会長が登壇。よどみないスピーチだった。
「被爆地に調査研究機関を設置」
「国際平和会議の広島開催」
「核廃絶に向けて核保有国の首脳会議を開催」
矢継ぎ早の提言は、どれも具体的だった。
終了後のレセプション。政財界のトップ、学者、文化人ら約五〇〇人。
「ほう、あんたもきたんか」。広島を代表する平和学者・森瀧市郎もいた。
「あっ、松下幸之助さん」。目立たないように地味なコート姿。向こうから、さきほどまで会長と懇談していた経営の神様が近づいてきた。
勢揃いしていた二葉会のメンバーが、その姿を見つめている。
学会は人間のネットワークが広い。
被爆三〇年を経て、学会の運動が着実に拡大していることを肌で感じた。
*
広島県福山市の中川美術館。館長の中川健造は、国交正常化以前の中国を知っている。
一九六七年(昭和四十二年)六月、三十一歳で訪中した。傍若無人な紅衛兵。ブルジョワと排斥される美術家……。中国の文化が破壊されていく。悔しかった。
六八年九月、池田会長の国交正常化提言を知る。衝撃は言葉で表せなかった。
祖父や先代から、事業を起こす厳しさを聞いて育った。かつて社会に学会への反撥があったことも好意的に理解してきた。
「最初は何事も猛烈に進まにゃ土台ができん。折伏で摩擦を起こしたと言われるが、それが発展への最善の道じゃった」
心ある経営者仲間は、地道に文化運動を続ける学会を見ている。
「池田先生のすごさは、城を構えた時点で文化を愛でたことじゃ。基盤ができた時に、権威で屈服させようという人間は、しっぽを出すもんじゃ」
▼中国の「訴苦運動」
広島大学名誉教授。国内屈指の軍事拠点だった広島では、日本軍が軍靴で踏み荒らした中国大陸に目を向ける学者も多い。
訪中は一〇〇回以上。胡耀邦(元中国共産党中央委員会主席)の著作「中国の青年運動」の翻訳者である。在日中国人の強制連行や原爆被害の遺族調査も行った。そんな仕事柄、野党に人脈が広かった。
かつて、小林の知り合いの研究者が教えてくれた。
中国の総理・周恩来から「創価学会について、どう思うか」と質問を投げかけられたという。
研究者は率直に答えた。「創価学会に対する日本国民の悪口、嫌悪感は大きいものがあります」
周は大笑した。「それは我々も同じです。我々も、昔は評判が悪かった」
なるほど、そうだったのか……。小林は思いをめぐらした。
周恩来は、早い段階で学会を友好のパートナーとして選んでいたのだろう。
訪中すると、しばしば池田会長の友人と出会う。なぜ、ここまで信頼されているのか。会長の長兄もビルマで戦死している。自分と同じ原点を持つ人なのかもしれない。
主要な研究テーマに中国共産党の「訴苦運動」がある。
人民の悩みに耳を傾け、共に解決しようとした運動である。
一九九九年(平成十一年)、学会の座談会に誘われて足を運んだ。内心で、うなるものがあった。
参加者が心の中の悩みをさらけ出している。世代も性別も職業もばらばらだが、ここに孤独はない。
これこそ「訴苦運動」じゃないか。
▼陸軍中尉の文書
広島原爆資料館(広島平和記念資料館)。
書棚の前で資料を閲覧していた前館長・畑口實の手が止まった。
新しく寄付された約七〇点の資料の中に、興味深い一対の文書があった。一九九九年十月のことである。
標題「原爆投下に関する記録書類や連合国軍の記録を利用することが可能か」。四六年(昭和二十一年)五月の発信。
当時、二十六歳のアメリカ陸軍中尉がGHQ(連合国軍総司令部)最高司令官ダグラス・マッカーサーに宛てている。
もう一通は、それに対するGHQの回答書だった。
――この中尉は大した人物である。被爆者を安心させるため、情報の公開に努力している。これは軍の機密に関わる行為であり、反政府行為すれすれかもしれない。
だが勝者、敗者の枠組みを超えた、人道的な具申である……。
中尉の名前は、ジョン・モンゴメリー。現在、ハーバード大学の名誉教授。
創価学会の池田会長の知己だった。
*
館長を務めた九年間。国際世論との間に埋まらない溝があった。
