Views June 1995
じょうゆう・ふみひろ
オウム真理教外報部長、「マイトレーヤ」正大師。
’62年12月、福岡県に生まれる。
小学校2年の時に東京へ転向。
’78年、早稲田高等学院進学。
成績は常にトップクラスで、早大理工学部に入学。
大学時代は英会話サークル・ESAで活躍し、
とくにディベートでは伝説的な強さを発揮していた。
同大大学院を経て、
’87年に宇宙開発事業団に就職するが、
4ヶ月の研修期間中に退職。
オウム真理教には’86年に入信。
以後、同教団幹部として
外報部長、ロシア支部長などを務める。
4月15日。忌まわしい災いを予告されていたあの土曜日。私は青山にあるオウム真理教東京総本部ビルの地下で、今や日本中で誰一人知らぬ者のいない有名人となった男の、写真撮影が終わるのを待っていた。
大した貫禄だ。
カメラマンの注文にこたえてヨガのポーズをとり、ストロボを浴びる上祐史浩の、堂に入った役者ぶりをながめながら、私はふと、オリヴァー・ストーンの新作『ナチュラル・ボーン・キラーズ』を思い出した。衝動的に連続殺人を重ねる一組のカップルをメディアが追いかけ、テレビ・ヒーローに祭り上げてゆくプロセスを描いたその映画には、「ザ・メディア・メイド・ゼム・スーパースターズ」というサブタイトルがふられていた――。
――メディアが奴らをスーパースターに仕立て上げちまった――。
そう。まったく、その通りだ。
実際、世論形成に圧倒的な影響力を持つメディアは、ときとしてどうしようもなく罪深くもなりうる。とりわけテレビは、話の内容よりも、ルックスや身振りからくるイメージを増幅して伝えてしまう。ブラウン管に映し出された上祐史浩のルックス、弁舌、決して弱みを見せない強気の姿勢は、ある者には空疎な詭弁を弄するだけの、傲慢で生意気な若者にしか見えないだろうが、別の視聴者の目には、クールで、明晰で、理知的な論客と映る。そうして効果をオウム側は巧みに計算してもいる。一貫して節を曲げず、オウムの体質を問題視してきた一部のジャーナリストとのテレビカメラの前での同席を、彼らはまれにしか受諾しない。
従ってこの日、「にわかスーパースター」との「拝謁」を私が許可されたのは、私が教団からノーマークの存在だった、という一点につきる。ジャーナリストとしては、決して名誉なことではない。
しかし、そうであるにせよ、この機会は私にとってずっとひっかかっていた謎を解くチャンスであることは確かだった。私は上祐に会う場合、サリン疑惑の細部には立ち入らず、彼個人の実人生についてのみ、訊こうと決めていた。理由は3つある。
第一は、事件の展開があまりにめまぐるしく、新たな事実の発見が日々あいつぎ、ここで事件の細部について問いただしても、すぐに風化する恐れがあること。
第二に、上祐史浩という人物との間で、少なくともサリン事件については、相互に了解可能な話し合いなど不可能であること。彼には、他者との相互理解を深めようという意志はまったく見出せない。「誰であれ、話せばわかる」というのは、甘ったるい幻想でしかない。
第三に、事実は次々と積み上げられてゆくが、その情報量に反比例して事件のリアリティーは稀薄になっていく一方であること。司法的な決着がつくまでまだ断定できないにせよ、サリン疑惑に関してオウムは限りなくクロに近い。だが、仮にクロであると仮定して、なぜ彼らがこんな馬鹿気た犯行におよんだか、という謎はおきざりにされたままである。おそらく、一般信徒は犯行について何も知らされず、ただ麻原彰晃の霊性などとういものを丸のみにして信じているだけだろう。
だが幹部はどうか。サリンが仮にオウムの所業なら、彼らは麻原のニセ予言者という二重性を知りつつ、盲従して、空前の犯罪行為を実行していたことになる。そんなことが、いったいどうして可能なのか。
