No.114045
冬野 氷夜さん
Aは、目の前の現実と、周りの景色を見比べた。
そこは、教室だった。
授業中の乱される事の無い静寂や、他人と友人の境目とも言えるクラスメートが談笑する穏やかな空間。
――それが、Aの見た景色だった。
彼は、かつて見ていたモノから、視線を移し、目の前の現実を見た。
彼自身の領土である机が、侵蝕されていた。木製の机の上を刃物か何かで傷付けられ、油性のマーカーで罵倒の言葉が書かれていた。その言葉のどれもこれもが、人を傷つける為に存在しているとしてか思えないほど酷く、正常な精神の持ち主がその言葉に目を通せば顔をしかめそうなほどの狂気に彩られていた。
机の中には、缶やペットボトルなどのゴミが突っ込まれていた。その缶の中身が残っていたのか、飲みかけのペットボトル飲料に蓋をせず放り込んだのか、茶色の液体が机を支える鉄のパイプをつたってリノリウムの床を汚していた。幸いな事に教科書やノートは入れておらず、Aの私物を汚す事は無かった。
そんな目の前の現実は、汚濁と呼ぶに相応しいものであった。
Aは、現実と景色を見比べた後、狂ったように笑い声を上げた。その表情は引きつっていて、今の彼に笑うしか無かった事を思わせた。
彼の心は、引き裂かれたのである。
Aは、一般的な中流家庭を築いた両親の間に生まれ、平凡とも言える生き方をしてきた。
平凡というのは、周りの人間が勧めるような人生である。成績を上げて、大学に行き、会社に就職し、家庭を築く。一つずつ目標をこなしていく事に夢も希望も抱かず、彼はその進路を選んでいた。周りの人間がそうだったからである。
彼は、自己を周りに流されるように生きてきたのだ。自身の感情は、周りの反応に左右し、変化する。
故に、彼の自己は、学生生活の中の一般的に青春真っ盛りと呼ばれる時期であるにもかかわらず、希薄なままであった。故に、彼に対して、個性を求める少年達は興味を示す事も無く、親しい者もいない。
彼が、被害にあったのは、その事にも起因していた。
社会は、平等を求めた。全ての人間が対等であるように、考え方を広めていった。……そして、平等な者が大半を示すようになった時から、人々は一部の個性や欠陥を批判し始めた。
そういった行動をする者は、今も昔も、獣と同じである。
特徴的な言動や癖は、奇妙だと糾弾され、先天的な才能は、持たない一般人に妬まれ、肉体に欠陥を持つ者は、奇異の目で見られ、精神的に追い詰められて人を傷付けた者は、蔑まれる。
なぜ、そうするのか。理由は単純なものだ。人々は、必ず誰かを傷付けるのだ。感情、欲求や価値観に基づいて。その中には、傷付ける事で解消する欲求も組み込まれているのだ。
彼の場合は、それに値する。
彼は、自己が薄い。それだけで、標的となったのだ。希薄な存在を特徴的だと取られたのかもしれない。
……だが、いくら自己が薄いとは言え、Aには心があった。
心は、頭蓋骨に守られている脳が作り出したものだ。故に、脳を持つ生物なら、全てに心が有ると言っても間違いではない。
例え、脳に欠陥があったとしても。それが活動を続けている限りは、心がある。
しかし、Aの心は引き裂かれている。
壊されてはいない。死んでもいない。
ただ、狂気に引き裂かれた為に、緩やかに破滅の道を辿ろうとしていた。
客観的に見て、人は、それを愚かな事だと、言うのかもしれない。耐えろと言うのかもしれない。
しかし、それは無責任な言葉であり、人間を侮蔑している言葉でもある。
人間は時間と共に退化していく。弱くなっていく。人間は食物連鎖の頂点に立っていると錯覚する者も多い現代であるが、それは見当違いである。食物連鎖のピラミッドに組み込まれている人間の上には、同じ人間がいる。同じ人間を、意味は違うが、喰い合うようになった現代なのだ。
現代――それは、この優しい王国の事だ。優しい王国は、誰かを生贄にして、平穏を作り出す。大半には優しくて、残りには残酷すぎる、不条理なシステムによって作られた欠陥品の王国。同族で喰い合う事に理性を失っていく獣の世界。
Aも、その一つに組み込まれただけなのだ。