いわく「広島は感情的すぎる」「原爆投下は必要な作戦だった」「真珠湾攻撃を忘れている」「報いだ」。
超大国アメリカは一貫して強硬な姿勢を崩していない。
しかし、だからこそ広島の生の声を聞いてもらいたい。
畑口自身が母親の胎内で被爆した。父も失った。核の業火の中で焼かれていった者の無念。残された者の苦悩、後遺症……どう語れば伝わるのか。
原爆資料館には、畑口の心を和ませる訪問者もいた。
ロートブラット(バグゥオツシュ会議名誉会長)。ゴルバチョフ(元ソ連大統領)。ノーマン・カズンズ(ジャーナリスト)。ポーリング・ジュニア(ノーベル賞受賞者の子息)。
いずれも池田会長の友人だった。
ヒロシマが行うべき「平和の対話」を最も行ってきた日本人は誰か。被害者と加害者の垣根を越えた人物は誰か。
▼山陽新聞への寄稿
山陽新聞社の社長・佐々木勝美は、白い封書を携え学会幹部との対面にのぞんでいた。
池田会長への親書を毛筆でしたため、封書に収めてきた。
二〇〇四年(平成十六年)十一月。
翌年二月十五日付に掲載された、教育寄稿文「子どもに夢、希望贈る」の依頼であった。
三十余年前の出来事が心によみがえった。
聖教新聞社から中四国をエリアとする現地印刷の打診があった。当時の首脳はゴーサインを出したい。しかし、諸般の事情で、印刷計画は水に流れた。
*
再来年には創刊一三〇年を迎える山陽新聞は、岡山県で四七万部の発行部数を誇り、県内シェア六五?。経営は安定している。
だが、地域社会を見渡すとどうか――。
物事を深く洞察しない若者が増えている。教育の問題であり、その根底には活字離れが巣食っている。
日本はどうなってしまうのか。講演会、セミナー、シンポジウム、どれも活路が見出せない。
絵本作家の「ワイルドスミス展」をはじめとする、各種の展示会に、自ら足を運んだ。
池田会長の著作も読んだ。これほど活字離れの難題に取り組んでいる人はない。一言論人としての結論だった。
二〇〇六年(平成十八年)八月。
「ぜひ、我が山陽新聞に再び寄稿してもらいたい」。佐々木の意見に、聖教新聞を愛読してきた後継社長の越宗孝昌も異論はなかった。
*
同年七月に新社屋を完成させた山陽新聞は、新しい時代を迎えていた。十月十七日、全国のマスコミ界のリーダーが、岡山市に集まってきた。
日本新聞協会の加盟各社が勢ぞろいする「新聞大会」。新聞の重要性を内外にアピールする、年に一度の新聞界最大のイベントである。新聞協会の副会長だった佐々木が引き受け、一七年ぶりの岡山での開催だった。
午前中の式典に続く懇談の場で、ある有力政治家が語った。
「本日の山陽新聞に掲載された寄稿文で、創価学会の池田名誉会長も指摘されていますが……」
場内には「あの寄稿か……」と思い当たる顔を見せる新聞社首脳もいる。
この日の早朝、彼らが宿泊した部屋のドアに、刷り上がったばかりの山陽新聞が差し込まれていた。佐々木の指示であった。
タイトルは「活字文化復興の新潮流を」。まさに新聞大会にふさわしいテーマだった。
昨今、聖教新聞を印刷させることで、学会が影響力を行使云々と勘ぐる週刊誌もある。
だが近年、中国地方で会長の寄稿を掲載した「日本海新聞」(鳥取)、「山陽新聞」(岡山)は印刷していない。
▼安倍晋太郎の回想
山口・下関市の中川貞代は、太い黒縁の眼鏡をかけた男性とテーブルをはさんで腰を下ろした。
「下関マリンホテル」の喫茶室。
相手は山口出身の代議士・安倍晋太郎。昭和五十年代に入り、自民党ニューリーダーの地位を固めていた。その隣に、筆頭秘書の奥田斉も如才のない物腰で仕えている。
中川は市内にある勝山保育園の園長で、創価学会の婦人部員である。
大物政治家と園長先生。奇妙といえば奇妙な取り合わせである。
*
中川の叔父は自民党の下関市議だった。安倍家とは子ども同士が同じ校区だったこともあり、家族ぐるみでつきあってきた。
池田会長が率いた山口作戦が話題になったこともある。
しかし安倍は自民党の派閥・清和会の実力者である。野党・公明党の政策や国会対策とは、そりが合わない。ものおじせずに公明党の実績や努力を訴えても、安倍は余裕たっぷりの表情で聞いていた。