「私個人に関することなら、外報部長としての任務よりもずっと気楽に話せますよ」
個室で二人だけになり、くつろいだ様子で、上祐史浩は、そう語りはじめた。疲れた様子もみえないし、血色もいい。
「もともと神秘的なものには、興味がありました。中学生ぐらいからずっと。SFアニメも好きでした。たとえば『宇宙戦艦ヤマト』、それから『バビル2世』。『機動戦士ガンダム』やウルトラマンシリーズも。我々の世代ってみんなそうでしょう」
やっぱり、話の始まりは「ヤマト」か。オウムの空気清浄機「コスモクリーナー」の名が、「ヤマト」に由来しているのは有名な話だが、実は、麻原彰晃が作った歌にも、「救えオウム ヤマトのように」という歌がある。こんな歌詞だ。
「救え地球よ 済度の時だ
神の御使い オウム
予言の時代 ハルマゲドンだ
神通力が すべて救うほとんどコドモ向けアニメの主題歌のノリである。ここではヤマトとオウムは完全に同化してしまっている。いったいこれは冗談か、本気か。
「ハルマゲドンを超えて同生き抜くか、どう真理を残すかという我々のテーマが、『宇宙戦艦ヤマト』の、地球滅亡の危機に際して若者たちが一致団結して文明を残そうとする物語とぴったり重なりあうわけです」
つまりは、オウムという教団の活動は本質的に「ヤマト」に自らを擬したハルマゲドンごっこなのだ。この恐るべき幼児性!
「世の中を
よくしたい」
と、不敵に笑いつつ
「私自身には超常的な体験はなかったし、自分の身の回りには超常現象はありませんでした。でも、人間の力には、もっと大きな可能性があるんじゃないか、そういう直感はずっとありました。それでずっと『ムー』とか『トワイライトゾーン』といったいわゆるオカルト雑誌を読んでいたんです。そうした雑誌記事がきっかけで、大学院の最後の年に麻原尊師と出会ったんですね。尊師の最初の印象は、この人はまともな宗教家だな、というものでした。この人は本物だな、まともな聖者だな、という感銘を受けたんです。
――聖者というのは、どういう意味?
「普通の人を超えた超人。要するに極めた人ということです」
――それにしても、それなりにはエリートの道を歩んでいたあなたが、どうして出家の道を選んだんですか。たとえば麻原彰晃という人が魅力的に見えたとしても、リスキーすぎる選択 じゃないですか。
「それは一般的な人生を歩んだらどうなるか、考えた結果です。企業で何十年も働いて、人生の後半に至ってある地位を得ても、それが何だと。結果が見えていた。いったん就職した宇宙開発事業団には、それでも夢がありました。でも心の成長が伴わない物質的な開発だけでは、宇宙へ行ったところで宇宙が戦場になるだけ。世の中はよくなんないと思う」
――世の中をよくしたいと本気で思って胆ですか。
「ええ、やはり世の中の変わり目だと思ってたんですね。21世紀を前にして、その時に一つの役割を担いたいなと思いました」
――役割を担うだけの人間であるという自負があったんですか。
「うーん、というよりも、自分の人生が意義のあるものであってほしい、無意味なものであってほしくないという気持ちはありましたね」
誰でも一度は考える、ありきたりの進路選択の迷い。彼の場合、その答えは、「超人になること」だったわけだ。普通ならばそんな幼稚なファンタジーは、いずれ時がくればさめる。しかし、彼はなぜか、深みにはまってゆく。いったいなぜか。どうして麻原が「聖者」であるとの確信が、彼の中で深まっていったのか。
「修行にのめり込んでいったのは、内的な神秘体験が起こったことが原動力でしょうね。でも、私の場合、内的体験は修行すれば必ず起こるんだという確信がもともとあって、だから逆にあまり感動とか達成感がなかった。あとで尊師に言われて気づくんですが、私の場合、過去世で修行して経験済みだったので、当然だったわけですね」
