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東京の高校生 平和のつどい
「東京の高校生 平和のつどい」に行ってきました。写真は高校生の感謝の言葉を聞くハルモニ。

オウプニングに「翼を下さい」などとともに「ねがい」が歌われ、最後にみんなで歌おうと呼びかけられました。
スライドを使った「侵略戦争の実態」(元日本兵や中国の方の証言を交えた朗読)の後で、元「従軍慰安婦」キム・グンジャ(金君子)さんからの証言がありました。

キム・グンジャハルモ二は初めて日本に来て、初めてご自分の人生について話してくださったのです。

「私は初めて日本に来ました。この中には「慰安婦」を否定している人もいるかもしれません。また、このような会を妨害する勢力もあったかと思いますが、みなさんがこんなに集まってくれたことに感謝いたします。日本に来るまで不安でしたが、こんなに集まってくださって、心が軽くなりました。

私は10歳で父、14歳で母を亡くし、孤児でした。あの頃はみんなそうでしたが、大変な暮らしで、他人の家に働きに出て日銭を稼いでいましたが、16歳の時、チョロンの巡査の養女になりました。その頃、私にはボーイフレンドがいましたが、結婚できませんでした。1942年3月、養父に「お金を稼げるところがあるから」と言われて、朝鮮人の軍人に連れて行かれました。

中国・ソ連・朝鮮の国境近くのコンシュンというところに金曜日に連れて行かれ、土曜日の午後にはもう軍人の相手をさせられました。日本語がわからなかったので、やれといわれたことができず、されるままになっていたので、左の耳を殴られて、今でも聞こえません。

翌日曜日には朝から軍人がずらっと並びました。コンドームを使うきまりでしたが、使わない軍人が多く、次から次へと相手をさせられ、涙を流しながら死ぬにも死ねず、やらされました。細かいところまで話すと長くなるし、今でも恥ずかしいので話せません。
コンシュンに1年半いました。死ねたらどれほどよかったか・・・。

その後、戦況が激しくなってコンシュンにいられず、コガシに移りました。戦争がひどいところで、民間人はおらず、空き家のみで、砲撃や飛行機の飛び交う音、銃撃の音が聞こえる戦場でした。

戦況が厳しくなるにつれ、兵隊もひどくなって、理由もなく殴られました。仕方なく相手をし、生きている気もしませんでした。

1年半後、音がしなくなって3日ほどたち、日本に原爆が落ちたと聞きました。そして主人に「おまえらはもうどこへ行ってもいい」と言われました。
事細かに一つ一つ話さなくても、この位話せばみなさんにはわかってもらえると思います。

「どこへ行ってもいい」と言われても、お金もなく、どこへ逃げればいいかわかりませんでした。そこにいたのは20人でしたが、そのうち7人で逃げることにしました。食べるものもなく、畑の大根などをぬいて食べながら、1ヶ月と8日歩いて、中国と朝鮮の国境の川に着きました。流れの速い川でしたが、渡らないわけにはいかず、7人で手をつないで渡ろうとしましたが、一番後ろにいた人の手が離れて流されてしまいました。その人を助けようとすれば自分も流されるので、つらい気持ちでしたが、助けることができず、6人で渡りました。

着いたところは北朝鮮でした。もうソ連軍が入っていました。汽車に乗ろうにも屋根の上まで人がいっぱいでした。とても6人全員は乗れず、自分ひとりだけ乗れました。そこからチョロンに戻りましたが、養父を恨んでいたので養父のところには帰りませんでした。行くところもなく友だちの家に数日間泊めてもらいました。

するとボーイフレンドだった男性がたずねてきて、結婚を後悔していると言い、また一緒に暮らそうと言いました。彼には妻子がいたので、私は迷いましたが同棲しました。妻子から文句が来て、悩んだボーイフレンドは農薬を飲んで自殺しました。私はさらに妻子からせめられることになり、南にやってくることにしました。

お金を出して38度線を越え、チュンチョンの収容所に1週間いました。南には知り合いがいないので行くところがなく、一緒に38度線を越えた女性のところに行きました。その人の親戚が食堂をやっていたので、住み込みで働かせてもらいました。食べさせてもらうだけで給料はもらえませんでした。ボーイフレンドと同棲していた3ヶ月の間に妊娠していたので出て行けと言われましたが、なんとか頼み込んでいさせてもらいました。

ある時、子どもが泣いていたのですが若かったので病気を気付かず、5ヶ月で死なせてしまいました。正直申してほっとしました。でも、あの人の子どもを死なせてしまったと思うと複雑な思いでした。その子が生きていたら50代です。私ももう80になります。

今度日本に来た目的には、小泉のところに嫁に行くというのがあります。
自分の人生がなぜこんな運命なのか、苦労ばかりなのかと思います。家政婦をやって少しお金ができると、お寺に行きました。でも答は全然わかりません。年をとるばかりでした。いろいろ生きてきた、今はナヌムの家にいます。

キム・ヨンサム大統領が「被害女性は名乗り出て」とテレビで呼びかけました。私はその時チョンソンで一人暮らしをしていて、年金を月に3万ウォンもらっていましたが、病院の費用を払えない状態でした。役場の人が来たので、「慰安婦」だったと告白しました。すると、役場の人がナヌムの家があるからそこへ行くのはどうかと言って、98年3月12日にナヌムの家に入りました。

以上が私の生きてきた話です。初めて話すのでうまく伝わらなくてもお許し下さい。私の言いたいことは、この問題の解決のために行動に参加してくださいということです。
靖国神社参拝や教科書の歴史の歪曲をさせないで下さい。
私が死ぬ前に謝罪してほしいです。

by lumokurago | 2005-11-20 19:54 | 社会(society) | Comments(0)
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