例のスーパーバイザーとは「全国レベル」で有名な「教科指導法」に第一人者である。
それを「あえて、ディする」のは「ネガティブ・エール」であり、その人に「もう一皮むけてほしい」と思うからであり、「善意はなくても悪意もない」という、私のポリシーに基づいた個人的な意見である。 故に「リア名」は出していない。 これを見ている「私の弟子」だちに警鐘を鳴らすもの…と、通りすがりの人たちはスルーしてもらいたい。
全国レベルの「教科指導法」の先駆者の元で修行してきた私にとって、そのスーパーバイザーの活動は「流れ乗って」評価され、「流されてしまう」という危惧がある。
私の師匠は「偏屈者」。「誰がこんな研究室に入るものか」「変な奴の巣窟」と陰口をたたかれながら存在していた。もっとも師匠は「全国行脚」で「学内」にいる時間は短かったが…。 しかし「思想洗脳」はしていなかった思うし、教科書の執筆内容も「今に通じるもの」を記載している、また 約30年前に学会で公表された内容が今頃になって教科書に大きく出る事に「教科書はやはり20年前の常識」だなぁ…と、我が業界の「フォローの遅さ」に涙を流している。
その師匠は「自分が言うとき」は「学内」であろうと「全国行脚」の時でも相手をボロカスに切って捨てる口調だったが、弟子たちの言動には「敏感」で、「失礼厳禁」を通してきた。
うーん。 そんな環境の中で育った私が「ポッと出」の「新興宗教教祖」みたいな人の弟子から「偉そうに言われる」のは、初めから「心外」である。 それとともに過去「ぼろかすに切って捨てた」指導方法を、別の機会で「持ち上げている」のは、「学者」の名乗るものとしての恥であるとおもっているし、「誤解していました」という弁明がないのは「真摯でない」。
こういうカリスマを猛進している「井の中の蛙の真面目っ子」ほど、私たちの手に負えないものはない」。 はっきりと言って「迷惑行為」である。…とも言える。 「取捨選択能力」のある人を対象に講演活動を行うべきであって「盲信者」「かまってちゃん」の相手はするべきではない。 それこそ「学者」としての資質である。
わかっていますか? GTOさん!