テーブルにコーヒーが運ばれてきた。白いカップを口に運びかけた安倍。そのまま動きを止めた。
「そういえば……ある年の三月半ばごろだったか。義父(岸信介)の代わりに戸田会長から招待を受けて、学会の集まりに、妻や息子と行ったことがあってね」
中川は身を乗り出した。
「それ『3・16』の式典ですね!」
一九五八年(昭和三十三年)三月十六日に静岡で行われた歴史的式典である。
「へえ。学会では、そういうのかい?」
興味深げに目を見開いてから、遠くを見るような視線になった。
「そうそう。戸田会長のすぐそばで、水も漏らさぬように指示を受ける青年がいたんだ」
毎日新聞の記者を辞して一年あまり。岸信介の首相秘書官だった。
「そうか。あれが池田先生だったんだね」
▼訪ソ成功の陰に
勝山保育園の黒電話が鳴ったのは、一九九〇年(平成二年)二月である。
受話器を耳に当てると、切羽詰まった声がした。
「中川さん、あんた今すぐ、新下関駅の駅長室にこれんか」
安倍の秘書・奥田からだった。
中川は、あわてて身支度した。いったい、どうしたのか。安倍は、自民党訪ソ団団長として外遊し、下関で帰国報告をしていたはずだ。駅まで飛んで行った。
「よく来てくれたねえ」
椅子に背をもたれていた安倍が軽く身を起こす。
「安倍さん、急にどうしたんかいね」
いつもより顔色がすぐれない。ちらっと腕時計を見た。
「時間がないから率直に話すが、今回の訪ソは、学会のおかげ、池田先生のおかげで成功したんだよ。本当にありがとう」
深々と頭を下げた。
制服を着た駅長が、かたずをのんでいる。
中川は、かぶりを振った。
「私なんかが礼を言われる筋合いはありません。そんなお気持ちがあるならば、ぜひ池田先生に言ってください」
安倍は白い歯を見せた。
「池田先生にはもう、東京で直接、お伝えしてきたんだよ」
笑みに力がない。
ガンに冒されていた。病を押して、日ソ関係のために臨んだ訪ソだった。
出発前に池田会長と会い、種々、アドバイスを受けた。はじめから領土問題を切り出さないこと。むしろ文化や青年の交流を前面に出すこと。ゴルバチョフ訪日の時期として桜や紅葉の季節を提案すること。
この大方針に基づいて、訪ソを成功させたというのである。
安倍晋太郎の訃報が駆けめぐったのは、九一年五月十五日である。
◆「世界が学会を見つめる時代が必ず来る」
▼山口作戦の手記
「山口作戦」から半世紀以上が過ぎた。
この作戦は、学会では「中国開拓指導」とも呼ばれ、中国方面の発展の礎と位置づけられている。
本稿を結ぶ前に、大阪・梅田支部から参加した後藤幸子の手記を紹介したい。
徳山の拠点で派遣隊が池田室長と懇談した。日時は記されていないが、名物のフグ料理を奮発してもらったので寒い季節である。
「どんなことでもいい、質問してごらん」
手を挙げる者がいた。広宣流布が進むと、どんな時代になるのでしょうか。
「いい質問だ。世界の国家元首が学会を認める時代が来る」
誰もピンとこない。穴の開いた靴を履いて、山口までやっとのことでたどりついた派遣隊である。
「どんな小さな国にも仏法が広まっていく。各国の大統領や首相も、仏法に注目せざるを得ない。世界が学会を見つめる。そういう時代が必ずやって来る」
もし実現するとしても、何百年先の話になることか。
折伏しても、悪口や罵声ばかり浴びる。水をかけられる。塩もまかれた。耳を傾けてくれるのは貧乏人や病人ばかりだ。
しかし、室長の確信は揺るぎない。
「今やらなければ、広宣流布の時は来ない。今を逃せば、何千年、何万年も先でないと時は来ない。仏法では時が大事だ。この覚悟が偉業を成し遂げる」
食べながら聞きなさい、と言われたが、もう誰も箸に手をつけていない」 。
御書を引き、指導が終わった。
ふーっと大きく息をつく者がいる。興奮で頬を赤らめ、夢から覚めたような目をしている。
「死んだらあかんで。長生きしようや」。誰かが軽口をたたき、場がなごんだ。
後藤はこの夜、仲間とペアを組み、峠を越えて折伏に出かけた。人家はまばらである。
しかし、今やらなければ!