だが、そのシステムにも欠陥がある。それは、喜ぶべきなのか、哀れむべきなのか、判断が難しい。
人間は、選択する事が出来るのだ。
しかし、その選択肢は、全てが良い方向に進むとは限らない。
それだけの話だった。
理性が蝕まれていくのを、Aは日に日に痛感していた。
終わらない狂気や、欲求を解消される為に傷付けられる必要性。
彼は、この教室にいる人間が、生贄の羊を求めていた事を理解していた。生贄は、弱者と相場が決まっている。大半の人間が当てはまる系統から外れた者は、彼らにとって糾弾しやすかったのだ。
Aは、理解していた。不条理なシステムも、その必要性も。
理解していたからこそ、――狂ってしまっても構わないと思っていた。
Aの心は、狂いそうになるほど陵辱されていたのだ。今も、汚濁に塗れた教室にいるだけで、心は陵辱されている気分になっている。
(……ああ、もう、狂ってしまいたい)
Aは、そう心の中で呟いた。その思考は、希薄だった彼の自己を黒く汚している事を悟らせた。その事実は、どんな形であれ、彼が、生贄にされた理由から開放されるべき条件であった。
しかし、その事実を周りが知ったとしても、Aが生贄でいることは続く。一度狙った獲物を逃がさない獣のように、Aを狙い続ける。
それに、黒く汚れた自己も、糾弾される要素の一つなのだ。殺人鬼を見るように蔑まれるだろう。
そこまで、考えて、Aは、もう一度、心の中で呟いた。
(もう、狂ってしまいたい)
Aは、両親はあてにならないと判断した。何故なら、考え方も、行動も、親と子の時代は全く違うからだ。
大衆には、ジェネレージョンギャップ、という言葉で例えれば理解しやすいのだろう。
それが、現実だった。肉親であろうと、子の心を理解出来ない限り、親は無力なのだ。Aは、そこまで思考し、自身の心を、親は理解する事が出来ないと結論付けた。
そして、彼は狂う事を決意した。躊躇いは無かった。
Aの目に映った教室は、昨日まで、汚濁の場所と彼に思わせていたが、今日は清純な場所だと思わせていた。
机は、いつものように侵蝕されている。狂気に彩られている。
それが、目の前の現実。
周りは、いつものように、狂気とは無縁の穏やかな空間だった。
それが、景色。
Aの理性が擦り切れていく。彼は、最後の理性を振り絞って、自身の制服のポケットから、狂気を取り出した。
Aの意識は、断片的になり、彼の眼球が捉えた映像が、紅一色の画面を脳に流し込まれた瞬間に途切れた。
途切れていたAの意識が、覚醒した後に見た光景は、白い天井だった。
彼は、体を起こし、自身の体の状態を確認した。自身の体は、白いベッドの上に寝転がっている事を知る。白い服で隠された腹部に圧迫感があり、包帯が巻き付いている事を想像させた。
その想像が、Aの頭の中を駆け巡っていると、誰かが声を出しているのを感じた。彼は、声がした方向を見ると、自分のベッドの横で、親が泣きながら、喜ぶようにAの名を呼んでいる姿を見た。
いじめという狂気があった。それは、Aの理性を蝕み、狂わせかけたが、彼が狂う事は無かった。
何故なら、彼は、最後に理性を取り戻したのである。
Aは、彼自身の姿を見て、悲痛に顔を歪めて、悲しんだクラスメートの顔を見たのだ。
そして、彼は悲しみを肯定と受け取り、理性を取り戻し、自身を傷付ける事で狂気を抑えたのだ。
「……悲しんでくれる人がいたんだ」
Aは、狂気があった場所に救いがあった事を知り、人知れず、小さく笑った。
周りに悲しんでくれる人がいただけで、彼の心は、満たされていた。
残酷な世界に、優しさがあったからだ。
優しすぎて残酷な世界は、刻一刻と退化していく。
それは、とても醜く、美しい光景だった。
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掌編小説です。現代が舞台です。個人的に色々詰め込みました。ちょっと暴力描写などがありますので、ご注意ください。
2009-12-24 12:54:17 投稿 / 全7ページ 総閲覧数:522 閲覧ユーザー数:515