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縄文中期も大豆栽培 山梨の遺跡 約5000年前に

2007年10月17日21時17分

 山梨県北杜(ほくと)市の酒呑場(さけのみば)遺跡で出土した縄文時代中期の土器から、大豆の圧痕(あっこん)が発見されたと17日、県立博物館などの研究グループが発表した。大豆の栽培開始は弥生時代が定説だったが、9月に熊本大などが、九州の縄文後期の遺跡で大豆の圧痕を確認。今回の発見はそれを1500年ほどさかのぼり、すでに約5千年前に大豆が栽培されていたことを示す。地域も九州から中部へ広がったことで、大豆をはじめとする雑穀栽培が、縄文中期に日本列島の広範な地域で行われていた可能性が強まった。

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右が山梨で出土した縄文時代中期の土器で、圧痕がついている。左はそこからとった、大豆の型

 研究グループによると、県内各地の遺跡で出土した2万点の土器を調べ、植物の種子などの跡があれば、型に取って顕微鏡で観察する「レプリカ法」で調査。県北西部の酒呑場遺跡で出土した深鉢形土器の取っ手から、長さ11.9ミリ、幅5.7ミリ、厚さ3.7ミリの大型種子の圧痕が見つかり、大豆特有の「へそ」が確認された。野生種だと、水につかって膨張した場合でも最大長さ8ミリ程度にしかならないことなどから、扁平(へんぺい)系の栽培種と判断した。

 酒呑場遺跡は、八ケ岳南ろくにある巨大環状集落で、本州中部の縄文文化の中心の一つと考えられている。研究グループの中山誠二・県立博物館学芸課長によると、エゴマとシソの炭化した種子も前に見つかっていた。「大豆は主食となりうるもの」(中山課長)で、この遺跡の食生活の豊かさを示すと見ている。

 一方、研究グループは同じレプリカ法で、山梨県都留市の中谷遺跡の縄文晩期前半(約3000年前)の土器から、稲や麦などの穀物を食べるコクゾウムシの痕跡を発見した。「これで、縄文時代に中部地方でも、稲や麦の栽培や貯蔵が行われていたことがわかった」と話している。

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