自分を奮い立たせ、山の麓の一軒家まで足を延ばした。
小児麻痺の男の子を抱えた家だった。土間の上がり口に腰掛け、じっくりと話し込んだ。
山里に夜が深まっていく。落葉した柿の枝の向こうで、満天の星が瞬き、無窮の時を刻んでいる……。
それから五〇年。室長が展望した時代は現実のものとなった。
▼菜香亭の御御さん
「公明党は限界があるわな。八〇〇万票を超えることはない。法難でも起こらない限りはな」
票読みの達人だったが、その予想を裏切り、公明党は票を伸ばす。
国政選挙で八〇〇万票を優に上回った。なかでも中国五県では絶対得票率一〇?以上の数字を残している。
首相を退いた竹下は、山口の名物料亭・菜香亭に飾るため、筆を執った。「我が道を行く」。脇書きに「菜香亭 主人 斉藤清子様 元内閣総理大臣 竹下登」としたためた。
*
斉藤清子は菜香亭の五代目女将である。親しみを込め「御御さん」と呼ばれている。
店の廊下や階段は、つやつやと黒光りしている。大豆を煮出した「ごじる」で毎日磨いてきた。先代の母に、厳しくしつけられてきた。
歴代首相の書を見るため、わざわざ菜香亭を訪れる客も多い。
決して政治家を特別扱いしてきたわけではない。同じ人間である。同じ客である。
時代が人をつくるのか。人が時代をつくるのか。菜香亭で語り継がれる激動期の人物と比べると、器が小さくなってきた。そのように思えてならない。
*
「お世話になります。それにしても立派な廊下ですね」
高い天井に池田会長の声が響く。菜香亭の玄関で靴を脱ぎ、よく磨かれた式台を踏みしめた。
一九七七年(昭和五十二年)五月二十日。
「先生に、わしらの誇りの菜香亭を見てもらわにゃ」。山口の会員の願いで実現した懇親会である。
女将の斉藤は、ころあいを計って静かに障子を開けた。
「本日は、お越しいただき、誠にありがとうございます」
会長がさっと手を差し出した。
「立派な山口のお母さんですね。またお会いしましょう」
「その時は、私がどれだけ元気であるか、見ていただきます」
初対面で気脈が通じあった。
懇親会では、維新の志士の精神、山口の使命などが語られた。
これだ。この談論風発こそ、菜香亭にふさわしい。
板場にいる学会員から池田会長の業績は聞かされてきたが、噂に違わぬ人物だった。
それ以来、学会の記念日に、祝いのお重を山口の会館に持参した。自慢の漬け物を持って、東京・信濃町の会長宅を訪問したこともある。
身近で会うほどに迫力満点だった。くつろいでいても、内側にたぎる気迫がある。なかなか顔を上げられなかった。
同じ女性として深く感銘したのが、香峯子夫人の振る舞いであるという。
目立たぬように寄り添いながら、細やかな気づかいが行き届いている。
地味でもなく、派手でもない。凛とした慎ましさとでもいおうか。
折々に香峯子夫人から丁寧な手紙が届いた。
「そうやねえ、もう十数通にもなったかしら。私の言うべきことではないかもしれんが、あの奥様がおられたからこそ、池田会長も、あれだけの活躍ができたんやろね」
日本のトップレディーを見続けてきた「御御さん」の目である。
(文中敬称略)
「池田大作の軌跡」編纂委員会