このブログで記してきた二本木宿と狭山茶を維持管理してきた「五人組」とそれを守る武家の墓は、筆者には実に不可解な墓であったが、通い、各家の墓の位置や家紋からその正体が徐々に分かって来た。
その前に、そもそも論としてなぜこのような菩提寺が存在するのかを明らかにしておきたい。
江戸時代に寺が増えた真相
「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」講談社プラスアルファ新書 古川愛哲著
<引用開始>
島原の乱が日本人の宗教生活に与えた影響は大きい。
寛永15年(1638)檀家(だんか)制度、寺請(てらうけ)制度が全国的に確立されたからである。これにより日本人全員がどこかの寺を菩提寺(ぼだいじ)にして、檀家の関係をもたねばならなくなった。菩提寺とは葬式をしてもらう寺のことである。そして寺の檀家に登録してもらう。これを「寺請証文」といい、寺請証文がないとキリシタンと疑われる。そこで寺が必要になってくる。
中世後期以来、持仏堂(じぶつどう)、阿弥陀堂(あみだどう)、観音堂(かんのんどう)など、無住の堂宇(どうう、堂の建物)があった。それらの堂には季節ごとに僧侶が訪れるだけだったが、これらに住職を置き常駐の寺に昇格させた。そうでもしないと、村人全員の菩提寺が足りないからである。寺院の由来書で中興の僧が江戸時代の人物であるのは、この檀家制度が原因である。
ところが、本山が無住の堂宇に住職を派遣して昇格させる費用を出してくれるわけではない。そこで、村人が三十五石以上の出費をして住職を派遣してもらい、寺として昇格させてもらうことになった。ところが、一人年間一石の時代だから三十五石というと、三十五人分の年間生活費を出し合ったことになる。大変な出費である。
このようにして、この時期、全国で爆発的に寺院が増えることになった。一村一寺院で、一つの村があると必ず寺院がそびえるという風景が誕生した。慶長6年(1601)から元禄13年(1700)の百年間に、各宗派の寺院の82パーセントが開創されたとみられている。
ここでふたたび困難が生じた。仮に檀家120軒の村ならば、その約一割の12軒から毎年葬儀が出るという。そうなると、月一回の葬儀で寺院は生活を維持しなければならないが、それでは経営的に苦しい。
そこで一周忌(二回忌)を作ると、毎年二倍の収入になる。さらに三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌を増すと、約十一倍に跳ね上がる。この一周忌に始まる年回忌の法要は、江戸時代の寺院経営者のために作られたものといってもいい。
<引用終了>
寿昌寺はこの制度に従わざるを得なくなり建立されたものである。寿昌寺内ではないが、この地域の中村家の墓碑には天正年間(1573年〜1592年)からの中村が生きた記録が記されている。
鎌倉幕府の重要書類はおそらく足利家や江戸幕府によって処分されたのだろう。なぜならば、「今」の幕府にとって滅ぼされた幕府の書類など何の価値もないからだ。
したがって【中村家】中心の「五人組」や幕府によって「五人組」を守るために派遣された武家が、いつこの狭山の地にやって来たのかは分からないだろう。しかしながら、この制度(屋敷墓を持つ家にも菩提寺を持たせる)ことにより、少なくとも徳川幕府初期からの二本木村の姿が明らかになるのである。反対に言えば、屋敷墓のまま現在を迎えていれば、鎌倉幕府から特別に派遣された「牟佐志の地」づくりの一団の存在は決して明らかになることはなかったことだろう。
寿昌寺に関する当初の筆者のミステリーはこういうものだった。
◆大きな僧侶の墓が寺と対面するかのように中央に配置されている。
◆【中村家】と武家出身の墓が僧侶の墓を守るように配置されている。
◆「五人組」と思われる五家は【中村家】同様の鷹の羽家紋※である。
◆紋章と武家の関係がさっぱりわからない
鷹の羽家紋を掲げる家は【中村家】と「清水家」「友野家」「森田家」「田中家」である。いずれも古く大きな墓を持つ。
※鷹の羽紋(五代紋)
五大紋(ごだいもん)は、日本の家紋のうち、一般的に特に多く分布する藤、桐、鷹の羽、木瓜、片喰の5つの紋のことを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E7%B4%8B
集められた武家の筆頭は「織田家」の家紋を掲げる「栗原家」であろう。【中村家】が小田原で東海道を守ったように、「栗原家」は現在の国道246号(青山通り)の秦野市から伊勢崎エリアを守っていた氏族である。
さらに、墓の入口付近の「古谷家」は「徳川家」の家紋を掲げている。諏訪の武家「手塚家」は蔦の紋章であり、「加藤家」は藤原の藤家紋を掲げている。
家紋集を手にしながら墓地を歩くと実に楽しい。
寿昌禅寺
ここで、もう一つのミステリーに臨みたい。二本木村という小さな宿にあるもう一つの寺のことである。
古くは寿昌寺と隣接していたといっても過言でない近所に長福寺がある。同じ、臨済宗建長寺派の寺である。臨済宗も曹洞宗も京都から出ている「派」がほとんどであろうが、建長寺派は鎌倉の建長寺が大本山である。
建長寺のホームページ
http://www.kenchoji.com/?page_id=60
この長福寺の墓には、水子地蔵と僧侶の墓がある。寿昌寺と同様な鐘もあり、寺も立派である。何のために建てられたのだろうか。これはあくまでも推論である。それは、女性たちの禅との関わりを保った寺ではないかと。
曹洞宗は本尊に対面して座る。対して臨済宗は本尊を背にして座る。男尊女卑の社会にあって【中村家】や「五人組」の近親婚による「世継ぎ」と気高い生活を保障するために、俗世を離れた禅教育とお茶の文化が欠かせない。
寿昌寺において男衆(かつてのこの地方の方言では「おとこし」と言った)が本尊を背にして座るところに、女衆(同様に「おんなし」と言った)が座るわけにはいかない。
当時の男女平等社会づくりは北条政子の理念だったに違いない。鎌倉時代は映画「もののけ姫」のタタラ場のように、男も女も平等で朗らかに暮らしていたのだろう。
まさに鎌倉幕府の「出張所」として機能した元狭山村は、いわば「文化の交差点」としてさまざまな地域との交流から得た「天領の民」としての気品高き文化の蓄積地となったのである。追々記すが、同様に「天領の民」であった秩父の人々の方言は、元狭山村の方言と一致するものが多い。
織田家の家紋を掲げる栗原家がもたらした言葉と想像される裏庭を意味する「せど」という方言は、尾張を支配した織田家からみると裏庭は現在の尾張瀬戸駅を有する瀬戸市である。当たっているのか当たっていないか、それは分からない。しかし、歴史を権力側の視点でなく、そこに生きた人たちの目線で見ると、それは決して試験問題に出ない楽しく、おそらく正しい個々の歴史観が涵養されるのである。