出家後、上祐は独房での集中修行をこなし、着実に「霊的ステージ」を昇っていったという。では、この「霊的ステージ」なるものは、誰がどうやって判定するのか。
麻原の独断である。客観的基準はない。ここに、麻原の人身掌握術の秘密の一つがある。
露骨なまでに貪欲な
オウム真理教の搾取システム
一人の元信者の証言にここで耳を傾けよう。オウム神仙の会からのメンバーだった、A氏である。
「麻原の行ってることは、超能力も解脱も予言も、すべてインチキです。全部真っ赤なウゾ!」
A氏はキッパリとそう断言し、
「ただし」と、こうつけ加えた。
「麻原という男は、人の心を操るのがものすごくうまい。そう言う意味では天才ですよ」
A氏にいわせると、信者を洗脳するポイントは瞑想体験にどう意味を与えてやるか、なのだという。
「飲まず食わず、睡眠もろくにとらずに、ひたすらマントらを唱えたり、瞑想したりすえば、誰でも意識が朦朧としてきて、変な幻覚を見たり、幻聴を聞いたりしますよ。その時に、『ああ、クンダリニーが上がってるね』とか、『それはナーダ音だよ』などと意味づけてゆくんです。すると信者はもともと奇跡や神秘体験を期待して入ってきてますから、コロッと簡単にその気になってしまう。麻原のうまさは、相手の性格を上手に見抜いて最初はおだてておきながら頃合をみて、落とすところです。そして『霊的ステージが上がらないのは、尊師(グル)への帰依が足りないからだ』と言って、自分へのさらなる服従を求める。そうやってだんだんみんな深みにはまり、しまいには全財産を巻き上げられてしまうんです。」
いくつかの取材データをつきあわせてみると、麻原は信者を三つのタイプに分けて扱っていることがわかる。
第一は、上祐や村井秀夫(マンジュシュリー・ミトラ正大師、科学技術省長官)、弁護士の青山吉伸(アパーヤージャハ正悟師)といった利用価値の高い知的エリート達。彼らの多くはほぼ例外なく、麻原自身に「君は過去世で修行が進んでいた」などと猫なで声でおだてられて出家を勧められ、教団内の階級をとんとん拍子に昇ってゆく。幹部になれるのは、基本的にこのグループだけである。このグループの中には、麻原お気に入りの若い美女も入る。教団No.2の石井久子(マハー・ケイマ正大師、元大蔵大臣)、上祐の元恋人である都澤和子(ウッパラヴァンナー正悟師)などだ。とくに都澤への贔屓はあからさまで、出家後、わずか2ヶ月でホーリーネームを得ている。
第二のグループは、資産家である。このグループは、財産を放棄して出家してしまえばそれまで。幹部になることはまずない。
第三のグループは、知的資産も経済的資産ももたない、普通の人々。彼らを待っているのは「ワーク」という名の奴隷労働である。
よくもこんな露骨なまでに貪欲な搾取のシステムを考えついたものだ、とつくづく思う。と同時に、人間の精神は麻原程度の詐術にこんなにもたやすくだまされるほど、薄っぺらく、もろいものなのかと思うと、改めて慄然とせざるをえない。
上祐の話に戻ろう。
彼は延々と、自分の神秘体験の話をしたが、作り話とも、単なる妄想とも区別できないものなので、その細部は省く。興味を覚えたのは、極限修行とやらの個室での修行をしたとき、彼がどんな煩悩に悩まされたか、というくだりだった。
「昔、神奈川県にオウムが借りていたアパートがあって、その一室の窓をふさぎ、明かりを消して、3ヶ月間、一日20時間くらい修行したんです。すると、自己の弱さというか限界というものを、強く認識するんですよ。煩悩と戦うのは非常に大変だな、と思いましたね」
――あなたの煩悩って、どんなもの?
「たとえば性欲とか、食欲とか、プライドですね。プライドが満足できないと、それだけで一日中ジクジクするじゃないですか。それから、あの、私には恋人がいたわけです。その人への愛着を断ち切れないというか。彼女が別の男性と親しくしているだけで、嫉妬とか、他の男性への闘争心とかがわくんです」
――その彼女とは婚約までしていたんでしょう。彼女の愛着があるなら、結婚すればいいだろうに、なぜそれをふり捨てて、出家したんですか。
「いえ、婚約については率直にいいますと、状況に迫られたということです(苦笑)。つまり簡単にいいますと、元恋人のご家族には、跡取りとなる男性がいない。2人姉妹だけですから。ですからまぁ、つきあうからには婿養子になってくれといわれまして。結婚してもいいかなとも思いましたけど、他の女性にも関心がありましたし――」
上祐を追いかけて出家した都澤和子が、『マハーヤーナ』誌第7号(’88年1月号)に寄せている手記には、こういうくだりがある。
「私は恋人(注・上祐のこと)と恋愛関係にあったとき、女性のライバルがいたんですよね。彼女から攻撃されて傷付けられたんですけど、その頃は、『彼女が彼を好きにならなければ』とか『彼女がいなければ、私はこんな風に感じなかっただろうし、攻撃もされなかっただろう』とか『彼自身ももっとはっきり彼女に言ってくれればいいのに』と全部外側に意識を向けていたわけです。」
何のことはない、上祐は、平たくいえば二股をかけていただけのことなのだ。そうとわかれば、彼が「愛していた」という言葉ではなく、「愛着があった」という言葉を用いた理由も納得がゆく。彼は人を愛するということはどういうことか、理解もしていないし、きちんと対峙した経験もない。端的にいえば、人間として単に未熟ということだ。
「結局、自分が求めているのは自分の幸福であって、他人はその手段でしかない。愛というよりも、支配欲や独占欲や性欲、そんなものが自分の中に存在している。こうした執着が一切ない、心の安定がほしいと思いました。まあ、今は彼女に執着はないですけどね。完全に、といったら語弊があるかもしれませんけど、そういう心の揺れから解放されていますから。というのは、ヒマラヤで私は劇的な体験をしているんですよ。瞑想の最中に、スパッと性欲とか煩悩が落ちたんです。尊師(グル)の本質的なエネルギーと一体化できた。時間も何もかも停止した意識状態、つまりニルヴァーナを体験できたんです」
率直に書こう。私は彼の言葉のこのくだりで失笑を禁じ得なかった。自分の欲望の断念に至ること、その瞬間に自他の区別のない、クリアな精神状態を経験すること、そんなことはおそらくどんな人間でも実人生の中で経験しうることだ。少なくとも私にはその確信がある。人間には誰でも、その程度の悟性は多かれ少なかれ備わっている。それをニルヴァーナ=涅槃(ねはん)、などと大げさな言葉で表現する必要はないし、百歩譲ってそう表現することを認めたとしても、それは自分の教団の外の人間を凡夫・外道と蔑み、自分たちを選民として特権化する根拠にはなりえない。
以上のようなことを述べた上で、私は上祐にこうたずねた。
――たかだかその程度のことで、絶対的な尊師(グル)が必要ですか?尊師なしではそうした心のありように、あなたは至れないのですか。
「至れません。尊師が必要というか、尊師に意識を融合させることが一番早い道であると――」
私は重ねて彼にたずねた。尊師への絶対的な帰依というのは、頭を空っぽににして一人の人間の支配に自分をゆだねるということ。それは非常に大きな危険がつきまとう。その危険についてどう考えるのか、と。
だが、この問いに対して、彼は教義をあれこれ述べ立てるだけで彼自身の言葉による明確な回答は得られず、この後、しばらくは対話らしい対話にならなかった。
自分たちが揺るぎないニルヴァーナに至ったと主張するなら、なぜ、ハルマゲドンがくるといってあわてふためくのか。
「イメージは必ず現象化する。従ってネガティブなイメージを抱いてはならない」とオウムは説いているが、その一方で、オウム信者以外のあらゆる存在が自分達を攻撃していると主張してもいる。これは結局、自分達であらゆるネガティブなものを引き寄せているだけなのではないか。
そうしたいくつかの疑問をぶつけたが、質問の意図をはぐらかした、意味不明の言葉が返ってくるだけだった。「上祐は確信犯ですよ」という、先述したA氏の言葉を思いだした。
「彼は麻原と同じ、平気で嘘をつける人間です。オウムの幹部連中はみんなそうです。信者をどうだますかというマニュアルがちゃんとあるんですから。麻原の一番弟子である石井久子などは、私に対してはっきりと『本当は私、超能力なんかないのよ』と告白しているくらいですから」
A氏の話のすべてを、無条件に信じていたわけではなかったが、あらゆる詭弁を弄して話をはぐらかす上祐をこうして眼前にすると、A氏の話は真実味を帯びてくる。実はA氏は、にわかには信じられないような話を私に語っていたのだ――。
レベルの低い女性を
高みに引き上げる
麻原彰晃のセックス
「上祐はなぜ、最高幹部にとりたてられたか、わかりますか?実は麻原は上祐の恋人を寝取ったんです。その交換条件として、上祐は幹部昇格を約束されたんですよ。それをまた、彼はのんだんです。初期の教団はごくごく小さなものでしたから、この事実を知らない者はいません」
正直いって、この話を聞いたときには、うんざりした。上祐本人がひどく傷ついた表情を見せたならば、ここに書くことはなかったろう。私があえて書いたのは、「いや、そういう話は知りません。そういうことがあったとは、私は知りません」とうろたえてシラを切った上祐が、しかし間をおかず、「でも、まあ、もしあったとしてもいいと思いますけどね」と続けて、笑ったからである。
「というのは、人の心は変わるし、自分とは違うんだし、どうせ死ぬわけだし、しばりつけてもしょうがない。で、彼女は麻原尊師と融合するならば、それはあの、精神的ステージが高くなるんで、私と融合するよりいいと思うんで、私は恋人を麻原尊師に捧げたいと思います。私はそういうのは負担ですので。今はまだ力不足で、セックスすると相手のレベルの低いエネルギーを受けますんでね」
――はあ。では、麻原さんならば、かまわないんですか。
「だから、尊師は、あの、煩悩を遮断する力が強いので、誰とセックスしてもいいんじゃないですか。それに、あの、それは救済活動ですから。自己を犠牲にして自分のエネルギーを女性に注ぐわけですから。それによってレベルの低い女性を高みに引き上げるんですから」
フェミニストが聞いたら、烈火のごとく、怒りだしそうな話である。問題は、麻原彰晃は自分が弟子に対して厳しく戒めている「八正道」のうちの一つ、「不邪淫」を、彼自身は、「最終解脱者」だから、などという理由で破ってもいい、としている点である。それならばもうひとつの戒め、「不殺生」をも、彼は破ってもよい、という理屈になる。即ち、信徒でない一般の人間=凡夫・外道は殺してもよい、ということだ。
あくまで仮定の話として、と前置きして、私は上祐に問いかけた。あなたがサリン事件に関与していないという前提の上で、もし仮にオウムがサリン事件に関与していたと明らかになったら、あなたはどうするつもりか、と。
「僕は関係ない。教団中枢が事件に関わっていないことも確かです」
――上祐さんは、教団のメンバーのすべてを知っているわけじゃないでしょう。私が聞きたいのは、あなたが信じるものに裏切られたとき、どうするのか、ということです。
「麻原尊師に関しては、私は精神的融合によって彼の心を知っていると確信していますので、そういう前提は意味がない。その他の信者に関しては、そういうことがあったならば……そうですね、無理な仮定ですけれども、その人と何が起こったのか話し合うでしょう。でもまあ、ちょっと想像できませんね。仮にあったとしても、それは教えを実践しようとしていたとはいえず、本当の意味で尊師の弟子とはいえない」
――あなたが麻原尊師と一体化した神秘体験がある、と主張するのは結構だが、だからといってオウムがサリンをまいていないという証明にはならないでしょう。
「じゃあ、サリンを彼がまいたということを、どうやって完全に知りますか。麻原尊師がサリンをまいたという証拠がすべてそろっていたからといって、麻原尊師が、すべてにおいてサリンの化学プロセスに関わっていたかどうかはわからないでしょ」
――そうやってあなたは永遠にくだらない弁明を続けるんですか。
「だって、完璧に知る方法はノーでしょ。よって、その中で完璧に知る方法、仏典ではひとつだけ完璧に知る方法、それは、絶対的な融合、サマリーといって、私はその手法を……」
――何を言っているかわからない。じゃあ、麻原彰晃自身が自分で容疑事実を認めたとしたらどうしますか。
「彼が嘘をつくかもしれない。それはわかんないですよ。とにかく私が申し上げたいのは、麻原尊師の心の本質は、私は融合しているので知っている。その本質に汚れがない。よって、そういう心からはサリン事件のようなことは起こりようがない。あんな清らかな心から起こるはずはない……」
――おかしいなあ。麻原さんの本を読んでいると、自分は道徳を超越しているっていってるじゃないですか。
「いや、それは、たしかに出てくるけれども、それは、他の救済において出てくるのであって……」
――ね、上祐さん、今まで自分の生き方があったわけでしょう。それが今、危機に陥っているわけじゃないですか。
「外側は関係ないんです、私にとっては。だから、私は修行してどんどん内側の解脱をすでに得ていて、即ちあの、煩悩を遮断し、性欲を遮断し、食欲を遮断し、内側の歓喜を生じるわけで、尊師に精神的に融合している場合、尊師が肉体を失ったって関係ない。逆にいえば、自分の肉体が失われても関係ない……」
――時間のことを聞いてるんですよ、上祐さん。事件が仮に法的に確定した場合のことを聞いてるんですよ。
「法的に確定しようが、それは関係ありません」
――つまり認めないってことですか。
「認めないってどういうことですか」
――現実にそうなったとしても、認めないということですよ。
「法的に確定したことは認めますが、しかし真実であるとはいえない。真実じゃない」
――主観的な真実の話じゃない。現実の話です。
「だから法的に確定した現実は認めますが、それが真実だとは認めません。だから私が言いたいのは、麻原尊師と精神的に融合している限り内的歓喜は増大し、絶対な状態にいられるわけで、だから……」
彼の言葉をあえて翻訳するならば、この世は無常であり、それとは別に真の本源的な世界が存在する、ということになる。そこまでは、まあいい。問題はその先である。
その本源的な世界に独占的に君臨しているのは、ブッダの生まれ変わりである麻原であり、従ってその世界のことは麻原と一体となっている自分でないとわからない、と彼は言いつのっているのだ。論理以前の妄想的な屁理屈によって、何とか安全圏に逃げ込もうとしているのだ。仕方がないから、私の方が折れて、デーモン小暮の物言いを拝借し、本源的な世界とは別の、「世を忍ぶ仮の姿」という表現でいいから、あなたと、麻原彰晃こと松本智津夫の関係はどうなるのか、と改めてたずね直した。
「それは、彼が生き続ける限り私も生き続けて救済のお手伝いをしたいと思うし、彼が死ぬとならば、生き方を変えたいと思います。もし彼が、『自分が死んだあとにも生き続けろ』と言うんであれば生き続けるでしょうし……、『死ね』ということは尊師は今、おっしゃっていませんけど、それが救済活動において道であるというならば死ぬと思う」
死ぬ覚悟ができている、本当かどうかはともかく、そうであるならば私が言うことは何でもない。しかし彼の言い放った次の言葉だけは許せないと、今も憤りを覚えている。
「ニルヴァーナは、時間の止まった絶対的な世界だ。それは経験したものでないとわからない。それに比べるとサリン事件は、いずれ時がたって(我々が)死んでしまえば幻となってしまう。この現実の生活の中で夢があり、その夢が起きたときには幻となって消えてしまうように、いずれサリン事件も幻となる。あなたが死んだときには、もう何も覚えていない。何の影響も受けていない状態が続く。だから、たとえば映画の一コマのように続く、一種の幻のようなもので……」
たくさんだ!そんな話はもういい!私は大きな声を出して彼のお喋りをさえぎった。テープを起こしてみると、彼の言葉は、サリン事件を起こしていた(かもしれない)人間の心理の核心をついた言葉かもしれない、と思えた。しかし、私にはその場では聴くに耐えられない言葉だった。奪われた生命が幻だ。などというセリフを、のんきに聞けるほどには、私は現世を超越してはいない。そして、その必要もない。
(文中敬称略)